第90話 蒼海より来たる人魚の女王シャイニー
「お願い……力を貸して!」
《幻獣種召喚の本》へ手を置いた瞬間、ページから溢れ出した青い光が私の腕を伝い、広間いっぱいへ解き放たれた。
眩しいほど強い光なのに、不思議と目を閉じたいとは思わなかった。それは炎や雷のように激しく弾ける光ではなく、深い海の底から遥かな水面を見上げたときに差し込んでくる陽射しのようで、ゆっくりと揺らぎながら砕けた石床や折れた柱を青く染めていく。
エドガーの《悪魔の魔導書》から溢れていた黒い靄さえ、青い光が触れた場所から押し退けられていった。
ベルガの咆哮も、ゼルグの爪が石床を引っ掻く音も止まり、ほんの一瞬だけ広間から戦いの気配が遠ざかる。
その静けさの中で、それまで存在しなかった音が聞こえた。
――ちゃぷん。
小さな波が岸へ寄せるような、穏やかな水音だった。
「……水?」
私は思わず足元を見る。
ひび割れた石床の上に、青い波紋が浮かんでいた。
最初は私の足元だけだった一つの輪が二つ、三つと重なりながら広がり、赤たちの足元を越え、ベルガとゼルグのいる場所にまで届いていく。それでも本物の水が流れ込んできたわけではなく、足は沈まない。石床の硬さはそのままなのに、その表面だけが透き通った海へ変わったように揺れ、天井や壁へ青い光を映し返していた。
その水面の下を、一匹の小さな魚が泳いでいった。
「え……?」
私は目で追った。
続いて二匹目が現れ、その向こうを銀色の小魚の群れが横切っていく。さらに奥には色鮮やかな珊瑚が揺れ、ほんの少し前まで石しかなかったはずの床の下へ、どこまでも深い海が広がっていた。
「床の下に……海があるでぷ」
緑が本を抱えたまま呆然と呟く。
赤も剣を構えた姿勢のまま固まり、黄色はチェック兄貴を支えながら何度も足元を見ていた。
「落ちないのでぷ?」
「落ちたら兄貴も一緒でぷ。試すなでぷよ」
「試さないでぷ!」
チェック兄貴の声が聞こえたけれど、私も返事をする余裕がなかった。
五メートルを超える《黒角鬼ベルガ》も、六つの赤い目を持つ《六眼刃鬼ゼルグ》も、突然現れた青い世界を警戒するように動きを止めている。
そしてエドガーでさえ、開いた魔導書へ手を置いたまま何もしていなかった。
視線は私ではない。
私の手の中で青く輝いている《幻獣種召喚の本》へ向けられていた。
その静寂の中、《人魚の旋律》が鳴った。
――リィィィン……。
澄んだ音が広間の隅々まで届いた瞬間、足元の海から無数の光が浮かび上がった。
青、水色、銀、淡い紫。星のような光が水面を抜け、ゆっくりと私たちの周囲へ昇ってくる。一つ一つの光が戦いで舞い上がった埃を照らし、傷だらけだった岩山の広間を、夜の海の底へ沈めたような景色へ変えていった。
私は《幻獣種召喚の本》を抱えたまま、その光景に見入っていた。
さっきまで怖くて仕方なかったはずなのに、胸の奥が少しずつ静かになっていく。
リーリエで《人魚の旋律》を手に入れたときに感じた、どこか懐かしい響き。それが今は一つの音ではなく、遠い海の向こうにいる何かを呼び寄せる歌のように広がっている。
やがて、私の正面にある水面へ無数の光が集まり始めた。
青い光の中心から最初に現れたのは、一本の長い髪だった。
水色とも銀色とも呼べない不思議な色をした髪が水面からふわりと浮かび上がり、その周囲へ何本もの髪が続いていく。水の中にいるわけでもないのに一本一本が柔らかく漂い、星の光を散りばめたような輝きを帯びていた。
その下から白い額と閉じられた瞼が現れ、続いて細い肩と腕、人間の女性によく似た上半身が青い光の中からゆっくり姿を見せる。
けれど、腰から下に二本の脚はなかった。
