第88話 黒角鬼ベルガ
悪魔の巨大な腕が振り下ろされた瞬間、オラクルの声が広間を貫いた。
「散れ!」
赤と黄色は傷ついたチェックを庇うように左右から支え、緑も私の腕を掴んで攻撃の範囲から離れようとする。けれど、右足を固定されている私はみんなと同じ速度では動けず、左足を踏み出したときには、五本の黒い爪がもう頭上まで迫っていた。
近くで見ると、悪魔がどれほど巨大なのか嫌でも分かった。
身長は五メートルを超え、肩幅だけでも大人が何人も並べそうなほど広い。頭から後方へ湾曲した二本の角は一本だけで私の身体ほどの長さがあり、背中から生えた翼は左右へ広げれば広間の半分近くを覆ってしまいそうだった。腕は私の胴体より太く、その先から伸びる五本の爪は剣のように長い。
それほど巨大なのに、動きは重くなかった。振り下ろされた腕は空気を引き裂きながら一瞬で迫り、逃げ切れないと悟ったときには、肩からメリーが飛び出していた。
『フール!』
赤い魔力が私と緑の前へ広がり、半透明の障壁を作り出す。
直後、悪魔の爪が激突した。
ドゴォォォォンッ!!
轟音とともに石床が揺れ、衝撃だけで身体が後ろへ押し飛ばされた。私は緑と一緒に床へ倒れ込み、その拍子に固定された右足へ激痛が走って息が詰まったけれど、悪魔の爪そのものは私たちまで届いていない。
メリーの障壁が受け止めていた。
ただし、チェックの拘束を壊したときとは明らかに違う。悪魔の爪を支えている赤い障壁へ一本の亀裂が走ると、そこから蜘蛛の巣のように細かなひびが広がり、メリーの小さな身体まで少しずつ後ろへ押されていった。
『……重い』
「メリー!」
私が床へ手をついて身体を起こすと、開いた魔導書の向こうからエドガーの声が聞こえた。
「《黒角鬼ベルガ》の《獄爪》を防ぐか」
「ベルガ……?」
悪魔にも名前がある。
《黒角鬼ベルガ》。
そして、メリーの障壁を押し潰そうとしている巨大な爪が《獄爪》。
その二つを頭へ刻んだところで、赤がチェックを黄色へ預けた。
「黄色、チェック兄貴を頼むでぷ!」
「任せるでぷ!」
「赤、待って!」
止めるより早く、赤は剣を抜いてベルガの横へ駆け込んだ。
「兄貴をこんな目に遭わせた奴なんかに、負けないでぷ!」
両手で握った剣を、ベルガの太い右脚へ思い切り振り下ろす。
ガキンッ!
響いたのは肉を斬った音ではなく、硬い金属同士をぶつけたような甲高い音だった。剣は大きく弾かれ、赤の両腕まで跳ね返される。
「硬いでぷ!?」
黒い脚には、白い傷が僅かについただけだった。
近くで見れば、ベルガの身体を覆っているものは普通の皮膚ではない。黒い岩を何枚も重ねたような硬質の外皮が肩から脚までを覆い、比較的薄そうなのは膝や足首などの関節部分だけだった。
「赤! 硬いところじゃなくて関節を狙って!」
「分かったでぷ!」
赤が位置を変えようとしたところで、ベルガの赤黒い目が動いた。
次に動いたのは巨大な翼だった。
エドガーの指が魔導書のページを滑る。
「《黒翼圧》」
ベルガが翼を一度だけ振り抜いた。
それだけで広間の空気そのものが巨大な壁になったような衝撃が生まれ、赤の小さな身体をまともに捉えた。
「うわあああでぷ!」
赤は十メートル近く吹き飛ばされ、石床を何度も転がったあと、壁の手前でようやく止まった。
「赤!」
すぐに駆け寄りたかったけれど、右足は思うように動かない。黄色は傷ついたチェックを支えているためその場を離れられず、緑は私のそばで本を開き、メリーはベルガの《獄爪》を止めるだけで精いっぱいになっている。
チェックを助けることには成功した。
でも、その直後に突きつけられた戦力差は、喜ぶ時間さえ与えてくれなかった。
「緑、メリーを助けられる魔法ない?」
「探してるでぷ!」
緑は本のページを猛烈な勢いでめくり、一枚のところで指を止めた。
「これを試すでぷ! 《絡み草》!」
緑色の魔法陣が石床へ広がり、ベルガの足元にある石の隙間から何本もの太い蔓が飛び出した。
一本だけではない。次々と伸びる蔓がベルガの両脚へ巻きつき、膝から腰まで這い上がると、巨大な身体を床へ縫い止めるように締め上げていく。
ベルガの姿勢が僅かに崩れたことで、《獄爪》へ掛かっていた力も弱まった。
『今!』
メリーが障壁を横へ弾く。
支えを失ったベルガの爪が逸れ、石床へ叩きつけられた。
ドゴォンッ!!
