第91話 蒼海門
アクアリヴァイアスが私たちの前まで身体を下ろすと、深い蒼色の背中に刻まれた銀白色の模様が、呼吸に合わせるようにゆっくり明滅した。
近くで見る背中は想像していた以上に広かった。十五メートルを超える身体だから、赤たちだけでなくオラクルの車椅子まで十分に乗せられそうだ。硬そうに見えた鱗の表面には薄い水の膜が流れ、星座のようにつながった銀白色の模様がところどころ緩やかに盛り上がっている。
「ここに乗るんだ……」
さっきまでベルガとゼルグを相手にしていたことを忘れそうになるほど胸が高鳴ったけれど、最初の一歩を踏み出そうとした瞬間、右足の傷へ鋭い痛みが走った。
「っ……!」
身体が傾き、慌てて左足へ体重を移す。
戦っている間に何度も無理をしたせいで、右足はここへ来たときより明らかに悪くなっている。アクアリヴァイアスが目の前まで背中を下ろしてくれていても、自分の力だけで登るのは難しそうだった。
『無理をしないで』
シャイニーが片手を向けると、足元に残っていた幻想の海から柔らかな水流が立ち上がった。
水は私の身体を包み込むように持ち上げる。濡れている感覚はないのに全身を優しく支えられているのが分かり、右足へほとんど負担を掛けないままアクアリヴァイアスの背中まで運ばれていった。
「わっ……!」
着地すると、メリーも肩から飛び降りた。
小さな両手で蒼い鱗へ触れ、何度か撫でてから嬉しそうに私を見る。
『つるつる』
「本当だね。もっと硬いと思ってた」
『冷たい』
「でも気持ちいいね」
下からオラクルの声が飛んできた。
「お前ら、乗った瞬間に遊び始めんな。まだ敵がいるんだぞ」
「分かってるよ! ちょっと触っただけでしょ!」
言い返しながら下を見ると、赤と黄色がチェック兄貴を左右から支えたまま困っていた。
「兄貴、登れるでぷ?」
「この状態で十五メートルの幻獣に自力で登れって言ってるなら、お前は兄貴に厳しすぎるでぷ」
「じゃあ、赤と黄色で投げるでぷ?」
「怪我人を投げるなでぷ!」
「二匹で投げれば届きそうでぷ」
「届くかどうかの問題じゃないでぷ!」
三匹が揉めているのを見て、シャイニーが思わず笑った。
『そのままでいて』
青い水流がチェック兄貴と赤、黄色の足元へ広がり、三匹まとめてふわりと持ち上げる。
「おおおっ、浮いたでぷ!」
「兄貴、落ちないでぷよ!」
「暴れてるお前らのほうが危ないでぷ!」
赤と黄色は初めて味わう浮遊感に手足を動かしていたけれど、チェック兄貴ごと安全に背中へ運ばれてきた。緑も続いて乗り込み、最後にはオラクルまで車椅子ごと水流に包まれる。
「まさか車椅子のまま幻獣に乗る日が来るとはな」
「そのほうが楽でしょ?」
「お前と旅してると、大抵のことじゃ驚かなくなってくるな」
「何で私のせいなの?」
オラクルの車椅子が背中へ着地すると、その周囲へ青い水が薄く絡みつき、車輪をしっかり固定した。
私は改めて全員を確認する。
赤、緑、黄色。
チェック兄貴。
オラクル。
メリー。
そしてシャイニー。
誰も置いていない。
「みんな乗ったね。行こう!」
アクアリヴァイアスが大きな頭を持ち上げ、三本の透明な角から淡い光を伸ばし始めた。
その直後だった。
「行かせると思うか?」
広間の奥から、エドガーの声が響いた。