青銀色の細かな鱗に覆われた長い尾が水面から現れ、その先には薄い硝子細工のように透き通った大きな尾びれが広がっている。尾びれの中には青白い光が脈のように流れ、僅かに揺れるだけで周囲へ小さな光の粒が舞った。
私は息をすることさえ忘れていた。
綺麗だった。
可愛いとか、美人とか、そういう言葉だけでは足りない。本当に物語の中から抜け出してきたような、私たちとは少し違う世界に生きている存在に見えた。
人魚は青い光に包まれたまま水面から完全に浮かび上がり、長い尾を緩やかに揺らした。耳の後ろには水晶のように透明な小さなひれがあり、首元には真珠に似た光の粒がいくつも浮かんでいる。
やがて、閉じていた瞼がゆっくり開いた。
そこにあったのは、海をそのまま閉じ込めたような瞳だった。
浅瀬を思わせる透き通った水色と、底の見えない深海の蒼が一つの瞳の中で重なり、顔の向きを変えるたびに色まで僅かに揺れて見える。
その瞳が、最初に私を見た。
《人魚の旋律》が応えるように鳴る。
――リィン。
人魚の表情が柔らかくなった。
『やっと、届いた』
声が聞こえた。
耳元で囁かれたわけではないのに、澄んだ声が水の中を伝わってくるように頭の中へ届いてくる。
私は《幻獣種召喚の本》を抱えたまま、人魚を見上げた。
「あなたが……人魚?」
人魚は僅かに首を傾げ、それから微笑んだ。
『そう呼ばれているわ。でも、私にもちゃんと名前があるの』
彼女の周囲を泳いでいた小魚たちが一斉に集まり、青い光の輪を作る。
『シャイニー』
「シャイニー……」
名前を口にした瞬間、《幻獣種召喚の本》のページが強く光った。
《幻獣種――人魚》
その文字の下へ、新しい名前が青い光で刻まれていく。
《シャイニー》
私はページと目の前の人魚を何度も見比べた。
これが召喚。
ずっと白紙だった☆5《幻獣種召喚の本》から、初めて現れた幻獣種。
「私はフール」
『知っているわ』
「え?」
『あなたが《人魚の旋律》を持っていたから、遠くから声だけは感じていたの。でも、本との道がつながっていなかったから、あなたのところまで来ることができなかった』
私は右手に握っている《人魚の旋律》へ目を落とした。
だから《未確認》だったんだ。
本だけでは足りなかった。
召喚する幻獣種とつながる何かを旅の中で見つけ、それを本が確認して初めて、こちらと向こうを結ぶ道が開く。
その意味がようやく分かりかけたところで、低い声が幻想的な空気を切り裂いた。
「いつまで話している」
私は我に返った。
エドガーが魔導書へ手を置いている。
「何者であろうと、召喚された存在なら消せばいい」
指がベルガのページへ触れた。
五メートルを超える巨体が頭を持ち上げ、口の奥へ黒い光を集め始める。さっきメリーと緑が二人掛かりでようやく防いだ攻撃だと気づき、私は反射的にシャイニーへ叫んだ。
「危ない! シャイニー、逃げて!」
エドガーが冷たく告げる。
「《冥獄砲》」
ベルガの口から黒い光線が放たれた。
一直線に広間を切り裂き、シャイニーへ迫る。
けれど、彼女は逃げなかった。
ベルガを見つめたまま片手を上げると、周囲を泳いでいた魚たちが一斉に向きを変え、青い水面へ飛び込んでいった。
『ずいぶん騒がしいところへ呼んでくれたのね、フール』
「ご、ごめん!」
こんなときに謝っている場合じゃないのに、思わず声が出た。
シャイニーは小さく笑う。
『謝らなくていいわ。あなたが助けを求めたから、私はここにいるのだから』
細い指先が、迫る黒い光へ向けられた。
『《蒼海鏡》』
足元の海が立ち上がった。
一枚の壁ではなかった。
左右から巨大な波がせり上がり、頭上で重なり合いながら半球状の水の膜へ変わって、私だけでなく赤たちやチェック兄貴、オラクルまでまとめて包み込む。
次の瞬間、《冥獄砲》が正面から激突した。
ズドォォォォンッ!!
