第89話 召喚しますか?
ベルガを倒すことにこだわる必要はない。チェック兄貴はもう取り戻したし、《幻獣種召喚の本》も私の鞄にある。この二つを守ったまま全員で入口まで戻ることができれば、それで私たちの目的は達成できる。
「黄色、チェック兄貴を連れて入口へ! 赤も一緒に行って!」
「分かったでぷ!」
赤と黄色が左右からチェックを支え直した。拘束されていた時間が長かったせいか、チェックは自分の足でも歩こうとしているものの、膝にはまだ十分な力が戻っていないらしく、二匹が手を離せばすぐにでも倒れてしまいそうだった。
「俺なら歩けるでぷ。二匹とも離すでぷ」
「全然歩けてないでぷ! 兄貴は大人しく運ばれるでぷ!」
「お前ら、兄貴に対する扱いが雑になってるでぷ……」
こんな状況でもチェックがいつもの調子を少し取り戻したことに安心しかけたけれど、五メートルを超えるベルガはまだ目の前にいる。私はすぐに気持ちを切り替え、残った仲間たちへ声を掛けた。
「緑は三匹を援護して。メリーは少し休んで!」
『フールは?』
「私も行くよ。走れないけど、緑に支えてもらえば歩けるから」
ベルガを倒そうとして、この広間に残る必要はない。攻撃を避けながら少しずつでも入口へ近づけばいい。
そう考えて身体の向きを変えた瞬間、広間の奥に立つエドガーが初めて小さく笑った。
「逃げられると思ったか?」
その声を聞いた途端、胸の奥に嫌なものが広がった。
エドガーはベルガを操っていたページから指を離すと、分厚い魔導書を数枚まとめてめくる。新しく開かれたページが黒く光り、まだベルガが消えていないにもかかわらず、エドガーの足元から再び黒い靄が溢れ出した。
「まさか……もう一体出す気!?」
黒い靄は石床を這いながらベルガとは反対側へ集まり、次第に一つの大きな塊へ変わっていった。ベルガを生み出したときほど高くは膨らまなかったけれど、それでも私たちより遥かに大きい。
煙の中から最初に現れたのは、異様に長い四本の腕だった。一本一本が膝より下まで届き、肘から先だけでも私の身体ほどの長さがある。その先には指というより細身の刃に近い爪が三本ずつ伸び、魔法灯の光を受けるたびに濡れた金属のような鈍い光を返していた。
続いて現れた胴体は、ベルガとは正反対だった。身長は三メートルほどで、筋肉の塊だったベルガと比べればかなり細く、骨の上へ黒紫色の皮膚を直接張りつけたような身体をしている。腰から下には二本の脚が伸びているものの、膝は普通とは逆向きに曲がり、細長い足の先だけが石床へ触れていた。
そして顔を覆っていた最後の靄が消えた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「目が……六つある」
顔の上半分には、赤い目が左右三つずつ並んでいた。しかも六つの目は同じ場所を見ていない。右側の目は赤と黄色、左側は緑とオラクル、中央の二つは私とチェックを捉え、それぞれが別々に動きながら広間にいる全員の位置を確かめている。
その下にある口は顎近くまで縦に裂け、僅かに開いた隙間から細かな牙が何列も覗いていた。
エドガーが魔導書を片手に告げる。
「《六眼刃鬼ゼルグ》」
ベルガとは明らかに違う。
五メートルを超えるベルガが硬い身体と圧倒的な力で正面から押し潰すための悪魔なら、このゼルグは速さと手数で相手を逃がさないための悪魔に見えた。
「赤、止まらないで! チェック兄貴を連れて入口へ!」
「分かったでぷ!」
