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壊れた水門時計が、私たちの約束を鳴らすまで  作者: 銀細工ナギ


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6/20

祝宴に届いた偽の設計図


 水路が開いた三日後、町では小さな祝宴が開かれた。


 広場には農家が持ち寄った焼き菓子や、川魚の香草焼きが並び、仮設工房の前には色とりどりの布が渡されている。干上がっていた畑に水が戻ったことを、町の人々は自分たちの勝利として喜んでいた。


 リゼットはエドガルの隣で、何度目か分からない礼を受けていた。


「今年の収穫が戻れば、冬を越せる」


「まだ弁が一つ直っただけです。水路全体が安定したわけではありません」


「それでも、最初の一歩だ」


 エドガルはそう言い、杯を口元へ運んだ。


 彼は祝宴の席でも、広場の端に置かれた水路図や、見回りの作業員の数を気にしていた。リゼットはその横顔を見ながら、少しだけ笑った。


「今日は休む日では?」


「休んでいる。立ったまま確認しているだけだ」


「それを休んでいるとは言いません」


 言い返したところで、広場の入口が騒がしくなった。


 濃紺の外套を着た男が、二人の従者を連れて現れた。手には細長い革筒を抱えている。男は水利組合の書記だと名乗り、リゼットへ近づいた。


「共同責任者殿に、祝いの品をお届けします」


 差し出された革筒には、白い紙帯が巻かれていた。


 そこには、リゼットの名が記されている。


「私に?」


「先日の排水弁の成功を受け、町の南側水路を改修するための設計図です。あなたが作成したものとして、組合へ提出されました」


 周囲の笑い声が、急に遠くなった。


 リゼットは帯を見つめた。自分の署名に似せた文字が、確かにそこにある。だが、筆の運びが不自然だった。最後の跳ねが重く、彼女なら決して使わない略号まで混じっている。


「私は、この設計図を作っていません」


 広場の空気が変わった。


 書記は困ったように眉を下げた。


「しかし、正式な印が押されています」


「私の印ではありません」


「では、誰かがあなたの名を使ったということですか」


 問いかけは穏やかだったが、その声には疑いが含まれていた。人々の視線が、リゼットの服と顔に集まる。家名を背負った娘が、工房の信用を得るために設計図を偽造した。そう思われても不思議ではなかった。


 エドガルが一歩前へ出た。


「ここで判断する必要はない。書類は預かる」


「監督官、組合の審査を通ったものです」


「だからこそ、記録と照合する」


 彼は革筒を受け取ろうとしたが、リゼットが手を上げた。


「待ってください。中を見ます」


 紙を広げると、南側水路の分岐と新しい弁の位置が描かれていた。一見すると整った図面だった。しかし、水圧の計算が抜けている。高低差も、古い土留めの位置も無視されていた。この通りに工事をすれば、最初の大雨で南側の農地が浸かる。


「粗悪です」


 リゼットが言うと、書記の顔が強張った。


「それを、あなたが作ったことになっている」


 誰かが小声で呟いた。


 その夜、祝宴が終わった後も、リゼットは工房に残った。偽の設計図は作業台の上に置かれている。図面そのものは道具ではない。だが、革筒の金具が壊れて外れかけていた。


「直すのか」


 エドガルが尋ねた。


「このままでは中の紙が傷みます。確認するためにも、きちんと閉じられるようにします」


 彼女は金具を外し、曲がった留め具を小さな槌で戻した。留め具の裏には、細い針金が無理に通されている。別の蓋から部品を移したらしい。


 リゼットは金具を磨き、革筒へ取り付けた。


 ぱちん、と留め具が閉じた。


 その瞬間、耳の奥でかすかな声がした。


『名前を借りれば、通ると言った。南倉庫から運べば、誰にも見られない』


 リゼットは息を止めた。


 声は短く、途切れている。話した者の姿も、相手の名も分からない。ただ、誰かがこの筒を南倉庫から運び出した記憶だけが残っていた。


「何を聞いた」


 エドガルの声が落ち着いて響く。


 リゼットはすぐには答えなかった。以前、声は真実そのものではないと少年に説明したばかりだ。これだけで人を責めれば、また同じ過ちを繰り返す。


「この革筒から、短い声がしました」


「内容を聞こう」


「名前を借りれば通る。南倉庫から運べば見られない、と」


 エドガルは眉を寄せたが、疑う言葉は口にしなかった。


「声だけで決めつけない。南倉庫を調べる」


「はい。それから、この図面を受け取った記録も必要です」


 二人は組合の事務所へ向かった。夜番の書記を起こし、提出台帳を確認する。偽の設計図は、祝宴の前日に届けられていた。提出者の欄には、リゼットの名と工房の印がある。


 しかし、受領した者の署名はなかった。


「正式な図面なら、受け取った人間の名前が必要です」


 リゼットが指摘すると、夜番の書記は青ざめた。


「昼間の担当が処理したはずです」


「誰ですか」


「組合長付きの補佐官です」


 エドガルは台帳を閉じた。


「明朝、本人に確認する」


 事務所を出ると、夜の広場には祝宴の飾りだけが残っていた。風に揺れる布の向こうで、南倉庫の屋根が黒く沈んでいる。


「あなたの名を使った者は、工房の信用だけでなく、町の水路まで危険にさらそうとしている」


 エドガルが言った。


「だから、急いで見つけます」


「焦るな」


「焦ってはいません」


 リゼットは革筒を抱え直した。


「ただ、私の名前で誰かが壊すなら、私の手で止めたいだけです」


 エドガルはしばらく黙り、それから南倉庫へ続く道を見た。


「なら、明日は二人で行く」


 工房へ戻ると、リゼットは偽の設計図を巻き直した。紙の端には、彼女のものではない赤い染みが残っている。インクか、封蝋の跡かは分からない。


 だが、南倉庫へ向かうための最初の手がかりにはなった。


 祝宴の灯が消えた町で、誰かが彼女の名を使って、次の水路を壊そうとしている。


 リゼットは灯りを消さず、朝を待った。

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