↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
壊れた水門時計が、私たちの約束を鳴らすまで  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/20

監督官との臨時契約


 翌朝、雨は細くなっていた。


 リゼットが水門塔へ着くと、エドガルはすでに制御室の机に向かっていた。濡れた外套を脱ぎ、乾きかけた髪を無造作に束ねている。机の上には昨夜の記録帳と、いくつもの部品が並べられていた。


「遅かったな」


「男爵令嬢には朝食という習慣があります」


「食べてきたのか」


「パンを半分」


「それは朝食ではなく、証拠品だろう」


 思いがけない返事に、リゼットは目を瞬いた。エドガルは表情を変えないまま、机の端に置かれた包みを彼女へ押し出した。


「町の食堂からだ。調査員が倒れると困る」


「もう雇う気なのですか」


「まだだ」


 包みには、固いパンと塩漬け肉が入っていた。リゼットは礼を言い、パンを一口かじった。味は濃く、昨夜から何も食べていなかった胃に重い。それでも、温かい飲み物まで用意されていたことに、胸の奥がわずかに緩んだ。


 エドガルはその様子を見届けると、記録帳を開いた。


「昨夜の水位上昇は、上流の雨量だけでは説明できない。水門時計が示した数値と、実際の水位に差があった」


「時計が遅れていた?」


「逆だ。水位を低く見せるよう、計測の流れが絞られていた」


 リゼットは机の部品を手に取った。昨夜、時計の内部から取り外した魔力弁の一部だ。薄い金属板に、細かな傷が幾筋も走っている。


「誰かが流量を調整した跡があります。工具で削ったというより、同じ場所へ何度も力をかけている」


「意図的に壊したのか」


「壊すだけなら、もっと簡単な方法があるでしょう。これは、少しずつ狂わせるための細工です」


 エドガルは記録帳の頁をめくった。そこには水門時計の点検日と、交換された部品の番号が記されている。しかし、昨年の秋から冬にかけての頁だけが抜け落ちていた。


「この期間の記録がありません」


「紛失した」


「紛失にしては、綴じ糸が切られていません」


 リゼットは帳面の背を指でなぞった。頁は乱暴に破られたのではなく、綴じる前に抜き取られている。誰かが帳簿を作り直す際、そこだけを残さなかったように見えた。


「水利組合の記録庫に、原本があるはずです」


「組合の記録庫は昨日から封鎖されている」


「なぜですか」


「昨夜の異常について、調査が終わるまで部品を動かさないためだ」


「では、今すぐ見に行きましょう」


「契約の話が先だ」


 エドガルは一枚の書類を取り出した。粗末な羊皮紙に、臨時調査員としての業務内容が書かれている。水門時計と関連設備の点検、故障原因の調査、必要な修理の提案。期間は三日。報酬は銀貨五枚。


 リゼットは金額を見てから、首を横に振った。


「少なすぎます」


「相場の二倍だ」


「男爵令嬢への相場ではなく、修復職人への相場を提示してください」


「君は正式な職人登録をしていない」


「技術に身分証は付きません」


 エドガルの眉がわずかに上がった。リゼットは書類の余白を指で叩く。


「銀貨十枚。それから、水門塔の作業場を調査期間中、自由に使わせてください。工具と部品の購入権限も必要です」


「随分と欲張りだな」


「修理には材料が要ります。監督官の命令を待っていては、壊れた箇所が増えるだけです」


「勝手に部品を買われては予算が崩れる」


「なら、購入前に一覧を提出します。ただし、緊急修理は私の判断で行う。昨夜のような事態に、承認を待つ時間はありません」


 エドガルは書類を見下ろし、しばらく黙った。


「報酬は銀貨八枚。作業場の使用を認める。部品の購入は、私の確認を受けること」


「緊急時は?」


「事後報告を三時間以内に出せ」


「十枚」


「九枚」


「十枚」


「……分かった」


 リゼットはすぐに羽根ペンを取り、条件を書き加えた。エドガルが署名し、最後に彼女も名を書き入れる。リゼット・アーデル。その名を紙に記すのは、借金の督促状以来だった。


 契約が成立すると、エドガルは銀章を外して机の上へ置いた。


「これを見せれば、組合の倉庫に入れる」


「監督官自身が同行しないのですか」


「私は別の場所を調べる。昨夜、下流の排水弁にも不自然な傷が見つかった」


「一人で?」


「君は記録庫を見ろ。私は現場を見る」


 役割を分ける考え方に、リゼットは少しだけ納得した。互いに同じ場所へ行けば、見落としを増やす。職人だった頃も、機械の異常を一人で決めつけず、電気と構造を別の人間に見せたものだ。


「記録を持ち帰ったら、ここで照合しましょう」


「君は私の判断を信用しているのか」


「記録の照合を信用しています」


「同じことだろう」


「違います」


 エドガルは何か言い返そうとしたが、結局やめた。


 記録庫は水門塔から東へ歩いた先、組合の事務所の奥にあった。石造りの部屋には木箱が積まれ、湿った紙の匂いがこもっている。銀章を見せると、鍵を持った書記が渋々扉を開けた。


「昨年の水門時計に関する原本を」


 リゼットが言うと、書記は棚を指した。


「番号四十から五十二までです」


 箱の中には点検表、納品書、修理依頼が整然と収められていた。だが、四十七番だけが空いている。


「この箱に入っていた記録は?」


「知りません。私が担当になったのは今年からです」


 リゼットは空いた場所の埃を観察した。箱の底には、紙を置いていた跡が残っている。そこだけ、最近拭われたように埃が薄かった。


 さらに棚の奥から、古い部品台帳を見つけた。水門時計の主歯車、魔力弁、警告灯。交換記録には番号が振られているが、四十七番の納品欄だけ、別のインクで書き直されていた。


「この字は誰のものですか」


 書記は顔を強張らせた。


「前任の組合長補佐です。もう辞めています」


「どこへ?」


「隣領の工事に雇われたと聞いています」


 リゼットは台帳を閉じた。


 そのとき、箱の底に転がっていた小さな留め金が目に入った。昨夜、時計の内部で使われていたものと同じ形だ。彼女は布で包み、慎重に持ち上げる。


 指先に、かすかな熱が伝わった。


『返すと約束した。あの人の水門へ』


 声は短く、すぐに消えた。


 リゼットは留め金を見つめた。誰が、誰に、何を返すと約束したのか。声だけでは何も分からない。


 けれど、隣領の工事という言葉と、欠けた記録が重なった。


 彼女は銀章を握り直し、エドガルの待つ水門塔へ戻る道を急いだ。


 臨時契約の初日は、始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。