第82話 氷上の大跳躍
鬼殺しレバーを一気に倒した瞬間、マシンの後部からこれまでで一番大きな轟音が弾けた。
身体が座席へ叩きつけられるような加速に襲われ、目の前にあった氷の斜面が一気に迫ってくる。少しでも斜めに入れば、飛び出した瞬間に車体の向きが崩れるかもしれない。
《鬼殺し 98 → 91 → 84》
「速いっ……!」
『まっすぐ!』
「分かってる!」
私は余計にハンドルを動かさず、ピンクお姉ちゃんが残した二本のタイヤ跡へ車体を重ねた。
背後では氷が砕け続け、もう速度を落としてやり直すことはできない。目の前いっぱいに黒い亀裂が広がり、その向こう側の氷が急速に近づいてくる。
「行っけええええっ!」
マシンが氷の斜面を駆け上がった。
ガンッ!
大きな衝撃が下から突き上げ、次の瞬間にはタイヤから地面の感触が消えていた。
「……飛んだ!」
眼下には巨大な亀裂と、その底で波打つ黒い水が広がっている。さっきまで走っていた氷は後ろから次々と崩れ、大きな塊になって水中へ落ちていた。
向こう側の氷は見えている。
けれど、思っていたより遠い。
「届く……?」
飛び出した勢いは十分だと思ったのに、空中ではアクセルを踏んでもタイヤが地面を蹴ってくれない。鬼殺しレバーを握ったままでも、ここから速度を増やすことはできなかった。
車体が少しずつ落ち始める。
向こう岸の縁が迫った。
「お願い……届いて!」
前輪が氷の端を越えた。
「届いた!」
そう思った瞬間、後輪が亀裂側の壁へ激突した。
ドガンッ!!
「きゃあっ!」
激しい衝撃で身体が安全帯へ押しつけられ、マシンの前半分が大きく跳ね上がった。前輪だけは向こう岸へ乗っているけれど、後輪はまだ亀裂の上に残っている。
「止まらないで!」
私はアクセルを踏み込んだ。
前輪が氷を掻き、砕けた欠片を後ろへ飛ばしながら車体を少しずつ引き上げていく。
ガガガガガッ――!
その直後、前輪の下へ新しい亀裂が走った。
バキッ。
「嘘でしょ!?」
『割れる!』
もう一度アクセルへ力を込めた瞬間、右足の傷の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
痛い。
それでも、ここで足を離せばマシンごと落ちる。
私は歯を食いしばり、アクセルを踏み続けた。前輪が氷を掻くたびに車体が僅かずつ前へ進み、やがて後輪の片方が縁へぶつかって乗り上げる。
「あとちょっと……!」
さらに車体が前へ出て、もう片方の後輪も氷へ乗った。
ドンッ!
四つのタイヤが向こう岸へ落ちる。
「乗った!」
『乗った!』
喜んでいる暇はなかった。
着地の衝撃で車体は左右へ大きく揺れ、そのまま氷の上を斜めに滑っている。正面には巨大な氷柱まで迫っていた。
「危ない!」
私はアクセルから足を離し、ハンドルを僅かに右へ当てた。凍結湖で覚えた通り、急に切り返さず、滑っている方向を感じながら少しずつ向きを戻していく。
氷柱が左側すれすれを通り過ぎ、ようやく車体が真っ直ぐになったところで、私は大きく息を吐いた。
「……渡れたぁ」
『飛んだ』
「飛んだね……本当に」
右足はまだ震えていた。
怖かったし、もう一度やれと言われたらすぐには頷けない。それでも、ピンクお姉ちゃんが越えた大亀裂を、私たちも自分たちのマシンで渡り切った。
私は鬼殺しレバーを戻し、残量を確認した。
《鬼殺し 82》
飛び出す直前から一気に使ったため、かなり減っている。さらに着地後、前輪だけで車体を引き上げるためにアクセルを踏み続けたことで、スタミナも《67B》まで落ちていた。
そして何より気になるのは右足だった。
さっき強く踏み込んだときの痛みが、まだ傷の奥に残っている。
『足、痛い?』
メリーが心配そうに覗き込んだ。
「さっきより痛くなった。でも、まだ動かせるから、しばらく強く踏まないようにする。ここで無理して動かなくなったら、最後まで走れないもん」
『うん』
本当は反射的に「大丈夫」と答えそうになったけれど、治療室で痛みを隠さないと約束したばかりだった。
