第95話 王様からの贈り物
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、右足を包んでいる重たい感覚だった。
昨日までのような鋭い痛みはかなり弱くなっていたけれど、少し動かそうとすると包帯の奥から鈍い痛みが返ってくる。治療役から何度も言われた《絶対安静》という言葉を思い出し、私は動かしかけた足を大人しく元の位置へ戻した。
「……動かしてないからね」
『誰に言ってる?』
枕元にいたメリーが首を傾げる。
「治療役の人がいなくても、ちゃんと約束を守ってるってこと」
『えらい。でも普通』
「メリーまで厳しくなってない?」
メリーが小さく笑った。
窓から差し込む朝の光が治療室を明るく照らしている。隣の治療台ではチェック兄貴が身体を起こせるくらいまで回復していたけれど、拘束されていた痕はまだ腕や身体に残っているため、治療役から今日いっぱいは大人しく休むよう言われていた。
その周りには、朝から赤、緑、黄色が集まっている。
「兄貴、朝ご飯は全部食べられたでぷ?」
「食べたでぷ。だから何回も確認しなくていいでぷ」
赤の顔がぱっと明るくなった。
「ご飯が食べられたなら、もう大丈夫でぷ!」
「その判断基準、まだ続いてたのでぷ? 俺が捕まってから、お前らの中で何が起きたでぷ」
「ゴブリン基準でぷ!」
「勝手にゴブリン全体の基準にするなでぷ」
チェック兄貴が呆れた声を出し、緑と黄色が笑った。
そんな声を聞きながら、私は枕元に置いてある鞄へ目を向ける。
中には☆5《幻獣種召喚の本》が入っている。
昨日までは何となく持ち歩いていた本なのに、世界中でも確認されている☆5が五つにも満たないかもしれないと教えられてからは、鞄に入っているだけで妙に意識するようになってしまった。
オラクルからも、必要がない限り人前では出すなと言われている。だから今朝は一度も開いていないけれど、最初のページにシャイニーとアクアリヴァイアスが刻まれていることは覚えている。
残された白紙は五つ。
でも、焦って埋める必要はない。
お父さんとお母さんを探して旅を続け、その途中で何かにつながったときに、また新しい出会いが生まれる。それでいいと思えるようになっていた。
そんなことを考えていると、治療室の扉が開いた。
「フールちゃん、起きてるでぷ?」
治療役のゴブリンが顔を覗かせる。
「起きてるよ」
「王様が呼んでるでぷ。動けるなら来てほしいそうでぷ」
「王様が?」
私は反射的に身体を起こし、そのまま治療台から降りようとしたけれど、右足が床へ近づくより先に治療役が慌てて止めた。
「何で普通に歩こうとしてるでぷ! 昨日、絶対安静って言ったばっかりでぷ!」
「でも王様が呼んでるんでしょ?」
「呼ばれたことと、歩いていいことは別でぷ!」
「……確かに」
「今気づいたのでぷ!?」
赤たちの笑い声が治療室に響いた。
結局、私は右足を固定したまま、車輪の付いた椅子へ座らされることになった。ちょうどそこへオラクルが車椅子で入ってきたので、私は自分の椅子と見比べる。
「オラクルとお揃いだね」
「嬉しくねえよ」
「私はちょっと楽しいよ。これなら足も痛くないし」
「昨日あれだけ怒られたのに、足以外は相変わらず元気だな」
オラクルは煙草を咥えたまま私の椅子の後ろへ回り、面倒そうな顔で取っ手を掴んだ。
「で、俺が押すのか?」
「お願い」
「金取るぞ」
「仲間から取るの!?」
「冗談だ。お前は黄色じゃあるまいし、本気にすんな」
「黄色でも仲間から取らないでぷ!」
後ろから黄色が抗議し、また笑いが起きた。
赤、緑、黄色も一緒についてくることになり、メリーはいつものように私の肩へ座った。
王様が待っていたのは大広間ではなく、王宮の奥にある小さな謁見室だった。壁にはゴブリン王国の旗が掛けられ、奥には王様が座る椅子がある。そのすぐ横には見覚えのないゴブリンが二匹立っていて、二匹の間には腰ほどの高さがある古い木箱が置かれていた。
部屋へ入った瞬間から、その箱が気になった。
「来たでぷね」
「うん。でも今日は何の話?」
私の視線が木箱へ向いていることに気づいたのか、王様が少し笑った。
「昨日のTIMEについての話ではないでぷ。今日は別の用事で呼んだでぷ」
オラクルが車椅子を止め、木箱を見る。
「その箱と関係ありそうだな」
「そうでぷ。でも、その前にフールちゃんへ改めて言っておきたいことがあるでぷ」
王様は私へ向き直った。
「フールちゃん。王国の試練、優勝おめでとうでぷ」
「ありがとう!」
レースのことを思い出すと、今でも胸が少し熱くなる。
