雨音の夜の共同作業
雨は、夕方から途切れずに降り続いていた。
工房の屋根を叩く音が次第に強くなり、窓の外では街灯の光が水の幕に滲んでいる。リゼットが帳簿を閉じたとき、遠くで警鐘が鳴った。
「南の仮設水門です」
エドガルが立ち上がった。彼は濡れた外套を手に取り、窓の方へ目を向ける。
「上流の水位が急に上がった。堤の補強が持たないかもしれない」
「修理道具を持っていきます」
「夜通しになる」
「分かっています」
工房を出ると、雨は容赦なく二人の肩を打った。泥に足を取られながら水路沿いの道を進む。川から溢れた水が低い土地へ流れ込み、草むらの間に細い川をいくつも作っていた。
仮設水門は、かつて使われていた古い扉を転用したものだった。昼間なら見えるはずの木枠は黒い水に半ば沈み、鉄の留め具が大きく外れている。扉が押し流されれば、下流の畑と家々が浸水する。
「左の支柱が浮いています!」
リゼットが叫んだ。
「分かった。私は鎖を固定する。君は留め具を直せるか」
「やります」
彼女は腰まで水に浸かりながら、工具袋を開いた。冷たい水が服の中へ入り、指先の感覚を奪っていく。壊れた留め具は錆びて膨らみ、軸が抜けかけていた。新しい部品を取り付けるには、古い金具を切断しなければならない。
エドガルが鎖を支柱へ回し、全身で扉を押さえていた。雨に濡れた髪が額に張りつき、頬には泥が跳ねている。それでも彼は何も言わず、ただ水の流れと支柱の揺れを見ていた。
「あと少し、動かさないでください!」
「善処する」
「善処では困ります!」
「なら、早くしてくれ」
いつもの冷静な声だったが、最後の一言には苦しさが混じっていた。
リゼットは歯を食いしばり、錆びた軸に刃を当てた。工具が滑り、手の甲を切る。痛みを感じるより先に、血が雨水へ流れた。
「リゼット!」
「平気です!」
彼女はもう一度、刃を押し込んだ。金属が軋み、古い軸がようやく折れる。新しい軸を差し込み、留め具を固定する。だが、最後の楔が見つからない。
道具箱を探していると、泥の中で小さな金属片が光った。リゼットはそれを拾い上げた。以前、工房で何度も失敗し、使えないと捨てた形と同じだった。
前世の記憶が、突然、雨音の向こうから蘇った。
水門ではない。かつて自分が修理していた古い時計塔。納期に追われ、ひびの入った部品を無理に使い、動き出した直後に歯車を壊した。幸い人に怪我はなかったが、依頼主の大切な時計を取り返しのつかない状態にしてしまった。
あの日から、彼女は失敗を恐れた。正しい手順を守ることに執着し、少しでも不確かなものには手を出せなくなった。
「また、間違える……」
声が漏れた。
「何がだ」
鎖を支えながら、エドガルが尋ねる。
「私は一度、急いで修理をして、道具を壊しました。直せると思い込んで、確認を怠った。あのときから、失敗するのが怖いんです」
「今も怖いか」
「怖いです。ここで間違えたら、水の下にいる人たちが困る」
エドガルは一瞬だけ目を伏せた。
「私も判断を誤ったことがある」
雨の音が、二人の間を埋めた。
「以前、北の堤防で補修計画を変更した。予定より早く工事を終わらせれば、村の収穫に間に合うと思った。部下は危険だと報告していたが、私は進めた。夜に水位が上がり、堤が崩れた」
彼の声は淡々としていた。けれど、淡々としているからこそ、その奥に沈んだものが見えた。
「部下が一人、濁流に巻き込まれた。遺体は翌朝になってから見つかった」
リゼットは息を呑んだ。
「それから、私は自分の判断だけで現場を動かさないと決めた。遅いと言われても、誰かの報告を聞き、記録を残し、確認してから決める」
「だから、私の声だけでは決めないのですね」
「そうだ。君を信じていないからではない。信じることと、確かめることは両立する」
エドガルは鎖を握り直した。
「君も一人で直そうとするな。今、必要なのは完璧な修理ではない。二人で水門を持たせることだ」
その言葉に、リゼットは泥の中の金属片を見つめた。完璧な部品ではない。だが、形を削り、隙間を埋めれば使えるかもしれない。
「エドガル、支柱を少しだけ右へ」
「分かった」
「一、二、三で押してください」
二人は同時に力を込めた。扉が軋み、荒れ狂う水の流れが一瞬だけ弱まる。その隙に、リゼットは金属片を楔として打ち込んだ。
乾いた音が雨の中に響いた。
留め具が固定され、扉が支柱に噛み合う。水はまだ激しく流れていたが、下流へ向かう勢いは目に見えて落ちた。
「持ちました!」
リゼットが叫ぶ。
「まだ終わっていない。上の補強を確認する」
二人は夜明けまで何度も水門を見回った。木材を追加し、鎖を締め、浮いた土嚢を積み直す。手を動かすたび、互いの位置を声で確かめた。ひとりなら見落としていた亀裂を、もうひとりが見つける。片方が疲れて手を止めれば、もう片方が工具を受け取った。
空が白み始めるころ、雨はようやく細くなった。
水門は、傷だらけのまま立っていた。完全に新しくなったわけではない。それでも町を守る役目を果たしている。
リゼットは濡れた髪を絞り、隣に立つエドガルを見た。
「昨夜のこと、誰にも話さなくていいです」
「なぜだ」
「あなたが部下を失ったことです」
「隠すつもりはない。だが、今すぐ話す必要もない」
「私も、前世の失敗を誰かに理解してもらおうとは思っていませんでした」
「理解できるとは言わない」
エドガルは水門へ視線を戻した。
「ただ、君が怖がる理由を知った。次に君が手を止めたとき、急かさないようにはできる」
リゼットの胸が、静かに温かくなった。
「私も、あなたが一人で責任を抱え込まないようにします」
「それは難しいな」
「では、何度でも言います」
エドガルはわずかに笑った。疲労の中で初めて見せた、柔らかな表情だった。
町へ戻る道で、二人の肩は何度も触れた。どちらも離れようとはしなかった。
工房に着くころ、雨雲の切れ間から淡い朝日が差し込んだ。濡れた工具を並べ、リゼットは帳面を開く。昨夜の修理記録を書き始めると、隣からエドガルの手が伸びてきた。
「支柱の交換が必要だ。部材の発注も記録しておこう」
「ええ。今度は、二人で計画を立てます」
書き終えた頁の端に、雨粒がひとつ落ちた。
それは涙なのか、濡れた髪から落ちた水なのか、リゼットには分からなかった。ただ、もう一人で失敗を抱えて立ち尽くす必要はないのだと思った。
壊れたものを直すには、手間がかかる。傷跡も残る。けれど、誰かと確かめ合いながらなら、壊れたままの夜を越えていける。
外では、水門を守る水の音が、朝の町へ静かに響いていた。




