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第四話 返事が聞こえる

画面の向こうで、知らない男の人が本を落とした。


 机の端に積まれていた本が、まとめて横へ滑り落ちた。拾おうとしたらしく、男の人も画面から消えた。


「すみません。聞こえてますか」


 人のいなくなった画面から声だけが聞こえた。悠が母を見ると、口元が少し緩んでいた。


「はい。聞こえてます」


 母が答えると、男の人は本を三冊抱えて戻ってきた。


「よかった。接続が切れたかと思いました」


 本を落としたことより接続を心配しているのが、おかしかった。悠は、膝の上で握りしめていた手を少し緩めた。


 日曜日の午後だった。

 男の名前は古賀直人。図書館を通じて返事をくれた研究者で、母とのメールのやり取りのあと、三十分だけ画面越しに話すことになった。

 悠は、大学の先生なら白衣か背広を着ていると思っていた。

 古賀は灰色のパーカーを着ていた。後ろの棚には本が横にも積んであり、どれかを抜いたらまた落ちそうだった。


「三浦さんですね。古賀です」


 母が挨拶をした。

 悠も頭を下げかけた。画面の中の自分が少し遅れて動くのが気になり、中途半端なところで顔を上げた。


「悠くん、と呼んでいいですか」


 悠がうなずくと、古賀は紙を取り上げた。あの文字が印刷されていた。

 自分の書いた紙の写しが、知らない部屋まで届いていた。


「これを書いたときのことを、少し聞かせてもらってもいいかな」



     *



 質問は、思っていたより普通だった。


 何に書いたか。

 何で書いたか。

 どちらの端から書いたか。


「鉛筆は、自分の?」

「蓮のです」

「蓮くんというのは?」

「友達。間違って僕の筆箱に入ってて」


 古賀はうなずいた。


「鉛筆も関係あるんですか」


 母が聞くと、古賀は少し驚いた顔をした。


「いえ。すみません。書いたときの順番を知りたくて」


 母も少し恥ずかしそうだった。鉛筆までおかしくなっていたら蓮に怒られる、と悠は思った。


「右から書いたんだね」

「はい」

「普段は?」

「左です。縦のときは上」


 古賀は笑わずにメモをした。

 当たり前のことを答えても、ちゃんと書く人だった。


「そのとき、書きたいことがあった?」


 悠は母を見た。

 母は答えず、待っていた。


「水をください、って」


 古賀のペンが、ほんの一瞬止まった。悠はそれを見逃さなかった。


「書いているときに、そう思った?」

「はい」

「書いたあとでそう思ったのではなくて?」


 悠は少し考えた。

 思い出そうとしても、浮かぶのは書き終わった紙ばかりだった。書いているときの指の感覚は、もうぼんやりしていた。


「書いてるとき、だと思います」


 古賀は、今度は長くメモをした。


「今も読める?」

「読めないです」

「うん。ありがとう」


 もう一回書いて、とは言われなかった。

 悠は机の脇の鉛筆を見た。母に用意されたのではなく、自分で出しておいたものだった。


「書いたほうがいいですか」


 古賀は首を振った。


「今、書きたいことがある?」

「ないです」

「それなら、今はいいよ」


 悠は鉛筆を、少し向こうへ押した。



     *



 元になる本は、まだ見つかっていなかった。


 古賀は、調べた範囲では同じ一行が見つからなかったと話した。ただ、すべての資料を確かめたわけではないという。


「アラム語という言葉を、聞いたことはありますか」


 母に向けた質問だった。

 母は首を振った。

 悠も知らなかった。


「その周辺の文字や言葉と比べています。ただ、今は候補です。字形にも気になるところがあって、まだ、これだとは言えません」


 古賀は説明をしながら、指で紙の一部分を隠した。


「ここを水と読めるかもしれないと言ったのも、ほかの部分とのつながりを確認する必要があります」

「水をください、と読めるわけではないんですね」

「現時点では、そこまでは」


 母はうなずいた。

 悠はその横顔を見た。母がほっとしたのか、がっかりしたのか、わからなかった。


