第84話 最後の直線!
最後の大カーブへ入った瞬間、ピンクお姉ちゃんの桃色のマシンが鋭く向きを変えた。
氷雪区間で見せたほど大きな横滑りではない。それでもカーブへ入る直前までほとんど速度を落とさず、車体を僅かに流しながら最短距離で出口へ向けていく。何度もこのコースを走ってきたことが伝わってくる、迷いのない動きだった。
私もすぐ後ろからカーブへ飛び込んだ。
同じ走り方で勝負するつもりはない。右足はもう強く踏み込めず、運転の技術だってピンクお姉ちゃんには敵わない。それでもここまで追いつけたのは、相手の真似をするのではなく、その場所で自分たちにできる走り方を選んできたからだ。
「メリー、出口見える?」
『見える。長い直線』
「うん。あそこへ先に真っ直ぐ向く!」
私は桃色のマシンより少し外側からカーブへ入った。距離だけなら明らかに不利になるけれど、急なブレーキは踏まず、早めにアクセルを緩めて速度を整えながら大きな弧を描くようにハンドルを切っていく。
ピンクお姉ちゃんはまだ一台以上前にいる。
観客席からは「ピンク様が先でぷー!」「挑戦者、届かないでぷ!」と大歓声が飛んでくるけれど、今ここで無理に差を縮める必要はない。カーブの途中で追いつこうとして速度を上げれば、出口でまた減速することになる。
私が見ているのは、桃色のマシンではなく、その向こうへ伸びる最後の直線だった。
「まだ追わない」
『まだ?』
「うん。出口まで待つ」
ピンクお姉ちゃんは最短距離を通っているぶん、私より先にカーブの終わりへ近づいていく。ただし、桃色の車体はまだ僅かに斜めを向いていて、直線へ完全には正対していない。
私は外側を大きく回ったぶん、緩やかな角度でハンドルを戻していった。
そして――こちらの車体が先に直線へ向く。
「今!」
右足でアクセルを押した。
傷へ響かないぎりぎりの力だけを掛け、カーブで残した速度をそのまま前へつなげる。一瞬遅れて桃色のマシンも直線へ向き、二台が最後の直線へ飛び出した。
《2位》
まだピンクお姉ちゃんが前だったけれど、カーブへ入る前に一台以上あった差は、もう半分ほどしか残っていない。
『近い!』
「うん。ここから!」
遥か前方には二本の巨大な旗が立ち、その間を白いゴール線が横切っている。ここから先に大きなカーブはなく、残っているのは長い直線だけだった。
その瞬間、桃色のマシンの後部から眩しい光が噴き出した。
ピンクお姉ちゃんが鬼殺しを使ったのだ。
「やっぱり使うよね……!」
一気に速度を上げた桃色のマシンが再び離れ始める。
私も右手を鬼殺しレバーへ掛けた。残量は《75》。ここまで使いたい場面で何度も我慢し、必要なところだけ短く使って残してきたものだ。
もうゴールは見えている。
それでも、私はすぐにはレバーを倒さなかった。
最後の直線にも補給物が残っている。右側にはBが二つ、左側には鬼殺しのひょうたんが三つ浮かび、どちらも中央の最短線から少し外れていた。
『左、鬼殺し三つ!』
「全部は取らない。近いのだけ!」
私は進路を僅かに左へ寄せ、一つ目のひょうたんだけへ車体を重ねた。
《鬼殺し 75 → 85》
二つ目はさらに外側、その先の三つ目はもっと遠い。メリーがそちらを見たけれど、私はすぐ中央へハンドルを戻した。
『まだある』
「今は取らない。遠回りするほうがもったいない!」
序盤なら、順位を落としてでも補給を優先したかもしれない。でも今はもうゴールが見えている。残量を増やすことより、少しでも短い距離を走るほうが大事だった。
私は鬼殺しレバーを倒した。
《鬼殺し 85 → 77》
低い爆音が車体の後ろで弾け、背中が座席へ強く押しつけられる。さっきまで開きかけていた差が一気に縮まり、桃色のマシンがすぐ近くまで戻ってきた。
