声を持たない歯車
水門塔へ戻ると、エドガルは下流から帰ってきたところだった。外套の裾に泥が跳ね、右手には細長い木箱を抱えている。
「何か見つかりましたか」
「排水弁の軸に、交換された跡がある。帳簿に記録された部品とは形が違った」
「こちらも同じです。四十七番の記録が抜けています」
リゼットは、記録庫で見つけた留め金を机の上に置いた。エドガルはそれを拾い上げ、裏表を確かめる。
「水門時計の部品か」
「おそらく。触れたとき、声を聞きました」
エドガルの視線が彼女へ向いた。
「何と言っていた」
「返すと約束した。あの人の水門へ、と」
「誰が、いつ、何を返すのかは分からない?」
「分かりません。聞こえたのは、それだけです」
彼は留め金を机へ戻した。疑い深い目ではあったが、前よりも露骨な警戒はなかった。
「君の力は、壊れた道具なら何でも話すわけではないのだな」
「私にも条件が分かりません。直した直後に聞こえることもあれば、何も聞こえないこともあります」
「では、聞こえた言葉を根拠に人を追及することはできない」
「最初から、そう言っているつもりです」
「つもりでは困る。周囲は、君が聞いた言葉を真実そのものだと思う」
リゼットは反論しかけて、口を閉じた。前世で壊れた時計を修理したときも、音の変化だけで原因を決めつける職人がいた。異音は手がかりであって、判決ではない。そんな当たり前のことを、彼女自身が忘れかけていた。
エドガルは木箱の蓋を開いた。
「これを見てくれ。旧式の主歯車だ。下流の倉庫に放置されていた」
中には、黒ずんだ鉄の歯車が一枚入っていた。歯の先は摩耗し、中央の軸穴には細かなひびが走っている。表面には水垢と油が固まり、長い間、湿った場所に置かれていたことが分かった。
「水門時計のものですか」
「刻印は一致する。昨年の交換品として記録された番号だ」
リゼットは歯車を持ち上げた。ずしりと重い。鉄の冷たさが掌に伝わり、ひびの奥に残った砂が指先へ付いた。
「洗浄して、軸穴を整えます。歯は削り直さず、欠けた部分を補強する方がいいでしょう」
「直せるのか」
「動かすだけなら。元の精度まで戻せるかは、内部を見てからです」
彼女は作業台を拭き、灯りを近づけた。細いブラシで水垢を落とし、油を溶かす薬液を布に含ませる。歯車は少しずつ本来の色を取り戻した。黒鉄の表面に、製造時の細かな筋が浮かび上がってくる。
エドガルは向かいの机に帳簿を広げた。リゼットが作業をする間、彼は黙って記録を写し取っている。紙をめくる音と、ブラシが金属を擦る音だけが室内に続いた。
「その歯車は、交換された日付が空欄です」
「納品書には?」
「納品された記録はある。取り付けた記録だけがない」
「なら、取り付けられなかったのかもしれません」
「あるいは、取り付けたことを記録できなかった」
リゼットは歯車の中央へ細い鑢を当てた。軸穴の縁にできた歪みを、少しずつ削っていく。急げば穴が広がり、歯車は使い物にならなくなる。金属の抵抗を指先で読みながら、呼吸を整えた。
やがて歯車は、軸に滑らかに通るようになった。
その瞬間、耳の奥で何かが弾けた。
リゼットは待った。
いつものように、短い声が聞こえるはずだった。誰かの願い、果たされなかった約束、道具に残った最後の言葉。
だが、何も起こらなかった。
静かだった。
風の音も、雨だれの音も遠のき、歯車だけが掌の中にあった。冷たい鉄は、沈黙したままだった。
「どうした」
「……何も聞こえません」
エドガルは立ち上がらなかった。ただ、帳簿から目を上げ、彼女の顔を見た。
「修復には成功したのか」
「回転はします。軸との噛み合わせも問題ありません」
「では、失敗ではない」
「けれど、声がない」
「声が聞こえないことと、修理に失敗したことは別だろう」
その言葉は淡々としていたが、リゼットの胸に重く残った。
「あなたは、私の話を信じていないのですか」
「信じる、信じないで調査を進めるつもりはない」
エドガルは帳簿を閉じた。
「君が聞いた声は手がかりとして記録する。だが、それだけで人を裁かない。聞こえなかったからといって、君の仕事を否定もしない」
リゼットは歯車を見つめた。前世では、直した機械が音を立てずに動けば、それだけで十分だった。誰かの記憶を聞く力などなかった。今になって授かった不思議な能力を、いつの間にか修理の成否と結びつけていたらしい。
「……便利な力ではありませんね」
「便利な力など、現場ではたいてい厄介だ」
「監督官らしい意見です」
「君も職人らしい顔をしている」
リゼットはわずかに笑った。歯車を作業台の上で回す。金属は滑らかに回転し、軸に触れるたび、かすかな音を返した。
その音には、約束も秘密もなかった。ただ、正しく組み合わされた部品が、正しく働く音だった。
「現場を測り直しましょう」
リゼットは地図を引き寄せた。
「声の残っていない部品が、どこで使われていたのか。水路の勾配と、交換された部品の寸法を照合します。帳簿が欠けていても、現場には跡が残るはずです」
エドガルは地図の上に定規を置いた。
「同意する。下流の排水弁から始めよう」
「雨がまた降るかもしれません」
「だから急ぐ」
二人は作業台を片づけ、測量道具を選んだ。リゼットは声を持たない歯車を布で包み、木箱へ戻した。
沈黙する道具は、何も教えてくれない。
それでも、動き方と傷と置かれた場所は、確かに何かを語っていた。リゼットはその無言の証言を読み取るため、エドガルとともに水路へ向かった。




