第92話 六つの白紙
アクアリヴァイアスが岸の少し手前まで来ると、巨大な身体をゆっくり傾け、私たちが降りやすい高さまで背中を下ろしてくれた。
最初にシャイニーがオラクルへ手を向けると、青い水流が車椅子ごと身体を包み込み、少しも傾けることなく岸まで運んでいく。続いてチェック兄貴の身体も水に包まれ、赤と黄色が一緒についていこうとしたため、結局三匹まとめて宙へ浮かぶことになった。
「また浮いたでぷ!」
「赤、暴れるなでぷ! 兄貴まで揺れるでぷ!」
「黄色のほうが暴れてるでぷ!」
「お前ら二匹とも静かにするでぷ!」
三匹の声が湖へ響き、シャイニーが可笑しそうに笑う。そのままチェック兄貴たちは無事に岸へ下ろされ、緑も続いて地面へ降りた。
最後は私の番だった。
『右足へ体重を掛けないで』
「うん」
シャイニーの水流へ身体を預けると、アクアリヴァイアスの背中が少しずつ遠ざかり、代わりに湖岸の草と土が近づいてくる。左足からゆっくり地面へ降りたところで、先に下りていた緑がすぐ隣へ来て身体を支えてくれた。
「ありがとう、緑」
「今日はもう絶対に走っちゃ駄目でぷよ」
「分かってるってば」
「信用できないでぷ」
「緑までそんなこと言うの!?」
赤と黄色が笑っている。
私も言い返そうとしたけれど、湖へ目を向けた瞬間、その言葉は出てこなくなった。
水面にはシャイニーとアクアリヴァイアスが残っていた。
陽射しを受けたシャイニーの長い髪は水色と銀色の間を揺れ、透き通った尾びれの周囲では青い光が小さな魚のように泳いでいる。その後ろでは、十五メートルを超えるアクアリヴァイアスが身体の半分を湖へ浮かべ、深い蒼色の瞳でこちらを見つめていた。
ついさっき出会ったばかりなのに、もうずっと一緒に旅をしていたような気がする。
「シャイニー……もう帰るんだよね?」
『ええ。この世界にずっと留まっていることはできないから』
分かっていたはずなのに、実際に別れる時間が来ると少し寂しかった。
私は鞄から《幻獣種召喚の本》を取り出した。
最初のページにはシャイニーとアクアリヴァイアスの姿が刻まれ、その下には《登録 1/6》の文字がある。さらにページの端には、さっきまでなかった新しい表示が淡く輝いていた。
《召喚解除可能》
「これに触れればいいの?」
『ええ。そうすれば私たちは元の場所へ戻るわ』
私はすぐには触れず、シャイニーを見る。
「また呼べる?」
『もちろんよ。《人魚の旋律》とのつながりは、もうこの本に刻まれたもの。あなたが私たちを必要として、本が道を開ける状態なら、また会えるわ』
「本当に?」
『ええ。だから、そんなに寂しそうな顔をしないの』
シャイニーが優しく笑った。
その言葉を聞いて、胸の中にあった寂しさが少しだけ軽くなる。
今日で終わりじゃない。
また会える。
だったら、これはお別れじゃない。
「シャイニー、今日はありがとう。二人が来てくれなかったら、チェック兄貴を連れてみんなで帰れなかった」
『私はあなたに呼ばれて来ただけよ』
「それでも助けてくれたのはシャイニーたちでしょ?」
私はアクアリヴァイアスにも大きく手を振った。
「アクアリヴァイアスもありがとう! ベルガとゼルグから守ってくれて、《蒼海門》でここまで連れてきてくれて、本当にありがとう!」
巨大な蒼い瞳が静かに私を見つめる。
やがてアクアリヴァイアスは大きな頭を少しだけ下げ、湖面を震わせるような低く優しい声で鳴いた。
――ォォォン……。
言葉は分からない。
それでも、今度は何となく伝わった気がした。
また会おう。
そう言ってくれているように聞こえた。
私は《幻獣種召喚の本》へ視線を戻し、《召喚解除》の文字へそっと手を置く。
「またね、シャイニー。アクアリヴァイアス」
『ええ。また会いましょう、フール』
ページから青い光が溢れた。
その光に呼応するように、アクアリヴァイアスの巨大な身体が尾の先から少しずつ光へ変わっていく。
深い蒼色の鱗が一枚ずつ輪郭を失い、身体に刻まれていた銀白色の星座模様が小さな光となって空へ浮かび上がる。二枚の巨大な尾びれも、翼のような胸びれも、三本の透明な角も、ゆっくりと青い星へ変わっていった。
十五メートルを超える身体が消えていくのに、怖さはなかった。
むしろ夜空に無数の星が生まれていくようで、誰も声を出さずに見上げていた。
最後まで残ったのは、深い蒼色の大きな瞳だった。
その瞳が私を見つめる。
――ォォォォン……。
もう一度、優しい鳴き声が響いた。
次の瞬間、アクアリヴァイアスの姿は何千もの青い光へ変わり、湖の上いっぱいに広がった。
風に流されているわけではない。
光は一つずつ空へ昇り、昼間なのに星が帰っていくように、青空の中へ溶けていった。
その光の中心には、シャイニーだけが残っていた。
『フール』
「うん」
『旅を続けて』
シャイニーの視線が、私の持つ《幻獣種召喚の本》へ向く。
『残りの白紙を、急いで埋めようとしなくていいわ。あなたが歩いた先で必要な出会いがあれば、いつか本のほうから教えてくれるから』
私は本を胸へ抱いた。
《登録 1/6》。
残された五つのページには、まだ《未確認》の文字しかない。
でも、もうその白紙を不安には思わなかった。
「分かった。私はお父さんとお母さんを探す。その旅を続けながら、自分で出会っていくよ」
『それでいいわ』
シャイニーが微笑む。
それから何かを思い出したように、私の右足へ視線を落とした。
『それと、もう一つ』
「何?」
『ちゃんと治療するのよ』
「……はい」
『返事に間があったわね』
「ちゃんと行くって!」
シャイニーが楽しそうに笑った。
その身体も淡い青色の光に包まれ始める。
水色と銀色の間を揺れていた長い髪も、透き通った尾びれも、海そのものを閉じ込めたような青い瞳も、少しずつ小さな光へ変わっていった。
最後に《人魚の旋律》と同じ澄んだ音が湖へ響く。
――リィィン……。
青い光が空へ昇った。
シャイニーの姿が消える。
湖には、静かな波だけが残った。
私はしばらく、その場所から目を離せなかった。
寂しくないと言えば嘘になる。
でも、もう会えないわけじゃない。
私は《幻獣種召喚の本》を開き、最初のページへ描かれた二人を見た。
シャイニー。
アクアリヴァイアス。
ずっと《未確認》だった本の最初の一ページは、もう白紙ではない。
残りは五つ。
そこに誰が現れるのかは、まだ分からない。
だからこそ、少し楽しみだった。
私は本を閉じ、鞄へ大切にしまった。
第一の幻獣種との出会いは、これで終わったわけじゃない。
旅を続けていれば、きっとまた会える。
そして残された五つの白紙にも、いつか新しい出会いが刻まれていく。
そう思いながら、私は二人が消えた湖をもう一度だけ見つめた。