五本の爪が床へ深く食い込み、私の腕ほどもある太い亀裂が周囲へ走った。
その隙に緑が私の腕を肩へ回す。
「フールちゃん、離れるでぷ!」
私は左足を使い、緑に支えてもらいながら必死に距離を取った。右足を少しでも強く地面へつければ傷へ痛みが走るため、思うようには進めない。
それでもメリーが戻ってきて、私の肩へ着地した。
「メリー、大丈夫?」
『大丈夫……ちょっと疲れた』
いつもの声より明らかに弱かった。
チェックを助けるために拘束を壊し、今度は私を守るためにベルガの《獄爪》まで受け止めている。これ以上一人で無理をさせるわけにはいかないと思ったけれど、メリーは私の服を掴んだまま首を横へ振った。
『まだ戦う。フール、走れないからメリーが守る』
「でも、メリーだけが無理するのは駄目だよ。今度はみんなで――」
「フール! 話はあとだ!」
オラクルの声に顔を上げると、ベルガの身体を縛っていた蔓が限界まで引き伸ばされていた。
ベルガ自身の筋肉が大きく膨らみ、黒い外皮の隙間から赤黒い光が漏れている。エドガーが魔導書へ指を置くと、その光は両脚から胸まで一気に広がった。
「《鬼力解放》」
最初の蔓が大きく軋み、次の瞬間には何本もの蔓がまとめて引き千切られた。腰へ絡みついていた最も太い一本まで力任せに破られ、緑の魔法はあっという間に床へ落ちていく。
「嘘でぷ……あれを力だけで破ったでぷ」
ベルガは何事もなかったように身体を起こした。
正面から力で止めるのは無理だ。
そう思いながらベルガの後ろへ視線を移したとき、私はようやく一つの違和感に気づいた。
エドガー自身は、ほとんど動いていない。
《獄爪》を使うときも、《黒翼圧》を放ったときも、《鬼力解放》で蔓を破ったときも、技が発動する直前には必ずエドガーの指が魔導書へ触れていた。
「オラクル……エドガー、ベルガが技を使うたびに本を触ってる」
「ああ。俺も見てた」
オラクルもエドガーの手元を観察していた。
「悪魔が完全に勝手に動いてるわけじゃねえ。少なくとも技を使わせるときは、あの本を通して指示してる可能性が高い」
「だったら、ベルガじゃなくてエドガーを狙えば止められるかもしれない?」
「試す価値はある。ただし、向こうも簡単には近づけさせねえだろうな」
私たちの会話が聞こえていたらしく、エドガーがこちらを見る。
「そこまで観察する余裕があるとはな」
オラクルは怯むどころか、車椅子の上で口元を僅かに上げた。
「わざわざ技を使うたびに本を触ってくれるからな」
「分かったところで、お前たちには届かない」
エドガーの指が再び魔導書のページをなぞった。
それに合わせてベルガが頭を上げ、大きく息を吸い込み始める。巨大な胸郭が膨らむにつれて口の奥へ黒い光が集まり、広間に漂っていた靄まで吸い込まれながら、光はみるみる大きくなっていった。
「今度は遠くから来るぞ!」
オラクルの声と重なるように、エドガーが技の名を告げた。
「《冥獄砲》」
ベルガの口から黒い光線が放たれた。
私たちだけではない。黄色に支えられているチェックまで、まとめて射線に入っている。
「緑、防げる!?」
「やるでぷ! 《土壁》!」
緑が本を開いて石床へ手を向けると、私たちの前で床が大きく隆起し、分厚い土と岩の壁がせり上がった。
メリーも私の肩から飛び出す。
『一緒にやる!』
土壁の前へ赤い魔力の障壁が重なった。
それでも、正面から《冥獄砲》を受ければ二つとも破られるかもしれない。
「黄色! 何かない!?」
「これを使うでぷ!」
黄色はチェックを片腕で支えながら道具袋へ手を入れ、煙玉をベルガの顔へ投げつけた。
破裂した灰色の煙が赤黒い目を覆ったことで、ベルガの頭が僅かに横へ動く。
黒い光線の軌道も少しだけずれた。
直後――。
ズドォォォォンッ!!
