第98話 三匹の決断
《合成の聖杯》を受け取ってから二日が経ち、私の右足はようやく短い距離なら杖を使って歩いてもいいところまで回復していた。
まだ走ることは禁止されているし、長く歩けば痛みも出る。それでも治療室とベッドを往復するだけだった昨日までと比べれば、王宮の中庭まで自分で歩いて来られるだけでも嬉しかった。
朝の中庭には柔らかな陽射しが差し込み、少し離れた街からはカジノの派手な音や商人たちの声が聞こえている。TIMEの襲撃を受けて警備は増えていたものの、王国そのものは少しずついつもの賑やかさを取り戻していた。
「オラクル、そろそろ出発したい」
木陰で煙草を吸っていたオラクルが、私の右足を見る。
「治療役は何て言ってんだ?」
「あと少ししたら旅に戻ってもいいって。でも、しばらく走るのは禁止で、長く歩くときはちゃんと休むことって言われた」
「なら、その条件を守れるようになってからだな」
「守れるよ! 今回は本当にちゃんとするってば」
「その台詞を何回聞いたと思ってんだ」
オラクルは呆れたように煙を吐いたけれど、旅へ戻ること自体には反対しなかった。
私も、いつまでもゴブリン王国にいるつもりはない。
カジノで百万コインを集め、サーキットの試練を走り、TIME No.4エドガーと戦った。その途中で☆5《幻獣種召喚の本》からシャイニーとアクアリヴァイアスを召喚し、王様からは古代のアイテム《合成の聖杯》まで託された。
ここで得たものはたくさんある。
でも、私がお父さんとお母さんを探していることは何も変わっていない。
「次はどこへ行く?」
そう尋ねると、オラクルは懐から一枚の紙を取り出し、膝の上で広げた。
簡単な地図らしく、ゴブリン王国から伸びる道の先に、聞いたことのない名前が書かれている。
《黒龍王の洞窟》。
「何ここ?」
「王国で拾った噂だ。かなり古い洞窟で、最深部まで入って戻ってきた奴はほとんどいねえらしい。そのせいで詳しい情報は少ねえが、一つ面白い話がある」
オラクルが地図の一点を指で叩いた。
「洞窟のどこかに、☆付きのアイテムがあるって噂だ」
「☆付き?」
昨日までなら、それだけで興味を持っていたと思う。
でも今は☆1ですら普通の家族が何年も暮らせる価値を持ち、☆5に至っては世界中でも五つ確認されていないかもしれないと知っている。
私はすぐに地図へ顔を近づけた。
「星はいくつ?」
オラクルが一瞬黙り、それから笑った。
「学習したじゃねえか」
「大事でしょ!」
「残念ながら不明だ。本当に☆付きなのかさえ確定してねえ。昔からそういう噂が残ってるってだけだから、期待しすぎんな」
「でも、行って確かめれば分かるよね?」
「足が治ってからな」
「分かってるよ」
答えながらも、胸は少し高鳴っていた。
☆付きアイテムが欲しいからというだけではない。
まだ知らない場所へ行けば、両親につながる何かが見つかるかもしれない。何もなかったとしても、立ち止まっていては旅は進まない。
そのとき、中庭の入口から聞き慣れた声がした。
「フールちゃん!」
振り返ると、赤、緑、黄色が揃ってこちらへ歩いてきていた。
赤はいつものように骨付き肉を持ち、緑は分厚い本を胸へ抱えている。黄色も腰に道具袋を下げていて、見た目だけなら普段と何も変わらない。
「ちょうどよかった! 三匹にも次の場所の話をしようと思ってたんだ」
「次の場所でぷ?」
三匹が近づいてきたので、私はオラクルから地図を受け取り、全員に見えるよう膝の上へ広げた。
「《黒龍王の洞窟》っていうところ。ここに☆付きのアイテムがあるかもしれないんだって」
「☆付きでぷ!?」
真っ先に反応したのは黄色だった。
「まだ本当にあるか分からないよ。それに、星が何個なのかも不明だからね」
「見つけたら値段を調べるでぷ!」
「最初から売ること考えないでよ!」
いつもの黄色だった。
それなのに、何となく違和感が残った。
赤は《黒龍王》という名前を見ても、「強そうでぷ」と小さく呟いただけで、いつものように「肉は食べられるでぷ?」とは聞かなかった。緑も洞窟の話ならすぐ本を開きそうなのに、今日は地図を見つめたまま動かない。
「……どうしたの?」
三匹が互いの顔を見る。
「何がでぷ?」
「何か変だよ。三匹とも」
黄色まで黙った。
さっきまで☆付きアイテムの話に食いついていたのに、今は腰の道具袋へ視線を落としている。
赤が緑を見る。
緑が黄色を見る。
最後に黄色が小さく頷いた。
そのやり取りを見た瞬間、三匹が何かを決めてからここへ来たのだと分かった。
「何?」
私は地図を膝へ置いた。
「何か話があるんでしょ?」
赤が持っていた骨付き肉を下ろした。
「フールちゃん。赤たち、話があるでぷ」
いつもの赤からは想像できないくらい真面目な声だった。
「うん。聞くよ」
三匹はすぐには話さなかった。
中庭を抜ける風が木々の葉を揺らし、遠くからカジノの賑やかな音が届いている。その音が妙に大きく聞こえるくらい、三匹は長く黙っていた。
やがて赤が私をまっすぐ見た。
「赤たち、次の旅には行かないでぷ」