振り返る。
《アクア・ノヴァ》を受けたベルガとゼルグが、再び身体を起こしていた。
ベルガは黒い外皮の一部を失い、右肩から胸にかけて赤黒い光を漏らしている。片方の角には細かな亀裂まで入っていたけれど、五メートルを超える巨体にはまだ戦う力が残っていた。
ゼルグも四本ある腕の一本を力なく垂らしているものの、残った腕の爪を広げ、六つの目で私たちとアクアリヴァイアスを追っている。
エドガーは新しい悪魔を呼び出すのをやめ、魔導書をベルガとゼルグのページへ戻した。
「出口を塞げ」
二体が同時に動く。
ベルガは巨体で正面の通路へ回り込み、ゼルグは石床へ手をついた。
「《影走》」
黒紫色の身体が床へ溶けるように沈み、一本の影となって出口へ向かう。
「先回りされるでぷ!」
赤が剣へ手を伸ばした。
けれど、シャイニーは正面の出口を見ていなかった。
『そのままでいいわ』
「でも、出口を塞がれちゃうよ!」
『フール。海に道が一つしかないと思う?』
「え?」
シャイニーが向いたのは、出口とはまったく違う方向だった。
そこにあるのは分厚い岩壁だけで、扉も通路もない。
『アクアリヴァイアス』
――ォォォォォン……。
巨大な幻獣が低く応えた。
《人魚の旋律》も呼応するように鳴り、二つの音が重なった瞬間、広間の床に残っていた幻想の海が一斉に動き始めた。
青い光が波のように壁や石柱を伝い、シャイニーが見つめる岩壁へ集まっていく。アクアリヴァイアスの三本の角も同時に輝き、青白い光が一本の筋となって岩肌へ触れた。
「壁を壊すの?」
『壊さないわ』
シャイニーは静かに微笑んだ。
『開くのよ』
岩壁へ、小さな波紋が生まれた。
最初は手のひらほどしかなかった青い輪が、ゆっくり外側へ広がっていく。一メートル、三メートルと大きくなり、やがて十五メートルを超えるアクアリヴァイアスさえ通れそうな巨大な円になった。
その内側で、岩の色が消えていく。
灰色だった岩肌が水色へ変わり、さらに深い蒼へ染まる。
最後には、そこが岩壁だったことさえ信じられなくなった。
目の前に海があった。
青い水の向こうを魚の群れが横切り、遥か遠くでは水面から差し込んだ光が何本も揺れている。岩山の奥にいるはずなのに、壁一枚を隔てた先へ、どこまでも続く海が開いていた。
「壁の向こうが……海になったでぷ」
緑が呆然と呟く。
「どうなってるのでぷ?」
「私にも分からないよ……」
シャイニーの長い髪が、海から流れてくる水流に柔らかく揺れた。
『《蒼海門》』
巨大な青い波紋が一度大きく脈打つ。
『アクアリヴァイアスが海と海をつなぐために開く道よ』
「でも、ここ海じゃないよ?」
『今はつながったでしょう?』
「そういうものなの!?」
『そういうものよ』
シャイニーが当然のように答えた。
そのとき、エドガーの怒声が飛んだ。
「止めろ!」
ベルガが巨体を沈め、エドガーの指が魔導書をなぞる。
「《獄爪》!」
五本の巨大な爪が、アクアリヴァイアスの背中にいる私たちへ振り下ろされた。
「来る!」
私は銀白色の模様へしがみついた。
けれど、アクアリヴァイアスは十五メートルを超える巨体からは想像できないほど滑らかに身体を捻り、ベルガの爪を胸びれ一枚分ほどの差でかわした。
そのまま巨大な尾が横へ振られる。
ブワァンッ――!
