第97話 エドガーの報告
ゴブリン王国から遠く離れた場所に、その建物はあった。
周囲には街も村もなく、地図に名前が記されるような道さえ通っていない。深い森と切り立った岩山に囲まれた谷の奥、昼間でもほとんど陽の差さない場所に、黒い石で造られた巨大な建造物がひっそりと存在していた。
外から見れば、長い年月の中で捨てられた古い城にも見える。
崩れかけた外壁には蔦が絡まり、いくつもの窓は黒く塞がれている。正面にある巨大な扉にも王国の紋章や国旗はなく、ただ中央に一つだけ、円を十二に分けた時計のような印が刻まれていた。
その扉の向こうでは、一定の間隔で靴音が響いていた。
コツ、コツ、コツ――。
薄暗い石造りの通路を、一人の男が歩いている。
黒い服。
左手の甲には《4》の数字。
ゴブリン王国でフールたちを襲ったTIME No.4、エドガーだった。
あれほどの戦いを終えた直後だというのに、歩き方に大きな乱れはない。ただ、まったく無傷というわけでもなかった。黒い上着の一部は《アクア・ノヴァ》の余波を受けて裂け、魔導書を抱えている左腕にも乾いた血が残っている。
何より、普段なら片手で持っているはずの《悪魔の魔導書》を、今は腕で抱えるように支えていた。
ベルガとゼルグ。
二体の悪魔を同時に召喚し、何度も能力を使わせたあと、アクアリヴァイアスの攻撃まで受けた。その負担は、召喚者であるエドガーにも残っていた。
長い通路の先へ進むにつれて、壁に取りつけられた魔法灯が一つずつ灯っていく。
誰かが火をつけているわけではない。
エドガーが近づくたびに淡い白色の光が生まれ、通り過ぎると再び暗闇へ戻っていった。
やがて、大きな扉の前で足を止める。
扉にも時計の紋章が刻まれていた。
エドガーが左手をかざす。
手の甲に刻まれた《4》が淡く光った瞬間、内部で何か巨大な歯車が動き始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
重い石扉が左右へ開いていく。
その向こうにあったのは、円形の広間だった。
高い天井を十二本の黒い柱が支え、それぞれの柱には一から十二までの数字が刻まれている。中央の床にも巨大な時計盤を思わせる模様が描かれ、十二の数字を結ぶように銀色の線が走っていた。
けれど、広間にいる者は多くなかった。
黒い服をまとったいくつかの人影が、柱の近くや壁際に立っている。
顔が見える者もいれば、暗がりに隠れている者もいる。
誰もエドガーへ駆け寄らない。
何があったのか尋ねる声もなかった。
ただ、広間へ入ってきたNo.4へ、いくつもの視線だけが向けられた。
エドガーは中央まで進んだ。
そこで初めて足を止める。
「戻りました」
静かな声が広間へ響いた。
返事はすぐにはなかった。
天井のどこかで、巨大な時計の針が動くような音だけが聞こえている。
カチッ――。
一度。
さらに少し間を置いて、もう一度。
カチッ――。
やがて広間の奥から声がした。
「報告を」
短い言葉だった。
誰も余計なことを話さない。
エドガーも同じだった。
抱えていた《悪魔の魔導書》を閉じたまま、淡々と口を開く。
「ゴブリン王国で確認した本について報告します」
広間にいた者たちの視線が集まった。
「対象が所持していた本は、間違いありませんでした」
そこで一度言葉を切る。
エドガーの頭に、青い光に包まれたあの広間が蘇っていた。
何も描かれていなかったはずの本。
《人魚の旋律》との共鳴。
青い海。
そこから現れた人魚。
そして、深海から浮上してきた十五メートルを超える巨大な幻獣。
エドガーの表情はほとんど変わらなかった。
「☆5――《幻獣種召喚の本》です」
それまで動かなかった人影の一つが、僅かに顔を上げた。
別の場所からも、小さく衣擦れの音が聞こえる。
ほんの僅かな変化だった。
それでも、その場にいる者たちにとって《☆5》という言葉が無視できるものではないことは明らかだった。
広間の奥から声が返ってくる。
「確認方法は」
「召喚を確認しました」
今度は、先ほどよりはっきりと空気が変わった。
エドガーは続ける。
「対象が所持していた別のアイテムと本が共鳴し、幻獣種が召喚されました。最初に人魚型の個体、その後に大型の共生幻獣が出現しています」
脳裏に、三本の透明な角が浮かぶ。
星座のような銀白色の模様。
巨大な胸びれ。
そして、ベルガとゼルグを一撃でまとめて押し流した青い奔流。
