↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/6

第二話 知らない字

消しゴムをかけると、その字は普通に消えた。


 悠はまず、紙の右端にある短い線を消してみた。消えたところには、表の算数の問題が薄く透けていた。

 かすを払うと、ただの宿題のプリントに見えた。

 全部消してしまおうと思った。

 けれど、文字の区切りさえわからない。消した線だけで一文字だったのか、隣の線につながっていたのかもわからなかった。

 悠は消しゴムを置いた。


 新しい紙を出し、右端に鉛筆を置いた。さっきと同じように書こうとしたが、手は動かなかった。


 仕方なく、元の紙を見ながら写した。線を引くたびに見比べたのに、三つ目あたりで間隔が詰まってしまった。書き終えたものは、最初の字よりずっと下手だった。

 悠は二枚を並べた。

 宿題の裏の字は、大人が電話をしながら取るメモに似ていた。急いでいて、ところどころ省いてあるように見える。何が省かれているのかは、わからなかった。


 時計はまだ十時前だった。母が帰るまでには、ずいぶん時間があった。


 居間へ行ってテレビをつけると、知らない町の店で、知らない人が大きな丼を食べていた。悠は音量を二つ上げ、宿題を持ってきた。

 分数の割り算は、ちゃんとできた。



     *



 蓮が来たのは、母が帰ってきて、昼ご飯を食べたあとだった。

 蓮は玄関に立ったまま、自分の母親に言われたことを一息に伝えた。


「四時までで、外に出ないで、具合悪くなったら帰れって」

「うん、ありがとう。お母さんにも、よろしくね」


 真紀にうなずき、蓮は靴を脱いだ。裏返った片方を足で直しかけたが、真紀の目に気づき、かがんで手でそろえた。

 悠は廊下の奥でそれを見ていた。


「何笑ってんだよ」

「別に」


 部屋に入ると、蓮は持ってきた袋を机に置いた。

 中には小さなドーナツが四つ入っていた。


「見舞いだって」

「誰が?」

「うちのお母さん」

「半分食うんだろ」

「持ってきたからな」


 悠は返す鉛筆を差し出した。

 蓮は受け取り、軸の名前を見た。


「これ探してた」

「お前が入れたんじゃん」

「拾ってやったんだろ」


 昨日と同じ言い方だった。

 悠は少し迷ってから、机の引き出しを開けた。


「これさ」


 プリントを裏返して置いた。

 蓮はドーナツの袋を開けながらのぞき込んだ。


「何?」

「字」

「それはわかる」

「何の字かわかる?」


 蓮は顔を近づけた。それから紙を半回転させた。


「そっちじゃない」

「読めんの?」

「読めない」

「じゃあ、なんでわかんの」


 説明できなかった。

 蓮は紙を元に戻した。


「ゲームのやつ?」

「違うと思う」

「書いたのお前?」


 悠はうなずいた。

 蓮の手が、袋の中で止まった。


「昨日の?」

「書いたのは今日」

「そうじゃなくて」

「わかんない」


 蓮はドーナツを一つ取り出したが、すぐには食べなかった。


「もう一回書いて」

「できない」

「なんで」

「わかんないって」


 悠は、下手に写したほうの紙も出した。

 蓮は眉を寄せ、二枚を見比べた。字が違って見えるのは、蓮も同じらしかった。


「こっちは見て書いた」

「じゃあ、こっちは?」


 蓮が宿題の紙を指した。


「何も見てない」


 蓮はしばらく黙っていた。

 廊下の掃除機の音が近づき、部屋の前で一度止まって、また遠ざかった。


「昨日、お前が言ってたの、まだちょっと覚えてる」


 悠は顔を上げた。


「最初んとこだけ。変な音だったから」

「言ってみて」


 蓮は困った顔になった。


「真似してるって怒んなよ」

「怒んない」


 蓮が短く何かを言い、違った、と言い直した。喉の奥をこするような音だった。

 聞いているうちに、悠の口も動きかけた。

 その先に、続きがある。舌をどこへ置くかまで、わかりそうだった。


「もっかい」


 蓮は同じ音を繰り返した。


 水を。


 悠は息を止めた。


「どうした?」


