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第五話 帰る約束

その晩、悠は何の夢も見なかった。


 次の晩も、その次の晩も見なかった。

 目覚ましが鳴ると、布団はいつも片側へ寄っていた。母に呼ばれて起き、顔を洗い、パンを食べる。眠っている間に、どこかへ行った感じはしなかった。


 古賀から届いた二つの質問には、母と一緒に答えた。新しく話した言葉はありますか、という問いには、ありません、と書いた。


「なくていいんだよ」


 母が言った。

 悠は、まだ何も言っていなかった。


「わかってる」


 それでも寝る前には、舟の男を思い浮かべた。濡れた袖と、足元の水。笑うと見えた、欠けた歯。


 何度も思い出していると、夢で見たものなのか、あとから自分で足したものなのか、わからなくなってきた。

 木曜日には、男の顔を描いてみた。

 髭を描くだけでは、誰の顔も同じに見えた。消して描き直すほど、あの男から遠ざかっていった。

 最後は紙を裏返し、算数の計算に使った。



     *



 夢を見たのは、日曜日の明け方だった。


 そこは舟ではなく、天井の低い部屋だった。

 どこかで油が燃えていた。小さな明かりが揺れ、人の影が壁を上がったり下がったりした。


 女の人が、何かを話していた。

 同じことを、何度も。


 悠は女の人の前に座っていた。膝に載っている小さな手は、その人に抱かれた子供のものだった。

 爪に黒い土が入り、親指の付け根には浅い傷があった。


 呼ばなければならない。


 名前も、呼べばこちらを向く顔も知っていた。悠は口を開いた。


 女の人が、悠の腕をつかんだ。

 爪が食い込んだ。


 もう一度。


 そう言っていた。


 悠は小さな手を包んだ。どうすればいいのかわからなかった。

 以前は、わかっていたはずなのに。


 女の人は、まだ腕を離さなかった。



     *



「悠。ここ、わかる?」


 明かりのついた部屋に、母がいた。

 悠は布団の上で、何かを包むように両手を重ねて座っていた。


「家」


 答えると、母は大きく息を吐いた。

 右手に携帯電話を持っていた。


「録った?」

「途中から。呼んでも、すぐには起きなかったから」


 悠は自分の腕を見た。爪の跡はなかったが、袖をまくり、裏側まで確かめた。


「痛いの?」

「今は、痛くない」


 母は携帯電話を置き、両腕を見てくれた。

 何もなかった。


「聞く?」


 悠はうなずいた。

 あとにしたら、聞くのがますます怖くなりそうだった。


 録音は二十三秒だった。

 初めに布団の擦れる音が入り、母の声がした。


『悠』


 そのあと、自分の声が聞こえた。

 思っていたより高い声だった。

 知らない言葉を話すときは、夢の中の大人の声になるのかもしれない。そんなふうに思っていたが、聞こえてきたのは自分の声だった。学校の発表の録画を見るときと同じで、普段の自分とは少し違って聞こえた。


