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フールの大冒険 ~聖なるマップを手に、異世界でまだ見ぬ両親を探します~  作者: ☆☆アダム☆☆


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第87話 手配書の男

白銀の案内で岩山へ近づくにつれて、王宮の気配は急速に遠ざかっていった。


ついさっきまで何千匹ものゴブリンに囲まれ、音楽と笑い声の中で優勝を祝ってもらっていたのが嘘のようだった。聞こえるのは山の隙間を抜ける風と靴が乾いた地面を踏む音、それから少し後ろを進むオラクルの車椅子が小石を踏む音だけで、誰も必要以上に口を開こうとはしなかった。


私の右足には治療役がつけてくれた固定具がある。普通に歩くことはできても速度は出せず、少しでも急ごうとすれば傷の奥から鈍い痛みが返ってくる。それが今はどうしようもなくもどかしくて、チェックがどんな状態なのかも分からないのに走ることさえできない自分へ、何度も苛立ちそうになった。


それでも肩にはメリーがいて、赤、緑、黄色も一緒に歩いている。オラクルだってまだ車椅子なのにここまで来てくれたのだから、一人で何とかしようとしてはいけない。


そう言い聞かせながら進んでいると、先頭を歩いていた白銀が足を止めた。


「あそこでぷ」


岩山の斜面に、大きな入口が開いている。


本来は分厚い石造りの門があったらしいけれど、今は片側が完全に吹き飛び、砕けた石材が周囲へ散乱していた。壁には何本もの亀裂が走り、入口の内側には黒く焼け焦げた跡まで残っている。


「これを……一人で?」


「そうでぷ。最初の一撃でぷ」


話を聞いていたときより、実際に目で見るほうがずっと怖かった。


赤が剣の柄へ手を掛け、緑は本を抱え直す。黄色も腰の道具袋を確かめ、私の肩にいたメリーは壊れた入口の奥をじっと見つめていた。


白銀もそのまま一緒に進もうとしたけれど、オラクルが車椅子から声を掛けた。


「お前はここまでだ。約束しただろ。チェックがお前を逃がした意味を無駄にすんな。中の状況が変わったとき、外へ知らせる奴も必要だ」


「でも……」


白銀は暗い入口を見つめたまま、なかなか動かなかった。自分を逃がすために残ったチェックのところへ戻りたいのだと思う。


私は白銀へ近づいた。


「絶対に連れて帰ってくるよ」


「……絶対でぷよ」


「うん。約束する」


白銀は唇を噛んでいたけれど、やがて小さく頷いて一歩下がった。


私は前を向き、鞄へそっと手を当てる。


中には☆5《幻獣種召喚の本》がある。


これを持っていけば本当にチェックを解放するのか。それとも、本を奪ったあとで私たちまで襲うつもりなのか。そもそも、どうしてこの本の存在を知っているのかさえ分からない。


何一つ分からないまま、私たちは相手が待っている場所へ入ろうとしている。


「フール」


オラクルに呼ばれ、振り返った。


「中へ入ったら勝手に動くな。チェックが見えても、相手の位置を確認するまでは飛び出すなよ」


「分かってる」


「本当だな?」


「……分かってるってば」


何度も念を押される理由は、自分でも分かっていた。チェックを見つけたら、きっとすぐ助けに行きたくなる。


でも今の私は走れない。


そのことを忘れないよう、固定された右足へ一度だけ目を落としてから、私は壊れた門を越えた。


◇


岩山の内部には、戦いの跡がはっきり残っていた。


壁の一部が黒く焼け、石床には何かが激しく叩きつけられたような窪みがある。壊れた柵や砕けた魔法灯まで散らばり、奥へ進むほど被害は大きくなっていた。


白銀とチェックが、ここで戦った。


そう思うたびに歩く速度を上げたくなったけれど、そのたびに右足の痛みが今の自分の状態を思い出させる。私は焦りを押さえ、赤たちから離れないよう慎重に進んだ。


やがて通路の先に、大きな広間が現れた。


その奥を見た瞬間、右足の痛みも忘れた。


「チェック!」


広間の奥にある太い石柱へ、チェックが拘束されていた。


両腕を背中側へ回され、黒い帯のようなものが身体と石柱を何重にも縛っている。服は破れ、頬や腕には戦った跡が残っていたけれど、私の声が届くと、チェックはゆっくり顔を上げた。