黒い光が水面へ深く食い込み、広間全体が激しく震えた。
それでも《蒼海鏡》は砕けない。
衝撃を受けた場所から幾重もの波紋が広がり、《冥獄砲》の力そのものを水面全体へ逃がしていく。黒い光が強くなるほど波紋も大きくなったけれど、最後までこちら側へ突き抜けることはなかった。
やがて《冥獄砲》が細くなり、最後の黒い光まで青い水へ呑み込まれる。
シャイニーが指を下ろした。
半球状の水が一斉に弾け、何千もの青い雫となって広間へ降り注ぐ。その一粒一粒が石床へ落ちる前に光へ変わり、私たちの周囲を星のように漂った。
「すごい……」
メリーと緑が二人でようやく止めた攻撃を、シャイニーは一人で防いだ。
赤たちも言葉を失っている。
『きれい』
メリーだけは私の肩から手を伸ばし、目の前を漂う青い光へ触れようとしていた。
でも、エドガーは止まらなかった。
魔導書のページがめくられ、今度はゼルグの六つの目がシャイニーへ向く。
「《影走》」
ゼルグの身体が黒い影へ沈み、石床を走ってシャイニーの背後へ回り込む。
「シャイニー、後ろ!」
『見えているわ』
シャイニーは振り返らなかった。
影から飛び出したゼルグが四本の腕を広げ、十二本の刃のような爪を一斉に振り下ろす。
「《四連魔爪》」
シャイニーの尾びれが僅かに揺れた。
それだけで足元の海から一本の水流が立ち上がり、彼女の身体を包みながら宙へ押し上げる。ゼルグの十二本の爪は青い残光だけを切り裂き、何もない場所で激しく交差した。
『今度はこちらの番ね』
シャイニーが空中で両手を重ねる。
足元の海が大きく渦巻いた。
『《海流縛》』
渦から飛び出した何本もの水流が鞭のようにしなり、ゼルグの四本の腕へ巻きついた。
「ギィィィィッ!」
ゼルグが初めて苦しそうな声を上げる。
水流は腕だけでなく胴体と逆向きに曲がった両脚へまで絡みつき、六つの目を持つ三メートルの身体を石床へ引き倒した。
ゼルグは十二本の爪で水を切り裂こうとしたけれど、刃が通過した直後には水流がつながり直してしまう。
「ゼルグが止まったでぷ!」
赤が剣を握り直した。
「今なら行けるでぷ!」
「待って!」
私は反射的に赤を止めた。
シャイニーがゼルグを見ていなかったからだ。
彼女の青い瞳が向いているのは、私たちの足元に広がる海だった。
いや――もっと深いところ。
「シャイニー?」
彼女は答えず、静かに目を閉じた。
《人魚の旋律》が再び光を強める。
――リィィィィン……。
今までで一番長く、澄んだ音だった。
音が響くたび、足元に広がる海の色が少しずつ濃くなっていく。水色だった場所が蒼へ変わり、さらにその下には光さえ届かないような深い群青が現れた。
さっきまで魚や珊瑚が見えていたはずなのに、今は底がどこにあるのかさえ分からない。
私はその深さに吸い込まれそうになり、思わず息を止めた。
そのときだった。
遥か下。
光の届かない海の底で、一つの青い光が灯った。
「……何?」
光がゆっくり動く。
違う。
あれは光じゃない。
何かの目だ。
しかも、その周囲に巨大な影がある。
最初は遠すぎて形すら分からなかった影が、ゆっくりこちらへ昇ってきている。
近づくにつれて、その大きさが分かり始めた。
「大きい……」
ベルガより遥かに大きい。
長い身体が深海を泳ぐたび、周囲に漂っていた無数の青い光が星の群れのように後ろへ流れていく。
巨大な尾が一度動いた。
それだけで足元の海全体がうねり、広間の壁から天井まで青い波の光が駆け抜けた。
エドガーも気づいた。
「何だ……あれは」
その声から、初めて余裕が消えていた。
シャイニーがゆっくり目を開く。
青い瞳には、深海から昇ってくる巨大な影が映っている。
『私たち人魚は、広い海を自分たちだけで生きてきたわけではないの』
「じゃあ、あれは……?」
シャイニーの表情が、どこか懐かしそうなものへ変わった。
『古い友達よ』
その言葉と同時に、深海を昇っていた巨大な影が一気に加速した。
足元に広がる海のさらに奥から無数の気泡が湧き上がり、青や銀の光が星の群れのように巨大な身体の周囲へ集まっていく。最初は輪郭さえ分からなかった影も、こちらへ近づくにつれて少しずつ姿を現し始めた。
巨大なクジラにも見える頭部。
けれど、普通のクジラではない。
額からは王冠を思わせる三本の透明な角が後方へ伸び、その内側を青白い光が水の流れのように巡っている。身体を覆っているのは深海そのものを閉じ込めたような濃い蒼色で、背中から長い尾へ向かって銀白色の模様が星座のように連なっていた。
左右へ広がる胸びれは翼を思わせるほど大きく、縁に近づくほど水晶のように透き通っている。胸びれが海を押すたび、無数の光が舞い上がり、巨大な身体の後ろへ星屑のような軌跡を残していた。
「まだ大きくなる……」
こちらへ近づいているから、そう見えるだけじゃない。
本当に大きい。
五メートルを超えるベルガでさえ、その影と比べれば小さく見えてしまう。
赤たちも、エドガーも、誰一人として動かなかった。
ゼルグだけは《海流縛》から逃れようと四本の腕を動かしていたけれど、六つある目のうち二つは深海から迫る影へ向けられている。
やがて巨大な影が水面のすぐ下まで到達した。
私の足元を、その頭部が通過する。
「……!」
一瞬、床そのものが消えたのかと思った。
それほど大きかった。
頭が通り過ぎても身体が続き、その向こうには長い尾まで伸びている。全身が水面の下へ収まったところで、ようやくその大きさが十五メートルを超えていることが分かった。
シャイニーが静かに微笑む。
『来たわ』
次の瞬間、海が弾けた。
ドォォォォォンッ!!