 同じ音を二度、繰り返していた。

 母に呼ばれ、また何か言った。

 そこで止まった。


「何て言ってた?」


 母が聞いた。


「わかんない」


 もう一度聞いても、意味はわからなかった。ただ、何かに困っている声だということだけは伝わってきた。


「あの人じゃなかった」

「舟の人?」


 うなずいた。


「女の人がいて、子供がいて」


 悠は膝に載っていた小さな手を思い出した。夢の中の自分の手で、すっぽり包める大きさだった。


「病気だったのかもしれない」


 母は待っていた。

 悠はそこで話すのをやめた。


「先生に、送っていい?」


 少し考えてから、うなずいた。


「何て言ってるか、知りたい」


 母は録音に、十一月一日、と日付をつけた。画面に並んだ数字は、学校へ出す書類のようだった。


「病院でも、こういうことがあったって話そうね」


 悠はもう一度うなずき、布団に横になった。

 まだ外は暗かった。

 母は部屋の明かりを小さくした。


 目を閉じると、女の人の指が浮かんだ。

 悠は目を開けた。

 今度は、朝まで起きていたかった。



     *



 古賀から届いた返事は短かった。

 確かに受け取りました。少し時間をください。


 母に見せてもらった返事を、悠は読んだ。古賀にも、すぐに意味がわかるわけではないらしかった。


 月曜日の給食の時間、悠は牛乳を半分残した。

 眠くて、パンを飲み込むのにも時間がかかった。


「いらないの?」


 蓮が聞いた。


「眠い」

「昨日、何時までやってた?」

「ゲームしてない」


 蓮は牛乳から手を引っ込めた。


「また夢?」


 小声になった。

 悠はうなずいた。


「舟の?」

「違う」


 悠は話を切って牛乳を飲んだ。蓮はそれ以上聞かず、机の端にある図書館の本を指した。


「読み終わった?」

「あと、ちょっと」

「それ、木曜に返すから」


 悠は本を見た。

 半分より少し先に、紙を挟んでいた。


「返す前にお前も読むんでしょ」

「もう読んだ」

「いつ?」

「学校に置いてった日あったじゃん。持って帰っていいって言っただろ」


 そういえば、そんな日があった。蓮はその日に本を持ち帰り、翌朝には悠の机へ戻していた。


「読むの速すぎ」

「お前が遅い」


 蓮は牛乳を飲み干した。


「木曜、図書館行こうぜ。三巻あれば借りればいいし」


 悠は本の残りを指で挟んだ。

 薄かった。


「うん」


 読み終わることなら、できそうだった。



     *



 木曜日は、朝から雨が降ったりやんだりしていた。


 学校が終わるころにはやんでいたが、雲はまだ低かった。図書館へ行く前に、二人はそれぞれ家へ戻った。

 母はまだ仕事から帰っていなかった。

 悠は行き先と、五時までに帰ることを紙に書き、食卓へ置いた。朝も伝えていたが、留守の間に出かけるときは書き置きをする決まりだった。


 借りた本は、台所にあった袋に入れた。

 外へ出ると、蓮が門のところで待っていた。


「歩き?」

「道、濡れてるし」


 蓮は長い傘を持っていた。悠も玄関へ戻り、傘を取った。


 図書館まで二十分ほどだった。

 途中、蓮が本の最後の話をしそうになり、悠は止めた。


「まだ二ページ残ってる」

「そこまで読んだら読めよ」

「お前が来たから」


 蓮は、じゃあ言わない、と言った。

 そう言ったのに、蓮はそのあとも二回、続きを話しかけた。


 商店街の入口で、悠は袋の中を確かめた。

 本は濡れていなかった。

 自分の図書館のカードもあった。三巻があれば、今日は自分で借りられる。


 信号の向こうに、赤い郵便ポストが見えた。

 蓮がボタンを押した。


「帰り、あっちの道にしよう」

「なんで」

「工事、終わったから」


 川沿いの道のことだった。

 少し遠回りになるが、歩道が広かった。


「五時までだよ」

「間に合うって」


 歩行者の信号が青になった。

 蓮が一歩先に出た。

 悠は本の袋を持ち直した。


 大きな音がした。


 近くでシャッターが落ちたのかと思った。

 蓮の傘が手を離れ、黒い車の前で一度跳ねた。


 悠は立ち止まった。

 信号はまだ青だった。


 車のドアが開いた。

 誰かが走った。


 蓮が、横断歩道の先に倒れていた。



     *



 悠は名前を呼んだ。

 返事がなかったので、もう一度呼んだ。


 蓮の靴が片方なかった。

 靴下の踵が、濡れた地面についていた。