赤と黄色が再び動き始めた瞬間、ゼルグの六つの目のうち四つが二匹へ向いた。
エドガーの指が新しいページへ触れる。
「《影走》」
ゼルグが身体を深く沈めたと思った次の瞬間、その姿が視界から消えた。
「えっ!?」
本当に消えたように見えたけれど、オラクルだけは床を見ていた。
「赤、後ろだ!」
石床を走る一本の黒い影が、異常な速度で広間を横切っていた。
影は赤たちの背後まで到達すると、床から跳ね上がるように三メートルの身体へ戻る。さっきまで十メートル以上離れていたはずなのに、私が姿を見失った僅かな時間だけで距離を詰めていた。
「速すぎる……!」
ゼルグの四本の腕が同時に持ち上がる。
「《四連魔爪》」
四本の腕から伸びた十二本の爪が、異なる角度から赤たちへ襲いかかった。
「兄貴を守るでぷ!」
赤はチェックから手を離して前へ出ると、剣を両手で構えた。
最初の爪を受け止めた直後、反対側から二本目が飛んでくる。赤は剣を返してどうにか弾いたけれど、その間にも頭上から三本目、さらに低い位置から四本目の腕が迫っていた。
金属同士がぶつかる甲高い音が立て続けに広間へ響き、赤の身体が少しずつ後ろへ押されていく。一本ずつなら受けられても、四方向から間を置かずに爪が迫ってくれば防ぎ切れない。
四本目の腕が赤の剣の横を抜け、三本の爪が肩へ迫った。
「赤!」
その直前、横から飛んできた風の塊がゼルグの腕へ激突する。
「《風弾》でぷ!」
緑だった。
一発だけではない。続けて二発、三発と風の塊を撃ち込み、ゼルグを赤たちから引き離そうとする。
けれど、ゼルグの六つの目が一斉に別方向へ動いた。右上の目は赤を追い、左上は緑の魔法を見ている。中央の二つは黄色とチェック、残る二つは私とメリーから離れない。
「全部見えてる……?」
ゼルグは緑の二発目を身体を捻って避け、三発目だけを一本の腕で受け流した。その間にも残る二本の腕は赤への攻撃を続けている。
「こいつ、同時に何匹も見てるでぷ!」
緑の声に、オラクルがすぐ反応した。
「六つの目を飾りだと思うな! 別々に動いてやがる。一方向から囲んでも死角にならねえぞ!」
ベルガとは戦い方そのものが違う。
圧倒的な力と硬さで押し切る《黒角鬼ベルガ》と、速度と六つの目、さらに四本の腕で複数を同時に攻撃できる《六眼刃鬼ゼルグ》。その二体が同じ広間にいて、どちらか一方へ気を取られれば、もう一方がすぐに動ける位置にいる。
そして、ゼルグへ意識を向けている間もベルガが消えたわけではなかった。
「緑、ベルガも来る!」
五メートルを超える巨体が動き出し、エドガーの指が別のページへ移った。
「《獄爪》」
ベルガの巨大な腕が横から振り抜かれる。狙われたのはゼルグと戦っている赤ではなく、援護魔法を使った直後の緑だった。
「危ない!」
私は走れないうえに距離もある。
肩にいたメリーが飛び出そうとしたけれど、さっきまで何度も障壁を使い続けている。このまま一人で攻撃を受け続ければ、本当に魔力を使い切ってしまうかもしれない。
「メリー、待って!」
その一瞬の迷いを破ったのは黄色だった。
「緑!」
黄色はチェックを片腕で支えながら、空いた手で道具袋から小さな球を取り出した。それを緑の足元へ投げると、白い煙が爆発するように広がる。
「何でぷ!?」
「右へ飛ぶでぷ!」
緑は何も見えないまま黄色の声を信じ、右へ大きく飛び退いた。
直後、白煙の中をベルガの《獄爪》が通過する。
ドゴォォンッ!!