巨大な水柱が広間の天井近くまで立ち上がった。
「きゃっ!」
私は反射的に腕で顔を庇った。
けれど、水飛沫は降ってこなかった。
宙へ舞い上がった何千、何万という水滴が、落ちる途中で青白い光へ変わっていく。
一つ一つは小さな光なのに、それが広間いっぱいへ広がると、本物の星空のようだった。
岩山の中にいることさえ忘れそうになる。
砕けた石床。
傷ついた柱。
黒い悪魔。
そのすべての上へ青い星が降り、中央を巨大な影がゆっくり昇ってくる。
最初に水柱を突き破ったのは、王冠のような三本の角だった。
続いて巨大な頭部が現れ、深い蒼色の身体が水面から浮かび上がっていく。大きな胸びれが左右へ開くたびに光の粒が押し流され、長い尾の先にある二枚の尾びれからは、天の川のような淡い光の帯が伸びていた。
水なんてないはずの空中へ完全に姿を現しても、その身体は落ちなかった。
海の中と同じように、ゆっくりと広間を泳いでいる。
私は声も出せずに見上げていた。
大きい。
でも、怖くない。
ベルガが現れたときは、その巨体を見ただけで身体が強張った。目の前の存在はベルガより遥かに大きいのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。
深い海そのものが目の前へ現れたようだった。
圧倒される。
でも、それ以上に目を離せない。
巨大な幻獣が胸びれをゆっくり動かすと、星のような光がその周囲を流れていく。
やがて閉じられていた瞼が開いた。
現れたのは、深い蒼色の瞳だった。
その中にも小さな光が無数に浮かび、夜の海へ星空を映したように揺れている。
巨大な瞳が最初に捉えたのは、私ではなかった。
シャイニーだった。
二人の視線が重なる。
シャイニーの表情が、それまでとは少しだけ変わった。
初めて会った私へ向けた優しい笑顔とも、悪魔と戦っていたときの凛とした顔とも違う。
ずっと会っていなかった大切な相手と、ようやく再会したような笑顔だった。
『久しぶりね』
巨大な幻獣が頭を僅かに下げる。
そして――。
――ォォォォォォン……。
低く、長い鳴き声が広間へ響いた。
石壁も、床も、空気さえ震えている。それなのに耳を塞ぎたくなるような音ではなく、遥か遠い海から届く歌のように身体の奥まで染み込んできた。
《人魚の旋律》が強く光る。
――リィィン……。
二つの音が重なった。
人魚の旋律と、巨大な幻獣の歌。
その瞬間、《幻獣種召喚の本》が私の腕の中で強く脈打った。
「本が……!」
青く輝いていたページへ、新しい光が走る。
シャイニーが描かれた絵の隣に、今現れた巨大な幻獣の姿が少しずつ描き加えられていく。
三本の透明な角。
星座のような銀白色の模様。
巨大な胸びれ。
長い尾。
最後に、絵の下へ新しい文字が浮かんだ。
《共生幻獣――アクアリヴァイアス》
「アクア……リヴァイアス……」
私は一文字ずつ名前を読み上げた。
その瞬間だった。
巨大な蒼い瞳が、ゆっくり私へ向いた。
「……私?」
十五メートルを超える幻獣に真正面から見つめられ、さすがに身体が固まった。
アクアリヴァイアスは何もせず、しばらく私を見ている。
大きな瞳の中に、自分の小さな姿が映っていた。
「えっと……こんにちは」
何を言えばいいのか分からず、とりあえず挨拶してみる。
