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第一話 水をください

### 第一部――名前のない奇跡 あらすじ


悠が授業中、教わったことのない言葉を話し始める。後に古いアラム語に近いと判明するが、当初は体調不良として扱われる。本人は、砂の道、群衆の声、処刑の記憶を夢に見る。自分の記憶なのか、知らない誰かの苦痛なのか区別できない。


数週間後、交通事故で重傷を負った蓮に悠が触れ、救急隊の目の前で容体が回復する。偶然撮られた動画が拡散される。瀬尾は捏造を疑って調べるが、撮影前後の映像も医療記録も説明がつかない。


悠が発する断片的な言葉と、独立した複数の回復例が話題になり、世界中から人が訪れる。ただし何も起こらない患者もいる。助からなかった子の母親に「うちの子はなぜ駄目だったの」と問われ、悠は答えられない。


第一部の終わり、記者会見で「君はイエス・キリストなのか」と聞かれ、悠は答える。

「その名前で呼ばれていたことを、覚えています」

四時間目が終わるまで、あと十一分だった。


 三浦悠は黒板の右上の時計を見上げ、机の下で給食の献立表を開いた。

 十月十六日、金曜日。きなこ揚げパン、牛乳、野菜スープ、鶏肉のレモン煮。


 鶏肉のレモン煮はいらない。どうして肉をわざわざ酸っぱくするのだろう。

 そう思っていると、隣の席から消しゴムのかすが飛んできた。

 蓮が口だけで「パン」と言った。

 悠は首を横に振った。

 蓮は両手を合わせた。

 今朝、一口だけやると約束した。昨日のゲームで、蓮が回復薬を全部使って助けてくれたからだ。

 でも、それと揚げパンは別の話にできないだろうか。


「じゃあ、三浦さん。次を読んでください」


 悠は慌てて献立表を膝の間に挟んだ。

 国語の教科書は開いていたが、どこを読めばいいのかわからない。蓮が自分の教科書を指さし、真ん中あたりを二度たたいた。


「僕は、そのとき初めて」


 そこまで読んで、息を吸った。

 口の中に砂が入った。


 悠は唇を閉じた。奥歯で、じゃり、と音がした。舌を動かすと、上あごにざらついたものが張りついていた。

 窓は閉まっている。外では三年生が体育をしていて、黄色い帽子が白線に沿って動いていた。


「三浦さん?」


 続きを読もうとした。

 文字が見えない。

 教科書の白い部分が、ひどくまぶしかった。瞬きをしても消えず、目の奥まで日が差し込んできた。


 誰かが背中を押した。


 悠は前の机につかまろうとした。教室で誰かに押されたのだと思った。

 けれど、手は何にも届かなかった。膝が地面に当たった。

 熱い石だった。

 すぐそばに、人の足があった。親指の爪が黒く、足には擦り切れた革紐がかかっていた。足の下から砂がこぼれた。

 立たなければならない。

 そう思った途端、肩に重みが戻った。首の付け根を何かが擦っていた。息を吸おうとしても、胸の途中でつかえた。


 水。


 人の足の向こうに、女の人の衣服の裾だけが見えた。

 顔を上げてはいけないと思った。

 見れば、その人が泣いていることがわかってしまう。


「三浦さん」


 女の人の声が近づいた。


「悠くん。聞こえる?」


 肩をつかまれ、悠は顔を上げた。

 担任の小野先生がいた。

 先生の眼鏡の片方に、蛍光灯が映っていた。


 悠は教室の床に座っていた。目の前の机が斜めにずれ、足元には筆箱の中身が散らばっていた。シャープペンシルの芯のケースだけが、まだ動いていた。

 膝も肩も、痛くなかった。


「どこか痛い?」


 悠は首を振った。

 口の中を舌で探った。砂はなかった。朝、歯を磨いたときの、子供用の歯磨き粉の味が少しした。


「水、飲める?」


 先生が言った。

 悠はうなずいた。

 何人かがこちらを見ていた。立ち上がっている子もいた。後ろの席の男子が笑いかけて、先生の顔を見て口を閉じた。

 蓮だけが、自分の席に座ったまま、悠を見ていた。

 机の上に、水筒が出ていた。



     *



 保健室の水は、紙コップに入っていた。

 悠は両手で持って飲んだ。水道の水だった。一口目はぬるく、二口目から冷たく感じた。


「朝ご飯は?」

「食べました」

「何を食べた?」

「パンと、卵」

「昨日、何時に寝た?」


 十時半、と答えた。実際に眠ったのは十一時過ぎだったが、布団に入った時間なら間違っていなかった。

 養護の先生は体温計を受け取り、数字を見た。


「熱はないね。もう少し休もうか」

