第86話 途切れた宴
宴が始まってから、どれくらい経ったのか分からない。
王宮前の広場ではまだ音楽が鳴り続け、長いテーブルに並んでいた料理も次々に追加されていた。乾杯はいつの間にか五回を超え、そのたびに何を祝っているのか分からなくなっていたけれど、ゴブリンたちはそんなことをまったく気にしていない。
「今度は何に乾杯するの?」
「五回目の乾杯が成功したことに乾杯でぷ!」
「もう何でもいいんじゃん!」
「乾杯でぷー!」
近くにいたゴブリンたちが杯をぶつけ合い、また笑い声が広がった。
私は右足を休ませるため椅子に座ったまま、その騒ぎを眺めていた。十二番は膝の上ですっかり丸くなり、さっきまで大量のパンを食べていたメリーも私の肩にもたれている。
少し離れた場所では、赤がようやくヒヨコたちから骨付き肉を守り切ったらしく、勝ち誇った顔で最後の一口を食べていた。
「守り切ったでぷ!」
「レースより長い戦いだったね」
「強敵だったでぷ」
赤の足元にいたヒヨコが「ぴよっ!」と鳴くと、赤は慌てて空になりかけた皿を背中へ隠した。まだ戦いは終わっていないらしい。
緑は数匹のゴブリンに囲まれ、《温存者の道》について説明している。黄色の露店にはさらに長い列ができ、最初は紙の旗だけだった商品に、いつの間にか《フールちゃん優勝記念》と彫られた木札まで増えていた。
「黄色、あれいつ作ったの?」
「宴の途中で職人さんに頼んだでぷ」
「仕事が早すぎるよ!」
「商売は速度が大事でぷ」
「レースでそれ言ってよ!」
黄色は大量のコインを数えながら満足そうに笑っている。
そんな賑やかな時間が、まだしばらく続くと思っていた。
最初に異変へ気づいたのは、広場の入口にいたゴブリンたちだった。
「通すでぷ!」
音楽と笑い声の向こうから、誰かの叫び声が聞こえてくる。最初は酔っ払ったゴブリンが騒いでいるのだと思ったけれど、同じ声が何度も繰り返されるうちに、入口付近に集まっていたゴブリンたちが次々と振り返った。
「どいて……通すでぷ!」
その声には、宴を楽しんでいる者とは明らかに違う切迫感があった。
オラクルも異変に気づき、持っていた杯をテーブルへ置いた。
「……何だ?」
広場の端で人垣が左右へ割れ、その向こうから一匹のゴブリンがよろめくように現れた。
私は思わず身体を起こした。
「……白銀?」
いつもの姿とはまるで違っていた。
服のあちこちに土や砂がつき、片方の袖は大きく裂けている。額から流れた血が頬に細い線を作り、何度も転んだのか膝まで汚れていた。それでも休もうとはせず、肩で激しく息をしながら私たちのいる場所へ向かってくる。
「白銀!」
私は反射的に立ち上がろうとしたけれど、右足へ鋭い痛みが走り、椅子へ身体を戻した。
「フール、座ってろ!」
オラクルに止められ、私は椅子の縁を掴んだまま白銀を見る。
異変に気づいたゴブリンたちが演奏を止め、踊っていた者たちも足を止めていく。広場の奥ではまだ事情を知らないゴブリンたちが笑っていたけれど、その声も周囲の変化が伝わるにつれて少しずつ消えていった。
白銀が私たちのところまで辿り着いたころには、さっきまであれほど騒がしかった広場が不気味なほど静かになっていた。
「白銀、どうしたの?」
白銀は膝へ両手をつき、何度も荒い息を繰り返していた。近くのゴブリンが水を持ってくると一口だけ飲んだものの、呼吸が整うまで待つ余裕さえないように顔を上げる。
そのとき、オラクルが低い声で尋ねた。
「チェックはどうした?」
白銀の顔が歪んだ。
その表情を見ただけで、胸の奥に嫌なものが広がっていく。
「チェックが……襲われたでぷ」
誰も声を出さなかった。
