第85話 優勝の宴
《勝者 フール》
巨大な魔法板に浮かんだ自分の名前を見ても、最初の数秒は本当に勝ったのだと理解できなかった。
桃色のマシンはすぐ隣に止まっている。最後の直線では何度も前へ出られ、ゴールへ飛び込んだ瞬間もどちらが先だったのか自分ではまったく分からなかったから、何度見直しても《フール》という文字が誰か別の人の名前に思えてしまう。
「私……勝ったの?」
『勝った! フール、勝った!』
メリーが助手席から飛びついてきた瞬間、競技場を埋め尽くしていた何千匹ものゴブリンたちが一斉に立ち上がった。
「フールちゃんが勝ったでぷー!」
「十九位から優勝でぷー!」
「ピンク様を最後に抜いたでぷー!」
地面まで揺れているような大歓声が押し寄せ、私はようやく勝ったのだと実感した。
「勝った……本当に勝った!」
思わず両手を上げると、メリーも真似するように小さな両手を突き上げる。それを見た観客席からさらに大きな歓声が返ってきて、さっきまで痛かった右足のことまで一瞬忘れそうになった。
そこへ桃色のマシンから降りたピンクお姉ちゃんが歩いてくる。
悔しそうな顔をしているのかと思ったけれど、ピンクお姉ちゃんは笑っていた。
「負けたでぷね。最後の最後まで鬼殺しを残してたのでぷか?」
「最初からそこまで考えてたわけじゃないよ。海でも砂漠でも、そのとき必要だと思ったことを選んでただけだから」
「それを最後まで続けられたから勝ったのでぷよ。途中で十九位まで落ちても、焦って全部使わなかったでぷからね」
「十九位のときは本当に焦ってたよ!」
「私はこのまま終わると思ったでぷ」
「ピンクお姉ちゃんまで!?」
「試練中の私は敵でぷからね」
ピンクお姉ちゃんが楽しそうに笑ったので、私もつられて笑ってしまった。
やがて彼女は第一の守護者として私の前へ立ち、競技場全体へ聞こえるように胸を張った。
「フールちゃんは私とのレースに勝ったでぷ! これで――第一の試練、突破でぷ!」
再び競技場が揺れた。
その歓声を突き抜けるように、赤、緑、黄色が観客席から走ってくる。
「フールちゃん、優勝でぷー!」
「最後の追い上げ、すごかったでぷ!」
「優勝賞金はいくらでぷ!?」
「黄色だけお祝いするところ違う!」
「優勝したなら何か貰えるはずでぷ!」
「試練だから賞金なんてないでぷよ」
緑に言われた黄色は、この日一番と言っていいほど残念そうな顔をした。
その横から赤が、食べかけの骨付き肉を私へ差し出してくる。
「優勝祝いでぷ」
「ありがとう……って、それ赤が食べてたやつでしょ?」
「一番おいしいところは残してあるでぷ」
「だったら赤が食べて!」
「いいのでぷ?」
「最初からそれが目的だったでしょ!」
赤が嬉しそうに肉へかぶりつき、周囲から笑い声が上がった。
少し遅れてオラクルも車椅子でやってくる。
「随分派手に勝ちやがったな」
「見てた?」
「嫌でも見えるだろ。十九位になったときは、本気で何してんだと思ったけどな」
「ちゃんと考えてたんだから!」
「結果を見りゃ分かるよ。まあ、よくやった」
オラクルはそれだけ言うと、私の右足へ視線を落とした。
「ただし、その足はすぐ診てもらえ。勝ったからって怪我まで治るわけじゃねえぞ」
「分かってるよ」
「本当か?」
「何で今日はみんな私を信用してくれないの?」
「今日だけの問題じゃねえからだ」
メリーまで『いっぱい無茶した』と頷いたので、私は何も言い返せなくなった。
◇
治療室へ運ばれると、予想通り治療役のゴブリンに怒られた。
骨そのものが再び大きく傷ついたわけではなかったけれど、大亀裂や跳ね橋を越えたとき、最後の直線で何度か強く踏み込んだことで傷の周囲にかなり負担が掛かっているらしい。
「今日はもう絶対に走っちゃ駄目でぷ。できるだけ右足を休ませるでぷよ」
「分かった」
「本当に分かったのでぷ?」
「治療する人まで疑うの!?」
「レースを最後まで見てたでぷから」
