第9話 盗り返せ!
煙草を咥えた男が人混みへ飛び込むと、黄色は「待つでぷ! 俺のお金を返すでぷ!」と叫びながら、迷うことなくその背中を追いかけた。
私もすぐに走り出したけれど、目の前の男だけを追うことはしなかった。赤と緑にはまだTIMEとの戦いで負った傷が残っているし、昨日、誰か一人で飛び出さないと決めたばかりだ。何度も三匹の位置を確認しながら、黄色が先へ行きすぎれば呼び戻し、四人の距離を保ったまま追跡する。
ところが、相手はアルセウスの大通りを走っているとは思えないほど滑らかに人の間を抜けていった。正面から荷車が来れば直前で身体を横へ滑らせ、露店が進路を塞いでいれば客とのわずかな隙間を通り抜け、それでいて口に咥えた煙草を落とす気配すらない。
「なんで煙草吸いながらあんなに速いの!?」
「俺のお金を持ってるから速く見えるでぷ!」
「絶対違うよ!」
黄色がさらに速度を上げようとした瞬間、横道から荷車が飛び出してきた。私は慌てて黄色の服を掴み、鼻先を車輪が横切る寸前で引き止める。
御者から「道の真ん中で走るな!」と怒鳴られても、黄色は荷車ではなく、遠ざかっていく自分の金貨袋ばかり見ていた。
「このままじゃ俺のお金が逃げるでぷ!」
「黄色が轢かれたら、取り返しても意味ないでしょ! お金だけじゃなくて前も見て!」
「それもそうでぷ!」
「今気づいたの!?」
私たちが騒いでいる間にも男との距離は開いていく。
けれど、しばらく追いかけているうちに妙なことへ気づいた。
男は本気で逃げているようには見えない。
少し先まで進むとわざと速度を落とし、私たちが近づけばまた走り出す。それどころか、一度は黄色の金貨袋を頭上へ掲げ、じゃらじゃらと硬貨を鳴らしながらこちらを振り返った。
「ほら。早く来ねえとなくなるぞ」
「俺のお金で遊ぶなでぷぅぅぅ!」
黄色の顔が真っ赤になる。
私は走りながら、男の動きを注意して見た。
「……あの人、私たちで遊んでる」
緑も息を切らしながら頷いた。
「本気で逃げるつもりなら、とっくに見えなくなってるでぷよ」
言われてみれば、その通りだった。
黄色のお金を盗んだだけでも腹が立つのに、それを餌のように見せながら私たちが追いかけてくるのを楽しんでいる。
「絶対取り返そう。でも今度こそ四人でね」
黄色は男の手にある金貨袋を睨みながらも、今度はきちんと頷いた。
◇
追跡が大通りから細い路地へ移ると、周囲の景色が一気に変わった。
左右の建物が迫るように並び、二階から突き出した物干し竿や看板が頭上を覆っている。道端には木箱や樽が無造作に積まれ、その隙間を縫うように何本もの細い道が枝分かれしていた。
煙草の男は迷うことなく右の路地へ曲がった。
私たちも続いたものの、角を抜けたところで男の姿が消えていた。
正面では三本の路地がさらに分かれている。どの道も同じような幅で、似たような建物が並んでいるため、どちらへ行ったのか見当もつかない。
黄色が焦ったように周囲を見回した。
「どこへ行ったのでぷ!? 早く追うでぷ!」
「待って。適当に走ったら、今度は私たちが迷子になるよ」
私はその場で足を止め、耳を澄ませた。
住人の話し声や窓を閉める音、遠くの大通りから聞こえてくる商人の呼び声が入り混じり、走る足音だけを探すのは難しい。
そのとき、赤が鼻をひくつかせた。
「何か臭うでぷ」
「臭う?」
「煙でぷ。さっきのやつが吸ってたのと同じ匂いがするでぷよ」
私も空気を吸い込んだ。
確かに微かな煙草の匂いが残っている。
風の流れてくる方向へ視線を動かし、右側の建物を見上げると、二階の窓から細い煙が流れていた。
「あそこ!」
窓枠には、煙草の男が腰掛けていた。
黄色の金貨袋を膝へ載せ、何事もなかったように煙草を吸いながら、こちらを見下ろしている。
「よく見つけたな」
「赤のおかげだよ! それより返して!」
黄色も両手を伸ばし、「俺のお金を返すでぷ!」と叫んだ。
男は金貨袋を持ち上げると、面白そうに揺らしてみせた。
「取りに来いよ」
「そこ二階でしょ!」
「階段なら裏だ」
私は一瞬、言葉を失った。
「……教えるんだ」
本当に逃げたいなら、隠れた場所を自分から教えるはずがない。
完全に遊ばれている。
私は三匹と顔を見合わせた。
「行こう。今度こそ捕まえるよ」
◇
男の言った通り建物の裏へ回ると、本当に外階段があり、その先には二つの建物を結ぶ細い渡り廊下が伸びていた。
煙草の男は、その中央で待っていた。
私たちが現れると、煙草を指で摘まんで口からゆっくり煙を吐き出す。
「思ったより早かったな」
「早かったなら、ご褒美に袋返してよ」
「嫌だね」
黄色も私の横から身を乗り出した。
「それは俺のお金でぷ!」
「知ってる」
「知ってて盗ったのでぷ!?」
「知らなきゃ盗れねえだろ」
黄色が怒りで震え始めたので、私は肩へ手を置いて止めた。
正面から飛びかかっても、また逃げられる。
ここまで追ってきたことで、この男が私たちより遥かに身軽で、アルセウスの道を知り尽くしていることは十分分かった。
でも、今いる場所は大通りとは違う。
渡り廊下はそれほど広くなく、男の後ろには向こう側の建物へ続く入口、こちら側には私たちが上ってきた階段がある。左右へ好き勝手に逃げ回れる場所ではない。
私は三匹を見た。
赤と緑も、こちらの意図を探るように私を見る。
最後に黄色と目が合った。