「大型個体は全長十五メートル以上。ベルガとゼルグの二体を同時に攻撃し、両個体へ損傷を与えました」
広間の片隅から声がした。
「ベルガとゼルグを?」
エドガーがそちらを見る。
「はい」
「一撃で?」
「少なくとも、私が確認した大規模攻撃は一度です」
短い沈黙が落ちた。
ベルガは正面からの力に優れ、ゼルグは複数の敵を相手にする速度と視野を持つ。
戦い方の異なる二体を同時に押し返した。
それだけで、召喚された存在が通常の魔物とは違うことは十分に伝わった。
広間の奥から、再び問いが飛ぶ。
「本は」
エドガーは僅かに目を伏せた。
「回収できませんでした」
誰も声を上げなかった。
責める言葉もない。
だからこそ、静けさが重かった。
「人質として現地のゴブリンを拘束し、本との交換を要求しました。対象は要求に応じるように見せかけて接近し、同行していた精霊に拘束を破壊させました。その後、ベルガとゼルグを召喚して回収を試みましたが、先ほど報告した幻獣種が出現しました」
エドガーの左手が、《悪魔の魔導書》の表紙へ触れる。
「大型個体は空間そのものへ海路を形成する能力を持っています。対象一行はその個体の背へ乗り、形成された門を通って離脱しました」
「追跡は」
「不可能でした。門は直後に閉じています」
そこまで報告すると、エドガーは口を閉じた。
再び、時計の音だけが広間に響く。
カチッ――。
フールたちは知らない。
自分たちが昨日ようやく知った《☆5》という言葉を、ここにいる者たちは最初から知っている。
百万コインで交換した本がどれほど希少なのか。
《幻獣種召喚の本》という名前が何を意味するのか。
そして、その本から本当に幻獣種が現れることまで、今ここで確認された。
広間の奥から声がした。
「幻獣種の詳細を」
「人魚型は《シャイニー》と呼ばれていました。大型個体は《アクアリヴァイアス》。二体は別々に召喚されたというより、強いつながりを持つ個体同士と見たほうが自然です」
エドガーは、自分が見たものだけを報告していく。
「人魚型は水を自在に操り、防御、拘束の両方を行いました。大型個体はそれを遥かに上回る規模で水を操ります。さらに、対象の言葉へ明確に反応していました」
「命令に従った?」
「少し違います」
エドガーが即座に否定した。
「使役されている魔物の反応ではありません。対象の意思を理解し、自ら応じているように見えました」
今度は、誰も質問しなかった。
その違いが何を意味するのか、ここにいる者たちは考えているようだった。
しばらくして、奥の声が尋ねる。
「本の登録数は確認したか」
「そこまでは確認できていません」
「そうか」
それだけだった。
エドガーは顔を上げる。
「再度、回収へ向かいますか」
返事が来るまで、少し時間があった。
「今は必要ない」
エドガーの眉が僅かに動く。
「しかし、☆5《幻獣種召喚の本》であることは確認できました」
「だからこそだ」
静かな声だった。
「一度召喚に成功した以上、以前と同じ方法で回収できるとは考えないほうがいい。今回の情報を整理する」
「……了解しました」
エドガーはそれ以上何も言わなかった。
命令されたことだけを受け入れ、頭を下げる。
そのときだった。
広間の別の場所から、低い声が聞こえた。
「赤い髪の子供だったか」
エドガーがそちらへ目を向ける。
「はい」
「名前は?」
一瞬だけ沈黙したあと、エドガーが答える。
「フールです」
その名前が広間へ落ちた。
誰も声を上げない。
けれど、奥にいた人影の一つだけが、ほんの僅かに動いた。
あまりにも小さな変化だったため、それに気づいた者がいたのかさえ分からない。
エドガーも何も言わなかった。
「ほかに報告は」
「ありません」
「休め。ベルガとゼルグも、しばらく召喚するな」
「了解しました」
エドガーは頭を下げ、踵を返した。
来たときと同じように、靴音だけを響かせながら巨大な扉へ向かっていく。
扉が閉じる直前、中央に描かれた時計盤が一瞬だけ魔法灯の光を反射した。
十二の数字。
十二本の柱。
そのいくつかの前に立つ、黒い人影。
ゴブリン王国で起きた出来事は、これで終わったわけではなかった。
フールたちが王宮で《合成の聖杯》を受け取っていたころ、その遥か遠くでは、同じ旅の出来事がまったく別の意味を持って報告されていた。
☆5《幻獣種召喚の本》。
幻獣種。
共生幻獣。
そして――フール。
TIMEは、そのすべてを知った。
ただし彼らが何を目的としているのかは、まだ誰にも分からなかった。




