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第六話 十九秒の祈り

 母は、悠の持っている袋を取ろうとした。


 悠が離さなかったので、そのまま抱きしめた。

 仕事着が冷たかった。雨の匂いがした。母は何か言っていたが、顔が肩に埋まっていて、よく聞こえなかった。


「僕じゃないよ」


 悠が言うと、母の腕が少し緩んだ。


「ぶつかったの、僕じゃない」

「うん。聞いた」


 母は体を離し、悠の顔を見た。それから肩と腕と、両方の膝を確かめた。


「痛いところ、ない?」


 首を振った。

 エプロンの女の人が、悠にかけていたタオルの端を直してくれた。

 そこは、クリーニング店の奥だった。透明な袋に入った上着が並び、その下に小さなストーブがあった。


 母は女の人に何度も礼を言った。

 警察の人にも同じことを聞かれた。どちらから歩いてきたか。信号は何色だったか。

 青だった、と悠は答えた。

 答えるたびに、青い人の形が頭に浮かんだ。


「蓮のとこ、行ける?」


 母がこちらを向いた。


「お母さんと連絡が取れた。今、検査してるって」

「行きたい」


 母は少し考え、うなずいた。

 女の人が、タオルはそのまま持っていってと言った。

 悠は立ち上がった。

 本の袋が膝に当たった。まだ、ずっと持っていた。



     *



 病院に着いたとき、蓮の父親は廊下に立っていた。


 軽トラックで来たのだろうと思った。仕事のときの上着で、肩に木くずがついていた。

 悠を見ると、何か言いかけた。

 悠が先に頭を下げた。


「ごめんなさい」


 父親の靴が近づいた。


「なんで謝る」


 少し大きな声だった。

 悠は顔を上げられなかった。


「僕が、本の袋を見てて」


 あのとき、顔を上げていれば。

 蓮が先に歩き出す前に、何か言っていれば。


 父親は悠の前にしゃがんだ。

 しゃがむと、いつもより小さく見えた。


「悠くんが押したんじゃないだろ」


 悠は首を振った。


「だったら、それは違う」


 父親はそう言い、床に手をついて立ち上がった。

 指が少し震えていた。

 怒っていたわけではないのだと、そのときわかった。


 母と父親が話をした。

 蓮の母親は、まだ中にいた。

 悠は椅子に座り、本の袋を足の間に置いた。


 廊下の先で扉が開くたび、みんなが顔を上げた。

 違う名前が呼ばれると、また下を向いた。


 母の携帯電話が振動した。

 職場からだった。母は短く返事を書き、裏返した。

 悠はその手を見ていた。


「お母さん」

「うん」

「蓮、僕の名前、言った」


 母はうなずいた。


「救急車に乗る前」

「うん」

「ちゃんと言った」


 母が手を重ねてくれた。

 さっきまで蓮の指に触れていた手だった。



     *



 蓮の母親が出てきたときには、窓の外が真っ暗になっていた。


「話せるって」


 悠は立ち上がった。

 父親も立ち上がり、詳しい説明を聞くために中へ入った。


 蓮の母親は真紀の隣に座った。鞄を膝に置いたが、持ち手を離さなかった。


「今の検査では、大きなけがは見つかってないって。今日は入院して、様子を見てくれるんだけど」


 最後のところで声が途切れた。

 真紀が背中に手を置いた。


「最初に電話もらったとき、意識がないって言われたから」


 悠は椅子の前に立っていた。

 何か言わなければと思ったが、何も出なかった。

 蓮の母親が顔を上げた。


「悠くん、ありがとう。一緒にいてくれて」


 礼を言われるとは思っていなかった。

 うなずこうとして、うまくできなかった。


 しばらくして、少しだけ蓮に会えた。

 大人たちの話が終わり、看護師に案内された部屋には、ベッドが一つあった。

 蓮は枕を高くして寝ていた。

 髪の横が濡れていて、いつもと違う方向へ寝ていた。


「よう」


 蓮が言った。

 悠は入口で止まった。


「何だよ」


 同じ声だった。

 悠はベッドの横まで行った。何を言おうと思っていたのか、全部わからなくなった。


「痛い?」

「ちょっと。ここ」


 蓮は肩の辺りを示した。


「あと、腹減った」


 母親が、もう少し待ってと言った。蓮は小さく息を吐いた。