ついさっきまで宴の熱気に包まれていた広場から、一瞬で温度が消えたように感じた。
「……襲われた?」
「チェックが襲われたのでぷ! 試練場で……俺と一緒にいたときに!」
白銀の震える声だけが、静まり返った広場へ響いた。
私は膝の上で眠っていた十二番を係員へ預け、白銀へ身体を向ける。
「最初から話して。何があったの?」
白銀は大きく息を吸った。
「フールちゃんたちがレースしてる間、俺とチェックは次の試練場にいたでぷ。チェックの試練の準備をしながら、魔法板でレースを見てたでぷ」
やっぱり二人も見てくれていたんだ。
「チェック、何か言ってた?」
今それを聞く場合ではないと思ったけれど、白銀は僅かに表情を緩めた。
「十九位になったときは『何やってるのでぷ』って怒ってたでぷ。でも《温存者の道》から戻ってきたあたりから何も言わなくなって、最後にピンクを抜いたときは……すごく喜んでたでぷ」
胸の奥が痛んだ。
ほんの少し前まで、チェックも私の優勝を見てくれていた。白銀と二人で次の試練場にいて、宴へ来るつもりだった。
「それで、レースが終わったあとに襲われたの?」
「そうでぷ。魔法板に《勝者 フール》って出て、チェックと一緒に王宮へ戻ろうとしたでぷ。フールちゃんの宴に行くって話してた、そのときだったでぷ」
白銀の拳が震え始めた。
「突然、入口のほうからすごい音がして、壁が吹き飛んだでぷ。何が起きたのか確認するより先に、崩れた壁の向こうから誰かが入ってきたでぷ」
周囲のゴブリンたちが息を呑む。
ピンクお姉ちゃんが白銀の前へ出た。
「何人いたのでぷ?」
「……一人でぷ」
広場にざわめきが走った。
たった一人で試練場へ侵入し、白銀をこんな姿にして、チェックまでここへ戻れなくした。
オラクルの顔から、宴のときに見せていた緩さが完全に消えていた。
「どんな奴だった?」
白銀は記憶を確かめるように一度目を閉じた。
「黒っぽい服を着てたでぷ。それから……大きな本を持ってたでぷ」
「本?」
私は思わず聞き返した。
「そいつが本を開いたら、中から黒い魔法みたいなのが出てきたでぷ。チェックがすぐ前に出て、俺に下がるよう言ったでぷけど……全然止められなかったでぷ」
白銀の声が次第に小さくなっていく。
「チェックは?」
「戦ったでぷ。でも途中で、俺に王宮へ行けって言ったでぷ」
「白銀だけ?」
「俺は嫌だって言ったでぷ。一緒に戦うって言ったでぷ。でもチェックが、『二匹とも捕まったら、誰も助けを呼べないでぷ』って……」
その言葉で、ようやく分かった。
白銀はチェックを置いて逃げたんじゃない。
チェックに託されて、ここまで走ってきたんだ。
「それからずっと走ったでぷ。後ろから戦ってる音が聞こえてたでぷけど、振り返らなかったでぷ。振り返ったら、俺……絶対戻っちゃうと思ったから……」
白銀は俯いた。
握り締めた拳の上へ、涙が落ちる。
「俺だけ逃げてきたでぷ……」
私は椅子に座ったまま手を伸ばした。
白銀が気づいて近づいてくれたので、その手をしっかり握る。
「白銀、知らせに来てくれてありがとう」
「でも、チェックが……」
「だから助けに行けるよ。白銀がここまで来てくれなかったら、私たちは今も何も知らないまま宴を続けてた。チェックが白銀を逃がしたのは、助けを呼んでほしかったからでしょ?」
白銀の目から、また涙が落ちた。
「……そうでぷ」
「だったら、今度はみんなで行こう」
赤が食べかけの肉をテーブルへ置き、緑は開いていた本を閉じた。黄色もいつの間にかコイン袋から手を離し、メリーは私の肩へ戻ってきている。
さっきまで笑っていた仲間たちの表情は、もう変わっていた。
「待て」
オラクルの声が全員を止めた。