「給食は」

「食べられそう?」

「揚げパンなので」


 先生が笑ったので、悠も少し安心した。怖いことが起きたのなら、大人は笑わないはずだった。


 小野先生が入ってきて、入口のそばで養護の先生と話し始めた。流しの水音に紛れ、話はところどころしか聞こえなかった。

 倒れた、という言葉が聞こえた。

 そのあと、小野先生が声を落とした。


「その前に、何か……」


 悠は紙コップを見た。

 縁を親指で押すと、丸い形が少しゆがんだ。


 小野先生はベッドの横に椅子を持ってきた。


「三浦さん、さっきのこと、覚えてる?」

「読んでました」

「うん。そのあと」


 砂のことを言おうとして、やめた。

 砂が入ったと言えば、何を口に入れたのか聞かれそうだった。何も入れていないと答えても、また最初から説明することになりそうだった。


「気持ち悪くなりました」

「そっか」


 先生は、まだ何か聞きたそうに悠を見ていた。


「外国の言葉、何か習ってる?」

「英語?」

「英語以外で」

「習ってないです」

「動画とか、ゲームで聞くことはあるかな」


 悠は先生を見た。


「僕、何か言いました?」


 小野先生は、一度、入口のほうを見た。


「先生には、ちょっと聞き取れなくて」


 紙コップの縁が折れた。



     *



 母が迎えに来たのは、一時を少し過ぎたころだった。

 母の真紀は、仕事着に薄い上着を羽織り、胸元の名札も裏返ったままだった。カーテンを開けると、まず悠の顔を見て、それから空になった給食の皿へ目を移した。


「食べたんだ」

「うん」

「全部?」

「肉は半分」


 母は椅子に座り、長く息を吐いた。

 怒られるかと思ったが、何も言わなかった。額に手を当て、それから前髪を横によけた。


「立てる?」


 悠はベッドから下りてみせた。

 足元の床は冷たく、上履きはきれいにそろえて置かれていた。


 先生たちと母が話している間に、蓮がランドセルを持ってきた。


「重い」

「お前のじゃないだろ」

「持ってきてやったんだろ」


 蓮はベッドにランドセルを置いた。横のポケットから、算数のプリントがはみ出していた。


「宿題、そこ」

「今日もあるの」

「倒れてもある」


 悠はプリントを奥へ押し込んだ。

 蓮はすぐには帰らず、二人でカーテンの下の大人の足を眺めた。母の靴下は、踵が薄くなっていた。


「なあ」


 蓮が小さな声で言った。


「あれ、何語?」

「知らない」

「お前が言ったんだろ」

「だから、知らないって」


 思ったより強い声になった。

 入口の話し声が止まったので、悠は下を向いた。

 蓮はランドセルの肩ひもを指で裏返したり、戻したりした。


「誰か撮ってた?」


 悠が聞くと、蓮は首を振った。


「タブレット、片づけてたし」

「そう」

「変なふうには言ってないよ」

「何が」

「お前がふざけたとか。小野先生、そういうんじゃないって言ってた」


 悠はうなずいた。

 蓮は、ようやく肩ひもから手を離した。


「パン、一口分、貸しな」

「取っておけないだろ」

「次のでいい」


 蓮が出ていくと、保健室が急に広くなった。



     *



 母の車は、いつもの洗剤と、古くなったコーヒーの匂いがした。

 助手席の足元に、介護施設で使う室内履きの袋があった。悠はそれをよけて座った。


「病院に寄るからね」

「もう平気だよ」

「平気かどうか、診てもらうの」

「仕事は?」

「戻らなくて大丈夫になった」


 母はシートベルトを引いた。ねじれていたので、いったん戻して引き直した。


「ごめん」


 悠が言うと、母の手が止まった。


「具合悪くなったんでしょ」

「うん」

「じゃあ、ごめんはいらない」


 車が動き出した。

 学校の門を出ると、蓮の家の前を通った。門柱の間から、父親の軽トラックの荷台が見えた。青いシートの角が風で持ち上がっていた。

 その先のりんご畑には、鳥よけの古いディスクがぶら下がっていた。車が進むにつれ、あちこちの木で銀色の光が揺れた。

 遠くの山は、上のほうから色づき始めていた。


「お母さん」

「うん?」

「小さいとき、外国に行った?」

「誰が?」

「僕」

「行ってないよ」

「赤ちゃんのときも?」

「赤ちゃんのときも」


 赤信号で止まった。

 母がこちらを向いた。


「どうして?」


 悠は窓の外を見た。歩道を、自分たちの学校とは違う制服の中学生が歩いていた。片方が自転車を押していて、もう片方がそのかごに鞄を入れていた。