「……フールちゃん?」


声が聞こえた。


生きてる。


胸を締めつけていたものが一瞬だけ緩み、私は思わず前へ出ようとした。


「チェック!」


「来ちゃ駄目でぷ! 何で来たのでぷ! 白銀を逃がしたのは、フールちゃんたちまで来させるためじゃないでぷ!」


チェックの鋭い声に足が止まる。


「そんなの無理だよ。チェックが捕まってるって聞いて、宴の続きをしてられるわけないでしょ!」


チェックが何か言い返そうとしたところで、広間の奥から分厚い本を閉じる乾いた音が響いた。


私はようやく、チェックの少し前に立つ人物へ視線を向けた。


黒い服を着た男。その片手には、分厚い魔導書がある。


顔を見た瞬間、胸の奥で何かが引っ掛かった。


実際に会ったことがあるわけではない。それでも初めて見る顔ではなかった。旅の途中で何度も確認してきたTIMEの手配書、その中の一枚に描かれていた顔と目の前の男が重なる。


「……手配書」


私の呟きを聞いた緑も、男の顔を見て息を呑んだ。


「フールちゃん、この人……」


「うん。見たことある」


記憶の中に残っていた名前まで蘇る。


「TIME……No.4、エドガー」


男――エドガーは、名前を呼ばれても驚かなかった。


「手配書を見たか」


低く落ち着いた声だった。


私はエドガーの左手へ目を向ける。手の甲には、手配書に記されていたものと同じ《4》の数字が刻まれていた。


その数字を見た瞬間、頭の中に別の数字が浮かんだ。


《10》。


グラティスの雪山で私たちを襲ったTIMEの男。


手配書ではNo.8以降の名前が《???》になっていたから、今も名前は知らない。それでも左手に刻まれていた《10》という数字と、あのとき何もできなかった怖さだけは忘れられなかった。


オラクルは重傷を負い、私の右足に残っている傷だって、まだ完全には治っていない。


目の前のNo.4が、あのNo.10と比べてどれほど強いのかは分からない。TIMEの番号がそのまま戦闘力の順番なのかどうかも、私には判断できなかった。


ただ、チェックと白銀が二人で戦い、チェックがこうして拘束されている。それだけで、油断していい相手ではないことは十分に分かった。


赤が剣へ手を掛けながら私の前へ出ようとしたので、私は小さく首を振った。


「まだ駄目」


チェックはエドガーのすぐ近くにいる。


赤だけではない。緑も黄色も動かず、いつでも行動できるよう身構えながら相手の様子を窺っていた。


エドガーは私たちを一通り見たあと、私の鞄へ視線を止めた。


「持って来たようだな」


私は鞄の紐を握った。


「チェックを解放して」


「先に本を渡せ」


「先にチェックを返して」


エドガーは表情を変えなかった。


「自分の立場を理解していないらしいな」


彼が指を僅かに動かした瞬間、チェックを拘束していた黒い帯がぎりぎりと締まり、身体が石柱へ強く押しつけられた。


「うっ……!」


「やめて!」


反射的に前へ出ようとしたけれど、右足に痛みが走って身体が止まった。


エドガーの視線が私の足へ落ちる。


「負傷しているのか」


私は答えなかった。


走れないことを知られたくなかったけれど、さっきの動きだけで気づかれたかもしれない。


「要求は単純だ。その古びた本をこちらへ渡せ。確認できれば、このゴブリンは解放する」


私は鞄を握り締めた。


☆5《幻獣種召喚の本》。


百万コインと引き換えに手に入れたのに、今のところ使い方さえ分からない。白紙のページに残された《未確認》という文字以外、ほとんど何も分かっていない本。


それでもTIMEの一員が、チェックを人質にしてまで欲しがっている。


「どうして、この本が欲しいの?」


「お前が知る必要はない」


「何の本か知ってるの?」


「質問する立場ではない」


エドガーが指を動かすと、黒い帯が再び締まった。


チェックが苦しそうに顔を歪める。


「やめて!」


「なら渡せ」


言葉が出なかった。


本を渡せば、チェックは助かるかもしれない。でも、本当に返してくれる保証なんてないし、相手がこの本を何に使うつもりなのかも分からない。


本一冊とチェック。


それだけなら迷う理由なんてない。


でも、相手はTIMEだ。


もしこの本に本当に幻獣種を召喚する力があるのなら、それをTIMEへ渡したことで、もっと大勢が危険に巻き込まれるかもしれない。そんな物を、私一人の判断で手放していいのか分からなかった。