聞こえなかったわけじゃない。
言葉はちゃんと耳へ届いていた。
それでも、意味を理解するまで少し時間が掛かった。
「……え?」
「三匹で話したでぷ。赤と緑と黄色は、ゴブリン王国に残るでぷ」
私は赤、緑、黄色の顔を順番に見た。
誰も笑っていない。
冗談じゃない。
「どうして?」
ようやく出てきたのは、その言葉だった。
赤は少し迷ってから答える。
「ここは赤たちの故郷でぷ」
「それは知ってるよ。でも今までも一緒に旅してたじゃん」
「そうでぷ。旅は楽しかったでぷし、もっとフールちゃんと一緒にいろんな場所へ行きたいでぷ」
緑が赤の言葉を引き継いだ。
「でも今回、TIMEが王国の中まで入ってきたでぷ。チェック兄貴が捕まったのに、緑たちは何も知らなかったでぷ。白銀が逃げて知らせてくれなかったら、兄貴がどこにいるのかさえ分からなかったかもしれないでぷ」
黄色も自分の道具袋を握りながら頷く。
「王国に帰ってきて、みんながいるから安心だと思ってたでぷ。でも、TIMEは普通に入ってきたでぷ」
赤の手にも力が入った。
「あの悪魔と戦ったときも、赤の剣は全然効かなかったでぷ。ベルガに思い切り斬りつけても、ほとんど傷をつけられなかったでぷ」
「でも、三匹がいなかったらチェック兄貴を助けられなかったよ」
それだけはすぐに言えた。
赤がチェック兄貴を受け止め、黄色と一緒に運んでくれた。緑も私を守りながら何度も魔法を使った。
三匹が役に立たなかったなんて、一度も思っていない。
「分かってるでぷ」
赤もそれを否定しなかった。
「でも、もっと強くなりたいでぷ。次にTIMEがこの王国へ来たとき、誰かが助けに来るまで待ってるだけは嫌でぷ。チェック兄貴も白銀も、王国のみんなも、自分たちで守れるくらい強くなりたいでぷ」
緑も本を胸へ抱き直した。
「緑は、もっと魔法を覚えたいでぷ。この王国にある本も読んで、今よりずっと役に立てる魔法を使えるようになりたいでぷ」
黄色は道具袋を軽く叩いた。
「黄色はもっと稼いで、もっといい道具を集めるでぷ。王国を守るにも道具を買うにも、お金は必要でぷ。次は敵の足を止めるだけじゃなくて、もっとみんなを助けられるようになるでぷ」
三匹とも考えていた。
私が知らない間に。
「いつ決めたの?」
「昨日から三匹で話してたでぷ」
昨日。
《合成の聖杯》を受け取ったとき、三匹はいつも通り笑っていた。
次にレースをするなら赤も走る、緑は魔法を使う、黄色は賭ける。そんな話をしていたから、私は何も気づかなかった。
「私、てっきり……」
その先が続かなかった。
足が治れば、また全員で旅に出る。
それが当たり前だと思っていた。
赤がいて、緑がいて、黄色がいて、メリーが飛び回り、オラクルが文句を言いながらついてくる。
ずっとそうだと思っていた。
「フールちゃん」
赤が一歩近づいた。
「旅をやめるわけじゃないでぷ」
「でも残るんでしょ?」
「今は、でぷ。ここで強くなったら、また一緒に冒険するでぷ」
緑も頷く。
「ずっと王国にいると決めたわけじゃないでぷ。今はここで勉強して、もっと強くなりたいでぷ」
黄色も胸を張った。
「次に会ったときは、今よりいっぱいお金持ちになってるでぷ!」
「そこは強くなってるじゃないの?」
「両方でぷ!」
思わず笑ってしまった。
でも、胸の奥は痛かった。
私は膝の上に置いた《黒龍王の洞窟》の地図を見る。
さっきまで、この地図を三匹と一緒に囲んで次の旅を想像していた。
黒龍王を見れば赤が騒ぎ、緑が本を開き、黄色が☆付きアイテムの値段を気にする。そんな光景を当たり前のように想像していた。
でも、その旅に三匹はいない。
「……寂しいよ」
正直に言った。
三匹が黙る。
「三匹が自分で決めたことだから、行かないでなんて言わない。でも、寂しくないって言ったら嘘になるよ」
赤たちは何も言わずに聞いていた。
私は少しだけ俯いたあと、顔を上げる。
「でも、もう二度と会えないわけじゃないんだよね?」
「もちろんでぷ!」
赤が今度はいつもの大きな声で答えた。
「絶対また会うでぷ!」
「緑も次に会うまでに、もっと強い魔法を覚えておくでぷ!」
「黄色は大金持ちになってるでぷ!」
「黄色だけ目標が違う!」
「お金も強さでぷ!」
いつもの三匹が戻った。
私は笑いながら目元を擦った。
「分かった。三匹はここに残って、いっぱい強くなってよ」
赤の目が少し大きくなる。
「いいのでぷ?」
「よくはないよ。寂しいって言ったでしょ。でも、三匹が決めたなら応援する」
私は三匹へ手を伸ばした。
「その代わり、約束して。また会おうね」
赤がすぐに私の手を握った。
緑と黄色も、その上へ自分たちの手を重ねる。
「約束でぷ!」
「絶対また会うでぷ!」
「次はもっと強くなってるでぷ!」
四つの手が重なった。
少し遅れて、メリーの小さな手もその上へ乗った。
『メリーも』
私は笑った。
「うん。みんなで約束」
これは、さようならじゃない。
旅の道が、少しの間だけ分かれるだけだ。
そう思えば、寂しさを抱えたままでも笑うことができた。




