第81話 氷上の追走
吹雪で視界が塞がれている場所では、ピンクお姉ちゃんも無理に飛ばしていなかった。
その姿を見た瞬間、ようやく分かった。
ピンクお姉ちゃんが速いのは、どこでも全速力で走っているからじゃない。速度を出していい場所と落とさなければならない場所を見極め、その判断を迷わず繰り返しているから速いんだ。
「……同じなんだ」
『何が?』
「ピンクお姉ちゃんも、全部の場所で速く走ってるわけじゃないんだよ」
私はハンドルを握り直した。
海ではBを取りに遠回りし、砂漠では順位を捨てて速度を落とした。ピラミッドでは罠を見るために鬼殺しを使わず、毒沼では青い光を信じて正規ルートから外れた。
やってきたことは全部違うけれど、その場所で何が必要なのかを考えて選んできたことだけは同じだった。ピンクお姉ちゃんは、それを私よりずっと速く、正確にやっている。
だったら、追いつくために必要なのは無茶をすることじゃない。
「見えるものだけ見よう。メリー、お願い」
『任せて』
吹雪の中では前のマシンを追わず、氷柱と路面、それからカーブの向きだけに集中した。メリーが左右の障害物を教えてくれるたびに必要な分だけハンドルを動かし、見えない先へ飛び込まないよう速度を保って進んでいく。
やがて吹きつけていた雪が少しずつ弱まり、白く塞がれていた視界が開け始めた。
凍結湖の終わりが見える。
その先には雪の積もった長い上り坂が伸び、さらに上ではコースが大きく左へ折れていた。そして、そのカーブへ向かう桃色のマシンも、さっきよりはっきり見える。
「近くなってる……!」
『ピンク、近い』
毒沼へ入る前には、どれだけ目を凝らしても小さくしか見えなかった。それが今は、桃色の車体がカーブへ入る動きまではっきり分かる。
順位は七位。ピンクお姉ちゃんとの間には、あと五台のマシンがいる。
私はメーターを確認した。
氷雪区間へ入ったときには80Bあったスタミナは、雪原と凍結湖を走ったことで《74B》まで減っている。
《スタミナ 74B》
青い六輪車を抜くときに5だけ使った鬼殺しは《103》。右足にも疲れは溜まっているけれど、砂漠で感じたような鋭い痛みは戻っていない。
まだ走れる。
凍結湖を抜けて雪の積もった上り坂へ入ると、タイヤが深い雪へ沈み、マシンの速度が目に見えて落ちた。
「重い……!」
さっきまでの氷とは正反対だった。氷では滑りすぎることが問題だったのに、今度は雪がタイヤを掴んで離してくれない。アクセルを強く踏めば登れるけれど、そのぶんBも右足も削られる。
前を走るマシンたちは、ここぞとばかりにアクセルを踏み込んでいた。そのうち一台は鬼殺しまで使い、激しく雪を巻き上げながら一気に坂を駆け上がっていく。
「私も使えば……」
右手が鬼殺しレバーへ伸びかけたけれど、途中で止めた。
坂の上が見えないうえ、その先には大きな左カーブがある。ここで加速しても、頂上へ着いた瞬間に強くブレーキを踏むことになれば、さっきまで氷の上で覚えたことを全部無駄にしてしまう。
「坂の途中では使わない」
『遅くなる』
「うん。でも、上まで行ってから決める」
アクセルだけで登っていると、スタミナが《74B》から《72B》へ減り、一台のマシンが私たちの横を抜いていった。
《8位》
悔しくないわけじゃない。それでも追いかけず、右足へ掛ける力を一定に保ちながら、少しでも雪の浅い場所を探した。
『左、少ない』
メリーが指差した先では、風で雪が吹き飛ばされ、黒っぽい路面が細く露出している。
「そこ!」
少しだけ左へ寄せると、タイヤに掛かっていた抵抗が軽くなった。アクセルを踏む力を増やしていないのに速度が戻り、坂の途中で抜かれたマシンとの差も、それ以上は広がらない。
「やっぱり、ここでも道を見ればいいんだ」
そのまま登っていくと、やがて坂の頂上が見えてきた。
先に登り切ったマシンは鬼殺しの勢いを残したまま左カーブへ入ったけれど、その先の路面は再び氷に覆われている。運転手が慌ててブレーキを踏んだ途端、車体は大きく横へ流れ、外側の深い雪へ突っ込んでしまった。
「うわあああでぷー!」
安全障壁が発動するほどの衝突ではなかったものの、タイヤが雪へ埋まり、速度はほとんどなくなっている。
「今なら抜ける!」
私は頂上へ出る前からアクセルを少し緩めた。
黒い路面が終わり、氷の左カーブへ入る。