 悠はそのそばにしゃがみ、本の袋を置いた。


「蓮」


 顔の横に、小さな石があった。

 目は閉じていた。


「蓮、起きて」


 肩に触れようとしたとき、大人の手が悠の腕を止めた。


「動かさないで。今、救急車呼んでるから」


 知らない女性だった。店のエプロンをつけ、片手に電話を持っていた。

 悠は立たされ、少し離れたところへ移された。


「一緒にいた子?」


 うなずいた。


「お名前わかる?」

「高橋蓮」


 女の人は電話の相手にそれを伝えた。

 別の男の人が蓮のそばに膝をつき、声をかけていた。


 車から出てきた人が、同じ言葉を繰り返していた。日本語なのに、悠には意味が入ってこなかった。


 雨が、また降り始めた。


 蓮の傘を拾わなければ。そう思って探すと、車の向こうで骨が曲がっていた。

 母に何と言えばいいのだろう。

 五時までには帰ると書いてきた。


 女の人が、悠の背中をさすっていた。


「君のおうちに、連絡できる?」


 悠はうなずいた。何度も押した番号なのに、最初の三つを言うと、その先が出てこなかった。


「大丈夫。あとでいいよ」


 サイレンが聞こえた。

 まだ遠かった。



     *



 救急隊の人が来ると、蓮の周りに物が増えた。


 鞄。

 畳まれた器具。

 透明な袋。


 手がいくつも動いていた。

 悠は店の軒先から、その間に見える蓮の顔を探した。


 隊員の一人に、一緒にいたことと、名前を伝えた。

 いつもの呼び方も聞かれた。


「蓮です」


 それしかなかった。


 隊員が蓮を呼んだ。

 母でも父でも先生でもない人が、その名前を大きな声で呼んだ。

 返事はなかった。


 悠は軒先から出た。

 女の人が傘を差しかけてくれたが、気づかなかった。


 蓮の右手が見えていた。

 その手で、さっきまで図書館の本を指していた。あと二ページ残っていると言ったら、蓮は呆れていた。


「あっちから帰るんだろ」


 声は小さくしか出なかった。


「工事、終わったって」


 隊員がこちらを見た。


「そこから声かけてあげて。今、運ぶ準備をしてるから」


 悠はうなずいた。

 少しだけ近くへ寄った。


 足に触れた本の袋には、いつの間にか水がたまっていた。


 蓮の指先がすぐそこにあった。

 悠は、その指に触れた。


 低い天井が見えた。


 明かりが揺れ、女の人が腕をつかんでいた。

 もう一度、と言っていた。


 悠は強く目を閉じた。


 そっちへ行きたくなかった。

 今は、蓮がいた。


「帰るんだよ」


 口が動いた。

 自分には、そう言ったつもりだった。


「一緒に帰るって」


 腕を支えられた。

 隊員の手だった。


「少し下がって」


 悠は手を離した。

 そのとき、蓮の指が動いた。


 手を離した拍子に引っかけたのだと思った。けれど、もう触れていないのに、蓮の指がまた動いた。


 隊員が蓮の顔へかがみ込み、さっきとは違う声でもう一人を呼んだ。


 蓮の目が、細く開いた。


「蓮」


 悠は前へ出ようとして、止められた。

 蓮の唇が動いた。

 声はほとんど聞こえなかった。


「聞こえる? 名前、言える?」


 隊員が尋ねた。

 蓮は目を閉じかけ、また開けた。


「たかはし」


 悠は息を吸った。

 吸ってから、それまでうまく息をしていなかったと気づいた。


 隊員たちは手を止めず、蓮の様子を確かめながら、短く言葉を交わしていた。運ぶ準備が進み、悠は言われた場所まで下がった。


 担架が持ち上がる直前、蓮の目がこちらを向いた。


「ゆう」


 今度は、聞こえた。


「いるよ」


 悠は言った。


「ここにいる」



     *



 蓮が救急車に乗せられたあとも、悠は本の袋を持って立っていた。


 母の電話番号は、今度は思い出せた。エプロンの女性が電話をかけてくれ、迎えに来るという言葉が聞こえた。


 救急車の扉が閉まった。

 悠は袋の口を広げた。

 本の角が少し濡れていた。


 怒られると思った。


 蓮に。


 そう思った途端、膝から力が抜けた。

 女の人が電話を持ったまま、支えてくれた。


 向かいの歩道に、人が何人も立っていた。

 そのうちの一人が、こちらに向けていた携帯電話を下ろした。

 悠はそれを見ていたが、何も考えられなかった。


 ただ、さっき握った指の感触を、忘れないようにしていた。

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