足元の幻想の海が水流となって巻き上がり、ベルガの脇腹へ叩きつけられた。
「グォォォォッ!」
五メートルを超える巨体が横へよろめく。
アクアリヴァイアスは追撃せず、その隙に《蒼海門》へ向かって身体を滑らせた。
「本当にあそこへ入るの!?」
『しっかり掴まって』
「どこに!?」
『どこでもいいわ』
「それ一番困るやつ!」
私は慌てて銀白色の盛り上がった模様へ両腕を回した。赤たちも鱗や突起へ掴まり、オラクルの車椅子は青い水の膜で背中へ固定されている。
メリーだけは楽しそうに両手を上げた。
『海!』
「メリー、落ちないでね!」
『飛べる』
「そうだった!」
そのやり取りの直後、背後から石床を擦る音が迫ってきた。
黒い影がアクアリヴァイアスの横まで追いついている。
「ゼルグ!」
影が床から跳ね上がった。
傷ついているとは思えない勢いでゼルグが姿を現し、四本の腕を大きく広げる。
エドガーが技を発動させた。
「《四連魔爪》!」
十二本の爪が背後から迫る。
シャイニーは振り返らず、指先だけを後方へ向けた。
『《海流縛》』
《蒼海門》から流れ出した水が何本もの鞭へ変わり、ゼルグの腕へ巻きついた。
ゼルグが爪で水を切り裂くけれど、切った場所からすぐにつながり直し、今度は胴体まで締め上げていく。
「ギィィィィッ!」
ゼルグの身体が後ろへ引き戻された。
それでもエドガーは諦めない。
魔導書のページが切り替わる。
「ベルガ! 《冥獄砲》!」
ベルガが口を開いた。
喉の奥へ黒い光が集まり、広間の空気が低く震え始める。
「また来る!」
アクアリヴァイアスの頭部は、すでに《蒼海門》へ入っていた。
青い波紋が巨大な身体を包み、頭から胸びれ、そして私たちが乗っている背中まで、少しずつ岩山の広間から海の中へ移っていく。
視界の半分が岩山。
もう半分が海。
右を見れば傷ついたベルガとゼルグがいて、左を見れば青い水の中を魚の群れが泳いでいる。
二つの世界の境目を、アクアリヴァイアスが進んでいく。
「早く……!」
私は思わず背中へしがみつく腕に力を込めた。
ベルガの口の中で黒い光が完成する。
エドガーがこちらを睨んだ。
「逃がすか!」
《冥獄砲》が放たれた。
黒い光線が広間を切り裂き、一直線にこちらへ迫る。
「来るよ!」
赤たちも身を伏せる。
シャイニーが防ごうと手を上げたけれど、その前にアクアリヴァイアスが巨大な尾を一度だけ強く振った。
身体が一気に加速する。
「わああっ!」
私たちを乗せた巨体が《蒼海門》の奥へ滑り込み、最後に残っていた長い尾まで青い波紋の向こうへ消えていく。
黒い光が迫る。
ほんの僅かな差だった。
《冥獄砲》が《蒼海門》へ届く直前、巨大な青い円が外側から内側へ縮み始めた。
海が遠ざかる。
岩山の広間が水面越しに歪んでいく。
最後に見えたのは、傷ついた二体の悪魔と、魔導書を握り締めたままこちらを睨むエドガーだった。
青い波紋が一点へ収束する。
《冥獄砲》がその一点へ到達した瞬間――《蒼海門》が閉じた。
音が消えた。
悪魔の咆哮も、砕ける石の音も、エドガーの声も聞こえない。ついさっきまで身体を震わせていた戦いの轟音が嘘だったように、穏やかな水の音だけが周囲を満たしている。
私は銀白色の模様へしがみついたまま、すぐには顔を上げられなかった。
「……逃げられた?」
オラクルが後ろを確認する。
「ああ。門は閉じてる。追ってきてねえ」
その言葉を聞いて、ようやく腕から力が抜けた。
チェック兄貴を取り戻した。
《幻獣種召喚の本》も守った。
そして、誰一人置いてこなかった。
私はゆっくり顔を上げる。
その瞬間、目の前に広がっていた景色を見て息を呑んだ。
どこまでも続く青い海。
遥か上から差し込む無数の光。
色鮮やかな珊瑚礁の上を、何百匹もの魚たちが銀色の星のように泳いでいる。
その幻想的な海の中を、アクアリヴァイアスは私たち全員を背中へ乗せたまま、静かに進んでいた。
「……すごい」
戦いは終わった。
けれど私たちの前には、まだ見たことのない海が広がっていた。