アクアリヴァイアスの瞳が僅かに細くなった。
「……怒った?」
『逆よ』
シャイニーが笑った。
『笑っているの』
「これで!?」
――ォォン。
短い鳴き声が返ってきた。
赤が思わず吹き出す。
「フールちゃん、笑われてるでぷ」
「赤に言われたくないよ!」
「何でぷ!?」
ほんの一瞬だけ、いつもの空気が戻った。
けれど、アクアリヴァイアスはすぐに身体を傾け、大きな頭を少しずつ私のところまで下ろしてきた。
近づくほど、その巨大さが分かる。
額だけでも私の身体より遥かに大きく、三本の透明な角の根元では青白い光がゆっくり脈打っていた。
やがて、私が手を伸ばせば届く場所で止まる。
「どうしたの?」
『触れてみて』
シャイニーに言われ、私はアクアリヴァイアスと自分の手を交互に見た。
「大丈夫?」
『あなたが呼んだのでしょう?』
「そうだけど……やっぱり近くで見ると、すごく大きいからちょっと怖い」
『本人に聞こえているわよ』
「えっ!?」
またアクアリヴァイアスの瞳が細くなる。
今度は分かった。
笑ってる。
「もう……笑わないでよ」
私は恐る恐る右手を伸ばした。
指先が額へ触れる。
冷たいと思っていた。
でも、違った。
水に触れたような柔らかな冷たさの奥に、確かな温もりがある。巨大な身体の奥からゆっくり伝わってくる鼓動まで、手のひら越しに感じられた。
怖くない。
そう思って手のひら全体を重ねた瞬間、視界が青い光に包まれた。
「……え?」
岩山の広間が消えた。
代わりに現れたのは、どこまでも透き通った海だった。
遥か頭上では太陽の光が揺れ、海底には色とりどりの珊瑚が広がっている。その間を魚の群れが泳ぎ、遠くでは何人もの人魚たちが楽しそうに水の中を進んでいた。
その中心を、アクアリヴァイアスが泳いでいる。
背中には小さな人魚たちが何人も乗っていた。
大人の人魚たちは巨大な身体の周囲を泳ぎ、胸びれへ触れたり、隣へ並んだりしている。アクアリヴァイアスも嫌がる様子はなく、背中の子供たちが落ちないよう、とてもゆっくり海を進んでいた。
「これって……」
『この子の記憶よ』
シャイニーの声が聞こえる。
『私たちは長い間、この子と一緒に海を生きてきたの』
景色が変わった。
今度は荒れ狂う海だった。
巨大な波が人魚たちへ襲いかかる。
その前へアクアリヴァイアスが身体を滑り込ませ、大きな胸びれを広げて波を受け止める。背後に集まった人魚たちは、その巨体に守られていた。
次に見えたのは夜の海。
満天の星。
穏やかな水面のすぐ下を、アクアリヴァイアスが静かに泳いでいる。
背中へ乗った小さな人魚たちが水面から顔を出し、星空を指差して笑っていた。
戦うための存在じゃない。
強いから一緒にいるわけでもない。
「家族みたい……」
『そうね』
シャイニーの声が優しくなる。
『私たちにとっては武器でも乗り物でもない。嵐の日には守ってくれて、遠い海へ行くときには背中へ乗せてくれる。嬉しいときも悲しいときも、ずっと同じ海を生きてきた大切な仲間よ』
私は目の前を泳ぐアクアリヴァイアスを見つめた。
だから《共生幻獣》なんだ。
シャイニーと別々に登録されるのではなく、同じ一つのページに描かれた理由が少し分かった気がした。
もっと見ていたい。
そう思った瞬間――。
ドゴォォォンッ!!