私は右足の位置を少し直し、痛みが強くならない程度にアクセルへ力を掛ける。
そのとき、前方から大きな駆動音が聞こえた。
顔を上げると、桃色のマシンが見える。
「……近い」
ピンクお姉ちゃんだ。
大亀裂を越える前より明らかに距離が縮まり、その間にいたマシンも減っている。
魔法板には《5位》と表示されていた。
十九位まで落ちたところから、砂漠を抜け、ピラミッドを越え、毒沼で《温存者の道》を見つけ、氷雪区間では滑り方まで覚えてきた。
ようやく先頭争いが見える場所まで来た。
けれど、背後からも轟音が響いた。
バックミラーを見ると、後続のマシンが次々に大亀裂へ挑んでいる。その中には、何度も競り合ってきた青い六輪車もいた。
小柄なゴブリンは迷わず斜面へ入り、そのまま宙へ飛び出す。六つのタイヤが向こう岸へ着地すると、大きく跳ねながらもすぐに姿勢を戻して追ってきた。
『青、来た』
「やっぱり来るよね」
あのゴブリンも、まだ終わっていない。
私たちが右足を庇って速度を落とせば、すぐに追いついてくる。でも、だからといって無理にアクセルを踏み込めば、今度こそ右足が持たないかもしれない。
残っているBと鬼殺し、傷めた右足、そして前を走る四台。
ここから先は、残すだけでも使うだけでも勝てない。
◇
大亀裂を越えてしばらく進むと、氷雪区間にも少しずつ終わりが見え始めた。
雪は薄くなり、凍っていた路面にも黒い地面が混ざってくる。冷たい風はまだ残っているものの、タイヤがしっかり路面を掴む感覚が戻ってきた。
「滑らない……!」
『走れる』
「うん。でも、足は使いすぎない」
私はアクセルを軽く踏み、右足の痛みが強くならない範囲を確かめながら速度を上げた。
前方には四位の紫色のマシン、その先には三位と二位、そして先頭のピンクお姉ちゃんが見えている。まだ距離はあるけれど、もう見失うほど遠くはなかった。
そのとき、コース脇の魔法板へ新しい表示が現れた。
《最終区間まで 残り一地区》
「……最終区間?」
『もうすぐ最後?』
「たぶん」
胸が高鳴った。
第一の試練も、いよいよ終わりが近い。
だからこそ、ここから残っているものをどう使うかが重要になる。
《スタミナ 66B》
《スピード 鬼殺し82》
右足には痛みが残っている。
使えるものは、これだけ。
「最後まで全部残す必要はないんだよね」
『使う?』
「うん。でも、まだ」
今までは使い切らないことを考えてきた。でも、ゴールしたあとにBや鬼殺しを大量に残しても意味はない。
重要なのは、どこで使うかだ。
その答えを探しながら進んでいると、前方に巨大な石造りの門が現れた。
門の向こうからは明るい陽射しが差し込み、遠くから観客たちの歓声まで聞こえてくる。
「外に戻るんだ!」
門を抜けた瞬間、眩しい光が視界いっぱいに広がった。
目の前には巨大な谷があり、両側を切り立った岩壁に囲まれた細いコースが何度も上下しながら奥へ伸びている。急な下り坂と上り坂、連続するカーブ、そのさらに先には空中へ突き出した巨大な跳ね橋まで見えた。
そして谷の遥か先、二本の巨大な旗の間に白い横線が引かれている。
「……ゴール?」
『ゴール』
間違いない。
ここまで一度も見えなかった終点が、初めて姿を現した。
観客席からの歓声が一気に大きくなる。
「最終区間でぷー!」
「ピンク様が先頭でぷ!」
「挑戦者は五位でぷ!」
胸の奥が強く鳴った。
ゴールは見えた。
でも、まだ五位。
このまま走っているだけでは試練を突破できない。
私は四位の紫色のマシン、その先の三位と二位、そして桃色のマシンを順番に見た。
「ここからは……残すだけじゃ勝てない」
『使う』
「うん。ここまで残してきたものを、今度は勝つために使う」
右手を鬼殺しレバーへ添え、私は最終区間へ続く長い下り坂へマシンを向けた。
ゴールまで、あと一地区。
そしてピンクお姉ちゃんまで、あと四台。
第一の試練の決着が、ようやく見えてきた。