ピンクお姉ちゃんが横目でこちらを見る。
「本当に来たでぷね!」
その顔に焦りはなく、むしろ楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「ここまで来るとは思ってたでぷよ!」
「だったら最初から待っててよ!」
「試練で待つわけないでぷ!」
「それはそうだけど!」
ピンクお姉ちゃんがさらに鬼殺しを使い、桃色のマシンがまた僅かに前へ出る。
私もレバーを倒し続けようとした。
けれど、加速に合わせてアクセルへ力を掛けた瞬間、右足の傷から鋭い痛みが突き上げてきた。
「っ……!」
反射的にアクセルを緩める。
鬼殺しで速度を上げても、右足でそれを支え続けられなければ最高速度は維持できない。桃色のマシンとの間に半台、一台と差が開き始めた。
ゴールは近づいている。
それなのに、前を走る一台だけが遠ざかっていく。
『フール』
メリーが心配そうに私を見た。
「分かってる。無理に踏まない」
そう答えたものの、悔しかった。
十九位まで落ちても諦めず、海も砂漠もピラミッドも毒沼も氷雪区間も越えてきた。ようやく前には一台しかいないのに、最後の最後で右足が思うように動いてくれない。
歯を食いしばりながら桃色のマシンを見つめていると、メリーが前方ではなく私の足元へ視線を落とした。
『フール。ずっと踏まなくてもいい』
「え?」
『坂。踏まなかった』
その言葉で、《温存者の道》の長い下り坂を思い出した。
あのときはアクセルから足を離しても、傾斜とそれまでの勢いだけで速度を保つことができた。
私は改めて最後の直線を見る。
完全な平地だと思っていたけれど、よく見ればゴールへ向かってごく僅かに下っている。しかも、一度十分な速度まで加速すれば、アクセルを緩めた瞬間にすべての勢いが消えるわけではない。
「……そっか。ずっと全力で踏み続けなくてもいいんだ」
私はアクセルへ掛けていた力を少し抜いた。
加速は弱くなるけれど、マシンはすぐには遅くならない。下りの勢いを使いながら数秒だけ右足を休ませ、その間は鬼殺しを短く使って速度を保つ。
《鬼殺し 77 → 70》
痛みが少し和らいだところで、またアクセルへ軽く力を掛ける。強く踏まず、速度が落ち始める前に必要な分だけ足して、また休ませる。
「これなら走れる!」
『うん!』
ピンクお姉ちゃんとの差が、それ以上広がらなくなった。
まだ追いつけてはいない。
でも、離されてもいない。
残っている鬼殺しは《70》。二本の旗はもうかなり大きくなり、観客席にいるゴブリンたちの姿まで見えるようになっていた。
「メリー、あとどれくらい?」
メリーは前をじっと見つめた。
『いっぱいだけど、近い』
「どっちなの?」
『近いいっぱい』
「余計分かんないよ!」
こんなときなのに笑ってしまった。
その一瞬で、ハンドルを握り締めていた手から少しだけ力が抜ける。
焦る必要はない。
最後まで、そのときできることを選べばいい。
私はもう一度、桃色のマシンを見た。
その直後、ピンクお姉ちゃんの車体後部から噴き出していた光が弱くなった。
「……あれ?」
最初はレバーを戻したのかと思った。
違う。
桃色のマシンに表示されていた鬼殺しの数字が最後まで減っていく。
《鬼殺し 0》
「使い切った……!」
ピンクお姉ちゃんは、このコースを知り尽くしている。最短の道を選び、必要な場所では迷わず鬼殺しを使い、その走りでずっと先頭を守ってきた。
その代わり、最後まで大量に残していたわけではなかった。
私は自分のメーターを見る。
《鬼殺し 70》
胸の奥が大きく鳴った。