「っ!」
海の景色が激しく揺れ、一瞬で砕け散った。
私は岩山の広間へ引き戻された。
壁の一部が砕け、石の破片が床へ散らばっている。
その向こうで、エドガーが魔導書を構えていた。
「随分と余裕だな」
声には、さっきまで以上の苛立ちが混じっていた。
私はアクアリヴァイアスの額から手を離し、慌てて周囲を見る。
ベルガが動いている。
五メートルを超える巨体が両脚へ力を込め、石床を砕きながらこちらへ突進してきた。
「アクアリヴァイアス!」
私が叫ぶより早く、巨大な幻獣が動いた。
十五メートルを超える身体が、信じられないほど滑らかに私の前へ回り込む。
エドガーの指が魔導書をなぞった。
「《獄爪》!」
ベルガが巨大な右腕を振り上げ、五本の爪をアクアリヴァイアスへ叩きつける。
逃げて。
そう叫びかけた。
でも、アクアリヴァイアスは逃げなかった。
大きな胸びれを一度だけ前へ動かす。
その瞬間、広間に漂っていた青い光が一斉に集まり、何重もの水の輪へ変わった。
シャイニーが静かに告げる。
『《深海環》』
水の輪がベルガの太い腕へ絡みついた。
一つ。
二つ。
さらに三つ、四つと重なりながら《獄爪》を締め上げ、振り下ろされていた腕の軌道を強引に横へ逸らしていく。
ベルガの爪がアクアリヴァイアスのすぐ横を通過し、石床へ叩きつけられた。
ドゴォンッ!!
床が砕ける。
「止めた……!」
私たちが何人も掛かって苦戦したベルガの攻撃を、アクアリヴァイアスは正面から受け止めた。
けれど、それだけでは終わらなかった。
巨大な胸びれが左右へ大きく開く。
その動きに合わせ、周囲を漂っていた何千もの光が一斉にアクアリヴァイアスの身体へ集まっていく。
深い蒼色の身体に走る銀白色の模様が、一つずつ輝き始めた。
頭。
背中。
胸びれ。
そして長い尾。
星座のようにつながった光が全身を駆け抜け、最後に三本の透明な角へ集まっていく。
広間全体が青く染まった。
黒いベルガも、拘束されたゼルグも、エドガーの《悪魔の魔導書》さえ青い光を反射している。
三本の角の間に、小さな光が生まれた。
それは周囲に漂う水と光を吸い込みながら膨らみ、私の身体より大きな青白い球体へ変わっていく。
空気が震えた。
足元の幻想の海まで大きくうねり始める。
「何をする気だ……」
エドガーが一歩下がった。
初めてだった。
自分から距離を取った。
シャイニーの長い髪と尾びれが、巻き起こる水流に煽られて大きく揺れる。
そして彼女は、アクアリヴァイアスではなく私を見た。
『フール』
「何?」
『この子は、あなたの意志を待っているわ』
「私の……?」
『あなたが《人魚の旋律》を持ち、この本を開いて、私たちへ道をつないだ。だから今、この子が力を向ける先を決めるのはあなたよ』
私はアクアリヴァイアスを見上げた。
巨大な蒼い瞳が、確かに私を見ている。
命令なんてしたことはない。
こんなに大きな幻獣へ、私が何かを命じるなんて考えたことさえなかった。
でも、後ろにはみんながいる。
傷ついたチェック兄貴。
赤、緑、黄色。
オラクル。
メリー。
そして、私たちを助けるために来てくれたシャイニー。
だったら、私が望むことは一つしかなかった。
私は《幻獣種召喚の本》を胸へ抱き、アクアリヴァイアスへ向かって叫んだ。
「みんなを守って!」
その言葉が届いた瞬間、巨大な蒼い瞳が強く輝いた。
――ォォォ――ォォォォォォォン!!