《冥獄砲》がメリーの障壁へ激突した。
赤い光が大きく歪み、その後ろにある土壁へまで衝撃が伝わる。表面から石が剥がれ、何本もの亀裂が走ったけれど、緑もメリーも魔法を解かなかった。
『まだ……大丈夫!』
「こっちもまだ持つでぷ!」
一人なら押し切られていたかもしれない。
メリー一人の障壁では耐えられず、緑一人の土壁なら一撃で砕かれていたかもしれない。それでも二つを重ね、さらに黄色が射線をずらしたことで、黒い光は私たちへ届かず少しずつ細くなっていった。
最後に大きな衝撃を残し、《冥獄砲》が途切れる。
赤い障壁が消え、土壁も半分以上崩れていた。
それでも誰も倒れていない。
「防いだ……!」
喜びかけた私の耳へ、オラクルの怒鳴り声が飛んだ。
「気を抜くな! ベルガがいねえ!」
崩れた土壁の向こうを見ると、さっきまで五メートルを超える巨体が立っていた場所からベルガの姿が消えていた。
次の瞬間、翼が空気を叩く音が頭上から響いた。
見上げると、ベルガは広間の天井近くまで飛び上がっている。五メートルを超える巨体が身体を丸め、両腕を胸の前で交差させながら翼を一気に畳んでいた。
エドガーが魔導書へ指を置く。
「《黒星墜》」
ベルガが落ちてきた。
飛びかかるのではない。自分の巨大な身体そのものを一つの砲弾に変え、真下へ叩きつけようとしている。
しかも落下地点には、黄色とチェックがいた。
「黄色! チェック兄貴を連れて逃げて!」
「一匹じゃ間に合わないでぷ!」
黄色一匹で傷ついたチェックを支えたまま、あの範囲から離れるのは難しい。
そのとき、《黒翼圧》で吹き飛ばされていた赤が起き上がった。
「兄貴!」
赤は痛む身体を無理やり起こし、黄色たちのところへ駆けつけた。
「赤も持つでぷ! 黄色、反対側を頼むでぷ!」
「分かったでぷ!」
二匹が左右からチェックの腕を肩へ回す。
「兄貴、行くでぷ!」
「お前ら……」
「喋るのはあとでぷ!」
三匹はそのまま必死に落下地点から離れようとした。
頭上ではベルガの巨体が急速に大きくなっていく。
「急いで!」
赤と黄色が最後の一歩を踏み出した直後――。
ドガァァァァァンッ!!
ベルガが石床へ激突した。
広間全体が跳ね上がったような衝撃が走り、床が円形に砕ける。巨大な窪みから拳ほどもある石の破片が四方へ飛び散り、爆風が離れた私たちのところまで押し寄せた。
私は緑に支えられながら必死に耐え、砂埃の向こうへ叫ぶ。
「赤! 黄色! チェック!」
少し遅れて、赤の声が返ってきた。
「チェック兄貴も無事でぷ!」
砂埃が薄れると、三匹とも倒れてはいたけれど、ベルガの直撃範囲からは逃れていた。
私は大きく息を吐いた。
けれど、砂埃の中から立ち上がったベルガには、落下の反動で苦しんでいる様子すらなかった。
《獄爪》。
《黒翼圧》。
《鬼力解放》。
《冥獄砲》。
そして《黒星墜》。
五メートルを超える巨体と硬い外皮を持っているだけではない。近距離では爪、離れれば黒い光線、翼を使えば空から広範囲を攻撃できる。
「こんなの、どうやって倒すの……」
思わず漏れた言葉を、オラクルが拾った。
「倒すことだけ考えるな」
「え?」
「あいつの目的は本だ。こっちの目的はエドガーを倒すことじゃねえ。チェックを連れて、全員でここから出ることだろ」
その言葉で、私はようやく気づいた。
勝たなくてもいい。
チェックはもう取り戻した。
《幻獣種召喚の本》も渡していない。




