消えた部品の行き先
雨の夜から三日が過ぎた。
南の仮設水門は応急処置を終え、町にはようやく落ち着きが戻っていた。工房の軒先では、濡れた木材が朝の風に晒されている。リゼットは修理記録の頁をめくりながら、部品の在庫帳と照合していた。
「合わない」
思わず声が漏れた。
エドガルが向かいの机から顔を上げる。
「何がだ」
「南門の補強に使った鎖の留め金です。帳簿では、去年の秋に六個納品されています。でも倉庫に残っているのは二個。南門で使った一個を足しても、三個しかありません」
「壊れて捨てた記録は」
「ありません。破損品の記録にもない」
リゼットは別の帳簿を開いた。部品にはそれぞれ番号が刻まれ、納品日と使用場所が記されている。記録の上では、残りの三個は北側の水門に使われたことになっていた。
しかし、北側の水門を調べたのは二日前だ。そこに取り付けられていた留め金は、番号の違う旧式のものだった。
「帳簿の数字だけが消えているわけではない」
エドガルは頁の端を指で押さえた。
「現物がない」
「横流し、ということでしょうか」
「まだ断定はできない。だが、記録と実物が一致しない理由は調べる必要がある」
二人は倉庫へ向かった。
水路組合の古い倉庫は、町の外れにある。壁には長年の湿気で黒ずんだ染みが広がり、扉を開けると鉄と油の匂いが鼻を刺した。部品は棚ごとに分類されているはずだったが、木箱の札は剥がれ、いくつかの箱が不自然に空いていた。
「この箱、動かされています」
リゼットは床にしゃがみ込んだ。埃の上に、幅の広い擦れ跡が残っている。棚から扉まで、何度も木箱を引きずったような線だった。
「最近の跡だな」
エドガルが灯りを近づけた。
「雨の前に倉庫へ入った者がいる。湿った泥が乾いている」
擦れ跡の先には、床板の隙間へ入り込んだ小さな金属片があった。リゼットが工具の先で取り出すと、部品番号の刻印が半分だけ残っている。
「この番号……帳簿にある留め金と同じです」
「箱の底を調べよう」
二人で棚を動かすと、壁際に細い板が立てかけられていた。その裏から、古い運搬箱が見つかった。蓋には水路組合の印が押されているが、印の上に別の荷札が貼られている。
リゼットは荷札を剥がした。下から現れた文字は、隣領のベルク領にある工事場の名だった。
「隣領へ送られた?」
「この町の部品を、許可なく」
エドガルの声が硬くなる。
箱の中には何も入っていなかった。けれど、内側の底板に油染みが残っている。リゼットは染みを指先でなぞり、箱の壊れた蝶番を見つめた。
「直せば、何か聞こえるかもしれません」
エドガルは一瞬、彼女を見た。
「試す価値はある。ただし、声だけで人を裁かない」
「分かっています」
工房へ箱を運び、リゼットは蝶番を外した。木は湿気で膨らみ、金具は錆びて固まっている。細部を清掃し、割れた木片を接着し、歪んだ軸を削って合わせる。最後に蓋を閉じた瞬間、耳の奥でかすかな音が弾けた。
――三箱目はベルクへ。組合長の印は、こちらで押す。
声は短く、低かった。
続いて別の声が重なる。
――だが、南門の分まで持ち出せば、町が困る。
――洪水にならなければ問題ない。足りなければ、古い部品で誤魔化せ。
リゼットは息を止めた。
箱に残った声は、二人の会話の断片だけだった。誰が話しているのか、いつのことなのかも分からない。ただ、「組合長」という言葉と、隣領の名が結びついている。
「何が聞こえた」
エドガルが尋ねる。
リゼットは聞き取った内容をそのまま伝えた。エドガルは帳面に書き留めたが、表情は変えなかった。
「この声だけでは、ヴァルド組合長が命じた証拠にはならない」
「ええ。声の主が組合長本人とは限りません」
「それに、箱がベルクへ運ばれたとしても、正式な貸し出しだった可能性は残る」
「では、現物を探しましょう」
「隣領へ?」
「まず、納品先の工事場を確認します。部品番号が一致すれば、少なくとも箱が空になった理由は分かる」
エドガルはうなずいた。
その日の午後、二人は組合の古い発送記録を調べた。ベルク領宛ての記録は、昨年の秋に三件あった。そのうち一件だけ、送り主の欄が空白になっている。運搬人の署名も、途中で筆跡が変わっていた。
さらに、帳簿の綴じ目には新しい糸が使われていた。古い頁を抜き取り、別の頁を差し込んだ跡である。
「改ざんの可能性が高い」
エドガルが言った。
「でも、誰が差し替えたかは分かりません」
「だから証言が要る」
二人は倉庫番を務めていた老職人を訪ねた。彼は最初、何も知らないと首を振った。しかしリゼットが運搬箱の荷札を見せると、長い沈黙の後で口を開いた。
「去年の秋、夜中に荷車が来た。組合長付きの印を持った男がいたよ」
「顔は見ましたか」
「暗くてな。ただ、荷車にはベルク領の紋章があった。私はおかしいと思ったが、逆らえば仕事を失う」
老人は震える手で、古びた紙片を差し出した。荷車の車輪を修理した際に受け取った控えだという。日付と荷物の数、そして運搬人の署名が残っている。
リゼットは紙片を受け取った。数字は帳簿から消えた部品の数と一致していた。
帰り道、夕暮れの水路に赤い光が揺れていた。
「これで、少し近づきました」
「まだ始まったばかりだ」
「それでも、部品が消えた場所は分かりました」
「行き先もな」
エドガルはベルク領へ続く街道を見つめた。
「明日、隣領へ行く。工事場の現物を確認し、運搬人を探す」
「私も同行します」
「危険があるかもしれない」
「部品を直した者として、最後まで確かめたいです」
エドガルはしばらく黙った。
「分かった。ただし、単独で動かないこと。見たもの、聞いたものはすべて記録する」
「あなたも、私を急かさないこと」
「努力する」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
工房へ戻ると、机の上には修理した運搬箱が置かれていた。リゼットは蓋を撫でた。残された声は、真実の一片にすぎない。欠けた言葉を都合よく繋げれば、簡単に誰かを犯人にできる。
だからこそ、現物を見なければならない。帳簿を比べ、証言を聞き、声の届かなかった部分を自分たちの目で埋めるのだ。
翌朝、二人は隣領へ向けて出発することになった。
町を守るために消えた部品が、誰の手に渡り、何を守るために使われたのか。
その行き先には、まだ聞こえない約束が待っていた。