アクアリヴァイアスの咆哮が広間を震わせた。
さっきまで聞いたどの鳴き声よりも大きかったけれど、そこに怒りや威嚇だけが込められているようには感じなかった。私の言葉へ応え、背後にいるみんなを守るという意思そのものが、十五メートルを超える巨体から波のように伝わってくる。
三本の透明な角の間で膨らんでいた光が、一気に圧縮された。
青白かった中心が白く染まり、その周囲を何重もの水流が螺旋状に巡っていく。足元に広がっていた幻想の海まで引き寄せられ、広間中に浮かんでいた青い光が次々とアクアリヴァイアスへ吸い込まれていった。
ベルガが危険を感じたように吠える。
「グォォォォォッ!」
《深海環》を力任せに引き千切り、五メートルを超える巨体を低く構えた。その隣では《海流縛》に捕らわれていたゼルグも四本の腕を激しく動かし、十二本の爪で水流を何度も切り裂いている。
エドガーも二体を見ていた。
「ベルガ、前へ出ろ! ゼルグは――」
最後まで言わせなかった。
シャイニーがアクアリヴァイアスの隣へ浮かび、長い髪と透き通った尾びれを水流の中へなびかせながら、静かに片手を前へ向けた。
『フールの願いは、あなたたちを倒すことではないわ』
その声は大きくない。
それでも、広間のどこにいても聞こえるほど澄んでいた。
『大切な仲間を守ること』
アクアリヴァイアスの三本の角が眩く輝く。
シャイニーの青い瞳にも同じ光が宿った。
『なら、その願いに応えましょう』
海が持ち上がった。
本当に、そう見えた。
足元に広がっていた幻想の海が巨大な波となってアクアリヴァイアスの背後へ立ち上がり、広間の天井近くまで届く青い壁を作り出す。その中を無数の魚影と星のような光が駆け巡り、巨大な幻獣の姿を包み込んでいった。
シャイニーが告げる。
『《蒼天海嘯――アクア・ノヴァ》』
世界が青く染まった。
アクアリヴァイアスの角から放たれたのは、一本の光線ではなかった。
海そのものだった。
轟音とともに巨大な青い奔流が解き放たれ、広間いっぱいに押し寄せる。砕けた石や黒い靄を呑み込みながら進む水の中には、無数の青白い光が流星のように走り、その中心を一本の白い光が貫いていた。
「何だ、これは……!」
エドガーが初めて声を荒らげた。
ベルガが両腕を交差させ、全身を覆う黒い外皮で正面から受け止めようとする。
ゼルグは違った。
六つの目が一斉に動き、逃げ道を探すと同時に身体を床へ沈めようとする。
「《影走》!」
黒い影へ変わる。
その直前だった。
奔流が届いた。
ドォォォォォォォォンッ!!
「グォォォォォォッ!」
「ギィィィィィッ!」
二体の悪魔の咆哮が、同時に青い海へ呑み込まれた。
ベルガの両脚が石床から離れる。
「えっ……!」
私は目を見開いた。
赤の剣を弾き、緑の《絡み草》さえ力だけで引き千切った五メートルを超える巨体が、初めて完全に宙へ浮いていた。
ベルガは踏みとどまろうと両脚を動かすけれど、足が床へ届かない。黒い外皮が一枚、また一枚と剥がれ、巨大な身体は水流に押されながら広間の奥へ運ばれていく。
ゼルグも《影走》へ移ることができなかった。
身体の半分まで影へ沈んだところで奔流に巻き上げられ、四本の腕を振り回しながらベルガと同じ方向へ吹き飛ばされる。
「すごいでぷ……!」
赤の声が聞こえた。
でも、私は返事ができなかった。
二体を吹き飛ばす力だけに驚いていたわけじゃない。
青い奔流は私たちのすぐそばまで来ている。
それなのに、誰にも当たっていなかった。
私の横を流れた水は身体を避けるように二つへ分かれ、後ろにいる緑やオラクルのところでも同じように進路を変えている。
赤も黄色も、傷ついたチェック兄貴も濡れてすらいない。
メリーは私の肩から手を伸ばし、すぐ横を流れる青い光へ触れていた。
『あったかい』
「……本当だ」
水なのに、不思議な温かさがあった。
私たちを傷つけない。
アクアリヴァイアスは、私が言った通りにしている。
敵を倒して、と言ったんじゃない。
みんなを守って。
その願いだけを聞いてくれたんだ。
やがて青い奔流が弱まり、最後の水が無数の光へ変わって消えていった。
広間へ静けさが戻る。
天井からは、青い光の粒が雪のようにゆっくり降っていた。
その向こう。
ベルガは広間の奥で片膝をついていた。
右肩から胸にかけて黒い外皮が何枚も剥がれ、その下から赤黒い光が漏れている。片方の角にも細かな亀裂が入り、呼吸するたびに巨大な肩が上下していた。
ゼルグも無傷ではない。
