第三話 紙の向こう
母は、聞き返さなかった。
悠の背中に手を置いたまま、話し終えるのを待っていた。
悠は名前を呼ぶつもりだった。けれど、口からはその先の言葉まで出てきた。誰かを呼び止め、何かを尋ねている。
明かりのついた部屋で自分の声を聞きながら、悠は母の顔を見た。
言葉が止まった。
母は笑っても、怒ってもいなかった。悠が熱を出し、体温計の数字を見る前の顔に似ていた。
「お母さん」
今度は普通に言えた。
「うん」
「今の、わかった?」
母はゆっくり首を振った。
「悠は、わかった?」
名前を呼んだことは覚えていた。そのあと、何を尋ねたのだろう。
「もう、わかんない」
母は枕元のコップを取った。水はほとんど残っていなかった。
「入れてくるね」
悠が腕をつかむと、母はすぐに座り直した。
「あとにしようか」
悠はうなずいた。
母の袖を握り、さっきの音を思い出そうとした。もう一度言えれば、説明もできる気がした。
けれど、最初に呼んだ名前さえ出てこなかった。
*
火曜日の病院は、金曜日より混んでいた。
検査が終わり、悠は待合室の隅で母の鏡を借りた。髪に跡がついていて、濡らした指で押さえても一本だけ立ってしまう。
「帰って洗えば直るよ」
「今直したい」
母は鞄から小さな櫛を出した。
こういうものは何でも入っている鞄だった。飴はないのに、と悠は思った。
番号を呼ばれ、診察室に入った。
医師は、悠の顔を見てから母に目を向けた。
「その後、また倒れたりしましたか」
母は首を振り、透明な袋からプリントのコピーとメモを取り出した。
悠は、母がメモを用意していたことを知らなかった。
十七日、午前。知らない文字を書く。
十九日、夜。夢を見て泣く。会いたいと言う。
最後の行には、外国語のような発話、とあった。
泣いたことまで医師に伝わると思うと、少し恥ずかしくなった。
「覚えているところだけでいいから、話してもらえるかな」
医師は紙を机に置き、悠に聞いた。
悠は、舟で知らない男と話したことを伝えた。夢の中では、男の言っていることがわかった。
歯が欠けていたことは、言わなかった。そこを話すと、また泣いてしまいそうだった。
「起きてからも、その人が部屋にいた?」
「いないです」
「声だけ聞こえたりは?」
「してないです」
医師はうなずき、いくつか質問を続けた。
悠が答える間、母は黙って聞いていた。膝の上では、鞄の持ち手を指でならしていた。
検査の説明になった。
母は身を乗り出した。医師は、今日わかったことと、まだ判断できないことを説明し、追加で確認したいこともあると話した。
悠は壁の動物の絵を見ていた。犬の首が長すぎると思った。
「学校、行っていいですか」
話が途切れたところで聞くと、医師は画面から顔を上げた。
「学校には行きたい?」
「休むと、プリントが増えるので」
母が少し笑った。
医師は学校での過ごし方を母と話し、それから悠に、つらくなったら我慢して授業を受けなくていいと伝えた。
最後に、母がコピーを指した。
「これは、何か関係あるんでしょうか」
医師は文字を見た。
「私には読めません。今の段階で、この字だけから原因を決めることもできません」
紙を母のほうへ戻した。
「いつ、どんな様子だったかは、引き続き教えてください」
母はコピーを袋に入れた。
来たときより丁寧に、角をそろえていた。
*
病院の売店で、母はチョコレートの入ったパンを買ってくれた。
駐車場へ向かいながら、悠は袋の裏を眺めた。カロリーや材料の名前、知らない会社の住所が並んでいた。
「今、食べていい?」
「車に乗ってから。歩きながらはやめよう」
車まで待って袋を開けると、チョコレートが少し包装にくっついていた。指で取って食べた。
母はエンジンをかけず、携帯電話を見ていた。
