元婚約者の商会
翌朝、リゼットとエドガルは南倉庫へ向かった。
倉庫の扉には組合の封印が残っていたが、錠前は新しい。エドガルが記録と照合すると、交換されたのは三日前だった。祝宴の準備で人の出入りが増えた時期と重なる。
「鍵の交換を申請した者は?」
「組合長付きの補佐官です」
夜番の書記は、昨夜よりも小さな声で答えた。
中には水門部品の木箱が積まれていた。リゼットは床を見回し、革筒の底に付いていた赤い染みと同じ色の封蝋を見つけた。封蝋の欠片は、奥の机の脚元に落ちている。
箱を一つ開けると、古い弁の留め具が並んでいた。帳簿上では、すでに別の水路へ納品されたことになっている部品だ。
「数が合いません」
リゼットが数え直すと、帳簿より六個多かった。
そのとき、倉庫の外から馬車の音が聞こえた。濃い緑色の車体に、銀色の鷲の紋章が描かれている。リゼットはその紋章を知っていた。
元婚約者、セドリックの商会のものだ。
扉が開き、栗色の髪を整えた男が入ってきた。以前と変わらない柔らかな笑みを浮かべている。けれど、リゼットの工房を訪ねてきたというより、すでに自分の所有物を見に来たような目をしていた。
「久しぶりだね、リゼット」
「セドリック」
「君がここで仕事をしていると聞いて、驚いたよ。男爵家の令嬢が、職人の真似事をしているとは思わなかった」
「真似事ではありません」
エドガルが低く言った。
セドリックは彼へ視線を移し、丁寧に頭を下げた。
「水路監督官殿。商会の者として、町の発展を喜んでおります。ですが、リゼットの家にはまだ商会への借入金が残っている。ご存じですか?」
リゼットの胸の奥が冷えた。
父の領地が傾いたあと、修繕費や税の支払いに商会から金を借りたことは知っている。だが、返済期限や残額を正確に知らされてはいなかった。婚約が破談になったとき、セドリックは「家同士の話だから」と言って、細かな契約を見せようとしなかった。
「その借入金と、私の工房に何の関係がありますか」
「関係はあるさ。君が作った設計図や修理技術には、家名による信用が含まれている。借金の整理と引き換えに、工房の権利を商会へ譲ればいい」
彼は従者に合図した。差し出された契約書には、工房の使用権、修理記録、今後の設計図、そしてリゼットの名前を商会の宣伝に使う権利まで並んでいる。
「この工房を商会の支店にする。君は名誉職として残れる。貴族令嬢が工具に油をまみれさせる必要もなくなる」
「報酬は?」
「家の借金を差し引いた残りを、少額だが支払おう」
リゼットは契約書を取り上げ、端から読み進めた。最初の頁には、工房の権利を譲渡するとある。二頁目には、譲渡の対象に水路組合との共同契約を含むと書かれている。三頁目には、商会が必要と判断した場合、彼女の名義で提出された過去の設計図を改訂できるとあった。
そして最後の頁には、契約の効力が「借入金の全額返済を確認した日から」と記されている。
「おかしいです」
「どこが?」
「借入金の明細が添付されていません。残額も、利率も、返済済みの金額も書かれていない。それなのに、工房の譲渡だけは署名した時点で有効になる」
セドリックの笑みがわずかに固まった。
「商会を疑うのかい?」
「疑っているのではなく、確認しています」
リゼットは頁をめくった。
「それに、この契約書では、私が作成した設計図の改訂を商会が自由にできる。昨日の偽の設計図も、誰かが私の名前を使って提出しました。そんな権利を渡せば、同じことが合法になります」
「君は何も分かっていない。家の借金を放置すれば、工房どころか男爵家そのものを失う」
「男爵家を守るために、町の水路を危険にさらすつもりはありません」
セドリックはエドガルを見た。
「監督官殿も、彼女に無理をさせているのでは? 借金を抱えた令嬢を共同責任者にするなど、組合の信用に関わります」
エドガルは契約書に目を落とした。
「彼女が自分で判断することだ。私が口を挟む問題ではない」
リゼットは一瞬、彼を見た。助けを求めれば、きっと彼は前へ出てくれる。だが、ここで彼の権威に守られれば、セドリックの言う通り、彼女は誰かの庇護なしには立てない人間になってしまう。
リゼットは契約書を折り、セドリックへ返した。
「お断りします」
「借金はどうする?」
「明細を取り寄せ、正しい額を確認します。その上で、私自身の仕事で返します」
「君の工房など、組合が認めなければ一日で消える」
「なら、認められる仕事を続けます」
セドリックの顔から笑みが消えた。
「後悔するよ」
「後悔するかどうかも、私が決めます」
彼が去ったあと、倉庫には重い沈黙が残った。
「なぜ止めなかったのですか」
リゼットが尋ねると、エドガルは静かに答えた。
「止める必要がなかった。あなたは、自分で断った」
「それだけですか?」
「それだけで十分だ」
エドガルは契約書の写しを指で叩いた。
「ただし、借入金の明細は調べる。これはあなた一人の問題ではない。偽の設計図と同じ流れに、この商会が関わっている可能性がある」
「私を疑っていますか」
「疑っているのは記録だ。あなたではない」
その言葉に、リゼットの肩から力が抜けた。
工房へ戻る途中、彼女は何度も契約書の文面を思い返した。セドリックは昔から、彼女が迷う時間を利用した。優しい声で選択肢を狭め、断れば損をすると信じ込ませる。けれど今は違う。自分の手で読んで、自分の意思で拒んだ。
工房の入口には、見慣れない木箱が置かれていた。蓋を開けると、中には商会の紋章が刻まれた小型の帳簿箱が入っている。蝶番が壊れていた。
リゼットは工具を取り出した。
「また声が聞こえるかもしれません」
エドガルが頷く。
「聞こえたとしても、それだけでは決めない」
「分かっています」
彼女は曲がった蝶番を外し、軸を削り直した。新しい金具を合わせ、蓋を閉じる。
ぱちり、と小さな音が響いた。
『借りた名なら、返さなくていい。工房も、設計図も、全部こちらのものだ』
リゼットは目を閉じた。
声はセドリックのものではなかった。誰かが彼の商会の名を使い、工房を奪おうとしている。あるいは、商会自身が誰かに利用されているのかもしれない。
リゼットは聞こえた言葉を、そのまま帳面に書き留めた。
「これは手がかりです。でも、証拠ではありません」
エドガルは頷いた。
「なら、証拠を集めよう」
夕暮れの工房で、二人は新しい帳簿を開いた。名前を奪おうとする者がいるなら、仕事の記録と自分の意思を積み上げて対抗するしかない。
リゼットは工具をしまい、明日の調査予定を書き込んだ。
誰かの商会に買われるために、ここへ来たのではない。
自分の手で直し、自分の名で選び、自分の足で歩くために、ここにいる。




