第10話 幻獣種召喚の本
黄色の金貨袋を巡る騒動がようやく終わり、私たちは渡り廊下から大通りへ戻ってきた。
結局、盗まれたお金は一枚も減っていなかった。黄色は安心した反動なのか、歩きながら何度も服の上から金貨袋の位置を確認している。
そのたびにオラクルが煙草を咥えたまま笑うので、黄色はますます警戒を強めていた。
「そんなに触ってると、また金がある場所を教えることになるぞ」
「もう騙されないでぷ! 今度触ったら噛むでぷ!」
「物騒なゴブリンだな」
「誰のせいでぷか!」
二人のやり取りを聞きながら、私は小さく笑った。
出会い方は最悪だったけれど、少なくともオラクルから最初に感じた印象は、TIMEの《1》とはまるで違う。
怖くはない。
腹は立つけれど。
大通りへ出たところで、私はこれからどうするか考えるため、何気なく鞄から《聖なるマップ》を取り出した。
アデューという名前が表示されたり、旅の途中で出会ったものがいつの間にか記録されていたりする不思議な地図だけれど、まだ私は使い方をほとんど理解していない。
だから、このときも深い意味があって開いたわけではなかった。
次にどちらへ行こうか。
それくらいの気持ちだった。
「宿も探さなきゃいけないし、情報を聞けそうな場所も――」
言いかけたところで、隣を歩いていたオラクルが突然足を止めた。
「おい」
さっきまでの軽い調子とは違う声だった。
私は顔を上げる。
オラクルは私ではなく、手元の《聖なるマップ》を見ていた。
「なに?」
「今の地図、もう一回見せろ」
「これ?」
私が地図を持ち上げると、オラクルは煙草を指で挟み、少し身を屈めて覗き込んだ。
その目から、さっきまでのふざけた雰囲気が消えている。
「……なんで?」
「今、珍しいアイテムの名前が出てた」
「アイテム?」
私は慌てて地図へ目を落とした。
いつもの地図だ。
街や道らしい線と、これまでに増えた記録が見えるだけで、特別変わったものはない。
「何も出てないよ?」
「消えたな」
オラクルは煙草を咥え直した。
「でも見間違いじゃねえ。ほんの一瞬だったが、文字が出た」
「なんて書いてあったの?」
オラクルは少しだけ間を置いてから答えた。
「《幻獣種召喚の本》」
聞いたことのない名前だった。
「……げんじゅうしゅ?」
赤、緑、黄も私たちの周りへ集まってくる。
私はもう一度、聖なるマップを端から端まで確認した。
《幻獣種召喚の本》という文字はどこにもない。
「本当に出てた?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「黄色のお金盗んだ人だから、まだ全部は信用してない」
「根に持つな」
「ついさっきのことだよ!」
オラクルは煙を吐きながら肩を竦めた。
でも、さっきの反応が演技だったようには見えなかった。
私は地図を裏返してみた。
当然、何もない。
もう一度表へ戻しても、《幻獣種召喚の本》は現れなかった。
「なんで消えちゃったんだろう……」
そのとき、緑が珍しく黙り込んでいることに気づいた。
「緑?」
緑は私ではなく、聖なるマップを見ていた。
「《幻獣種召喚の本》っていう本のことは知らないでぷ。でも……《幻獣種》って言葉なら聞いたことがあるでぷよ」
私は地図から顔を上げた。
「知ってるの?」
「本で読んだだけでぷ。俺も見たことはないでぷよ」
緑はそう前置きしてから、記憶を探すように少し考えた。
「幻獣種は、普通の魔物とは全然違う特別な存在だって書いてあったでぷ。昔からいろんな話が残ってるでぷけど、本当にいるのか分からないものまで混ざってるでぷ」
「何匹くらいいるの?」
「確か……六体でぷ」
その数字を聞いて、赤と黄色まで緑を見る。
オラクルも口を挟まず、煙草を咥えたまま話を聞いていた。
「どんなの?」
私が尋ねると、緑は指を一本立てた。
「一体目は、水を操る《人魚》でぷ」
人魚。
その言葉から、上半身は人で下半身は魚という、私が知っている姿を想像する。
緑は二本目の指を立てた。
「二体目は、雷を纏う《雷鳥》でぷ。空を飛ぶ大きな鳥で、翼を広げると雷が落ちるって話があるでぷよ」
「飛ぶだけじゃなくて雷まで出すの?」
「伝説では、そうなってるでぷ」
三本目。
「三体目は、氷を操る《蛇》でぷ。身体の周りを凍らせながら動いて、通った場所に氷が残るって書いてあったでぷ」
赤が少し身体を引いた。
「踏んだら滑りそうでぷ」
「そこを心配するの?」
緑は気にせず四本目の指を立てる。
「四体目は、炎を纏う《獅子》でぷ。身体そのものが燃えてるみたいに見えるって話でぷよ」
赤の目が輝いた。