「夢で見たから」

「どんなとこ?」

「暑いとこ」

「ハワイとか?」

「わかんない」


 母は信号を見た。


「行きたいねえ、ハワイ」


 悠はうなずかなかった。

 あそこへは行きたくないと思った。



     *



 病院から帰ったころには、外が暗くなっていた。

 診察では質問に答え、来週もう一度、検査を受けることになった。

 母は病院でもらった紙を冷蔵庫に磁石で留めた。その下に、ごみ収集カレンダーが半分隠れた。


 夕食は、スーパーで買ったうどんだった。

 母は悠の器に卵を入れた。自分の器には入れず、鍋の底に残ったねぎを箸で拾っていた。


「今日、ゲームはなしね」

「ちょっとだけ」

「今日は寝る」

「蓮と約束してる」

「具合悪いって、連絡すればいいでしょ」


 悠は母のスマートフォンを借り、蓮の母親の連絡先へ、蓮宛てのメッセージを送った。すぐに、布団にくるまった犬のスタンプが返ってきた。

 そのあとに一行。


 パンわすれんなよ。


 悠は、親指を立てた顔のスタンプを送った。


 風呂は短くして、九時前に布団に入った。

 壁の向こうで、母が食器を洗っていた。皿を重ね、水を止め、また出す。

 いつもなら聞き流している音を、悠は一つずつ追っていた。

 食器洗いが終わると、部屋が静かになった。


 目を閉じた。


 足が見えた。


 悠はすぐに目を開けた。天井に、車のヘッドライトが通っていった。

 布団の中で膝を曲げた。足の指も動かしてみた。全部、ちゃんと動いた。


 昼間のことを、順番に思い出そうとした。

 国語。

 教科書。

 砂。


 その先は考えなかった。


 少しして、襖が細く開いた。


「寝た?」

「まだ」


 母が入ってきて、枕元に水を置いた。普段使っている、縁の青いプラスチックのコップだった。


「明日、ゆっくり寝てていいから」

「仕事?」

「午前中だけ。何かあったらすぐ電話して」


 母が立ち上がろうとして、悠は上着の裾をつかんだ。


「どうした?」


 悠は手を離さなかった。

 母はもう一度座った。携帯電話をポケットから出し、画面を伏せて畳に置いた。


「怖い夢だった?」


 悠はうなずいた。


「どんなの」


 言ってしまえば、また見える気がした。

 母は急かさずに待った。悠はその間も、上着の裾をつかんでいた。


「人が、いっぱいいて」

「うん」

「誰かを見てた」


 母は黙って聞いていた。


「僕も、そこにいて」


 言葉が続かなかった。

 母が、布団から出ていた悠の手を両手で包んだ。母の指先は少し冷たく、洗剤の匂いが残っていた。


「ここにいるよ」


 悠は母の手を見ていた。

 人差し指の横に、絆創膏が巻かれていた。

 その白いところを見ているうちに、息がゆっくりになった。


 母は、悠が眠るまでそこにいた。



     *



 翌朝、母が仕事に出たあと、悠は机で国語の教科書を開いた。

 昨日読めなかった文章を、声に出して読んでみた。

 一行目も、二行目も読めた。三行目で漢字を一つ間違えたが、それだけだった。

 読み終えると、少し腹が立った。

 こんな普通の文章のために、みんなの前で床に座り、病院へ行き、ゲームまでできなくなった。


 教科書を閉じて、宿題のプリントを出した。

 筆箱の鉛筆三本のうち、一本には小さく「高橋」と書いてあった。蓮が拾って入れたとき、自分のものも混ぜてしまったのだろう。


 その鉛筆を脇によけようとして、手が止まった。


 言いたいことがあった。

 誰かに。

 今すぐ言わなければ、忘れてしまう。


 悠はプリントを裏返した。

 鉛筆を持ったまま、しばらく白い紙を見ていた。

 何を書こうとしているのか、自分でもわからなかった。

 最初の線を引くと、次にどこへ動かせばいいかわかった。

 右の端から、左へ。いつもより指を寝かせ、ひと続きに書いた。


 短い一行だった。


 悠は鉛筆を置いた。

 知らない文字が並んでいた。


 なぞってみても、読めなかった。

 けれど、書いている間に何を考えていたかは覚えていた。


 水をください。


 枕元には、昨日の水が半分残っていた。

 悠はそれを飲みに行った。コップを傾けると、青い縁の向こうに、自分の小さな指が見えた。


 夢の中の手は、もっと大きかった。

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