「覚えてる?」


 悠が聞くと、蓮は考える顔になった。


「信号んとこまで」

「そのあと」

「車に乗ってた。救急車」


 悠の指が、ズボンの縫い目をつかんだ。


「僕、いたよ」

「うん。聞いた」


 蓮は枕に頭を戻した。


「お前は帰れるの?」


 悠はうなずいた。


「いいな」


 いつもなら、少し得意になったと思う。

 今日は、ここで帰れると言うのが嫌だった。


「本、濡らした」


 悠が言うと、蓮は目だけを動かした。


「二巻?」

「うん。ごめん」


 蓮は黙った。

 それから、薄く笑った。


「最後まで読んでから濡らせよ」


 悠も笑おうとした。

 息が引っかかり、変な声が出た。

 蓮が困った顔をしたので、悠は袖で目を拭いた。



     *



 家に帰ると、食卓に紙が置いてあった。


 としょかん。五時までに帰る。


 悠はそれを裏返した。

 母は何も言わず、湯を沸かした。


 濡れた本は、袋から出して机に置いた。母が乾いた布で表紙を押さえた。


「図書館には、お母さんからも話すから」

「僕も行く」

「うん」


 夕食のうどんは、半分しか食べられなかった。

 箸を置くと、母が明日は学校を休んでもいいと言った。


「蓮は?」

「明日はお休みだと思う」


 悠はうなずいた。

 教室に行って、あの席が空いているところを見たくなかった。


 風呂で手を洗った。

 指の間に泡を通し、爪のところを擦った。

 蓮の手は、地面に置かれていた。冷たかったかどうか、もう思い出せなかった。


 何か特別な感じはしただろうか。


 考えたが、わからなかった。

 光ったり、熱くなったりはしなかった。

 ただ、手に触れた。

 友達の手だった。


 湯を止めると、居間から母の声が聞こえた。

 電話をしていた。


「動画?」


 その一言だけ、はっきり聞こえた。



     *



 母は、悠が寝巻きに着替えるのを待っていた。


「事故のところで、撮っていた人がいたみたい」


 悠は向かいの歩道を思い出した。

 携帯電話を下ろした人がいた。


「インターネットに出てるって、蓮くんのお母さんが教えてくれた」


 母は画面を自分のほうへ向けたままにしていた。


「見なくてもいいよ」

「蓮が映ってるの?」

「うん」


 悠は椅子に座った。


「見る」


 母は少し迷い、音を小さくして再生した。


 十九秒だった。


 初めから救急隊の人がいた。

 蓮の体は、その人たちに隠れてよく見えなかった。

 自分が端から入ってきた。

 悠は、画面の中の自分が手を伸ばすのを見た。


 何か言っていた。


 日本語ではなかった。


 母が悠を見た。

 悠は画面を見たままでいた。


 手が離れた。

 隊員が顔を寄せ、別の隊員を呼んだ。

 誰かが、起きた、と言った。

 そこで終わった。


 画面の上には文字が載っていた。


 事故現場で少年が祈ると、意識不明の子が目を覚ました。


 悠は、その文章を読んだ。

 もう一度、最初から読み直した。


「祈ってない」


 母が画面を消しかけた。


「僕、祈ってないよ」

「うん」

「帰ろうって言っただけ」


 母は携帯電話を伏せた。


「書いた人には、そう見えたんだと思う」


 悠は机の木目を見た。

 あそこで、自分が何を言ったかもわからない人が、先に決めていた。


「蓮、見た?」

「今は見せてないって」


 それを聞いて、少しだけ安心した。

 でも、明日は誰かが見せるかもしれなかった。


「消せないの?」

「お願いはする。お母さんたちで話してる」


 母はそこで一度言葉を切った。


「すぐ全部なくなるかは、わからない」


 悠は、母の伏せた携帯電話を見た。

 手を離すと蓮の目が開くところを、知らない人が何度も見ているのだと思った。



     *



 瀬尾理沙がその映像を見たのは、夜の九時を過ぎてからだった。


 支局には、まだ蛍光灯が三本ついていた。

 机の上に、翌朝の紙面用に書いた記事の校正紙があった。道の駅の催し。中学校の合唱。冬を前にした道路の補修。


 動画のリンクは、知り合いの商店主から送られてきた。


 これ、うちの通りじゃない?