「仕事?」
「ううん」
母が画面を横にして見せた。悠の書いた文字の写真と、その下に、外国の看板や模様の入った布の画像が並んでいた。
「調べてるの?」
「何の字か、わかるかなと思って」
指を動かすと、別の写真が出てきた。
悠の字に似ているものもあった。まったく違うものもあった。
「これ?」
母が一つを大きくした。
悠は首を傾げた。
「違うと思う」
「どこが?」
「わかんない」
母は画像を閉じ、次の候補を見せるかわりに携帯電話を膝へ置いた。
「ごめん。答え合わせみたいになったね」
悠は袋の端についたチョコレートを見ていた。
「僕、どっかで見たのかな」
「そういうことも、あるかもしれないね」
「見たことあったら、わかる?」
「何が?」
「それが元だって」
母はすぐに答えなかった。
正面の車が駐車場から出ていった。空いた場所に日が差して、車止めの白いところが光った。
「わかったら、少し安心できる?」
悠はうなずいた。
どこかで見た字を書いただけなら、元のものが見つかるはずだ。それがあれば、学校でも説明できる。
「じゃあ、字を調べるのが得意な人に聞いてみようか」
「誰?」
「まず、図書館とか」
悠はもう一口パンを食べた。
病院からまっすぐ帰るつもりだったので、図書館にも寄れると思うと少し得をした気がした。
*
図書館の駐車場には、落ち葉が固まっていた。
母は入口の手前で立ち止まり、コピーを袋から出した。
「これを見せて聞くけど、いい?」
悠は紙を見た。
コピーに算数の問題は写っていなかった。それでも、悠には自分の宿題を渡すような気がした。
「僕の名前は言わないで」
「うん。字のことだけ」
母は紙を半分に折った。
相談用の机にいたのは、紺色のカーディガンを着た女性だった。名札には西沢と書いてあった。
西沢さんは母の説明を聞き、紙を机に広げた。
「どこで見つけられたものですか」
「手書きなんです。元になるものがあるかもわからなくて」
「お手紙とか、古い資料とかではなく?」
「はい」
悠は机の横に立っていたが、母は一度もこちらを見ずに答えた。
「何と書いてあるか、調べたいんですね」
母がうなずくと、西沢さんは紙を自分のほうへ引き寄せた。
「すぐにはわからないかもしれません。少しお時間をいただいてもいいですか」
わかると言われたら怖い。でも、わからないと言われるのも嫌だった。
西沢さんは、どちらとも決めずに紙を見てくれた。
母が連絡先を書いている間、悠は児童書の棚へ行った。
前に借りた本があった。表紙の角が少し剥がれていた。続きを借りたかったが、二巻だけなかった。
返却された本の台も見た。そこにもなかった。
戻ってくると、西沢さんが母に聞いていた。
「必要なら、ほかの図書館にも照会してみます。画像を見てもらうことになりますが」
母は悠に顔を向けた。
「この紙の写真、詳しい人にも見てもらっていい?」
悠はコピーを見て、うなずいた。
「名前は?」
「つけません」
西沢さんが答えた。
悠はもう一度うなずいた。
図書館を出るとき、母は借りたい本がなかったのか聞いた。
「二巻がない」
「予約すればよかったね」
悠は入口を振り返ったが、戻るほどではない気がした。
今日はもう、大人にずいぶんいろいろ頼んでいた。
*
水曜日からは学校へ行った。
蓮に注射をしたかと聞かれ、悠は頭にいろいろつけられたことを話した。
蓮が「コード?」と聞き返した。
「そう」
「何本?」
「数えてない」
「写真ないの?」
「ない」
蓮は残念そうだった。
悠は、あの髪を写真に撮らなくてよかったと思った。
授業中は何度も時計を見た。気づかないうちに時間が過ぎていないか、確かめずにはいられなかった。
でも、そんなことは起きなかった。