緑が立っていた場所の床が砕け、五本の深い爪痕が石床へ刻まれた。
「助かったでぷ……!」
「礼はあとでぷ! 兄貴を連れて逃げるでぷ!」
黄色がチェックを支え直そうとする。
けれど、その動きをゼルグの六つの目は見逃していなかった。四本ある腕のうち一本が石床へ触れると、エドガーがゼルグのページへ指を戻した。
「《影縫い》」
ゼルグの手の下から細い黒線が伸びた。
それは床を蛇のように走り、黄色の足元まで到達すると、そのまま黄色自身の影へ重なった。
「何でぷ?」
黄色がチェックを支えたまま一歩踏み出そうとしたけれど、身体だけが前へ傾き、足は石床から離れなかった。
「足が……動かないでぷ!」
影と影がつながっている。
黄色が何度身体を引いても、足だけが床へ縫いつけられたように動かず、支えられていたチェックまでその場から離れられなくなった。
「黄色!」
赤が助けに戻ろうとする。
しかしゼルグは四本の腕を大きく広げ、赤と黄色たちの間へ立ちはだかった。その後ろにはベルガまでいる。
逃げようとしたはずなのに、逆に一匹ずつ動きを封じられ、仲間同士の距離まで引き離されていく。
胸の奥に焦りが広がった。
ベルガ一体だけでも、まともに傷を与えられなかった。それが今は二体になり、ベルガを警戒すればゼルグが動き、ゼルグを止めようとすればベルガの大技が飛んでくる。
しかもエドガー自身は広間の奥からほとんど動かず、魔導書のページを切り替えるだけで二体を操っていた。
考えなきゃ。
でも、見るものが多すぎる。
そのとき、オラクルの声が飛んだ。
「フール! 悪魔じゃなくてエドガーを見ろ! 二体同時に好き勝手動かせるなら、とっくに俺たちは潰されてる。あいつの手を見ろ!」
言われるまま、私はエドガーを見る。
ベルガへ《獄爪》を使わせた直後、エドガーはそのページから指を離し、ゼルグが描かれたページへ移して《影縫い》を発動させている。
その前もそうだった。
ベルガに技を使わせれば、次はゼルグ。ゼルグへ指示を出すときには、ベルガの大技が止まっている。
エドガーは二体を同時に召喚していても、固有の技を使わせるたびに魔導書のページを切り替えていた。
「……同時じゃない」
「ああ! 二体とも普通に動くことはできる。だが《獄爪》や《影縫い》みてえな固有の技を使わせるには、エドガーがその悪魔のページへ指示を送る必要があるんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、さっきまで散らばって見えていたものが一つにつながった。
二体いるからといって、二体が同時に何でもできるわけではない。
「だったら、片方に技を使わせれば、その間はもう片方の大技が来ない?」
「そういうことだ。そこを利用しろ!」
怖さが消えたわけではなかった。
ベルガもゼルグも、まだほとんど無傷。それでも、何をすればいいのかすら分からなかった少し前とは違う。
「赤! ゼルグに技を使わせて!」
「どうやるでぷ!?」
「攻撃して怒らせる!」
「作戦が雑でぷ!」
「ほかに思いつかないの!」
「分かったでぷ!」
赤が剣を握り直し、ゼルグへ向き直った。
「六つ目! こっちでぷ!」
「六つ目って、そのままでぷね!」
影に縫いつけられた黄色から突っ込みが飛んだ。
こんな状況なのに、ほんの少しだけいつもの調子が戻ってくる。それだけで身体に入っていた余計な力が少し抜けた。
赤がゼルグへ突っ込む。
六つの目が一斉に赤を追い、一本目の腕が横から振り抜かれる。赤は剣で爪を弾き、続く二本目を身体を低くして避けると、三本目の爪に頬を浅く掠められながらも止まらず、黒紫色の細い胴体へ剣を振り抜いた。
ゼルグが大きく後ろへ跳ぶ。
「逃がさないでぷ!」
赤がさらに追う。
エドガーの指がゼルグのページへ移った。
「《四連魔爪》」
「来た!」
私はベルガを見る。
五メートルを超える巨体は動いているけれど、《獄爪》も《冥獄砲》も使っていない。