 悠は口を開いたが、何も出てこなかった。蓮のドーナツから落ちた砂糖が、机に散っていた。

 白い粒を見ながら、紙を引き寄せた。


「なんでもない」

「わかったんじゃないの?」

「違う」


 プリントを引き出しに戻し、ドーナツの袋を真ん中に置いた。


「ゲームしよう」


 蓮は何か言いたそうだったが、袋に手を伸ばした。


「今日やっていいの?」

「一時間だけ」

「もう始めないと一時間なくなるぞ」


 悠は急いで電源を入れた。



     *



 ゲームの中で、蓮は二回死んだ。

 二回とも、悠が道を間違えたせいだった。


「右だって言ったじゃん」

「右行っただろ」

「画面の右。お前のキャラから見た右じゃなくて」


 蓮が床に仰向けになった。手だけを持ち上げて、まだ操作していた。

 悠は謝って回復薬を渡した。この前助けてもらった分より一つ多くしたが、蓮は数えなかった。


 四時になると、母が廊下から声をかけた。

 蓮は途中でやめたがらず、結局、五分延ばして二人とも最後の敵に負けた。


「やっぱお前、今日ちょっと変」


 玄関で靴を履きながら、蓮が言った。

 悠は何も答えなかった。


「いつもはあそこで薬使うじゃん」

「さっき全部あげたから」

「言えよ」


 蓮は笑った。

 玄関の戸を開けてから、振り向いた。


「あの紙、おばさんに見せた?」


 悠は首を振った。


「見せたほうがいいと思う」

「言うなよ」

「言わないけど」


 蓮は戸の取っ手をつかんだまま、少し考えた。


「お前が見せろよ」


 その声がいつもと違ったので、悠はうなずいた。



     *



 夕方、母が洗濯物を畳んでいるところへ、悠はプリントを持っていった。

 紙はすぐに渡さず、まず靴下を一足取って畳んだ。


「それ、お母さんの」

「わかってる」


 母の前に置いた。

 次の一足は、片方しか見つからなかった。洗濯物の山を探していると、母が隣から差し出した。


「どうしたの」


 悠は紙を渡した。

 母は表を見た。


「宿題、できたんだ」

「裏」


 裏返したところで、母は黙った。

 悠は残りの靴下を握っていた。


「僕が書いた」

「うん」

「何も見ないで」


 母はもう一度、表へ返した。名前の欄も算数の答えも、いつもの悠の字だった。最後のほうだけ、少し右上がりになっていた。


「いつ?」

「今日の朝」

「書いてるとき、具合悪くなった?」

「なってない」

「気がついたら書いてあった、とか?」

「自分で書いた。覚えてる」


 母はプリントを膝の上に置いた。


「どういう意味かは、わかる?」


 悠は答える前に、居間の戸を見た。誰も来るはずはなかった。


「水をください」


 口にすると、ひどくありふれた言葉に聞こえた。

 母は驚いた顔をせず、紙を持ち上げかけて、また膝へ置いた。


「読めるの?」

「読めない。でも、そう思って書いた」


 母はうなずき、携帯電話を取りに立った。


「先生に見てもらおう。病院の」

「学校には?」

「まず、病院」


 机の上を片づけ、プリントの写真を撮った。悠は画面に映った自分の字を見た。小さくなっても、知らない字のままだった。


「これ、誰かに送るの?」

「今は送らない。次に診てもらうとき、忘れないように」


 母は撮った写真を確かめて、画面を消した。


「紙も、取っておいていい?」


 悠はうなずいた。

 母は病院の予約票と同じ透明な袋に、プリントを入れた。


「宿題だから、月曜には返して」

「そっか。じゃあ、明日コピーしよう」


 母は袋を閉じたあと、悠の手から靴下を取った。片方がひっくり返っていた。直して、もう片方と重ねた。


「ほかにも、変だなって思ったこと、あった?」


 悠は、蓮の真似した声を思い出した。

 喉の奥が狭くなった。


「まだ、わかんない」


 母はそれ以上聞かなかった。

 その夜、母は携帯電話を居間で充電せず、布団のすぐ横に置いていた。



     *



 月曜日の朝、靴箱の前で二人に具合を聞かれた。