「……ごめんなさい」
新しい包帯を巻いてもらっていると、窓の外から少しずつ騒がしい声が聞こえ始めた。
王宮の広場には長いテーブルが次々と運び込まれ、その上へ山のような料理や飲み物が並べられている。街のほうからも大勢のゴブリンが集まり始め、巨大な肉を何匹も掛かりで運ぶ集団、両腕いっぱいにパンを抱えた集団、酒樽を転がしてくる集団までいた。
ところが坂道へ差しかかったところで、一つの酒樽が運んでいたゴブリンたちの手を離れた。
「あああああ! 待つでぷー!」
「酒が逃げたでぷー!」
「捕まえるでぷー!」
何十匹ものゴブリンが坂道を転がる樽を追いかけていく。
「酒って逃げるものなの!?」
私が窓から身を乗り出すと、オラクルが呆れた顔をした。
「お前らの周りじゃ普通なんじゃねえのか?」
「私までゴブリン扱いしないでよ!」
治療室にも笑い声が広がった。
メリーは窓へ両手をつき、パンを運ぶゴブリンたちから目を離さない。
『パンいっぱい』
「本当にいっぱいあるね」
赤はその隣で巨大な肉を見つめ、黄色は広場の端に並び始めた露店を眺めていた。
「人が集まるところには商売が生まれるでぷ」
「黄色は宴くらい普通に楽しんで!」
「楽しみながら稼ぐのでぷ」
「ぶれないなあ……」
◇
王宮前の広場へ出た瞬間、私は思わず身体を起こした。
右足を休ませるため、私はゴブリンたちが用意してくれた椅子付きの台へ座って運ばれている。それでも目の前に広がる光景を見れば、じっとしているのは難しかった。
「……すごい」
広場だけでは収まりきらないほどのゴブリンたちが集まっていた。
王宮へ続く大通りまで長いテーブルが何列も並び、肉料理、魚料理、色とりどりの野菜、焼きたてのパン、果物や菓子が隙間なく置かれている。巨大な鍋からは白い湯気が立ち上り、酒樽の周りでは待ちきれないゴブリンたちが杯を持って列を作っていた。
屋根や窓には色とりどりの旗が飾られ、広場の中央には、いつ作ったのか分からないほど大きな垂れ幕まで掛かっている。
《フールちゃん優勝おめでとうでぷ!》
「私の名前まで書いてある!」
「急いで作ったでぷ!」
近くにいたゴブリンが誇らしげに胸を張った。
「ちゃんと合ってる?」
「三回確認したでぷ!」
別のゴブリンが小声で付け加える。
「最初は《プールちゃん》だったでぷ」
「やっぱり間違ってたんじゃん!」
広場中から笑い声が上がった。
そのまま中央へ運ばれていくと、レースを見ていたゴブリンたちが次々と声を掛けてくる。
「最後すごかったでぷ!」
「十九位のときはもう駄目だと思ったでぷ!」
「俺は最初から勝つと思ってたでぷ!」
「嘘でぷ! 十九位のとき『終わったでぷ』って言ってたでぷ!」
「言ってないでぷ!」
「言ってたでぷ!」
私の優勝祝いなのに、なぜか観客同士で言い争いが始まった。
「喧嘩しないでよ!」
「喧嘩じゃないでぷ!」
「レースの感想戦でぷ!」
「絶対そのうち喧嘩になるやつだよ!」
また笑い声が広がった。
広場中央の一番大きなテーブルには、ピンクお姉ちゃんが大きな杯を持って待っていた。
「主役が来たでぷ!」
その一言で、何千というゴブリンの手が一斉に上がった。
あまりの光景に、私は思わず目を丸くする。
「こんなにいるの……?」
「レースを見てたゴブリンだけじゃないでぷ。話を聞いて街中から集まってきたでぷよ」
「みんな私のお祝いに?」
「そうでぷ!」
なんだか急に恥ずかしくなった。
ピンクお姉ちゃんは楽しそうに笑うと、杯を高く掲げた。
「第一の試練を突破したフールちゃんと、最後まで一緒に走ったメリーちゃんに――乾杯でぷ!」
「乾杯でぷーーー!!」
何千もの声が一つになった。
私も渡された果物のジュースを掲げる。
「乾杯!」
『乾杯!』
無数の杯が鳴り、宴が始まった。
そこからは本当に大騒ぎだった。