「フール」


オラクルが低い声で呼んだ。


「焦って決めるな。向こうはお前に考える時間を与えたくねえんだ」


分かっている。


それでも、目の前ではチェックが拘束されている。


「早く決めろ。本か、このゴブリンか」


エドガーの声が広間へ響いた。


私は唇を噛み、鞄へ手を入れた。


指先が古びた表紙へ触れる。


その動きを見たチェックの顔色が変わった。


「駄目でぷ! 渡しちゃ駄目でぷ! そいつ、最初からその本だけを狙ってたでぷ。何に使うつもりなのか分からないでぷ!」


「でも、チェックが捕まったままじゃ――」


「私はいいでぷ!」


「よくないよ! 全然よくない!」


思わず声を上げると、広間に私の声が大きく反響した。


チェックを置いて帰るなんてできない。でも、本を渡して何が起こるかも分からず、どうすればいいのか分からなくなって私は本へ触れたまま動けなくなった。


そのとき、首元に小さな手が触れた。


メリーだった。


肩にいたメリーが、いつの間にか私の赤い髪と服の襟元へ身体を隠すようにしている。


「メリー……?」


聞こえるかどうか分からないほど小さな声で呼んだけれど、メリーは答えなかった。ただ私を見て、それからチェックへ視線を移し、もう一度こちらを見る。


その瞬間、何を考えているのか分かった。


私は走れない。


今の右足では、チェックまでの距離を一気に詰めることなんてできない。赤、緑、黄色が動けば、エドガーもすぐに警戒するだろう。


でも、メリーなら飛べる。


身体も小さい。


私の服に隠れたまま、もっと近くまで行ける。


私はエドガーを見る。


その視線は、私の鞄へ集中していた。


「……分かった」


オラクルが僅かに眉を動かしたけれど、私は振り返らなかった。


鞄から《幻獣種召喚の本》を取り出すと、古びた表紙が広間の魔法灯に照らされた。


その瞬間、エドガーの目つきが変わった。


今まで何を言ってもほとんど表情を変えなかった男が、本を見たときだけ僅かに身を乗り出した。


「それだ」


私は本を胸元へ抱え、そこに隠れているメリーが見えないよう腕の位置を整えた。


「これを渡したら、本当にチェックを解放する?」


「約束しよう」


「だったら、私が持っていく」


「フール!」


オラクルの声が飛んだ。


私は振り返らずに答える。


「大丈夫。走らないよ。ゆっくり歩くだけだから」


エドガーは私の右足を見てから、赤たちへ視線を向けた。


「一人で来い。ほかの者が動けば、取引は終わりだ」


「分かった」


私は本を胸に抱えたまま歩き始めた。


一歩進むたびに右足の奥が疼く。急ぐことはできないけれど、今はそれでよかった。むしろ私が走れないと分かっているからこそ、エドガーは一人で近づくことを許している。


チェックとの距離が少しずつ縮まっていく。


「フールちゃん……何してるのでぷ」


チェックが声を抑えている。


私は答えなかった。


胸元に隠れたメリーの小さな身体を感じながら、できるだけ自然な速さで歩き続ける。


右足の痛みは強くなり、額にも汗が滲んできた。それでもエドガーの意識が私の抱える本へ向いていることを確かめながら、一歩ずつ距離を詰めていった。


「そこで止まれ」


私は言われた通り足を止めた。


チェックまでは、まだ少し距離がある。


エドガーが片手を差し出した。


「本を寄越せ」


私は両手で本を持ったまま、ゆっくり前へ差し出した。


「先にチェックを解放して」


「本が先だ」


「約束したでしょ」


「渡せば解放する」


エドガーの視線が、私の顔から本へ落ちた。


その一瞬を待っていた。


私は本を持った手を僅かに下げる。


同時に、服の陰から小さな影が飛び出した。


「メリー!」


エドガーが顔を上げたときには、メリーはもう私の肩を離れていた。


小さな身体が一直線にチェックへ向かって飛び、両手に集めた赤い魔力を黒い拘束へ向ける。


『チェックを離して!』


狙ったのはエドガーではない。チェックを石柱へ縛りつけている黒い帯だけだった。


赤い光が一点へ集中し、黒い拘束へ突き刺さる。


バチィンッ――!