「緑、今!」
「分かったでぷ!」
緑が本を開く。
狙うのは悪魔ではない。
「《風弾》!」
圧縮された風が広間を横切り、エドガーへ一直線に飛んでいく。
エドガーは魔導書を僅かに傾け、ページから溢れた黒い靄を盾のように集めて一発目を受け止めた。
「もう一発でぷ!」
緑はすぐに二発目を放つ。
今度は少し角度を変えた風弾が横から迫り、エドガーが身体をずらして避けた。その瞬間、ゼルグの《四連魔爪》が僅かに乱れ、四本の腕の連携に生まれた隙間を赤が転がるように潜り抜ける。
「やっぱり効いてる!」
エドガーへ攻撃を向ければ、悪魔への指示が乱れる。
けれど、緑の《風弾》はエドガーの意識を逸らすことはできても、魔導書から溢れる黒い靄を突破できていない。このまま同じ攻撃を繰り返していれば、先に赤や緑の体力が尽きる。
しかも、エドガーもこちらの狙いに気づいた。
「私を狙えば悪魔を止められると考えたか」
魔導書を持つ腕を僅かに上げると、エドガーの周囲へ黒い靄が集まり、身体全体を包む薄い膜のように広がった。
緑は構わず三発目の《風弾》を放ったけれど、今度はエドガーが避けることさえしなかった。圧縮された風が黒い膜へ衝突した途端、表面に波紋だけを残して霧散してしまう。
「防御までできるのでぷ……?」
緑の声に焦りが滲む。
二体の悪魔を同時に出しながら、自分自身も魔導書の力で守ることができる。攻撃の仕組みが少し分かったと思ったのに、それだけで状況をひっくり返せるほど甘い相手ではなかった。
それでも、何かあるはずだ。
私は広間全体へ視線を走らせた。
赤はゼルグを引きつけ、緑はエドガーを牽制している。黄色は《影縫い》で動けないままチェック兄貴を支え、メリーも私の肩で呼吸を整えていた。オラクルは車椅子から全員の位置を確認しながら、エドガーと二体の悪魔の動きを追い続けている。
何かないの。
今持っている物で、この状況を変えられる何か――。
そう考えた瞬間だった。
――リン。
戦いの音に混じって、澄んだ音が聞こえた。
「……え?」
ベルガの足音でも、ゼルグの爪が石床を擦る音でもない。どこか懐かしいその響きに聞き覚えがあったけれど、あまりにも小さかったため、最初は聞き間違いだと思った。
ところが、少し間を置いてもう一度聞こえた。
――リン……。
今度は、はっきり分かった。
音は広間のどこかからではなく、私の鞄の中から聞こえている。
私は片手を鞄へ当てた。
「これ……」
《幻獣種召喚の本》ではない。
その隣にしまっていた何かが、布越しでも分かるほど淡い光を放っている。
『フール?』
「ちょっと待って。何か光ってる」
鞄の口を僅かに開き、手を入れる。
指先へ触れたものを取り出した瞬間、私は息を呑んだ。
《人魚の旋律》。
リーリエで手に入れたそれが、今まで一度も見せたことのない淡い青色の光を帯びていた。
「《人魚の旋律》が……何で?」
考えている間にも、澄んだ音は止まらない。
――リン。
音が響くたびに青い光が僅かに強まり、まるで何かへ呼び掛けているようだった。
そのとき、鞄の中で別の何かが震えた。
どくん。
私は目を見開いた。
今度は分かる。
☆5《幻獣種召喚の本》。
《人魚の旋律》が音を鳴らすたび、それへ応えるように古びた本が震えている。
――リン。
どくん。
もう一度。
――リン。
どくん。
澄んだ音と本の鼓動が、少しずつ同じ間隔へ重なっていく。
「共鳴してる……?」
景品交換所で《幻獣種召喚の本》を初めて開いたとき、白紙のページには一度だけ光が現れた。
何本もの線が伸び、何かの形を描こうとしたけれど、完成する直前で消えてしまった。そのあとに残されたのは、《未確認》という文字だけだった。
あのときは、何を確認できていないのか分からなかった。
でも今、私の右手では《人魚の旋律》が光っている。
「もしかして……これを待ってたの?」
その瞬間、《幻獣種召喚の本》が鞄の中で大きく脈打った。
どくん――!