「助けに行くのは当然だ。だが、何も分からねえまま飛び込むな。チェックを押さえられるほどの相手が待ってる場所へ、怪我人だらけで突っ込んだところで助けるどころか人質が増えるだけだ」
「でも、早く行かないと!」
「だから先に聞くんだよ」
オラクルは白銀へ向き直った。
「そいつは、お前を追ってきたか?」
「途中までは追ってきたでぷ。でも、すぐ止まったでぷ」
「追いつけなかったのか?」
白銀は少し考えてから、ゆっくり首を横へ振った。
「違うと思うでぷ。あいつ……俺を追いかけようと思えば、たぶん追いつけたでぷ」
オラクルの目が細くなる。
「じゃあ、わざと逃がした可能性があるな」
その言葉に、広場の空気がさらに重くなった。
白銀は何かを思い出したように顔を上げる。
「そうでぷ。最後に言われたでぷ」
「何を?」
「『赤い髪の子供に伝えろ』って」
私は息を止めた。
周囲のゴブリンたちの視線が一斉にこちらへ向く。
赤い髪の子供。
考えるまでもない。
「……私?」
白銀が頷いた。
「まだあるでぷ。『古びた本を持って来い』って言ってたでぷ」
私は反射的に鞄へ手を置いた。
中には、百万コインと引き換えに手に入れた☆5《幻獣種召喚の本》が入っている。
何の飾りもない古びた表紙。
ほとんど何も記されていない白紙のページ。
一度だけ淡い光が何かの形を描きかけ、最後に《未確認》という文字だけを残した謎の本。
黄色の顔から笑みが消えた。
「……百万コインの本でぷ?」
緑も私の鞄を見つめる。
「《幻獣種召喚の本》を狙ってるのでぷか……?」
「その人、本の名前まで言った?」
「言ってないでぷ。ただ、『古びた本』を持って来いって」
偶然とは思えなかった。
私たちが手に入れた☆5《幻獣種召喚の本》は、見た目だけなら本当に何の特徴もない古本だ。それをわざわざ指定したということは、相手は最初からこの本の存在を知っていたことになる。
「何で……この本のこと知ってるの?」
誰にも答えられなかった。
オラクルは私の鞄を見たあと、低い声で言った。
「これで一つはっきりした。チェックが偶然襲われたわけじゃねえ。相手は最初からお前を呼び出すためにチェックを襲い、白銀を伝言役として逃がした可能性が高い」
私は鞄を握る手へ力を込めた。
「じゃあ……チェックが襲われたのって、この本を私が持ってたから?」
「違う」
オラクルがすぐに言った。
「本が欲しいからって他人を襲っていい理由にはならねえ。やった奴の責任まで自分で背負うな。それより今考えるべきなのは、どうやってチェックを連れて帰るかだ」
私は少しだけ俯き、それから頷いた。
「この本を持っていけば、チェックを返してくれるかな」
「保証はねえ。むしろ素直に渡して終わりだとは考えないほうがいいだろうな」
相手が何者なのか。
なぜこの本を知っているのか。
何のために《幻獣種召喚の本》を欲しがっているのか。
何一つ分からない。
それでも、チェックを置いていくという選択だけはなかった。
「オラクル。助けに行こう」
「ああ。ただし、準備してからだ」
◇
宴の会場だった広場の一角から料理が片づけられ、大きなテーブルの上へゴブリン王国の地図が広げられた。
白銀は治療役に額と腕の傷を手当てしてもらいながら、チェックの試練場までの道を指でなぞっていく。
「ここでぷ。チェックの試練場は岩山の中にあって、正面の入口から最初の広間を抜けると、大きな扉があるでぷ。その先が試練をする場所でぷ」
オラクルは車椅子から地図を覗き込み、試練場の周辺を順番に確認していった。
「出入口は正面だけか?」
「俺が知ってるのは正面だけでぷ。でも、奥に管理用の通路があるでぷ」
「外へつながってるか?」