広間に鋭い破裂音が響き、黒い帯の一本が弾け飛んだ。


「何……?」


エドガーの視線が、初めて《幻獣種召喚の本》から外れた。


メリーは止まらない。すぐに両手へ二発目の魔力を集め、残っている拘束へ向けて放つと、赤い光が黒い帯の中心を正確に撃ち抜いた。


『もう一回!』


黒い帯は激しく震え、耐え切れなくなったように次々と千切れていく。身体を支えていた拘束を失ったチェックが石柱から離れ、そのまま前へ崩れ落ちた。


「チェック!」


助けに行かなきゃと思った瞬間には、もう身体が動こうとしていた。


右足で地面を蹴った途端、傷の奥を抉られたような激痛が走る。踏み出したはずの足から力が抜け、私は大きく身体を傾けながら、どうにか左足だけで転ぶのを堪えた。


目の前でチェックが倒れようとしているのに、私は駆け寄ることさえできない。


ここまで助けに来たのに。


その悔しさに痛みを無視してもう一度踏み出しかけたところで、メリーが私より先に仲間たちへ叫んだ。


『赤!』


その声を合図に、後ろで待っていた三匹が動いた。


「行くでぷ!」


赤が真っ先に飛び出し、黄色がそのすぐ後ろを追う。緑だけは私とオラクルの前へ残り、本を開いたままエドガーの動きを警戒していた。


倒れかけたチェックの身体を赤が受け止めると、黄色も反対側へ回って腕を自分の肩へ掛けた。


「チェック姉ちゃん、大丈夫でぷ!?」


「赤……?」


「喋らなくていいでぷ。今のうちに離れるでぷ!」


赤と黄色は二匹でチェックを支え、エドガーから距離を取り始めた。


助けられた。


私自身は走ることすらできなかったけれど、メリーが拘束を壊し、赤と黄色がすぐに動いてくれた。胸の奥に張りつめていたものがようやくほどけそうになり、私は大きく息を吐きかけた。


「……なるほど」


エドガーの低い声が、それを止めた。


怒鳴っているわけではない。それなのに、さっきまでよりずっと怖く聞こえた。


私は《幻獣種召喚の本》を胸へ抱き寄せながら顔を上げる。


エドガーは逃げていくチェックを追っていなかった。赤や黄色にも目を向けず、ただ私だけを見ている。


それまでほとんど変わらなかった表情から、明らかに余裕が消えていた。


「最初から、そのつもりだったか」


本を渡すふりをして近づき、服の陰に隠したメリーに拘束を破壊させた。騙したのは私たちだけれど、それでも後悔はなかった。


「チェックを人質にしたのは、そっちでしょ」


エドガーの眉が僅かに動いた。


「その本が何なのかも知らない子供が、随分と小賢しい真似をする」


「知らないから渡せないんだよ。チェックも連れて帰るし、この本も渡さない」


少し前までの私は、どちらかを選ばなければならないと思い込んでいた。


チェックを助けるなら本を渡す。本を守るならチェックを諦める。どちらも嫌なのに、それ以外の方法が見つからず、目の前で苦しんでいるチェックを見ながら何度も迷った。


でも、メリーが別の道を見つけてくれた。


私が走れなくても、メリーなら飛べる。私一人ではチェックを運べなくても、赤たちがいる。


全部を自分でやる必要なんてなかった。


エドガーはしばらく何も言わなかった。


その沈黙の間にも、赤と黄色はチェックを支えながらこちらへ戻ってくる。拘束を壊したメリーも反転し、私のところへ飛び戻ってきた。


あと少しで全員が合流できる。


そう思った瞬間、エドガーが持っていた魔導書がひとりでに開いた。


バラララララッ――!


