祝宴に届いた偽の設計図
水路が開いた三日後、町では小さな祝宴が開かれた。
広場には農家が持ち寄った焼き菓子や、川魚の香草焼きが並び、仮設工房の前には色とりどりの布が渡されている。干上がっていた畑に水が戻ったことを、町の人々は自分たちの勝利として喜んでいた。
リゼットはエドガルの隣で、何度目か分からない礼を受けていた。
「今年の収穫が戻れば、冬を越せる」
「まだ弁が一つ直っただけです。水路全体が安定したわけではありません」
「それでも、最初の一歩だ」
エドガルはそう言い、杯を口元へ運んだ。
彼は祝宴の席でも、広場の端に置かれた水路図や、見回りの作業員の数を気にしていた。リゼットはその横顔を見ながら、少しだけ笑った。
「今日は休む日では?」
「休んでいる。立ったまま確認しているだけだ」
「それを休んでいるとは言いません」
言い返したところで、広場の入口が騒がしくなった。
濃紺の外套を着た男が、二人の従者を連れて現れた。手には細長い革筒を抱えている。男は水利組合の書記だと名乗り、リゼットへ近づいた。
「共同責任者殿に、祝いの品をお届けします」
差し出された革筒には、白い紙帯が巻かれていた。
そこには、リゼットの名が記されている。
「私に?」
「先日の排水弁の成功を受け、町の南側水路を改修するための設計図です。あなたが作成したものとして、組合へ提出されました」
周囲の笑い声が、急に遠くなった。
リゼットは帯を見つめた。自分の署名に似せた文字が、確かにそこにある。だが、筆の運びが不自然だった。最後の跳ねが重く、彼女なら決して使わない略号まで混じっている。
「私は、この設計図を作っていません」
広場の空気が変わった。
書記は困ったように眉を下げた。
「しかし、正式な印が押されています」
「私の印ではありません」
「では、誰かがあなたの名を使ったということですか」
問いかけは穏やかだったが、その声には疑いが含まれていた。人々の視線が、リゼットの服と顔に集まる。家名を背負った娘が、工房の信用を得るために設計図を偽造した。そう思われても不思議ではなかった。
エドガルが一歩前へ出た。
「ここで判断する必要はない。書類は預かる」
「監督官、組合の審査を通ったものです」
「だからこそ、記録と照合する」
彼は革筒を受け取ろうとしたが、リゼットが手を上げた。
「待ってください。中を見ます」
紙を広げると、南側水路の分岐と新しい弁の位置が描かれていた。一見すると整った図面だった。しかし、水圧の計算が抜けている。高低差も、古い土留めの位置も無視されていた。この通りに工事をすれば、最初の大雨で南側の農地が浸かる。
「粗悪です」
リゼットが言うと、書記の顔が強張った。
「それを、あなたが作ったことになっている」
誰かが小声で呟いた。
その夜、祝宴が終わった後も、リゼットは工房に残った。偽の設計図は作業台の上に置かれている。図面そのものは道具ではない。だが、革筒の金具が壊れて外れかけていた。
「直すのか」
エドガルが尋ねた。
「このままでは中の紙が傷みます。確認するためにも、きちんと閉じられるようにします」
彼女は金具を外し、曲がった留め具を小さな槌で戻した。留め具の裏には、細い針金が無理に通されている。別の蓋から部品を移したらしい。
リゼットは金具を磨き、革筒へ取り付けた。
ぱちん、と留め具が閉じた。
その瞬間、耳の奥でかすかな声がした。
『名前を借りれば、通ると言った。南倉庫から運べば、誰にも見られない』
リゼットは息を止めた。
声は短く、途切れている。話した者の姿も、相手の名も分からない。ただ、誰かがこの筒を南倉庫から運び出した記憶だけが残っていた。
「何を聞いた」
エドガルの声が落ち着いて響く。
リゼットはすぐには答えなかった。以前、声は真実そのものではないと少年に説明したばかりだ。これだけで人を責めれば、また同じ過ちを繰り返す。
「この革筒から、短い声がしました」
「内容を聞こう」
「名前を借りれば通る。南倉庫から運べば見られない、と」
エドガルは眉を寄せたが、疑う言葉は口にしなかった。
「声だけで決めつけない。南倉庫を調べる」
「はい。それから、この図面を受け取った記録も必要です」
二人は組合の事務所へ向かった。夜番の書記を起こし、提出台帳を確認する。偽の設計図は、祝宴の前日に届けられていた。提出者の欄には、リゼットの名と工房の印がある。
しかし、受領した者の署名はなかった。
「正式な図面なら、受け取った人間の名前が必要です」
リゼットが指摘すると、夜番の書記は青ざめた。
「昼間の担当が処理したはずです」
「誰ですか」
「組合長付きの補佐官です」
エドガルは台帳を閉じた。
「明朝、本人に確認する」
事務所を出ると、夜の広場には祝宴の飾りだけが残っていた。風に揺れる布の向こうで、南倉庫の屋根が黒く沈んでいる。
「あなたの名を使った者は、工房の信用だけでなく、町の水路まで危険にさらそうとしている」
エドガルが言った。
「だから、急いで見つけます」
「焦るな」
「焦ってはいません」
リゼットは革筒を抱え直した。
「ただ、私の名前で誰かが壊すなら、私の手で止めたいだけです」
エドガルはしばらく黙り、それから南倉庫へ続く道を見た。
「なら、明日は二人で行く」
工房へ戻ると、リゼットは偽の設計図を巻き直した。紙の端には、彼女のものではない赤い染みが残っている。インクか、封蝋の跡かは分からない。
だが、南倉庫へ向かうための最初の手がかりにはなった。
祝宴の灯が消えた町で、誰かが彼女の名を使って、次の水路を壊そうとしている。
リゼットは灯りを消さず、朝を待った。