「どこの国の言葉ですか」


 悠が聞くと、古賀は紙を下ろした。


「長い間、いろいろな地域で使われてきた言葉なんだ。僕が主に調べているのは、昔のものだけど」

「昔って、江戸時代くらい?」

「もっと前のものも扱うよ」


 古賀は後ろの棚に手を伸ばしかけ、やめた。


「地図があれば説明しやすいんだけど。今度、わかりやすいものを用意するね」


 今日、何の字かわかれば終わるかもしれないと思っていた。どうやら、話はまだ続くらしかった。


 母が時計を見た。

 約束した三十分まで、あと五分だった。


「今日は、ありがとうございました」


 母が言いかけて、悠は袖に触れた。


「夢の人も、その言葉かもしれない」


 古賀が姿勢を変え、画面の顔が近づいた。悠は、言わなければよかったと思った。


「夢の人?」


 母が横から説明しようとして、口を閉じた。

 悠は画面の下のほうを見た。


「舟に、男の人がいて」


 話し始めると、舟の濡れた内側や、笑う男の首筋が、前よりはっきり浮かんだ。


「その人がしゃべってるのは、わかったんです。でも、起きたらわかんなくなって」


 古賀は紙を置いた。


「どんなことを話していたか、覚えてる?」

「何か、失敗してて」

「うん」

「おかしかった」


 それ以上は思い出せなかった。けれど、古賀が待っているので、悠は何か言おうとした。


「網」


 口にしてから、悠ははっとした。網のことを思い出したのは、今が初めてだった。

 男の太い指に、細い紐がかかっている。強く引くと結び目が締まり、男が顔をしかめた。


「ほどけなくなって」


 悠の右手が動いた。

 親指と人差し指で、何もないところをつまんだ。

 引いてはいけなかった。

 先に、こちらを緩める。


 言葉が出た。


 短い言葉に、古賀の表情が固まった。母がこちらを向いた。


 悠は手を下ろした。


「ごめんなさい」


 古賀が何か言いかけたのと、母が「悠」と呼んだのが重なった。


「大丈夫?」


 母の手が肩に触れた。

 いつもの部屋だった。舟は見えず、机にはさっき向こうへ押した鉛筆があった。


「うん」


 画面の向こうで、古賀がペンを置いた。


「今、何て言おうとした?」


 悠は自分の指を見た。


「引っ張るな、って」


 古賀は何も言わなかった。

 今度は、メモもしなかった。


「わかりました?」


 母が聞いた。


「一部、聞き覚えのある音がありました。ただ、聞き取れたと言い切れるほどではありません」


 古賀は言い終えてから、悠を見た。


「今の言葉を、もう一度……」


 母の手が、肩で少し強くなった。

 古賀は途中でやめた。


「すみません。今日はここまでにしましょう」


 悠はうなずいた。

 どうして自分は謝ったのだろう。何も悪いことはしていないはずだった。



     *



 通話が終わると、母は窓を開けた。

 冷たい空気が入ってきた。どこかで洗車をしているらしく、水の音が続いていた。


「疲れた?」

「ちょっと」


 悠は椅子から下りて、床に座った。

 母も隣に腰を下ろした。食卓の椅子が二つとも空いているのが変だった。


「さっき、止めてほしかった?」


 母が聞いた。

 悠は膝を抱えた。


「わかんない」


 男の話をしたくなったのは、自分だ。古賀が黙ってしまったときは怖かったが、言葉が通じたかもしれないのは嬉しかった。


「次、やめたくなったら、言わなくてもいいから手を上げて。お母さんが切る」


 母は片手を上げた。

 学校で発表するときみたいだった。


「答えわかったと思われるじゃん」


 母は手を下ろした。


「じゃあ、袖を引っ張って」


 悠は母の袖を引いた。


「そう。それ」


 もう一度引くと、母が笑った。

 悠も少し笑った。


 しばらく座ってから、母が台所へ立った。

 湯を沸かす音がした。悠の前に、薄いココアが置かれた。


「粉、少なくない?」

「最後だった」


 母は自分の分にはお茶を入れた。

 悠はココアを飲んだ。薄くても、飲むと甘かった。



     *



 月曜日、蓮は体育の着替えの途中で、シャツに頭を引っかけた。


「これ、縮んだ」