十九位まで順位を落としたことも、海や砂漠、ピラミッド、毒沼、氷雪区間を必死に走ったことも、最後にピンクお姉ちゃんと競り合ったことも覚えている。
昨日のエドガーとの戦いがあまりにも濃すぎて、もう何日も前の出来事のように感じてしまうけれど、まだほとんど時間は経っていない。
「今回フールちゃんに受けてもらった試練は、一つだけでぷ。でも、あの試練で見たかったのは、誰が一番速く走れるかだけではなかったでぷ」
「速さを競うレースなのに?」
「もちろん速さも必要でぷ。でも、それだけなら最初から一番速いマシンを用意して、一直線の道を走らせればいいでぷ」
言われてみれば、その通りだった。
あのコースには、速く走るだけではどうにもならない場所がいくつもあった。
「どこで進み、どこで速度を落とし、何を使って何を残すのか。最後まで走り切るために、自分で考えて選べるかを見る試練でもあったでぷ」
海ではBを取りに遠回りし、砂漠では順位を捨てて速度を落とした。ピラミッドでは罠を見るために鬼殺しを温存し、毒沼では青い光を信じて正規ルートから外れた。氷雪区間でも前のマシンだけを追うのではなく、路面や障害物を見ながら進んだ。
王様は、そんな私の選択を見ていたらしい。
「途中で何度も順位を落としても、フールちゃんは焦って全部を一度に取り返そうとはしなかったでぷ。その結果、最後には一位でゴールしたでぷ。だから試練は立派に終えたと認めるでぷ」
「うん」
褒められると少し照れくさくて、私は笑いながら頷いた。
けれど、王様の話はそこで終わらなかった。
「ただし、これから渡すものは試練の優勝賞品ではないでぷ。本当なら、試練を終えただけで渡すつもりはなかったでぷ」
「じゃあ、何で私に?」
王様は、昨日の出来事を振り返るように少し間を置いた。
「試練が終わったあと、チェックがTIMEに捕まったでぷ。そのときフールちゃん自身も怪我をしていたのに、知らせを聞くと助けに向かったでぷね。そしてTIMEから、《幻獣種召喚の本》を渡せばチェックを解放すると言われたでぷ」
私は小さく頷いた。
「あのときは☆5だという本当の価値さえ知らなかったのに、それでもフールちゃんは簡単に本を渡さなかったでぷ」
「本が高そうだから渡さなかったわけじゃないよ。渡したあとにチェック兄貴を本当に返してくれるか分からなかったし、何に使うのか分からないものをTIMEへ渡していいとも思えなかったから」
「それでいいでぷ。でも、本を守るためにチェックを諦めたわけでもなかったでぷ」
私は肩にいるメリーを見る。
メリーが小さな胸を張った。
『メリーが壊した』
「うん。メリーがいてくれたから、別の方法を試せたんだよ」
赤もすぐに胸を張った。
「赤たちも兄貴を助けたでぷ!」
「黄色も運んだでぷ!」
「緑もフールちゃんを守ったでぷ!」
オラクルが面白そうに笑った。
「こうして聞くと、お前一人じゃほとんど何もしてねえな」
「分かってるよ! だから助かったんだと思う。私一人だったら、チェック兄貴も本も守れなかったよ」
王様は、その言葉を聞いて静かに頷いた。
「そこも含めて、これをフールちゃんに託していいと思ったでぷ」
王様が合図を送ると、木箱の両側に立っていたゴブリンたちが前へ出た。
二匹が同時に蓋へ手を掛ける。
古い金具が低く軋み、重そうな蓋がゆっくり持ち上がった。
中には柔らかな布が何重にも敷かれ、その中央に一つの聖杯が置かれていた。
全体はくすんだ銀色で、新品のような輝きはない。表面には長い年月を過ごしてきたことが分かる細かな傷が無数に刻まれているのに、古びて汚いとは感じなかった。
杯の縁には見たことのない文字が一周するように彫られ、その下には二本の流れが中央で一つへ重なるような紋様がある。細い脚から台座にかけても同じ模様と古代文字が続いていて、宝石一つ付いていないのに不思議と目を引いた。
私は昨日教えられたことを思い出し、真っ先に確認した。
「……待って。これ、☆付きじゃないよね?」
一瞬だけ部屋が静かになり、次の瞬間、オラクルが吹き出した。
「ようやく学習したか」
「だって昨日あんな話を聞いたんだもん! 今度は先に確認するよ!」
王様まで楽しそうに笑った。
「安心するでぷ。これは☆付きアイテムではないでぷ。ずっと昔からゴブリン王国に伝わってきた、古代のアイテムでぷ」
「古代のアイテム……」
私は改めて聖杯を見た。
「名前は《合成の聖杯》でぷ。異なるものを、一つへ合わせる力を持つと言われているでぷ」
箱の中で、古びた銀色の聖杯が静かに朝の光を反射していた。




