最初の水路が開く日
春の終わりを告げるように、三日続いた雨が止んだ。
町外れの小さな工房では、朝から金槌の音が響いていた。作業台の上には、古い排水弁の部品が並べられている。農地へ水を戻すための弁だったが、長年の砂と錆で軸が固まり、片側の歯が二本欠けていた。
「これを今日中に?」
工房の入口で、農家の男が不安そうに尋ねた。
「今日中に直します」
リゼットは部品から目を上げずに答えた。
「無理を言っているのは分かっている。だが、畑の土が乾ききっているんだ。苗がもたない」
「分かっています。だから今日、直します」
男の背後には、見慣れた少年が立っていた。以前、揚水器を抱えてきた子だ。彼は黙って、泥のついた帽子を握りしめている。
リゼットは弁の軸を布で拭い、欠けた歯の形を測った。予備の部品はない。工房にある鉄片を削り、古い農具の留め金から軸受けを作るしかなかった。
「エドガル、監督所に残っている鉄片を確認してもらえますか」
「すでに持ってきた」
エドガルは扉の脇に置いた木箱を開けた。中には種類ごとに分けられた金属片が入っている。
「昨日のうちに帳簿を見た。使えそうなものは三つだ」
「助かります」
「ただし、どれも水門用の予備部品ではない。失敗すれば、戻せる部品がなくなる」
「失敗しないようにします」
「そう言うと思った」
エドガルは淡々と答えたが、その声には以前のような疑いがなかった。
リゼットは鉄片を選び、万力に固定した。鑢を当てるたび、細かな火花が落ちる。欠けた歯は単純な形に見えて、力のかかる方向が少しずつ違う。寸法だけ合っていても、弁を回したときに歯が逃げれば、また同じ場所が壊れる。
前世で使っていた旋盤の音が、一瞬だけ記憶の底から蘇った。大きな工場、油の匂い、修理を待つ機械の列。そして、最後まで直せなかった装置。焦って作業を進め、確認を怠った結果、誰かの仕事を止めてしまった記憶だった。
リゼットは手を止め、深く息を吸った。
「急がないのか」
エドガルが尋ねた。
「急いでいます。だから、急ぎません」
彼は何も言わなかった。ただ、部品を押さえるための重しを静かに差し出した。
昼を過ぎる頃、歯車の形が整った。リゼットは軸に部品を取りつけ、指でゆっくり回す。途中でわずかな引っかかりがあった。
「まだだ」
彼女は取り外し、接触面を削り直した。
農家の男は何度も外へ出ては、空を見上げた。少年は作業台から離れず、リゼットの手元を見つめている。
「お姉さんは、道具の声が聞こえるんでしょう」
突然、少年が言った。
リゼットの指が止まった。
「誰に聞いたのですか」
「町の人が言ってた。壊れた時計を触ると、道具が話すって」
エドガルの視線がこちらへ向いた。リゼットは少年の顔を見てから、排水弁へ目を戻した。
「道具は、いつも正しいことを言うわけではありません」
「嘘をつくの?」
「嘘というより、覚えていることが少しだけです。聞いた人が、残りを想像してしまうこともあります」
「じゃあ、声がなくても直せる?」
「もちろんです。声がなくても、傷や摩耗は見えますから」
少年は少し考え、それから頷いた。
「それなら、すごい」
午後遅く、弁は組み上がった。
町の外れにある水路へ運ぶと、周囲には農家の人々が集まっていた。古い排水弁は土砂に埋まり、鉄の取っ手も半ば折れている。エドガルが水路の上流を確認し、作業員に合図を送った。
「開けるぞ」
リゼットは軸に手を添えた。
最初は動かなかった。固い錆が内部で噛み合っている。彼女は力任せに回さず、わずかに戻してから、もう一度押した。
ごり、と低い音がした。
次の瞬間、弁がゆっくりと開いた。
堰き止められていた水が、暗い管の奥から勢いよく流れ出す。泥を押し分け、細い水路を走り、ひび割れた農地へ広がっていった。乾いた土が黒く濡れ、眠っていた畝の間に水の筋が伸びていく。
誰かが歓声を上げた。
少年は水路に駆け寄り、靴を泥だらけにしながら笑った。農家の男は何度も頭を下げたが、リゼットはその肩を押し戻した。
「礼は、収穫ができたときに」
「それでも、今言わせてくれ」
男の声が震えていた。
夕方、工房へ戻ると、町の倉庫管理人が待っていた。手には新しい契約書がある。
「今日の修理の報酬を計算した。農家からの支払いだけではない。町の水路維持費からも、正式に補助が出ることになった」
リゼットは紙を受け取った。
「補助?」
「工房を半年の貸与ではなく、長期使用に切り替える。修理費の一部を町が負担し、君にはこの場所を使い続ける権利が与えられる」
彼女は契約書の文字を追った。そこには、工房の使用者としてリゼットの名が記されている。男爵家の娘、という肩書きではなかった。
「条件は?」
「水路関係の修理を優先すること。記録を残すこと。それから、安全基準を守ること」
「受けます」
返事はすぐに出た。
その夜、家へ戻ると、父の書斎には明かりがついていた。机の上には、男爵家の借金の一覧と、見慣れた封蝋のついた書状が置かれている。
「町から報酬を受け取ったそうだな」
父は顔を上げずに言った。
「はい」
「家の借金に回せ」
「一部は支払います。でも、工房を維持する費用も必要です」
「お前が勝手に商売を始めることを、私は認めていない」
「許可を求めているのではありません」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど胸が静かになった。
「私は、家名のためではなく、自分の仕事のために工房を続けます。家に戻れと言われても、もう戻りません」
父は初めて顔を上げた。怒りよりも、理解できないものを見る目だった。
リゼットは頭を下げ、書斎を出た。
翌朝、工房の前にはエドガルが立っていた。彼は新しい書類を差し出した。
「水路監督所からの登録書だ」
「登録書?」
「君を水路整備事業の正式な共同責任者として登録した。修理だけでなく、部品の選定、記録の確認、現場判断を任せる」
「私を?」
「君以外に、壊れたものを見て、どう直すか決められる人間を私は知らない」
リゼットは書類を受け取った。そこにはエドガルの署名と、彼女の署名欄が並んでいる。
「責任は重くなります」
「だから共同責任者だ。一人で背負う必要はない」
彼女は筆を取り、ゆっくりと名を書いた。
遠くで、開いた水路を流れる水の音がした。町のどこかで、最初の水門が動き始めている。
リゼットはその音を聞きながら、工房の扉を開けた。
今日も、直すべきものが待っている。




