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壊れた水門時計が、私たちの約束を鳴らすまで  作者: 銀細工ナギ


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4/20

町外れの小さな工房


 水路の測量を終えた翌朝、リゼットは町外れの倉庫の前に立っていた。


 倉庫と呼ぶには、あまりにも古い建物だった。屋根の一部は波打ち、壁板には雨染みが広がっている。かつては染料職人が使っていたらしいが、今は長く空き家になっていた。錆びた錠前を外すと、中から乾いた埃の匂いが押し寄せてくる。


「本当に、ここを使うのか」


 隣でエドガルが腕を組んだ。


「屋根が落ちていない。床も傾いていません。工房としては十分です」


「基準が低すぎる」


「今の私に、立派な工房を借りる余裕はありません」


 リゼットは持ってきた箒を床へ当てた。埃が舞い上がり、差し込んだ朝の光の中で細かな粒が踊る。エドガルは顔をしかめたが、外へ逃げることはしなかった。


「契約書は持ってきた」


「もう署名したのですか」


「町の倉庫管理人と一晩かけて確認した。半年間の貸与だ。水路の修理に使う場合、賃料は部品代の一部で相殺できる」


「ずいぶん話が早いですね」


「君が昨日、下流の排水弁を三時間で動かしたからだ」


 リゼットは手を止めた。


 昨日の測量の途中、農家の少年が、壊れた小さな揚水器を抱えてやってきた。水を汲み上げられなくなり、畑の苗が枯れそうだという。時間はなかったが、彼女は揚水器を分解し、曲がった羽根を叩き直し、軸に詰まった砂を取り除いた。少年が何度も頭を下げるのを見て、エドガルは黙ってその場を離れていた。


「修理できる場所が必要です」


「だから借りた」


「あなたが?」


「君の契約には、水路監督所の作業場を使えると書いてある。ただし、そこでは水門関連の部品が優先される。町の細かな修理まで持ち込まれると、職員が困る」


「つまり、ここなら誰でも持ってこられる」


「そういうことだ」


 リゼットは箒を壁に立てかけた。倉庫の隅には、古い作業台と木箱が残されている。窓を開けると、町から少し離れた道を荷車が通る音が聞こえた。建物は粗末でも、風はよく通り、光も入る。


 前世の工房と比べれば、足りないものばかりだった。それでも、誰かの持ち込んだ壊れた道具を、自分の判断で調べ、直し、送り出す場所ができる。胸の奥が、静かに熱くなった。


 昼前には、工房らしい形が整い始めた。


 エドガルが棚を運び、リゼットが作業台の脚を補強する。彼は帳簿の整理をするために来たはずだったが、重い木箱を見ると自然に手を貸した。手際は悪くない。ただ、釘を打つ音があまりに正確で、まるで水門の部品を測るようだった。


「その棚は、右へ二寸ずらしてください」


「理由は?」


「午後になると窓から光が入ります。今の位置では作業台に影が落ちる」


「君は光の角度まで帳簿に書くのか」


「書きません。でも覚えています」


 エドガルは言われた通りに棚を動かした。しばらくして陽が傾くと、作業台の上だけが明るく照らされた。


「なるほど」


 彼は短く言った。


 その日の午後、最初の客が来た。


 町の仕立て屋の娘が、止まった手回し時計を布に包んで持ってきた。続いて、パン屋の主人が壊れた温度計を、鍛冶職人が割れた留め具を持ってくる。水門とは関係のない品ばかりだったが、リゼットは一つずつ状態を確かめ、直せるものと部品が必要なものを分けた。


 時計の蓋を開けたとき、歯車の奥から小さな声が聞こえた。


 ――帰る時間を、知らせて。


 リゼットは手を止めた。


 それは誰かの約束なのか、ただの願いなのか、判断できなかった。時計を持ってきた娘に尋ねると、時計は遠くへ働きに出た父親が、毎夕帰宅の時刻を知らせるために買ったものだと分かった。父親は今も帰ってこないという。


 リゼットは声のことを話さず、丁寧に時計を直した。


 針が動き始めると、娘は目を丸くし、それから何度も礼を言った。


「これで、父さんが帰ってきたときにも分かります」


 その言葉に、リゼットはただ頷いた。


 夕方、客が途切れると、エドガルは作業台の端に帳簿を広げた。持ち込まれた品の名前、依頼人、部品代、受け渡し予定日を一つずつ書き込んでいる。


「そこまでしなくても、覚えています」


「君は覚えているかもしれない。だが、後から誰かが確認する必要がある」


「水路の記録と同じですね」


「同じだ。直したものが増えるほど、記憶だけでは足りなくなる」


 彼の筆先は迷いがなかった。リゼットは横から帳簿を覗き込み、部品代の欄に小さな誤りを見つけた。


「この留め具は二個ではなく三個です」


「なぜ分かる」


「作業台の上に三つ置いたからです」


「見ていたのか」


「職人ですから」


 エドガルは書き直した。互いに言葉を交わさなくても、作業が進んでいく。そのことが、リゼットには不思議だった。


 以前なら、誰かに手伝われると、自分の判断まで奪われるようで落ち着かなかった。だがエドガルは口を出しすぎず、必要なところだけを確かめる。彼女が決めたことを、勝手に変えようとはしない。


「この工房の名前は、どうする」


 彼が尋ねた。


「名前など、必要ですか」


「町の人間は呼び名がない場所を説明できない」


 リゼットは窓の外を見た。夕暮れの道の先に、水路が細く光っている。町の中心から離れた、誰も気に留めない場所。それでも、ここから一つずつ道具が戻っていく。


「町外れの小さな工房、でいいでしょう」


「そのままだな」


「分かりやすい方がいいのです」


 エドガルは帳簿の表紙に、その名を書いた。


 翌朝、倉庫の前には小さな木札が掛かっていた。文字は少し硬かったが、読みやすい。


 町外れの小さな工房。


 それを見た子どもたちが、壊れた玩具を持って集まってきた。リゼットは一つずつ受け取り、直し方を説明する。エドガルは少し離れた場所で、彼らが作業台に触れすぎないよう見張っていた。


 水路の調査は、まだ始まったばかりだった。欠けた帳簿も、声を持たない歯車の行方も、何一つ解決していない。


 けれど、修理を待つ道具が棚に並び、帳簿には新しい文字が増えている。


 沈黙していた倉庫は、少しずつ人の気配を覚え始めていた。

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