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壊れた水門時計が、私たちの約束を鳴らすまで  作者: 銀細工ナギ


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10/20

水門時計が聞いた真実

 隣領へ向かうはずだった朝、エドガルは出発の時刻になっても馬車を出さなかった。


「どうしたのですか」


 工房の前で、リゼットは荷物を抱えたまま尋ねた。


「ベルク領へ行く前に、町で確認したい場所がある」


 エドガルが差し出したのは、古びた鍵だった。水路組合の記録庫にある、基準時計室の鍵だという。


「昨夜、老職人の話を聞き直した。去年の秋、荷車が来た夜と、基準時計が止まった夜は同じ日だった」


「基準時計が?」


「水門の時刻を合わせるための古い時計だ。今は使われていないが、変更前の記録を保管している可能性がある」


 二人は組合の本館へ向かった。


 基準時計室は、塔の裏手にあった。扉は長い間開かれていないらしく、鍵を回すと錆びた音が響いた。中には大きな振り子時計が据えられ、文字盤の針は七時二十分で止まっている。壁際には水門の設計図と、古い点検札が積まれていた。


 リゼットは時計の前に立った。


「動かせそうです」


「無理をするな。これは調査のための道具で、証言者ではない」


「分かっています。でも、壊れたままでは何も分かりません」


 彼女は時計の裏蓋を外した。歯車の一つに細かな傷があり、軸には新しい油が残っている。自然に止まったのではない。誰かが内部を開け、部品を外して戻したのだ。


 リゼットは傷んだ軸を磨き、歯車の噛み合わせを調整した。振り子をそっと押すと、時計は一度だけ大きく揺れた。


 かちり。


 音がした瞬間、耳の奥に冷たい水が流れ込んだ。


 ――南門の開閉時刻を、三刻遅らせる。


 別の声が重なった。


 ――それでは農地に水が届かなくなる。規則に反します。


 ――規則を変えればいい。古い領主はもう口を出せない。


 リゼットは手を止めた。


 さらに、低く落ち着いた声が続いた。


 ――基準時計を止めておけ。新しい時刻を記録に合わせれば、誰も気づかない。


 ――しかし、変更の承認は。


 ――私が組合長だ。水路を守るために必要だったと、後で説明する。


 そこで声は途切れた。


 リゼットは時計から手を離し、深く息を吐いた。断片的な会話だったが、今までの記録と符合している。水門の仕様変更は、前領主の命令ではなかった。領主が交代する混乱に乗じて、水利組合長ヴァルドが独断で時刻と開閉機構を変えたのだ。


「何が聞こえた」


 エドガルの声がした。


 リゼットは内容を話した。エドガルは黙って設計図を広げ、変更箇所を指で追った。


「南門の開閉時刻が三刻遅れた記録はある。だが、決裁欄には前領主の印が押されている」


「声では、領主は関わっていないようでした」


「声の主が誰かは、まだ確定できない」


「ええ」


 リゼットはうなずいた。


「でも、仕様変更の時期と、時計を止めた時刻は一致しています。それに、この軸の傷は最近ついたものではありません」


 エドガルは時計の内部を覗き込んだ。軸の脇には、小さな金属片が挟まっている。彼が取り出すと、薄い真鍮板に組合の印が刻まれていた。


「改造部品の一部だな」


「変更を行った人間が、時計も細工した証拠になるかもしれません」


 そのとき、廊下から足音が響いた。


「そこにいるのは誰だ」


 扉が開き、ヴァルドが姿を現した。背後には二人の組合員が立っている。組合長は時計と二人を見比べ、険しい顔をした。


「許可なく基準時計に触れるとは、ずいぶん大胆になったものだな、リゼット嬢」


「壊れていたので修復しただけです」


「壊したのは君ではないのか」


 ヴァルドの目が細くなる。


「君が持ち込んだ偽の設計図で、町の水門はいくつも混乱した。今回の部品の紛失も、調査を口実に君が持ち出したのだろう」


「それは事実ではありません」


 エドガルが前へ出た。


「部品番号、倉庫の床跡、発送控え、ベルク領の荷札。すべてリゼットの関与なしに確認できる事実だ」


「君はこの娘の言葉を信じすぎている。壊れた道具が何を聞かせたかなど、証拠にもならない」


「その通りです」


 リゼットは静かに答えた。


「道具の声だけでは、誰も裁けません。だから、私は帳簿も現物も証言も調べています」


 ヴァルドの表情がわずかに揺れた。


「ならば、時計の声など最初から必要ないではないか」


「必要かどうかを決めるのは、聞いた私ではありません。聞こえたものを隠さず、限界も含めて示すことが大切なのです」


 彼女は真鍮板を机の上に置いた。


「これは、南門の改造部品です。基準時計を止めた者が、同じ印を使った可能性があります」


 ヴァルドは板を見た。ほんの一瞬、顔から血の気が引いた。


「そんなもの、誰でも作れる」


「では、組合の鍛冶場にある印と照合しましょう」


 エドガルが言うと、ヴァルドは声を荒らげた。


「私を疑うのか。町を守ってきたのは誰だと思っている!」


「町を守った者なら、記録を公開することを拒まないはずです」


 エドガルの言葉が、狭い時計室に響いた。


 ヴァルドは返事をしなかった。やがて、組合員を連れて廊下の向こうへ去っていく。扉が閉まると、リゼットは時計を見上げた。


「彼は、知っていたのでしょうか」


「少なくとも、真鍮板を見たときの反応は記録できる」


「それも証拠にはなりませんね」


「ああ。だが、次に調べるべき場所は分かった」


 エドガルは設計図を巻き直した。


「組合の鍛冶場、決裁印の保管庫、それから変更当時の議事録。ベルクへ行くのは、その後だ」


 時計は再び、規則正しく時を刻み始めていた。


 かち、かち、と小さな音が続く。


 その音を聞きながら、リゼットは思った。道具は真実を語るのではない。残された欠片を、こちらへ手渡すだけだ。欠けた部分を埋めるのは、人の目と足と、誰かの証言である。


 そして今、止まっていた時計は、隠されていた時間を少しずつ町へ返し始めていた。

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