算数の授業は長く、図工は短かった。給食の味も同じだった。
木曜日の昼休み、蓮が机に薄い本を置いた。
「これ、二巻」
図書館で探していた本だった。
「お前が借りてたの?」
「いや。昨日返ってきてた。うちの母ちゃんが行くって言うから、見た」
火曜日、母親同士の連絡で病院と図書館へ行ったことを知らせた。そのあと、悠も蓮に、二巻がなくて借りられなかったと話していた。
「先に読んでいいよ。俺、まだ一巻だから」
悠は本を開いた。
最初のページに返却期限の紙が挟まっていた。
「ありがとう」
「折んなよ。俺が借りたことになってるから」
悠は閉じかけた本を、もう一度そっと開いた。
蓮は自分の机へ戻った。何人かに呼ばれて、校庭へ行くところだった。
「悠、来る?」
少し迷って、本を机の中に入れた。
「行く」
走っている間は、知らない言葉のことを忘れていられた。
*
金曜日、悠が帰ると、母は台所で電話をしていた。
「はい。火曜日に」
母はこちらを見て、片手を上げた。おかえり、という意味だった。
悠はランドセルを下ろし、水筒を流しに置いた。
「それだけでは、わからないんですね」
母の声が少し小さくなった。
悠は水筒の蓋を持ったまま、振り返った。
「はい。メールでいただければ」
電話が終わると、母は画面を確かめた。
「図書館?」
母はうなずいた。
「字、わかったの?」
「まだ、はっきりとは。でも、調べてくれる人がいたって」
悠は食卓に座った。
母は隣の椅子を引き、届いたメールを開いた。西沢さんからの説明の下に、問い合わせ先からの返事が引用されていた。
返事の主は、大学で古い文字を研究している人だった。名前の前に長い肩書がつき、本文にも難しい言葉が並んでいた。
母は最後まで目を通してから、最初へ戻った。
「声に出して」
悠が頼むと、母は画面を少し遠ざけた。
「短い手書きの資料ですので、現時点では、言語や年代の特定はできません」
年代、という言葉が気になった。
書いたのは先週だった。
「複数の字形について、比較できそうな資料があります。ただし、似ているというだけでは……」
母はそこで黙り、続きを目で追った。
「なんて?」
悠が聞くと、母は画面をこちらに向けた。
指先が、一つの行に添えられていた。
『中央付近の一語は、「水」を表す語として読める可能性があります。ほかの部分については、もう少し検討が必要です。』
悠は二回読んだ。
母の指は動かなかった。
「お母さん、言った?」
「何を?」
「水をください、って」
母は首を振った。
「図書館の人にも?」
「言ってない」
流しの縁に置いたままの水筒の蓋から、水が一滴落ちた。悠は直しに立ちかけて、やめた。
メールには、続きがあった。
『画像の右端に、消去または欠損と思われる箇所があります。消える前の状態がわかる資料はありますか。』
母が悠を見た。
「ここ、消したの?」
悠はうなずいた。
消しゴムで短い線を消したことを、誰にも話していなかった。
「書き直せる?」
母が聞いた。
悠は机の引き出しにある、もう一枚の紙を思い出した。けれど、あれも線を消したあとで写したものだった。消す前の形は、どこにも残っていない。
「最初のは、ない」
母は携帯電話を置いた。
悠も、しばらく何も言わなかった。
知らない誰かが、あの紙を読もうとしていた。
悠には読めない字を、一文字ずつ。
「元の本、見つかるかな」
悠が言うと、母は画面の暗くなった携帯電話を見た。
「もう少し、聞いてみよう」
その夜、母は返事を書いた。
悠は隣で見ていた。どこで見つけた資料なのか、という質問に、母はしばらく手を止めた。
やがて、短い一文を打った。
これは、息子が書いたものです。
母は送信する前に、悠を見た。
悠は画面を読み直してから、うなずいた。