 理沙は一度再生し、地名を確認した。

 事故そのものは、夕方に把握していた。小学生が車にはねられ、病院へ搬送された。詳しい容体については、まだ確認が取れていなかった。


 十九秒の映像を、もう一度見た。


 画面の文字は、映っていることより多くを言っていた。

 祈ったのか。

 意識はどんな状態だったのか。

 目を開いたのが、その手に触れられたからなのか。


 どれも、この長さだけではわからなかった。


 理沙は机の冷めたコーヒーを飲んだ。

 投稿にはすでにいくつもの複製があった。音楽を重ねたもの、手元だけを大きくしたもの。外国語の字幕がついたものもあった。

 見ている間にも、再生回数の数字が変わった。


 救急隊の仕事を、通りかかった子供の奇跡にしてしまっているのかもしれない。

 そう思った。

 それでも、音声のところで指が止まった。


 子供は何を言っているのだろう。


 速度を変えずに、もう一度聞いた。

 わからなかった。

 日本語を無理に当てはめれば、何かに聞こえそうだった。理沙はそれをやめ、投稿した人をたどった。


 最初に見つかったアカウントは、撮影者ではなかった。

 別の投稿から保存したものだという。元の投稿は、もう消えていた。

 商店主に確認すると、撮っていた人には心当たりがあった。


 理沙は自分の名前と新聞社名、何を確かめたいかを伝え、連絡を取り次いでもらった。


 返事が来たのは、十時近くだった。


 撮影者は、仕事帰りにあの道を通ったという。

 事故の衝撃音を聞いたときには、すでに子供が倒れていた。別の人が通報していたので、あとで必要になるかもしれないと思って撮った。

 救急車が来る前から、撮影は続いていた。


「それを、どうして投稿したんですか」


 理沙が聞くと、相手は少し黙った。


『助かったみたいだったから』


 電話の向こうで、テレビの音がしていた。


『悪い話じゃないし。友達が呼んだら目を覚ましたんですよ。それで、そのところだけ』


「祈っていた、というのは」

『外国の言葉みたいだったでしょう』


 理沙はペンを止めた。


『違うんですか』

「まだ、わかりません」


 相手は、自分の投稿は削除したと言った。子供の映像を載せるなという連絡が来て、怖くなったのだという。

 十九秒に切る前のファイルは、端末に残っていた。


 理沙は、公開せずに確認するために見せてもらいたいと頼んだ。



     *



 元の映像は、二分四十六秒あった。


 理沙は最初から再生した。

 手ぶれが大きかった。車の窓を映し、地面へ落ち、通行人の背中で何度も隠れた。

 その間に、倒れた子供が映った。


 理沙は音量を下げた。

 顔を確かめるための映像ではなかった。


 救急隊が来た。

 通行人が離れ、撮影者も歩道の端へ移動した。

 画面の隅に、友人らしい子供が立っていた。ずっと同じ方向を見ていた。


 手を伸ばす場面が来た。

 短く切られた動画では、ここから先しかなかった。


 理沙は再生を止め、少し戻した。


 倒れた子供の右手が、地面に置かれていた。

 指の付け根に赤い線があった。濡れていて、傷なのか、付着した血なのか、この画質では決められなかった。


 もう一方の子供が、その指に触れた。

 手が重なり、隠れた。


 離れたあとには、赤い線が見えなかった。


 理沙は椅子を机に寄せた。

 角度が変わっていた。照明も一定ではない。指で拭われたのかもしれない。

 指先まで見えるところを探し、前後をゆっくり見直した。


 わからなかった。


 けれど、元の映像はそこで終わっていなかった。

 子供が運ばれ、残った友人が呼びかけた。


『いるよ』


 今度は、はっきりした日本語だった。


『ここにいる』


 理沙は手を止めた。

 祈りを唱えた少年、という見出しからは聞こえてこない声だった。


 机の上のノートに、明日確かめることを書いた。

 撮影の位置。

 映像の連続性。

 救急隊の処置。

 家族の意向。


 それから、一番上に書いていた「奇跡の動画」という言葉を消した。


 代わりに、「事故のあと」と書いた。


 映像の最後では、濡れた本を持った子供が、店の人に支えられていた。

 理沙はそこで再生を止め、画面を閉じた。


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