第二話 知らない字
消しゴムをかけると、その字は普通に消えた。
悠はまず、紙の右端にある短い線を消してみた。消えたところには、表の算数の問題が薄く透けていた。
かすを払うと、ただの宿題のプリントに見えた。
全部消してしまおうと思った。
けれど、文字の区切りさえわからない。消した線だけで一文字だったのか、隣の線につながっていたのかもわからなかった。
悠は消しゴムを置いた。
新しい紙を出し、右端に鉛筆を置いた。さっきと同じように書こうとしたが、手は動かなかった。
仕方なく、元の紙を見ながら写した。線を引くたびに見比べたのに、三つ目あたりで間隔が詰まってしまった。書き終えたものは、最初の字よりずっと下手だった。
悠は二枚を並べた。
宿題の裏の字は、大人が電話をしながら取るメモに似ていた。急いでいて、ところどころ省いてあるように見える。何が省かれているのかは、わからなかった。
時計はまだ十時前だった。母が帰るまでには、ずいぶん時間があった。
居間へ行ってテレビをつけると、知らない町の店で、知らない人が大きな丼を食べていた。悠は音量を二つ上げ、宿題を持ってきた。
分数の割り算は、ちゃんとできた。
*
蓮が来たのは、母が帰ってきて、昼ご飯を食べたあとだった。
蓮は玄関に立ったまま、自分の母親に言われたことを一息に伝えた。
「四時までで、外に出ないで、具合悪くなったら帰れって」
「うん、ありがとう。お母さんにも、よろしくね」
真紀にうなずき、蓮は靴を脱いだ。裏返った片方を足で直しかけたが、真紀の目に気づき、かがんで手でそろえた。
悠は廊下の奥でそれを見ていた。
「何笑ってんだよ」
「別に」
部屋に入ると、蓮は持ってきた袋を机に置いた。
中には小さなドーナツが四つ入っていた。
「見舞いだって」
「誰が?」
「うちのお母さん」
「半分食うんだろ」
「持ってきたからな」
悠は返す鉛筆を差し出した。
蓮は受け取り、軸の名前を見た。
「これ探してた」
「お前が入れたんじゃん」
「拾ってやったんだろ」
昨日と同じ言い方だった。
悠は少し迷ってから、机の引き出しを開けた。
「これさ」
プリントを裏返して置いた。
蓮はドーナツの袋を開けながらのぞき込んだ。
「何?」
「字」
「それはわかる」
「何の字かわかる?」
蓮は顔を近づけた。それから紙を半回転させた。
「そっちじゃない」
「読めんの?」
「読めない」
「じゃあ、なんでわかんの」
説明できなかった。
蓮は紙を元に戻した。
「ゲームのやつ?」
「違うと思う」
「書いたのお前?」
悠はうなずいた。
蓮の手が、袋の中で止まった。
「昨日の?」
「書いたのは今日」
「そうじゃなくて」
「わかんない」
蓮はドーナツを一つ取り出したが、すぐには食べなかった。
「もう一回書いて」
「できない」
「なんで」
「わかんないって」
悠は、下手に写したほうの紙も出した。
蓮は眉を寄せ、二枚を見比べた。字が違って見えるのは、蓮も同じらしかった。
「こっちは見て書いた」
「じゃあ、こっちは?」
蓮が宿題の紙を指した。
「何も見てない」
蓮はしばらく黙っていた。
廊下の掃除機の音が近づき、部屋の前で一度止まって、また遠ざかった。
「昨日、お前が言ってたの、まだちょっと覚えてる」
悠は顔を上げた。
「最初んとこだけ。変な音だったから」
「言ってみて」
蓮は困った顔になった。
「真似してるって怒んなよ」
「怒んない」
蓮が短く何かを言い、違った、と言い直した。喉の奥をこするような音だった。
聞いているうちに、悠の口も動きかけた。
その先に、続きがある。舌をどこへ置くかまで、わかりそうだった。
「もっかい」
蓮は同じ音を繰り返した。
水を。
悠は息を止めた。
「どうした?」