 大丈夫、と答えると、一人はよかったと言い、もう一人は昨日のテレビを見たかと聞いた。

 教室では、後ろの席の男子に「外国語しゃべって」と言われた。


「無理」

「なんで。金曜しゃべってたじゃん」

「覚えてない」


 男子は残念そうな顔をしたが、蓮が入ってくると、週末のゲームの話を始めた。

 悠は席に座った。

 机は元の向きに戻っていた。床にも何も落ちていなかった。筆箱を開けると、鉛筆は二本だった。


 小野先生が来て、出席を取った。

 悠は少し大きめに返事をした。


 一時間目が終わると、先生が机のそばへ来た。


「休み時間、少しいい?」


 廊下の突き当たりで、先生は立ったまま話し始めた。注意するときのようにしゃがまないので、怒られるのではなさそうだった。


「お母さんから連絡があったよ。明日は検査でお休みね」

「はい」

「今日も気持ち悪くなったら、すぐ言ってね」


 悠はうなずいた。

 先生が戻りかけたので、呼び止めた。


「僕、金曜日、何て言ってました?」


 小野先生は立ち止まった。


「ごめんね。先生にはわからなかった」

「声、変でした?」

「変?」

「僕じゃないみたいな」


 先生は少し考えた。

 隣の教室から、誰かが走って出てきた。小野先生はその子に歩くよう声をかけ、通り過ぎるのを待った。


「三浦さんの声だったよ」


 悠は床の緑色の線を見た。


「ただ、すごく苦しそうだったから。先生、何を言ってるかより、そっちが心配で」


 先生の上履きの先が、少しこちらを向いた。


「今、何か気になる?」

「大丈夫です」


 そう言ってから、違うと思った。


「今は、何も見えないです」


 先生はすぐには返事をしなかった。

 それでも、何が見えたのかを廊下で聞くことはしなかった。



     *



 その夜の夢には、水があった。


 足元で、水が揺れていた。

 悠は木の縁につかまっていた。すぐ外にも水面があり、手を伸ばせば届きそうだった。体がゆっくり浮き、また下がる。

 舟に乗っているのだとわかった。


 向かいの男が、何かを言った。

 日に焼けた首をしていた。髭に、白いものが少し混じっていた。片方の袖を肘まで上げ、もう片方は濡れたままにしていた。

 悠は笑った。

 男も笑った。歯が一本欠けていた。


 何がおかしいのか、目が覚めたあとには思い出せなかった。


 けれど、夢の中ではわかっていた。

 男の言葉はわかった。さっきから同じ失敗をしているのが、おかしかった。男は舟底の水を足でよけながら話していた。

 笑っているその顔を見ているうちに、急に胸が苦しくなった。


 会いたかった。


 そう思った瞬間、目が覚めた。


 部屋は暗かった。

 枕が濡れていた。

 悠は顔を拭いて、手のひらを見た。暗くてよくわからなかった。鼻が詰まっていたので口で息をした。


「お母さん」


 一度では声にならなかった。

 二度目に呼ぶと、隣の部屋で布団の動く音がした。


 母は明かりをつけ、悠の顔を見ると、すぐに膝をついた。


「また怖いの見た?」


 悠は首を振った。


「痛いところは?」


 それにも首を振った。

 母がティッシュを取って、渡してくれた。鼻をかむと、少し呼吸が楽になった。


「人がいた」

「うん」

「知らない人」


 母は悠の背中に手を置いた。


「怖い人だった?」

「違う」


 顔はもう、うまく思い出せなかった。

 欠けた歯と、濡れた袖だけが残っていた。


「友達だった」


 母の手が、背中で止まった。

 知らない人なのに、友達だった。口にしてみるとおかしいのに、悠には、どちらも本当だった。


「会いたい」


 声に出すと、また涙が出た。

 母が肩を抱いた。悠はその腕に顔を押しつけた。洗剤の匂いがした。いつもの家で、いつもの布団で、母がそばにいた。

 それなのに、ひどく遠くへ来てしまった気がした。


「名前、わかる?」


 母が小さく聞いた。


 悠は口を開いた。

 出てきたのは、母の知らない言葉だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。