鞄の口から白い光が溢れ、私の右手にある《人魚の旋律》の青い光と重なった。
その変化に気づいたのは、私たちだけではなかった。
エドガーの視線が、私の手元へ向く。
「……何だ、それは」
その声を聞いて、私は顔を上げた。
エドガーが驚いている。
この本を手に入れるためにチェック兄貴を襲い、私たちをここまで呼び出した本人が、《人魚の旋律》と本の反応を見て初めて表情を変えている。
「あなたも知らないの?」
エドガーは答えなかった。
代わりに魔導書を握る手へ力を込める。
「その本を出せ」
「嫌だよ」
「今すぐ出せ!」
さっきまでの冷静な声ではなかった。
エドガーの指がゼルグのページへ叩きつけられる。
「《影走》!」
ゼルグの六つの目が一斉に私へ向いた。
次の瞬間、三メートルの身体が黒い影へ沈み、石床を凄まじい速度で走り始める。
狙いは私だ。
いや――私が持っている《人魚の旋律》と《幻獣種召喚の本》。
走れない私では避けられない。
「メリー!」
『任せて!』
メリーが肩から飛び出そうとした。
でも、その前に赤がゼルグの進路へ飛び込んだ。
「フールちゃんのところには行かせないでぷ!」
床を走っていた影が跳ね上がり、ゼルグの姿へ戻る。
振り下ろされた爪と赤の剣が正面から激突した。
ガギィンッ!
「ぐっ……でぷ!」
赤の身体が大きく後ろへ滑る。
それでも退かなかった。
ゼルグの四本の腕が続けて動こうとしたところへ、緑の《風弾》が横から飛び込む。ゼルグは一本の腕で風を弾いたけれど、その分だけ赤への攻撃が遅れた。
「赤!」
「こっちは大丈夫でぷ!」
赤はゼルグから目を離さないまま叫んだ。
「さっきからその本を気にしてるでぷ! だったら確認するでぷ。こいつは赤が止めるでぷ!」
「でも、一匹じゃ危ないよ!」
「一匹じゃないでぷ!」
緑の声が重なった。
「赤兄ちゃんは緑が援護するでぷ! フールちゃんは今できることをするでぷ!」
緑が再び本へ手を置き、《風弾》をゼルグへ撃ち込む。
黄色も《影縫い》に捕まったまま、チェック兄貴を支えながら声を張り上げた。
「こっちは心配しなくていいでぷ! チェック兄貴は黄色が絶対守るでぷ!」
「動けない奴が格好つけるなでぷ」
「兄貴は黙って休んでるでぷ!」
「俺を守ってるのか怒ってるのか分からないでぷ……」
傷だらけなのに、チェック兄貴の声にはまだ力があった。
みんなが戦っている。
私が走れないことを責めるのではなく、今の私にできることをするための時間を作ってくれている。
だったら迷っている場合じゃない。
「オラクル!」
「ああ。開けてみろ。周りは俺らが見るから、お前は本に集中しろ!」
「うん!」
私は《人魚の旋律》を右手に持ったまま、左手を鞄へ入れた。
古びた本へ指先が触れる。
その瞬間、今まで鞄越しに感じていた振動が腕まで一気に伝わってきた。
「熱っ……!」
火傷するほどではない。
でも、景品交換所で感じた微かな温かさとはまるで違っていた。
私は☆5《幻獣種召喚の本》を取り出す。
古びた表紙の隙間から、白い光が漏れていた。
そして右手の《人魚の旋律》が、もう一度鳴る。
――リン。
青い光が細い糸のように伸び、《幻獣種召喚の本》の表紙へ触れた。
「わっ……!」
二つの光がつながった。
青い光が本へ流れ込むにつれて、白い光も強くなっていく。
誰も触れていないのに表紙が開き、白紙のページが猛烈な勢いでめくられ始めた。
パラパラパラパラ――。
何十枚もの白いページが通り過ぎる。
そして――。
ぴたりと止まった。
以前、反応したページ。
そこにはまだ、あの文字が残っている。
《未確認》
私は息を止めた。
「ここ……」
《人魚の旋律》が鳴る。
――リン。
淡い青色の光がページへ落ちた。