悠は口を開いたが、何も出てこなかった。蓮のドーナツから落ちた砂糖が、机に散っていた。
白い粒を見ながら、紙を引き寄せた。
「なんでもない」
「わかったんじゃないの?」
「違う」
プリントを引き出しに戻し、ドーナツの袋を真ん中に置いた。
「ゲームしよう」
蓮は何か言いたそうだったが、袋に手を伸ばした。
「今日やっていいの?」
「一時間だけ」
「もう始めないと一時間なくなるぞ」
悠は急いで電源を入れた。
*
ゲームの中で、蓮は二回死んだ。
二回とも、悠が道を間違えたせいだった。
「右だって言ったじゃん」
「右行っただろ」
「画面の右。お前のキャラから見た右じゃなくて」
蓮が床に仰向けになった。手だけを持ち上げて、まだ操作していた。
悠は謝って回復薬を渡した。この前助けてもらった分より一つ多くしたが、蓮は数えなかった。
四時になると、母が廊下から声をかけた。
蓮は途中でやめたがらず、結局、五分延ばして二人とも最後の敵に負けた。
「やっぱお前、今日ちょっと変」
玄関で靴を履きながら、蓮が言った。
悠は何も答えなかった。
「いつもはあそこで薬使うじゃん」
「さっき全部あげたから」
「言えよ」
蓮は笑った。
玄関の戸を開けてから、振り向いた。
「あの紙、おばさんに見せた?」
悠は首を振った。
「見せたほうがいいと思う」
「言うなよ」
「言わないけど」
蓮は戸の取っ手をつかんだまま、少し考えた。
「お前が見せろよ」
その声がいつもと違ったので、悠はうなずいた。
*
夕方、母が洗濯物を畳んでいるところへ、悠はプリントを持っていった。
紙はすぐに渡さず、まず靴下を一足取って畳んだ。
「それ、お母さんの」
「わかってる」
母の前に置いた。
次の一足は、片方しか見つからなかった。洗濯物の山を探していると、母が隣から差し出した。
「どうしたの」
悠は紙を渡した。
母は表を見た。
「宿題、できたんだ」
「裏」
裏返したところで、母は黙った。
悠は残りの靴下を握っていた。
「僕が書いた」
「うん」
「何も見ないで」
母はもう一度、表へ返した。名前の欄も算数の答えも、いつもの悠の字だった。最後のほうだけ、少し右上がりになっていた。
「いつ?」
「今日の朝」
「書いてるとき、具合悪くなった?」
「なってない」
「気がついたら書いてあった、とか?」
「自分で書いた。覚えてる」
母はプリントを膝の上に置いた。
「どういう意味かは、わかる?」
悠は答える前に、居間の戸を見た。誰も来るはずはなかった。
「水をください」
口にすると、ひどくありふれた言葉に聞こえた。
母は驚いた顔をせず、紙を持ち上げかけて、また膝へ置いた。
「読めるの?」
「読めない。でも、そう思って書いた」
母はうなずき、携帯電話を取りに立った。
「先生に見てもらおう。病院の」
「学校には?」
「まず、病院」
机の上を片づけ、プリントの写真を撮った。悠は画面に映った自分の字を見た。小さくなっても、知らない字のままだった。
「これ、誰かに送るの?」
「今は送らない。次に診てもらうとき、忘れないように」
母は撮った写真を確かめて、画面を消した。
「紙も、取っておいていい?」
悠はうなずいた。
母は病院の予約票と同じ透明な袋に、プリントを入れた。
「宿題だから、月曜には返して」
「そっか。じゃあ、明日コピーしよう」
母は袋を閉じたあと、悠の手から靴下を取った。片方がひっくり返っていた。直して、もう片方と重ねた。
「ほかにも、変だなって思ったこと、あった?」
悠は、蓮の真似した声を思い出した。
喉の奥が狭くなった。
「まだ、わかんない」
母はそれ以上聞かなかった。
その夜、母は携帯電話を居間で充電せず、布団のすぐ横に置いていた。
*
月曜日の朝、靴箱の前で二人に具合を聞かれた。