「強そうでぷ!」
「絶対近づいたら熱いよ」
「でも格好いいでぷ!」
赤は気に入ったらしい。
緑は五本目の指を立てた。
「五体目は、《光の剣士》でぷ」
私は少し驚いた。
ここまで人魚、鳥、蛇、獅子と続いていたのに、急に剣士になった。
「人なの?」
「分からないでぷ。人みたいな姿をして、光を纏った剣を使うって書かれてるだけでぷよ。幻獣種って呼ばれてるけど、全部が獣の姿をしてるわけじゃないみたいでぷ」
そして最後。
緑は六本目の代わりに、もう片方の手の指を一本立てた。
「六体目は、《虹色の魔導書を持つ幻術士》でぷ」
「虹色の魔導書?」
「見る角度で色が変わる本を持ってるって話でぷ。その本から、いろんな幻を出すって書いてあったでぷよ」
私は思わず、緑がいつも抱えている本を見た。
緑も気づいたらしく、自分の本を胸へ寄せる。
「俺のは普通の本でぷよ」
「分かってるよ」
六体。
水を操る人魚。
雷を纏う雷鳥。
氷を操る蛇。
炎を纏う獅子。
光の剣士。
そして、虹色の魔導書を持つ幻術士。
どれも、私がこれまでに出会った魔物とはまるで違う。
「その六体って、本当にいるの?」
私が尋ねると、緑はすぐには頷かなかった。
「分からないでぷ。俺が読んだ本でも、ほとんど伝説みたいに書かれてたでぷよ。昔の人が作った話だって考えてる人もいるでぷ」
「じゃあ、全部作り話かもしれない?」
「全部かどうかは分からないでぷ」
緑はそこで少し声を落とした。
「《雷鳥》と《炎の獅子》だけは、目撃したって話が残ってるでぷよ」
「え?」
「雷鳥は、すごく高い山の近くで巨大な鳥を見たって話が何度かあるでぷ。晴れてたのに、その鳥が飛んだあとだけ雷が落ちたって記録もあったでぷよ」
緑は続ける。
「炎の獅子も、遠い土地で夜の山を歩く燃えた獅子を見たって話があるでぷ。どっちも捕まえた人はいないし、本当に幻獣種だったのか確認されたわけじゃないでぷけど、昔話だけじゃなくて目撃情報があるのはその二体でぷ」
さっきまで伝説の話を聞いているつもりだった。
でも、その言葉で少しだけ感じ方が変わった。
本当にいるかもしれない。
私は手の中にある《聖なるマップ》へ目を落とした。
そこにはもう、《幻獣種召喚の本》という名前はない。
でもオラクルは見た。
ほんの一瞬だけ、この地図がその名前を表示した。
「幻獣種を……召喚する本」
名前だけを、もう一度口にしてみる。
もし本当にそんな本があるなら、六体の幻獣種と何か関係があるのだろうか。
それとも、ただ同じ名前が使われているだけなのか。
今の私には何も分からない。
オラクルが煙草の灰を落としながら、聖なるマップを見た。
「その地図、変なもん持ってんな」
「私にもよく分からないんだよ」
「自分の地図だろ?」
「そうだけど、説明書なんてなかったもん」
オラクルは少し笑った。
「じゃあ、また出るかもしれねえな」
「《幻獣種召喚の本》が?」
「地図が一回名前を出したなら、何か理由があんだろ。少なくとも、何もねえのに勝手に文字が出るよりはな」
私は地図を見つめた。
理由。
アデューの名前が表示されたときも、私は意味が分からなかった。
今回も同じだ。
聖なるマップは何かを見せる。
でも、どうして見せたのかまでは教えてくれない。
「……不親切な地図」
思わず呟くと、オラクルが笑った。
「地図に文句言ってる奴、初めて見た」
「だって名前だけ見せて消すんだよ? せめて場所くらい教えてくれてもいいじゃん」
「それが分かったら冒険にならねえだろ」
「私は両親を探しに来たのであって、地図に振り回されに来たんじゃないんだけど……」
赤たちが笑う。
私も少しだけ笑った。
でも、《幻獣種召喚の本》という名前は頭から離れなかった。
六体の幻獣種。
そのうち二体には、今も目撃情報が残っている。
そして、それらを《召喚する》と名のついた本。
私は聖なるマップを畳み、鞄へ戻した。
今すぐ追いかける手掛かりはない。
だったら、今はそれでいい。
この世界には、お父さんとお母さん以外にも、私がまだ知らないものが数え切れないほどある。
旅を続けていれば、いつかまた《聖なるマップ》が何かを見せるかもしれない。
そのときに覚えていればいい。
「緑」
「なんでぷ?」
「今の六体の話、忘れないようにしておいて」
緑は本を抱え直しながら頷いた。
「もちろんでぷ」
私はもう一度、鞄の上から聖なるマップへ触れた。
《幻獣種召喚の本》。
一瞬だけ現れて、消えた名前。
このときの私はまだ、その本を本当に手にする日が来ることも――そこから始まる出会いが、私たちの旅を大きく変えていくことも知らなかった。




