町外れの小さな工房
水路の測量を終えた翌朝、リゼットは町外れの倉庫の前に立っていた。
倉庫と呼ぶには、あまりにも古い建物だった。屋根の一部は波打ち、壁板には雨染みが広がっている。かつては染料職人が使っていたらしいが、今は長く空き家になっていた。錆びた錠前を外すと、中から乾いた埃の匂いが押し寄せてくる。
「本当に、ここを使うのか」
隣でエドガルが腕を組んだ。
「屋根が落ちていない。床も傾いていません。工房としては十分です」
「基準が低すぎる」
「今の私に、立派な工房を借りる余裕はありません」
リゼットは持ってきた箒を床へ当てた。埃が舞い上がり、差し込んだ朝の光の中で細かな粒が踊る。エドガルは顔をしかめたが、外へ逃げることはしなかった。
「契約書は持ってきた」
「もう署名したのですか」
「町の倉庫管理人と一晩かけて確認した。半年間の貸与だ。水路の修理に使う場合、賃料は部品代の一部で相殺できる」
「ずいぶん話が早いですね」
「君が昨日、下流の排水弁を三時間で動かしたからだ」
リゼットは手を止めた。
昨日の測量の途中、農家の少年が、壊れた小さな揚水器を抱えてやってきた。水を汲み上げられなくなり、畑の苗が枯れそうだという。時間はなかったが、彼女は揚水器を分解し、曲がった羽根を叩き直し、軸に詰まった砂を取り除いた。少年が何度も頭を下げるのを見て、エドガルは黙ってその場を離れていた。
「修理できる場所が必要です」
「だから借りた」
「あなたが?」
「君の契約には、水路監督所の作業場を使えると書いてある。ただし、そこでは水門関連の部品が優先される。町の細かな修理まで持ち込まれると、職員が困る」
「つまり、ここなら誰でも持ってこられる」
「そういうことだ」
リゼットは箒を壁に立てかけた。倉庫の隅には、古い作業台と木箱が残されている。窓を開けると、町から少し離れた道を荷車が通る音が聞こえた。建物は粗末でも、風はよく通り、光も入る。
前世の工房と比べれば、足りないものばかりだった。それでも、誰かの持ち込んだ壊れた道具を、自分の判断で調べ、直し、送り出す場所ができる。胸の奥が、静かに熱くなった。
昼前には、工房らしい形が整い始めた。
エドガルが棚を運び、リゼットが作業台の脚を補強する。彼は帳簿の整理をするために来たはずだったが、重い木箱を見ると自然に手を貸した。手際は悪くない。ただ、釘を打つ音があまりに正確で、まるで水門の部品を測るようだった。
「その棚は、右へ二寸ずらしてください」
「理由は?」
「午後になると窓から光が入ります。今の位置では作業台に影が落ちる」
「君は光の角度まで帳簿に書くのか」
「書きません。でも覚えています」
エドガルは言われた通りに棚を動かした。しばらくして陽が傾くと、作業台の上だけが明るく照らされた。
「なるほど」
彼は短く言った。
その日の午後、最初の客が来た。
町の仕立て屋の娘が、止まった手回し時計を布に包んで持ってきた。続いて、パン屋の主人が壊れた温度計を、鍛冶職人が割れた留め具を持ってくる。水門とは関係のない品ばかりだったが、リゼットは一つずつ状態を確かめ、直せるものと部品が必要なものを分けた。
時計の蓋を開けたとき、歯車の奥から小さな声が聞こえた。
――帰る時間を、知らせて。
リゼットは手を止めた。
それは誰かの約束なのか、ただの願いなのか、判断できなかった。時計を持ってきた娘に尋ねると、時計は遠くへ働きに出た父親が、毎夕帰宅の時刻を知らせるために買ったものだと分かった。父親は今も帰ってこないという。
リゼットは声のことを話さず、丁寧に時計を直した。
針が動き始めると、娘は目を丸くし、それから何度も礼を言った。
「これで、父さんが帰ってきたときにも分かります」
その言葉に、リゼットはただ頷いた。
夕方、客が途切れると、エドガルは作業台の端に帳簿を広げた。持ち込まれた品の名前、依頼人、部品代、受け渡し予定日を一つずつ書き込んでいる。
「そこまでしなくても、覚えています」
「君は覚えているかもしれない。だが、後から誰かが確認する必要がある」
「水路の記録と同じですね」
「同じだ。直したものが増えるほど、記憶だけでは足りなくなる」
彼の筆先は迷いがなかった。リゼットは横から帳簿を覗き込み、部品代の欄に小さな誤りを見つけた。
「この留め具は二個ではなく三個です」
「なぜ分かる」
「作業台の上に三つ置いたからです」
「見ていたのか」
「職人ですから」
エドガルは書き直した。互いに言葉を交わさなくても、作業が進んでいく。そのことが、リゼットには不思議だった。
以前なら、誰かに手伝われると、自分の判断まで奪われるようで落ち着かなかった。だがエドガルは口を出しすぎず、必要なところだけを確かめる。彼女が決めたことを、勝手に変えようとはしない。
「この工房の名前は、どうする」
彼が尋ねた。
「名前など、必要ですか」
「町の人間は呼び名がない場所を説明できない」
リゼットは窓の外を見た。夕暮れの道の先に、水路が細く光っている。町の中心から離れた、誰も気に留めない場所。それでも、ここから一つずつ道具が戻っていく。
「町外れの小さな工房、でいいでしょう」
「そのままだな」
「分かりやすい方がいいのです」
エドガルは帳簿の表紙に、その名を書いた。
翌朝、倉庫の前には小さな木札が掛かっていた。文字は少し硬かったが、読みやすい。
町外れの小さな工房。
それを見た子どもたちが、壊れた玩具を持って集まってきた。リゼットは一つずつ受け取り、直し方を説明する。エドガルは少し離れた場所で、彼らが作業台に触れすぎないよう見張っていた。
水路の調査は、まだ始まったばかりだった。欠けた帳簿も、声を持たない歯車の行方も、何一つ解決していない。
けれど、修理を待つ道具が棚に並び、帳簿には新しい文字が増えている。
沈黙していた倉庫は、少しずつ人の気配を覚え始めていた。