大丈夫、と答えると、一人はよかったと言い、もう一人は昨日のテレビを見たかと聞いた。
教室では、後ろの席の男子に「外国語しゃべって」と言われた。
「無理」
「なんで。金曜しゃべってたじゃん」
「覚えてない」
男子は残念そうな顔をしたが、蓮が入ってくると、週末のゲームの話を始めた。
悠は席に座った。
机は元の向きに戻っていた。床にも何も落ちていなかった。筆箱を開けると、鉛筆は二本だった。
小野先生が来て、出席を取った。
悠は少し大きめに返事をした。
一時間目が終わると、先生が机のそばへ来た。
「休み時間、少しいい?」
廊下の突き当たりで、先生は立ったまま話し始めた。注意するときのようにしゃがまないので、怒られるのではなさそうだった。
「お母さんから連絡があったよ。明日は検査でお休みね」
「はい」
「今日も気持ち悪くなったら、すぐ言ってね」
悠はうなずいた。
先生が戻りかけたので、呼び止めた。
「僕、金曜日、何て言ってました?」
小野先生は立ち止まった。
「ごめんね。先生にはわからなかった」
「声、変でした?」
「変?」
「僕じゃないみたいな」
先生は少し考えた。
隣の教室から、誰かが走って出てきた。小野先生はその子に歩くよう声をかけ、通り過ぎるのを待った。
「三浦さんの声だったよ」
悠は床の緑色の線を見た。
「ただ、すごく苦しそうだったから。先生、何を言ってるかより、そっちが心配で」
先生の上履きの先が、少しこちらを向いた。
「今、何か気になる?」
「大丈夫です」
そう言ってから、違うと思った。
「今は、何も見えないです」
先生はすぐには返事をしなかった。
それでも、何が見えたのかを廊下で聞くことはしなかった。
*
その夜の夢には、水があった。
足元で、水が揺れていた。
悠は木の縁につかまっていた。すぐ外にも水面があり、手を伸ばせば届きそうだった。体がゆっくり浮き、また下がる。
舟に乗っているのだとわかった。
向かいの男が、何かを言った。
日に焼けた首をしていた。髭に、白いものが少し混じっていた。片方の袖を肘まで上げ、もう片方は濡れたままにしていた。
悠は笑った。
男も笑った。歯が一本欠けていた。
何がおかしいのか、目が覚めたあとには思い出せなかった。
けれど、夢の中ではわかっていた。
男の言葉はわかった。さっきから同じ失敗をしているのが、おかしかった。男は舟底の水を足でよけながら話していた。
笑っているその顔を見ているうちに、急に胸が苦しくなった。
会いたかった。
そう思った瞬間、目が覚めた。
部屋は暗かった。
枕が濡れていた。
悠は顔を拭いて、手のひらを見た。暗くてよくわからなかった。鼻が詰まっていたので口で息をした。
「お母さん」
一度では声にならなかった。
二度目に呼ぶと、隣の部屋で布団の動く音がした。
母は明かりをつけ、悠の顔を見ると、すぐに膝をついた。
「また怖いの見た?」
悠は首を振った。
「痛いところは?」
それにも首を振った。
母がティッシュを取って、渡してくれた。鼻をかむと、少し呼吸が楽になった。
「人がいた」
「うん」
「知らない人」
母は悠の背中に手を置いた。
「怖い人だった?」
「違う」
顔はもう、うまく思い出せなかった。
欠けた歯と、濡れた袖だけが残っていた。
「友達だった」
母の手が、背中で止まった。
知らない人なのに、友達だった。口にしてみるとおかしいのに、悠には、どちらも本当だった。
「会いたい」
声に出すと、また涙が出た。
母が肩を抱いた。悠はその腕に顔を押しつけた。洗剤の匂いがした。いつもの家で、いつもの布団で、母がそばにいた。
それなのに、ひどく遠くへ来てしまった気がした。
「名前、わかる?」
母が小さく聞いた。
悠は口を開いた。
出てきたのは、母の知らない言葉だった。