四本ある腕のうち一本を床へつき、もう一本は力なく垂れ下がっている。六つの赤い目はまだ私たちを見ていたけれど、さっきまでのように別々の方向を正確に追えておらず、何度も焦点が揺れていた。
倒してはいない。
それでも――。
「効いてる……」
初めてだった。
赤の剣でもほとんど傷つかなかったベルガと、誰より速く動き続けていたゼルグ。その二体が、はっきりと傷ついている。
「ベルガの身体が壊れてるでぷ!」
赤が驚きながら叫び、緑も本を抱えたままゼルグを見ていた。
「ゼルグも動きが鈍くなってるでぷ……一回で二体ともでぷよ」
黄色はチェック兄貴を支えながら、アクアリヴァイアスを見上げた。
「百万コイン以上働いてるでぷ……」
「そこで金の話するの!?」
思わず突っ込む。
「大事なことでぷ!」
「今じゃなくていいでしょ!」
ほんの一瞬だけ、張りつめていた空気が緩んだ。
でも、エドガーは笑っていなかった。
広間の奥に立ったまま、傷ついたベルガとゼルグ、それからアクアリヴァイアスを順番に見ている。
魔導書を握る指に、さっきまでなかった力が入っていた。
「幻獣種……」
低い声が聞こえた。
「やはり、その本は――」
そこで言葉が止まる。
私は聞き逃さなかった。
「やっぱり何か知ってるんだ」
エドガーの目が私へ向く。
「この本が何なのか知ってるんでしょ? だからチェック兄貴を捕まえてまで欲しがったんだよね?」
返事はない。
「どうしてTIMEが《幻獣種召喚の本》を欲しがってるの?」
それでもエドガーは答えなかった。
代わりに《悪魔の魔導書》へ手を掛ける。
ページがめくられた。
ベルガでもない。
ゼルグでもない。
さらに先のページ。
「まだ……いるの?」
私は思わず本を抱く腕へ力を込めた。
二体だけじゃない。
《悪魔の魔導書》には、まだ別の悪魔が描かれている。
エドガーの指が新しいページへ触れようとする。
そのとき、僅かに震えた。
「……?」
もう一度見る。
間違いない。
魔導書を支えている左手が震えている。
額にも汗が滲み、さっきまでほとんど乱れていなかった呼吸が少し速くなっていた。
オラクルも気づいたらしい。
「無限に出せるわけじゃねえみたいだな」
エドガーの眉が動く。
「ベルガとゼルグを同時に出して、技まで何発も使わせた。そのうえ今の一撃を食らって悪魔とのつながりも揺らいだ。三体目を出せるとしても、楽に出せる状態じゃねえ」
エドガーは否定しなかった。
それだけで、オラクルの読みが大きく外れていないことは分かった。
今なら攻められるかもしれない。
アクアリヴァイアスの力があれば、エドガー自身まで倒せるかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
でも私は、すぐに首を横へ振った。
違う。
ここへ来た理由を忘れちゃ駄目だ。
エドガーを倒すためじゃない。
私はチェック兄貴を見る。
黄色に支えられ、傷だらけになっている。
その向こうには《黒翼圧》で吹き飛ばされた赤がいて、緑も何度も魔法を使って疲れている。メリーだって私を守るために何度も障壁を張った。
オラクルはまだ車椅子。
そして私の右足も、まともに走れる状態じゃない。
チェック兄貴は取り戻した。
《幻獣種召喚の本》も守った。
だったら、ここから全員で帰ることが一番大事だ。
私はアクアリヴァイアスを見上げ、それからシャイニーへ顔を向けた。
「シャイニー」
『何?』
「エドガーを倒さなくていい」
オラクルが僅かにこちらを見る。
私は続けた。
「みんなを連れて、ここから出たい。誰も置いていかないで帰りたい」
シャイニーは少しも迷わなかった。
『それが、あなたの望みなのね』
「うん」
『分かったわ』
シャイニーがアクアリヴァイアスへ視線を向ける。
巨大な幻獣は私の言葉を理解したように、深い蒼色の瞳をゆっくり細めた。
そして十五メートルを超える身体を、私たちのところへ下ろし始める。
大きな胸びれが床すれすれまで下がり、星座のような銀白色の模様が走る広い背中が、私たちの目の前へ近づいてきた。
「もしかして……乗せてくれるの?」
シャイニーが手を差し出した。
『ええ。ここからは、この子があなたたちを運ぶわ』
私は差し出された手と、目の前まで下りてきたアクアリヴァイアスの背中を見た。
その向こうでは、傷ついたベルガとゼルグが再び立ち上がろうとしている。
まだ戦いは終わっていない。
それでも今度は、逃げ道がある。
私はシャイニーの手を握った。
――全員で帰る。
今度こそ、それだけは絶対に諦めない。
第一の幻獣種との出会いが、私たちに初めて反撃する力だけではなく、生きて帰るための道まで開いてくれた。