黄色は自分の金貨袋へ視線を向けたあと、男が着ている外套のポケットを見た。
何を考えているのか、なんとなく分かった。
私は小さく頷き、わざと肩の力を抜いた。
「……もういいよ。お金は諦める」
黄色が大げさに目を見開いた。
「フールちゃん!?」
男まで少し意外そうな顔をした。
「諦めんのか?」
「うん。ここでずっと追いかけてても仕方ないし、またQUESTをやったり、魔物の素材を売ったりして稼げばいいよ」
本当は、絶対に嫌だった。
昨日の宿代も治療費も、今日売ったグラスウルフの素材代も入っている。
それでも、そう思っていることが男に伝わらないよう、黄色の肩を押して背中を向けた。
「行こう」
黄色も意図を理解したらしく、泣きそうな顔を作りながら私についてくる。赤と緑にも目配せし、四人で階段へ向かってゆっくり歩き始めた。
すぐには何も起こらなかった。
背後には煙草の匂いだけが残っている。
本当にこのまま行かせるつもりなのかと思い始めたころ、渡り廊下を踏む足音が少しずつ近づいてきた。
私たちが本当に諦めたのか、確かめに来たらしい。
十分に近づいたところで、私は勢いよく振り返った。
「今!」
赤が男の右側へ入り、緑は反対側へ回って逃げ道を狭める。二匹とも攻撃するのではなく、男が左右へ身体をかわすための空間だけを潰した。
同時に黄色が真正面から飛び込む。
「返すでぷぅぅ!」
男は身体を半歩ずらし、簡単に黄色をかわした。
けれど、それこそ黄色の狙いだった。
すれ違った瞬間、小さな右手が男の外套のポケットへ滑り込み、何かを掴む。黄色はそのまま前へ転がって距離を取り、素早く立ち上がった。
その胸元には、小さな革袋が抱えられている。
男の顔から、初めて余裕が消えた。
自分のポケットへ手を入れ、空になっていることを確認すると、驚いたように黄色を見る。
黄色は革袋を高々と掲げた。
「盗ったでぷ! 俺のお金を返さないなら、これも返さないでぷ!」
数秒の沈黙のあと、赤が真っ先に吹き出した。
緑まで脇腹を押さえながら笑い始め、私も我慢できなくなる。
「盗人から盗った!」
男はしばらく呆然と黄色を見ていたが、やがて肩を震わせ始めた。
怒ったのかと思った。
でも違った。
「ははは! お前ら面白えな。まさか俺の懐を抜くとは思わなかった」
黄色は笑わず、革袋を胸へ抱え直した。
「笑ってないで交換するでぷ!」
「分かった、分かった。俺の負けだ」
男はしばらく笑ったあと、降参するように片手を上げ、黄色の金貨袋をこちらへ放った。
黄色は両腕で大切そうに受け止めると、その場へ座り込んで袋の中身を確認し始める。
男は呆れたように見下ろした。
「一枚も抜いてねえよ」
「信用できないでぷ!」
黄色は聞く耳を持たず、一枚ずつ最後まで数え切った。やがて金額が変わっていないことを確認すると、胸いっぱいに息を吸い、金貨袋を強く抱きしめた。
「全部あるでぷ……!」
その顔を見て、私もようやく安心できた。
「よかった」
黄色は袋の口を何重にも結び直し、今度こそ服の奥深くへ押し込んだ。それから自分が盗った革袋を男へ差し出す。
「これは返すでぷ」
男は革袋を受け取り、中身を軽く確認してから外套へ戻した。
「律儀だな。中身まで持ってくかと思ったぞ」
「俺は泥棒じゃないでぷ!」
「今、俺から盗っただろ」
「取り返すためでぷ!」
その答えが気に入ったのか、男はまた声を上げて笑った。
私は腰へ手を当て、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「そもそも、なんで黄色のお金を盗ったの?」
男は少し考えるように煙草を咥え直したあと、何でもないことのように答えた。
「盗れそうだったから」
「それだけ!?」
「それだけ」
「最低じゃん!」
「ここはアルセウスだぞ」
またそれだった。
この街の人たちは、何かあるたびに《アルセウス》という名前ですべてを済ませようとする。
男は短くなった煙草を携帯灰入れへ押し込み、新しい一本へ火をつけた。それから、もう逃げる必要はないと判断したのか、煙を吐きながら私たち四人を改めて眺める。
「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺はオラクル。この街で生まれて、この街で育った。人の懐と面白そうな話には、つい手が伸びる」
黄色がすぐに服の上から金貨袋を押さえた。
「もう触ったら駄目でぷ!」
「分かってるよ。今日はもう盗らねえ」
「今日は?」
黄色がさらに警戒したので、私は思わず笑ってしまった。
最悪の出会いだったと思う。
黄色のお金を盗まれ、街中を走らされ、最後にはこちらまで盗みをする羽目になった。それでも金貨袋は一枚も減らずに戻ってきたし、目の前の男も今のところ再び逃げる様子はない。
「私はフール。この三匹は赤、緑、黄。よろしくって言っていいのか分からないけど、とりあえずもう私たちの物は盗らないでね」
オラクルは煙草を咥えたまま、楽しそうに口元を上げた。
「覚えとくよ、フール」
こうして盗人の街アルセウスで、私たちはオラクルという男と出会った。
最初に盗まれたのは黄色のお金で、最後に残ったのは、なんとも信用しづらい男の名前だった。
この出会いがこれから先の旅へどうつながるのか、そのときの私にはまだ分からなかった。




