監督官との臨時契約
翌朝、雨は細くなっていた。
リゼットが水門塔へ着くと、エドガルはすでに制御室の机に向かっていた。濡れた外套を脱ぎ、乾きかけた髪を無造作に束ねている。机の上には昨夜の記録帳と、いくつもの部品が並べられていた。
「遅かったな」
「男爵令嬢には朝食という習慣があります」
「食べてきたのか」
「パンを半分」
「それは朝食ではなく、証拠品だろう」
思いがけない返事に、リゼットは目を瞬いた。エドガルは表情を変えないまま、机の端に置かれた包みを彼女へ押し出した。
「町の食堂からだ。調査員が倒れると困る」
「もう雇う気なのですか」
「まだだ」
包みには、固いパンと塩漬け肉が入っていた。リゼットは礼を言い、パンを一口かじった。味は濃く、昨夜から何も食べていなかった胃に重い。それでも、温かい飲み物まで用意されていたことに、胸の奥がわずかに緩んだ。
エドガルはその様子を見届けると、記録帳を開いた。
「昨夜の水位上昇は、上流の雨量だけでは説明できない。水門時計が示した数値と、実際の水位に差があった」
「時計が遅れていた?」
「逆だ。水位を低く見せるよう、計測の流れが絞られていた」
リゼットは机の部品を手に取った。昨夜、時計の内部から取り外した魔力弁の一部だ。薄い金属板に、細かな傷が幾筋も走っている。
「誰かが流量を調整した跡があります。工具で削ったというより、同じ場所へ何度も力をかけている」
「意図的に壊したのか」
「壊すだけなら、もっと簡単な方法があるでしょう。これは、少しずつ狂わせるための細工です」
エドガルは記録帳の頁をめくった。そこには水門時計の点検日と、交換された部品の番号が記されている。しかし、昨年の秋から冬にかけての頁だけが抜け落ちていた。
「この期間の記録がありません」
「紛失した」
「紛失にしては、綴じ糸が切られていません」
リゼットは帳面の背を指でなぞった。頁は乱暴に破られたのではなく、綴じる前に抜き取られている。誰かが帳簿を作り直す際、そこだけを残さなかったように見えた。
「水利組合の記録庫に、原本があるはずです」
「組合の記録庫は昨日から封鎖されている」
「なぜですか」
「昨夜の異常について、調査が終わるまで部品を動かさないためだ」
「では、今すぐ見に行きましょう」
「契約の話が先だ」
エドガルは一枚の書類を取り出した。粗末な羊皮紙に、臨時調査員としての業務内容が書かれている。水門時計と関連設備の点検、故障原因の調査、必要な修理の提案。期間は三日。報酬は銀貨五枚。
リゼットは金額を見てから、首を横に振った。
「少なすぎます」
「相場の二倍だ」
「男爵令嬢への相場ではなく、修復職人への相場を提示してください」
「君は正式な職人登録をしていない」
「技術に身分証は付きません」
エドガルの眉がわずかに上がった。リゼットは書類の余白を指で叩く。
「銀貨十枚。それから、水門塔の作業場を調査期間中、自由に使わせてください。工具と部品の購入権限も必要です」
「随分と欲張りだな」
「修理には材料が要ります。監督官の命令を待っていては、壊れた箇所が増えるだけです」
「勝手に部品を買われては予算が崩れる」
「なら、購入前に一覧を提出します。ただし、緊急修理は私の判断で行う。昨夜のような事態に、承認を待つ時間はありません」
エドガルは書類を見下ろし、しばらく黙った。
「報酬は銀貨八枚。作業場の使用を認める。部品の購入は、私の確認を受けること」
「緊急時は?」
「事後報告を三時間以内に出せ」
「十枚」
「九枚」
「十枚」
「……分かった」
リゼットはすぐに羽根ペンを取り、条件を書き加えた。エドガルが署名し、最後に彼女も名を書き入れる。リゼット・アーデル。その名を紙に記すのは、借金の督促状以来だった。
契約が成立すると、エドガルは銀章を外して机の上へ置いた。
「これを見せれば、組合の倉庫に入れる」
「監督官自身が同行しないのですか」
「私は別の場所を調べる。昨夜、下流の排水弁にも不自然な傷が見つかった」
「一人で?」
「君は記録庫を見ろ。私は現場を見る」
役割を分ける考え方に、リゼットは少しだけ納得した。互いに同じ場所へ行けば、見落としを増やす。職人だった頃も、機械の異常を一人で決めつけず、電気と構造を別の人間に見せたものだ。
「記録を持ち帰ったら、ここで照合しましょう」
「君は私の判断を信用しているのか」
「記録の照合を信用しています」
「同じことだろう」
「違います」
エドガルは何か言い返そうとしたが、結局やめた。
記録庫は水門塔から東へ歩いた先、組合の事務所の奥にあった。石造りの部屋には木箱が積まれ、湿った紙の匂いがこもっている。銀章を見せると、鍵を持った書記が渋々扉を開けた。
「昨年の水門時計に関する原本を」
リゼットが言うと、書記は棚を指した。
「番号四十から五十二までです」
箱の中には点検表、納品書、修理依頼が整然と収められていた。だが、四十七番だけが空いている。
「この箱に入っていた記録は?」
「知りません。私が担当になったのは今年からです」
リゼットは空いた場所の埃を観察した。箱の底には、紙を置いていた跡が残っている。そこだけ、最近拭われたように埃が薄かった。
さらに棚の奥から、古い部品台帳を見つけた。水門時計の主歯車、魔力弁、警告灯。交換記録には番号が振られているが、四十七番の納品欄だけ、別のインクで書き直されていた。
「この字は誰のものですか」
書記は顔を強張らせた。
「前任の組合長補佐です。もう辞めています」
「どこへ?」
「隣領の工事に雇われたと聞いています」
リゼットは台帳を閉じた。
そのとき、箱の底に転がっていた小さな留め金が目に入った。昨夜、時計の内部で使われていたものと同じ形だ。彼女は布で包み、慎重に持ち上げる。
指先に、かすかな熱が伝わった。
『返すと約束した。あの人の水門へ』
声は短く、すぐに消えた。
リゼットは留め金を見つめた。誰が、誰に、何を返すと約束したのか。声だけでは何も分からない。
けれど、隣領の工事という言葉と、欠けた記録が重なった。
彼女は銀章を握り直し、エドガルの待つ水門塔へ戻る道を急いだ。
臨時契約の初日は、始まったばかりだった。