海では遠回りして補給し、砂漠では追いかけたい気持ちを我慢した。ピラミッドでは速度を捨て、毒沼では順位まで落として《温存者の道》を選んだ。
何度も使いたくなった。
そのたびに「まだ」と言って残してきた。
でも、もうその先はない。
「メリー」
『うん』
「全部使うよ」
メリーが大きく頷いた。
『全部!』
私は鬼殺しレバーを倒した。
轟音が谷全体へ響き渡り、マシンが一気に桃色の車体へ迫っていく。
《鬼殺し 70 → 60 → 50》
一台ほどあった差が半分になる。
ピンクお姉ちゃんもアクセルを踏み込み、残った速度だけで逃げるけれど、もう鬼殺しは使えない。
《鬼殺し 50 → 40 → 30》
「追いつく……!」
桃色のマシンの後輪が目の前まで迫り、そのまま横へ並んだ。
観客席から爆発したような歓声が上がる。
ピンクお姉ちゃんがこちらを見た。
「本当に来たでぷね!」
「ここまで来たんだから!」
ピンクお姉ちゃんは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐに楽しそうに笑った。
「だったら、最後まで勝負でぷ!」
「うん!」
二台が完全に横並びになる。
観客席を埋め尽くしたゴブリンたちが一斉に立ち上がり、「並んだでぷ!」「ピンク様と挑戦者が並んだでぷ!」という声が幾重にも重なった。
白いゴール線が急速に近づいてくる。
《鬼殺し 30 → 20》
右足は痛い。
それでも、もう強く踏み続ける必要はなかった。
下りの勢いと鬼殺しを使い、必要な分だけアクセルへ力を掛ける。桃色のマシンが僅かに前へ出ればこちらが追いつき、また並ぶ。
どちらが前なのか、自分でも分からない。
《鬼殺し 20 → 10》
ゴールまで、あと僅か。
観客席のゴブリンたちは総立ちになり、地面まで揺れているような大歓声が谷を埋め尽くしていた。
ピンクお姉ちゃんが最後の力でアクセルを踏み込み、桃色のマシンがほんの少しだけ前へ出る。
私も反射的に右足へ力を掛けかけた。
でも、止めた。
ここまで守ってきた右足を、最後の数秒だからと壊すような使い方はしない。
その代わり、ハンドルを真っ直ぐ保つ。
余計な進路変更をせず、残った鬼殺しを全部前へ進む力に変える。
《鬼殺し 10 → 5》
「メリー、掴まって!」
『うん!』
白い線が視界いっぱいに広がった。
《鬼殺し 5 → 0》
最後の光がマシンの後部から噴き出し、身体が座席へ押しつけられる。
桃色の車体との差が消えた。
二台が完全に並ぶ。
ピンクお姉ちゃんも私も、もう互いを見る余裕なんてなかった。
目の前にあるのは白い線だけ。
「行っけええええええっ!」
二台のマシンが、ほとんど同時にゴールへ飛び込んだ。
――ゴォォォォンッ!!
巨大な鐘が鳴り響いた。
私はすぐにアクセルから右足を離し、マシンが減速していくのに任せた。すぐ横では桃色のマシンも速度を落としている。
どちらが先だったのか、自分ではまったく分からなかった。
「……どっち?」
メリーも答えない。
ピンクお姉ちゃんまで黙ったまま、競技場中央に浮かぶ巨大な魔法板を見上げている。
さっきまで地面を揺らすほどだった観客席の歓声も、判定を待つように少しずつ静まっていった。
やがて魔法板から《1位》《2位》の表示が消え、中央が真っ暗になる。
私はハンドルを握ったまま息を止めた。
暗闇の中へ白い光が集まり、一文字ずつ新しい文字を作っていく。
《第一の試練――》
そこで一度、光が止まった。
勝ったのか。
負けたのか。
それとも、本当に同時だったのか。
何千匹ものゴブリンが見守る静寂の中、最後の判定を告げる光が、ゆっくりと魔法板へ浮かび始めた。