「分からないでぷ。チェックしか使わないでぷから」
相手が今も試練場にいるとは限らない。
チェックを連れて管理通路から別の場所へ移動している可能性もある。
そう考えただけで、すぐに飛び出したくなった。
けれど、オラクルは地図から目を離さない。
「確認できてることを整理するぞ。チェックが襲われた。相手は一人に見えた。そいつは本を使う。白銀を意図的に逃がして、フールに《古びた本》を持って来いと伝えた。ここまでは間違いねえな?」
「そうでぷ」
「だったら、まだ試練場にいる可能性は高い。人質を使って呼び出すつもりなら、俺たちが来る前に消える理由は薄いからな。ただし、向こうが待ってる場所へ正面から入ることになる」
ピンクお姉ちゃんが地図へ手を置いた。
「王国の兵士を集めるでぷ。試練場を全部囲めば逃げられないでぷ」
「大勢で近づけるのはやめたほうがいい」
オラクルがすぐに止める。
「相手がチェックを人質にしてるなら、囲まれたと分かった瞬間、何をするか読めねえ。それに白銀の話が正しいなら、一人で試練場の壁を吹き飛ばし、チェックを押さえ込める相手だ。狭い場所へ兵士を何十匹も突っ込ませたところで、戦える人数には限界がある。下手をすれば被害だけが増えるぞ」
ピンクお姉ちゃんは険しい顔のまま地図を見つめた。
「じゃあ、兵士はどうするのでぷ?」
「試練場から離れた場所で退路を押さえてもらう。正面から大人数を見せるな。中へ入るのは少人数に絞って、まずチェックの位置と相手の狙いを確かめる」
オラクルの指が地図の上を動き、正面入口から最初の広間までをなぞっていく。
「向こうは本が欲しい。そのためにわざわざ白銀を逃がしたなら、フールが来るまではチェックを生かしておく可能性が高い。もちろん絶対じゃねえが、俺たちが自分からその利点を潰す必要もねえ」
私は地図を見つめながら頷いた。
怖いのは、チェックを助けたい気持ちのまま全員で飛び込んで、相手に利用されることだった。さっきのレースでは、前のマシンを追いたいからと何も考えずアクセルを踏み続ければ最後まで残れなかった。状況はまるで違うけれど、焦ったまま動けば駄目なのは同じなのかもしれない。
「オラクルも行くつもり?」
地図を指していた手が止まった。
「入口まではな」
「でも、その身体でしょ」
オラクルはまだ車椅子に乗っている。私が言える立場ではないけれど、まともに戦える状態ではないことくらい分かる。
「俺は前で戦わねえよ。ただ、相手が本を要求してる以上、話をする場面があるかもしれねえ。お前らだけで行かせて、フールが『チェック返して!』って突っ込むのを誰が止めるんだ」
「私だってちゃんと考えるよ!」
「今日だけで何回無茶した?」
「……それはレースだったから」
「今度はもっと無茶できねえ状況だろ」
言い返せなくなった私の横で、メリーが小さく頷いた。
『オラクル必要』
「メリーまでそっちなの?」
『フール、すぐ行く』
「……否定しづらい」
ほんの一瞬だけ、張り詰めていた空気が緩んだ。
それでも、オラクルはすぐ真剣な表情へ戻った。
「俺は入口まで行って状況を見る。中で車椅子が邪魔になるなら残るし、戦闘になったら前には出ねえ。その代わり、お前も足が使えなくなるような真似はするな」
「分かった」
「『できるだけ』は禁止だぞ」
先回りされてしまった。
「……分かった。約束する」
◇
作戦を決める間にも、準備は進んでいた。
治療役のゴブリンは私の右足に巻かれていた包帯をもう一度外し、腫れや傷の状態を確かめてから、足首を動かしすぎないよう硬い補助具を当てた。
「さっきより固定するでぷ。歩くならゆっくり、絶対に走らないでぷ。強く踏み込むのも駄目でぷよ」
