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壊れた水門時計が、私たちの約束を鳴らすまで  作者: 銀細工ナギ


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3/20

声を持たない歯車


 水門塔へ戻ると、エドガルは下流から帰ってきたところだった。外套の裾に泥が跳ね、右手には細長い木箱を抱えている。


「何か見つかりましたか」


「排水弁の軸に、交換された跡がある。帳簿に記録された部品とは形が違った」


「こちらも同じです。四十七番の記録が抜けています」


 リゼットは、記録庫で見つけた留め金を机の上に置いた。エドガルはそれを拾い上げ、裏表を確かめる。


「水門時計の部品か」


「おそらく。触れたとき、声を聞きました」


 エドガルの視線が彼女へ向いた。


「何と言っていた」


「返すと約束した。あの人の水門へ、と」


「誰が、いつ、何を返すのかは分からない?」


「分かりません。聞こえたのは、それだけです」


 彼は留め金を机へ戻した。疑い深い目ではあったが、前よりも露骨な警戒はなかった。


「君の力は、壊れた道具なら何でも話すわけではないのだな」


「私にも条件が分かりません。直した直後に聞こえることもあれば、何も聞こえないこともあります」


「では、聞こえた言葉を根拠に人を追及することはできない」


「最初から、そう言っているつもりです」


「つもりでは困る。周囲は、君が聞いた言葉を真実そのものだと思う」


 リゼットは反論しかけて、口を閉じた。前世で壊れた時計を修理したときも、音の変化だけで原因を決めつける職人がいた。異音は手がかりであって、判決ではない。そんな当たり前のことを、彼女自身が忘れかけていた。


 エドガルは木箱の蓋を開いた。


「これを見てくれ。旧式の主歯車だ。下流の倉庫に放置されていた」


 中には、黒ずんだ鉄の歯車が一枚入っていた。歯の先は摩耗し、中央の軸穴には細かなひびが走っている。表面には水垢と油が固まり、長い間、湿った場所に置かれていたことが分かった。


「水門時計のものですか」


「刻印は一致する。昨年の交換品として記録された番号だ」


 リゼットは歯車を持ち上げた。ずしりと重い。鉄の冷たさが掌に伝わり、ひびの奥に残った砂が指先へ付いた。


「洗浄して、軸穴を整えます。歯は削り直さず、欠けた部分を補強する方がいいでしょう」


「直せるのか」


「動かすだけなら。元の精度まで戻せるかは、内部を見てからです」


 彼女は作業台を拭き、灯りを近づけた。細いブラシで水垢を落とし、油を溶かす薬液を布に含ませる。歯車は少しずつ本来の色を取り戻した。黒鉄の表面に、製造時の細かな筋が浮かび上がってくる。


 エドガルは向かいの机に帳簿を広げた。リゼットが作業をする間、彼は黙って記録を写し取っている。紙をめくる音と、ブラシが金属を擦る音だけが室内に続いた。


「その歯車は、交換された日付が空欄です」


「納品書には?」


「納品された記録はある。取り付けた記録だけがない」


「なら、取り付けられなかったのかもしれません」


「あるいは、取り付けたことを記録できなかった」


 リゼットは歯車の中央へ細い鑢を当てた。軸穴の縁にできた歪みを、少しずつ削っていく。急げば穴が広がり、歯車は使い物にならなくなる。金属の抵抗を指先で読みながら、呼吸を整えた。


 やがて歯車は、軸に滑らかに通るようになった。


 その瞬間、耳の奥で何かが弾けた。


 リゼットは待った。


 いつものように、短い声が聞こえるはずだった。誰かの願い、果たされなかった約束、道具に残った最後の言葉。


 だが、何も起こらなかった。


 静かだった。


 風の音も、雨だれの音も遠のき、歯車だけが掌の中にあった。冷たい鉄は、沈黙したままだった。


「どうした」


「……何も聞こえません」


 エドガルは立ち上がらなかった。ただ、帳簿から目を上げ、彼女の顔を見た。


「修復には成功したのか」


「回転はします。軸との噛み合わせも問題ありません」


「では、失敗ではない」


「けれど、声がない」


「声が聞こえないことと、修理に失敗したことは別だろう」


 その言葉は淡々としていたが、リゼットの胸に重く残った。


「あなたは、私の話を信じていないのですか」


「信じる、信じないで調査を進めるつもりはない」


 エドガルは帳簿を閉じた。


「君が聞いた声は手がかりとして記録する。だが、それだけで人を裁かない。聞こえなかったからといって、君の仕事を否定もしない」


 リゼットは歯車を見つめた。前世では、直した機械が音を立てずに動けば、それだけで十分だった。誰かの記憶を聞く力などなかった。今になって授かった不思議な能力を、いつの間にか修理の成否と結びつけていたらしい。


「……便利な力ではありませんね」


「便利な力など、現場ではたいてい厄介だ」


「監督官らしい意見です」


「君も職人らしい顔をしている」


 リゼットはわずかに笑った。歯車を作業台の上で回す。金属は滑らかに回転し、軸に触れるたび、かすかな音を返した。


 その音には、約束も秘密もなかった。ただ、正しく組み合わされた部品が、正しく働く音だった。


「現場を測り直しましょう」


 リゼットは地図を引き寄せた。


「声の残っていない部品が、どこで使われていたのか。水路の勾配と、交換された部品の寸法を照合します。帳簿が欠けていても、現場には跡が残るはずです」


 エドガルは地図の上に定規を置いた。


「同意する。下流の排水弁から始めよう」


「雨がまた降るかもしれません」


「だから急ぐ」


 二人は作業台を片づけ、測量道具を選んだ。リゼットは声を持たない歯車を布で包み、木箱へ戻した。


 沈黙する道具は、何も教えてくれない。


 それでも、動き方と傷と置かれた場所は、確かに何かを語っていた。リゼットはその無言の証言を読み取るため、エドガルとともに水路へ向かった。

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