水門時計が聞いた真実
隣領へ向かうはずだった朝、エドガルは出発の時刻になっても馬車を出さなかった。
「どうしたのですか」
工房の前で、リゼットは荷物を抱えたまま尋ねた。
「ベルク領へ行く前に、町で確認したい場所がある」
エドガルが差し出したのは、古びた鍵だった。水路組合の記録庫にある、基準時計室の鍵だという。
「昨夜、老職人の話を聞き直した。去年の秋、荷車が来た夜と、基準時計が止まった夜は同じ日だった」
「基準時計が?」
「水門の時刻を合わせるための古い時計だ。今は使われていないが、変更前の記録を保管している可能性がある」
二人は組合の本館へ向かった。
基準時計室は、塔の裏手にあった。扉は長い間開かれていないらしく、鍵を回すと錆びた音が響いた。中には大きな振り子時計が据えられ、文字盤の針は七時二十分で止まっている。壁際には水門の設計図と、古い点検札が積まれていた。
リゼットは時計の前に立った。
「動かせそうです」
「無理をするな。これは調査のための道具で、証言者ではない」
「分かっています。でも、壊れたままでは何も分かりません」
彼女は時計の裏蓋を外した。歯車の一つに細かな傷があり、軸には新しい油が残っている。自然に止まったのではない。誰かが内部を開け、部品を外して戻したのだ。
リゼットは傷んだ軸を磨き、歯車の噛み合わせを調整した。振り子をそっと押すと、時計は一度だけ大きく揺れた。
かちり。
音がした瞬間、耳の奥に冷たい水が流れ込んだ。
――南門の開閉時刻を、三刻遅らせる。
別の声が重なった。
――それでは農地に水が届かなくなる。規則に反します。
――規則を変えればいい。古い領主はもう口を出せない。
リゼットは手を止めた。
さらに、低く落ち着いた声が続いた。
――基準時計を止めておけ。新しい時刻を記録に合わせれば、誰も気づかない。
――しかし、変更の承認は。
――私が組合長だ。水路を守るために必要だったと、後で説明する。
そこで声は途切れた。
リゼットは時計から手を離し、深く息を吐いた。断片的な会話だったが、今までの記録と符合している。水門の仕様変更は、前領主の命令ではなかった。領主が交代する混乱に乗じて、水利組合長ヴァルドが独断で時刻と開閉機構を変えたのだ。
「何が聞こえた」
エドガルの声がした。
リゼットは内容を話した。エドガルは黙って設計図を広げ、変更箇所を指で追った。
「南門の開閉時刻が三刻遅れた記録はある。だが、決裁欄には前領主の印が押されている」
「声では、領主は関わっていないようでした」
「声の主が誰かは、まだ確定できない」
「ええ」
リゼットはうなずいた。
「でも、仕様変更の時期と、時計を止めた時刻は一致しています。それに、この軸の傷は最近ついたものではありません」
エドガルは時計の内部を覗き込んだ。軸の脇には、小さな金属片が挟まっている。彼が取り出すと、薄い真鍮板に組合の印が刻まれていた。
「改造部品の一部だな」
「変更を行った人間が、時計も細工した証拠になるかもしれません」
そのとき、廊下から足音が響いた。
「そこにいるのは誰だ」
扉が開き、ヴァルドが姿を現した。背後には二人の組合員が立っている。組合長は時計と二人を見比べ、険しい顔をした。
「許可なく基準時計に触れるとは、ずいぶん大胆になったものだな、リゼット嬢」
「壊れていたので修復しただけです」
「壊したのは君ではないのか」
ヴァルドの目が細くなる。
「君が持ち込んだ偽の設計図で、町の水門はいくつも混乱した。今回の部品の紛失も、調査を口実に君が持ち出したのだろう」
「それは事実ではありません」
エドガルが前へ出た。
「部品番号、倉庫の床跡、発送控え、ベルク領の荷札。すべてリゼットの関与なしに確認できる事実だ」
「君はこの娘の言葉を信じすぎている。壊れた道具が何を聞かせたかなど、証拠にもならない」
「その通りです」
リゼットは静かに答えた。
「道具の声だけでは、誰も裁けません。だから、私は帳簿も現物も証言も調べています」
ヴァルドの表情がわずかに揺れた。
「ならば、時計の声など最初から必要ないではないか」
「必要かどうかを決めるのは、聞いた私ではありません。聞こえたものを隠さず、限界も含めて示すことが大切なのです」
彼女は真鍮板を机の上に置いた。
「これは、南門の改造部品です。基準時計を止めた者が、同じ印を使った可能性があります」
ヴァルドは板を見た。ほんの一瞬、顔から血の気が引いた。
「そんなもの、誰でも作れる」
「では、組合の鍛冶場にある印と照合しましょう」
エドガルが言うと、ヴァルドは声を荒らげた。
「私を疑うのか。町を守ってきたのは誰だと思っている!」
「町を守った者なら、記録を公開することを拒まないはずです」
エドガルの言葉が、狭い時計室に響いた。
ヴァルドは返事をしなかった。やがて、組合員を連れて廊下の向こうへ去っていく。扉が閉まると、リゼットは時計を見上げた。
「彼は、知っていたのでしょうか」
「少なくとも、真鍮板を見たときの反応は記録できる」
「それも証拠にはなりませんね」
「ああ。だが、次に調べるべき場所は分かった」
エドガルは設計図を巻き直した。
「組合の鍛冶場、決裁印の保管庫、それから変更当時の議事録。ベルクへ行くのは、その後だ」
時計は再び、規則正しく時を刻み始めていた。
かち、かち、と小さな音が続く。
その音を聞きながら、リゼットは思った。道具は真実を語るのではない。残された欠片を、こちらへ手渡すだけだ。欠けた部分を埋めるのは、人の目と足と、誰かの証言である。
そして今、止まっていた時計は、隠されていた時間を少しずつ町へ返し始めていた。