「うん」
「跳ぶのも禁止でぷ」
「さすがにもうマシンで飛ばないよ!」
「マシンじゃなくても禁止でぷ」
「分かってるって!」
治療役はまだ信用していないようだったけれど、今度は私も本気だった。
レースなら、自分が止まれば負けるだけだった。でもこれから向かう場所にはチェックがいて、私たちを待ち構えている相手までいる。ここで右足を使えなくすれば、助けるどころか誰かに守ってもらわなければならなくなる。
赤たちも宴のときとは別人のように準備を進めていた。
赤は剣を鞘から少しだけ抜き、刃に異常がないことを確かめてから腰へ戻す。緑は自分の本を開き、今使える魔法のページへ何枚か目印を挟んでいた。
黄色は道具袋の中身を大きなテーブルへ全部出し、回復に使えそうな物や煙玉、小さな縄、予備の道具を一つずつ選び直している。
「黄色、それ何?」
私が小さな袋を指差すと、黄色は中を少しだけ見せた。
「目くらまし用の粉でぷ。戦って勝てなくても、逃げる時間くらい作れるかもしれないでぷ」
いつもの黄色なら、真っ先に値段の話をしていたかもしれない。
今はしなかった。
「そっか。持っていこう」
「もちろんでぷ」
私は改めて仲間たちを見た。
一人で助ける必要はない。
レースだって、メリーが補給物や罠を見つけてくれたから最後まで走れた。今度はもっと危険だからこそ、全員でできることを使わなければならない。
最後に、自分の鞄を開いた。
《聖なるマップ》と《冒険アルバム》を確かめ、その奥に入れていた古びた本を取り出す。
☆5《幻獣種召喚の本》。
相手が要求している物。
私は表紙を開き、以前反応したページまでめくった。
そこにある文字は変わっていない。
《未確認》
それだけだった。
「あなたの何を知ってるんだろう……」
白銀が見た襲撃者も本を持っていた。
その本から黒い魔法のようなものを出し、チェックを襲った。そして今度は、私の持っているこの本を要求している。
二冊の本に関係があるのか、それともまったく別の物なのかさえ分からない。
オラクルが横からページを見た。
「相手に会っても、その本のことを向こうのほうが知ってると思い込むなよ」
「どういうこと?」
「知ってるふりをして、お前から情報を引き出そうとする可能性もあるってことだ。こっちから《幻獣種召喚の本》だの☆5だの、余計なことは喋るな」
私は思わず本を見た。
確かに、白銀が伝えられた言葉は《古びた本》だけだった。
相手がどこまで知っているのかは、まだ分からない。
「じゃあ、向こうが何を言うか聞く」
「ああ。それまでは黙ってろ」
「分かった」
私は本を閉じ、鞄の奥へ戻した。
◇
「フールちゃん」
呼ばれて振り向くと、治療を終えた白銀が立っていた。
額には新しい包帯が巻かれ、裂けていた袖の下にも手当てを受けている。それでも表情は少しも休んだ者のものではなかった。
「俺も行くでぷ」
「駄目だよ」
即答すると、白銀が目を見開いた。
「何ででぷ! チェックを置いてきたのは俺でぷ!」
「置いてきたんじゃないよ。チェックに頼まれて、助けを呼びに来たんでしょ」
「でも、俺も戦えるでぷ!」
「その身体で?」
「フールちゃんにだけは言われたくないでぷ!」
思わず黙った。
横でオラクルが小さく笑った。
「そりゃそうだ」
「オラクルはどっちの味方なの!」
「正しいほう」
白銀はそれでも引かなかった。
「俺が道を案内するでぷ。襲われた場所も、チェックが最後にいた場所も俺が一番分かるでぷ」
確かに、それは白銀にしかできない。
私はすぐに「駄目」と言い切ったことを少し後悔した。
オラクルも同じことを考えたらしい。
「試練場の近くまでは来てもらう」