「裏返しだよ」

「裏返しでも穴の大きさ一緒だろ」


 悠が裾を引くと、ようやく顔が出た。

 髪が全部上を向いていた。

 悠は笑い、蓮は文句を言いながら着直した。


 帰り道で、悠は昨日の通話のことを話した。大学の先生にも、まだ全部はわからないのだと伝えた。


「外国語だった?」

「かもしれないって」

「何語?」

「アラム語」


 蓮は二度、声に出した。


「知らねえ」

「僕も」


 蓮は足元の小石を蹴った。小石は排水溝の手前で止まった。


「でも、ゲームの字じゃなかったんだ」

「まだ、わかんない」

「その先生が知らないゲームかもしんないしな」


 悠はうなずいた。

 そんなことを言ってくれるのが、蓮だけになってしまうのは嫌だと思った。


 蓮の家の前で、父親が荷台のシートを畳んでいた。

 広げた青いシートに、端を持つ父親の体が半分隠れていた。


「おかえり。二人とも、そっち持ってくれ」


 ランドセルを下ろし、二人で端を持った。

 風が入り、シートが膨らんだ。蓮が押さえようとして、逆に頭からかぶった。


「おい。中に入るな」


 父親が笑った。

 悠も笑った。さっきのシャツみたいだった。


 シートを畳み終えると、父親が荷台の紐をまとめ始めた。

 悠の手が止まった。


 引けば、締まる。


 その感じが指に戻りかけて、悠は手をポケットに入れた。

 父親は普通に結び目をほどき、紐を巻いた。

 何も起きなかった。


「悠くん、もう体はいいのか」

「はい」

「無理すんなよ。蓮、ランドセル踏むぞ」


 蓮が慌てて足をよけた。

 悠はポケットから手を出し、自分のランドセルを拾った。



     *



 その日の夜、古賀からメールが来た。


 メールは、昨日、言葉を繰り返させようとしたことへの謝罪から始まっていた。

 通話のあとに書いたメモも添えられていた。録音はしていないので、聞き取り違いがあるかもしれないという。


 母が添付を開くと、メモを撮った写真が現れた。細かい字に何本も線が引かれている。

 一番上には、昨日話していた時刻が記されていた。


 悠の名前のかわりに、「話者」と書いてあった。


「わしゃ?」

「話した人、ってこと」


 母が答えた。

 悠は続きを見た。

 知らない記号の横に、日本語が添えてあった。


 否定。禁止?

 引く、引き寄せる?


 少し離れたところに、別のペンで文章が書き足されていた。


 本人の説明「引っ張るな」。


 悠は二つを見比べた。

 意味は似ていた。ただ、自分の説明を聞いてから書いた可能性もあるのだと思った。


 母がメールの続きへ戻った。


『まだ言語を特定できたわけではありません。ただ、文字とは別に、声についても検討したいと思いました。もし今後、自然に言葉が出て、ご本人が記録を嫌がらなければ、お聞かせいただけますか。再現しようと頑張る必要はありません。』


「録るの?」


 悠が聞くと、母は携帯電話を置いた。


「悠が嫌なら、録らない」


 悠は考えた。

 録っておけば、自分が何を言ったのか、誰かに尋ねずに確かめられる。

 でも、自分の声なのに、聞いてもわからなかったら。どんな気持ちになるのだろう。


「録ったら、最初に僕にも聞かせて」

「うん」

「送る前に」

「わかった」


 母は返事を書き始めた。

 悠は横から、古賀のメモをもう一度見た。

 自分の知らない音の隣に、知っている言葉が書かれていた。


「この先生、夢の人とも話せるのかな」


 母の指が止まった。


「夢の中の?」

「うん」


 舟の男を思い出した。

 顔はまだぼんやりしていたが、笑ったときの声は、少し戻ってきていた。


「何を言ってたか、聞いてみたい?」


 悠はうなずいた。

 母は画面に戻り、続きを打った。


 そのあと、悠は歯を磨いて布団に入った。

 枕元には水があった。母の携帯電話は隣の部屋にあった。


 夢を見ないように、と願っていたのは、つい先週のことだった。


 悠は目を閉じた。

 今夜は少しだけ、舟に乗れたらいいと思った。

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