すると《未確認》の文字が水面に映った文字のように揺らぎ始め、輪郭が少しずつ薄くなっていく。
「消えてく……」
最後の一文字まで完全に消えた。
その直後、真っ白だったページの中央へ青い光が走った。
一本の線が伸びる。
そこへ二本目が重なり、さらに何本もの光がつながっていく。
景品交換所でも見た光景だった。
でも、あのときとは違う。
前は形が完成する直前で光が消えてしまった。
今回は消えない。
青い線はページの上で少しずつ一つの姿を作っていく。
長く流れる髪。
人のような上半身。
その下には二本の脚ではなく、幾重もの鱗に覆われた長い尾が伸びている。
周囲には水の流れを思わせる波紋が広がり、その姿を包み込むように青い光が揺れていた。
「これって……」
私の手の中で、《人魚の旋律》が強く輝く。
描かれているものが何なのか、もう分かった。
人魚だ。
その瞬間、エドガーの声が飛んだ。
「ベルガ! その本を奪え!」
エドガーの指が魔導書の別のページへ移る。
五メートルを超えるベルガが大きく頭を上げ、口の奥へ黒い光を集め始めた。
「《冥獄砲》!」
「来るぞ!」
オラクルが叫ぶ。
私は本から目を離しかけた。
でも、緑が私の前へ飛び出した。
「フールちゃんはそのままでいいでぷ! 《土壁》!」
石床が大きく隆起し、私たちの前へ分厚い壁を作る。
メリーもその前へ飛んだ。
『今度は一人じゃない!』
赤い障壁が土壁の前へ重なる。
ベルガの口から黒い光線が放たれた。
ズドォォォォンッ!!
《冥獄砲》がメリーの障壁へ激突し、広間全体が大きく震える。
赤い光が歪み、その後ろの土壁へ何本もの亀裂が走った。石の破片が飛び散り、緑もメリーも苦しそうに身体を震わせている。
それでも二人は退かなかった。
「まだ持つでぷ!」
『フール、続けて!』
「……うん!」
私は二人を信じて、もう一度ページを見る。
人魚の姿は、ほとんど完成していた。
最後に尾の先へ青い光が走り、周囲を取り囲んでいた波紋が一つにつながる。
その瞬間、《幻獣種召喚の本》全体が強い青色の光に包まれた。
《未確認》があった場所へ、新しい文字が浮かび上がる。
《確認》
さらに、その下にも文字が現れ始めた。
一文字ずつ。
青い光の中から、ゆっくりと名前が形作られていく。
私は瞬きも忘れて、その文字を見つめた。
《幻獣種――人魚》
「……人魚」
名前を読み上げた瞬間、《人魚の旋律》から今までで一番澄んだ音が響いた。
――リィィン……。
音が広間全体へ広がった。
ベルガの咆哮も、ゼルグの爪がぶつかる音も、その一瞬だけ遠くなったように感じた。
《幻獣種召喚の本》のページから青い光が溢れ、私の足元へ流れ落ちる。
水なんてないはずなのに、石床へ青い波紋が広がった。
一つ。
二つ。
幾重にも重なりながら、波紋は私を中心に大きくなっていく。
「何……これ」
ページに、新しい文字が浮かんだ。
《第一登録完了》
その下へ、さらにもう一行。
《召喚可能》
私は息を呑んだ。
景品交換所では、何をしても分からなかった《未確認》の意味。
《幻獣種召喚の本》は空っぽだったわけじゃない。
呼び出す相手を――まだ確認できていなかったんだ。
そして今。
《人魚の旋律》と共鳴したことで、最初の一体が確認された。
私は青く輝くページを見つめた。
そこには、はっきりと人魚の姿が描かれている。
「これで……呼べるの?」
答えるように、ページの文字が強く輝いた。
《召喚しますか?》
胸が大きく鳴った。
目の前には二体の悪魔。
仲間たちは傷つき、メリーと緑の防御もいつまで持つか分からない。
それでも今までとは違う。
私の手の中に、新しい可能性がある。
私は《人魚の旋律》を握り締め、《幻獣種召喚の本》へ手を置いた。
「お願い……力を貸して!」
青い光が爆発するように広がった。