「兄貴!」
「ただし中へは入らねえ。入口まで案内して、俺たちに状況を説明したら後方へ下がれ。チェックがお前を逃がした意味を無駄にすんな」
白銀は納得できない様子で唇を噛んだ。
「でも……」
「白銀」
私は椅子から立ち上がり、固定された右足へ負担を掛けないようゆっくり近づいた。
「チェックを助けたら、一緒に怒られよう」
「……怒られるのでぷ?」
「たぶん『遅いでぷ!』って怒るよ。白銀には『何で戻ってきたのでぷ!』って怒るかもしれない」
白銀はしばらく私を見たあと、ほんの少しだけ笑った。
「言いそうでぷ」
「でしょ? だから、ちゃんと怒られるためにも生きて待ってて」
その笑顔はすぐに消えたけれど、白銀はようやく小さく頷いた。
「絶対……チェックを連れて帰ってきてほしいでぷ」
「うん」
私は迷わず答えた。
「絶対、一緒に帰ってくる」
◇
王宮前の広場を出るころには、あれほど賑やかだった宴の面影だけが残っていた。
長いテーブルには途中まで食べた料理が並び、誰かが置いたままの杯も残っている。色とりどりの旗は変わらず風に揺れ、広場の中央には大きな垂れ幕が掛かったままだった。
《フールちゃん優勝おめでとうでぷ!》
ほんの少し前まで、あの下で何千匹ものゴブリンが笑っていた。
今は兵士たちが静かに装備を整え、ピンクお姉ちゃんの指示でいくつかの隊へ分かれている。試練場を包囲して相手を刺激しないよう、私たちより十分に距離を取って周辺の道だけを押さえるらしい。
私は一度だけ宴の会場を振り返った。
十二番が係員の足元からこちらを見ている。
「ぴよ……」
「大丈夫。また戻ってくるから」
「ぴよっ!」
元気な返事を聞いて、私は前を向いた。
王宮の門の先には岩山が連なり、そのどこかにチェックの試練場がある。
そこに誰が待っているのかは分からない。
白銀が見た、本を持つ正体不明の人物。
なぜ私の☆5《幻獣種召喚の本》を知っているのかも、何のために欲しがっているのかも分からない。
ただ一つ確かなのは、チェックが戻ってきていないことだった。
「行こう」
私は右足を庇いながら歩き始めた。
赤、緑、黄色が左右へ並び、メリーは私の肩へ乗る。オラクルは車椅子で少し後ろにつき、白銀が試練場までの道を案内する。
走ることはできない。
無茶もできない。
それでも、止まるつもりはなかった。
少し歩いたところで、鞄の中から何かが微かに震えたような気がした。
私は足を止める。
「……今の」
「どうした?」
オラクルに聞かれ、鞄へ手を当てた。
何も動かない。
気のせいかもしれない。
それでも私は鞄を開き、《幻獣種召喚の本》を取り出した。
古びた表紙に変化はない。
ページを開く。
白紙。
さらにめくり、以前反応した場所を見る。
《未確認》
文字もそのままだった。
「何かあったか?」
「……ううん。ちょっと動いた気がしただけ」
オラクルは本を一度見たものの、それ以上は何も言わなかった。
私は本を閉じて鞄へ戻す。
今は意味が分からなくていい。
その答えを探しに行くわけじゃない。
チェックを助けに行くんだ。
歩き出すと、背後に残った宴の会場が少しずつ遠ざかっていった。音楽も笑い声もなく、聞こえるのは私たちの足音と、オラクルの車椅子が地面を進む音だけだった。
白銀が前方の岩山を指差す。
「あの山の中でぷ」
私は顔を上げた。
夕暮れの空を背にした岩山には、細く暗い入口が見えている。
その奥でチェックが待っている。
そして――私の持つ古びた本を要求した誰かも。
私は鞄の紐を握り直した。
「待ってて、チェック」
楽しかった宴は、もう終わった。
私たちはそのまま、チェックが襲われた試練場へ向かった。