赤は開始して数分で巨大な肉皿の前から動かなくなり、メリーは両腕いっぱいにパンを抱えたまま、どれから食べるか真剣に悩んでいる。緑は料理より《温存者の道》の仕組みが気になるらしく、ピンクお姉ちゃんを捕まえて質問攻めにしていた。
そして黄色は、いつの間にか小さな露店を出している。
「フールちゃん優勝記念! 今日だけの特別価格でぷ!」
「何売ってるの!?」
黄色の前には、私らしき赤毛の女の子とメリーらしき小さな絵が描かれた紙の旗が大量に並んでいた。
「一枚十コインでぷ!」
「高くない!?」
「記念品には付加価値があるでぷ」
「私の優勝を勝手に商売にしないで!」
ところが周りのゴブリンたちは面白がり、「一枚欲しいでぷ!」「俺は二枚でぷ!」と次々に買い始める。
「売れてる!?」
「需要を読んだでぷ」
「何でそんなところだけ賢いの!?」
オラクルは少し離れたところで料理を食べながら、その様子を眺めていた。
「止めても無駄だぞ」
「オラクルも何とか言ってよ!」
「売れるもんを売ってるだけだろ」
「そっち側!?」
「商売ってのはそういうもんだ」
「黄色に変なこと教えないで!」
宴は時間が経つほど大きくなっていった。
楽器を持ったゴブリンたちが演奏を始めると、別の集団がテーブルの間で踊り出す。レースを真似して走り回ろうとした子供ゴブリンたちは大人に捕まり、「今日はマシン禁止でぷ!」と怒られていた。
さらに途中からは、なぜか十二羽のヒヨコまで連れてこられた。
「十二番!」
「ぴよっ!」
十二番は私を見つけると真っ先に駆けてきた。
私は椅子に座ったまま両腕を広げ、その小さな身体を受け止める。
「見てた? 私も一着だったよ!」
「ぴよっ!」
「十二番と同じだね!」
十二番が嬉しそうに胸元へ頭を擦りつける。
その周りでは残りのヒヨコたちが料理を狙って歩き回り、赤が自分の肉を守ろうと必死になっていた。
「これは赤のでぷ!」
「ぴよ!」
「駄目でぷ!」
「ぴよぴよ!」
「増えたでぷー!」
いつの間にか赤は五羽のヒヨコに囲まれていた。
私は笑いすぎてお腹が痛くなった。
少し前まで、右足で最後まで走れるのか不安だった。十九位まで落ちたときには本当に勝てるのかと思ったし、最後の直線ではピンクお姉ちゃんに届かないかもしれないと何度も思った。
それが今は、何千匹ものゴブリンたちが私たちを囲み、食べて、笑って、歌っている。
こんなに大勢に自分の勝利を祝ってもらったことなんて、一度もなかった。
「フール」
隣からオラクルに呼ばれた。
「何?」
「泣いてんのか?」
「泣いてないよ!」
慌てて目元へ触れると、少しだけ濡れていた。
「これは笑いすぎただけ!」
「そういうことにしといてやるよ」
「本当にそうなの!」
オラクルはそれ以上何も言わず、少しだけ笑った。
私は十二番を抱きながら広場を見渡した。
赤はヒヨコたちから肉を守り、緑はピンクお姉ちゃんから聞いた話を本へ書き込み、黄色は記念品を売りながら大量のコインを数えている。メリーは十二番の背中へ乗ろうとして係員に止められ、その向こうでは名前も知らないゴブリンたちまで私の優勝を祝って踊っていた。
楽しかった。
旅に出てから危ないことは何度もあったし、お父さんとお母さんの手掛かりだって、まだ探している途中だ。
それでも、こんな日があってもいい。
「今日はいっぱい楽しもう!」
『いっぱい食べる!』
「メリーは最初からそればっかりだね!」
私は果物のジュースを掲げた。
近くにいたゴブリンたちも気づき、次々に杯を上げる。
「もう一回乾杯でぷー!」
「何に!?」
「フールちゃんの優勝にでぷ!」
「さっきしたでしょ!」
「何回やってもいいでぷ!」
「じゃあ、乾杯!」
「乾杯でぷーーー!」
また何千もの杯が上がった。
音楽が鳴り、笑い声が響き、王宮前の広場いっぱいに料理の匂いが広がっていく。
私は十二番を抱き、メリーとパンを分けながら、その騒がしさの真ん中で笑っていた。
第一の試練に勝った夜は、まだ始まったばかりだった。