分厚いページが猛烈な勢いでめくれ、その音が広間の石壁へ何重にも反響する。


「全員、止まれ!」


オラクルの声が飛んだ。


赤と黄色はチェックを支えたまま足を止め、緑も開いていた本を構え直した。メリーは急いで私の肩へ戻り、私は右足を庇いながらエドガーを見つめる。


さっきまでとは、空気そのものが違っていた。


開かれた魔導書から黒い靄が滲み出し、エドガーの腕を伝って床へ落ちていく。煙にも影にも見えるそれは石床へ触れた途端、まるで意思を持っているかのように何本もの筋へ分かれ、壁や石柱へ這い上がりながら広間全体へ広がっていった。


「何なのでぷ、あれ……」


緑が魔導書から目を離さない。


「普通の魔法とは違うでぷ」


オラクルが車椅子を僅かに後退させた。


「フール、その本をしまえ。もう取引じゃねえ」


私はすぐに《幻獣種召喚の本》を鞄へ戻した。


その間にも黒い靄はエドガーの背後へ集まり、少しずつ巨大な塊へ変わっていく。広間の魔法灯まで黒い影に覆われ、さっきまで見えていた天井が闇の向こうへ消えていった。


エドガーは開いた魔導書へ片手を置いたまま、怒りを押し殺したような声で言った。


「取引に応じるふりをして人質を奪い、そのうえ本まで持ち帰るつもりか」


「最初からチェックを捕まえなければ、こんなことしなくてよかったよ」


エドガーはしばらく私を見つめていた。


やがて、その目から最後に残っていた余裕まで消える。


「……そうか。ならば、もう交渉は必要ない」


魔導書の一ページが強い光を放った。


そこに描かれていたのは、人でも普通の魔物でもなかった。


頭から湾曲した二本の角を生やし、背中には巨大な翼を持つ黒い異形。その絵を見た緑の表情が強張った直後、魔導書から溢れていた黒い靄が一斉に持ち上がった。


煙は広間の天井近くまで膨れ上がり、巨大な何かの輪郭を作り始める。


最初に現れたのは、黒い靄を突き破る二本の角だった。その下に獣を思わせる頭部が形作られ、続いて人間を遥かに上回る巨大な胴体と太い両腕が闇の中から浮かび上がっていく。


最後に、背中から二枚の巨大な翼が開いた。


バサァッ――!


たった一度羽ばたいただけで、広間を突風が駆け抜けた。


「きゃっ!」


右足で踏ん張れず、私は大きく身体を崩した。隣にいた緑がすぐ腕を掴んでくれたおかげで転ばずに済んだけれど、チェックを支えている赤と黄色も風に押され、身体を低くして耐えている。


やがて黒い靄が薄れ、その中から巨大な姿が完全に現れた。


全身は光を吸い込むような黒い皮膚に覆われ、額から伸びる二本の角は天井へ届きそうなほど長い。太い腕の先には石床さえ簡単に抉れそうな爪が並び、背中の翼を僅かに動かすだけで周囲の空気が震えていた。


赤黒く光る二つの目が、ゆっくり私たちを見下ろす。


緑が息を呑んだ。


「……悪魔でぷ」


その言葉を聞き、私はエドガーへ視線を戻した。


開かれた魔導書を片手に持つTIME No.4。


手配書に記されていた能力は《悪魔》。


今まで文字としてしか知らなかったその意味が、目の前の巨大な異形を見たことで初めてつながった。


エドガーは魔導書へ指を置いたまま、静かに私たちを見渡した。


「本を置いて消える最後の機会を、お前たちは自分で捨てた」


巨大な悪魔がゆっくり腕を持ち上げる。


その動きだけで、石床に落ちる影が私たち全員を覆った。


私は痛む右足を庇いながら、赤たちを見る。


チェックは取り戻した。


《幻獣種召喚の本》も渡していない。


でも、その二つを守ったままここから帰るには、今度は目の前の悪魔を越えなければならない。


悪魔の爪が、ゆっくり開いた。


次の瞬間――巨大な腕が私たちへ振り下ろされた。

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