凍結湖で覚えた感覚を思い出しながら、急に曲げず、急に止まらず、緩やかにハンドルを左へ切った。後輪が外へ流れ始めても慌てず、車体が斜めになったところで僅かに逆へ当てる。
怖さはまだある。
でも、もう初めてじゃない。
マシンは横向きの姿勢を保ったまま氷のカーブを滑り、深い雪に捕まったマシンの内側へ入った。
「抜ける……!」
カーブの出口が近づくにつれて車体が前を向き、タイヤがしっかり路面を掴んだところで初めてアクセルを踏み込む。
《7位》
抜かれた順位を取り戻した。
「戻った!」
『七位!』
しかも、その先にはもう一台いた。
六位のマシンはカーブを慎重に抜けすぎたらしく、まだ十分に加速できていない。一方、私たちのマシンはすでに出口へ真っ直ぐ向いている。
ここなら使える。
「鬼殺し――少しだけ!」
レバーを短く倒した。
《鬼殺し 103 → 98》
マシンが雪煙を切り裂いて加速し、六位の車体へ一気に並ぶ。相手もこちらに気づいてアクセルを踏み込み、二台が短い直線を横並びで駆け抜けた。
「抜かせないでぷ!」
「ここは行くよ!」
この先にはまたカーブがある。
だから使い続けない。
半台分だけ前へ出た瞬間に鬼殺しレバーを戻し、そのまま相手の前へ入った。
《6位》
「六位!」
『あと四台!』
メリーの言葉に、胸が大きく鳴った。
ピンクお姉ちゃんとの間にいるのは、もう四台だけ。さっきまで遠くに見えていた桃色のマシンも、今でははっきりと車体の形が分かるほど近づいている。
観客席からも大きな歓声が響いてきた。
「挑戦者、六位まで来たでぷー!」
「十九位から戻ってきたでぷ!」
「ピンク様まであと少しでぷー!」
その声に押されるようにアクセルへ力を込めかけたけれど、私はすぐに抑えた。
ピンクお姉ちゃんへ追いつくことが目的じゃない。
最後に、先にゴールすることが目的なんだ。
「焦らない。ここまで来た走り方を変えない」
『最後に勝つ』
「うん」
私は前を見た。
そのときだった。
先頭を走っているはずの桃色のマシンが、突然速度を落とした。
「……え?」
ピンクお姉ちゃんだけではない。その後ろを走っていた二位、三位のマシンも次々に減速し、左右へ進路を変え始めている。
何かある。
私はすぐにアクセルを緩めた。
吹雪の名残が薄く流れる向こうに、一本の黒い線が見える。
最初は路面にできた細い傷だと思った。
けれど、その線はコースの左端から右端まで続いていた。
「……割れてる?」
凍結した路面に、巨大な亀裂が走っている。
次の瞬間――。
バキッ。
乾いた音が雪原へ響いた。
一本だった亀裂から新しいひびが枝のように伸び、それが周囲の氷へ次々とつながっていく。
バキッ、バキバキバキッ――!
「何!?」
目の前の氷が割れている。
しかも一か所ではない。
コース全体へ亀裂が広がり、その隙間から暗い水が覗き始めた。前を走るマシンたちは一斉に左右へ散り、ピンクお姉ちゃんも崩れ始めた場所を避けるよう大きく進路を変える。
その直後、三位を走っていたマシンの真下で氷が砕けた。
ドォォォンッ!!
巨大な氷板が傾き、車体ごと黒い水へ滑り落ちていく。
「落ちる!」
完全に沈む寸前、白い安全障壁がマシンを包み込んだ。
魔法板から一台分の光が消える。
《残り 十六台》
同時に順位表示が《5位》へ変わったけれど、喜んでいる場合ではなかった。
私たちの前にも亀裂が走っている。
右へ逃げようとすれば、その先で氷が割れる。左にはまだ道が残っているものの、そこにも細かなひびが広がり始めていた。
「メリー、道探して!」
『右――駄目。割れた!』
「左は!?」
『まだある!』
私は左へハンドルを切った。
その直後、さっきまで走っていた場所が音を立てて崩れ落ち、黒い水が噴き上がる。砕けた氷の破片が車体へ降り注ぎ、フロントガラスの向こうを一瞬だけ白く覆った。
それでも止まれない。
ここでは速度を落としすぎても危ない。
止まった場所ごと氷が沈むかもしれないからだ。
前には四台。
その先にはピンクお姉ちゃん。
さっきまで順位を争っていた全員が、今は崩れていく氷の上で走れる場所を探すことだけに集中していた。
そのとき、桃色のマシンが大きく右へ進路を変えた。
「ピンクお姉ちゃん……?」
その先には、完全に分断された巨大な亀裂がある。
向こう側にはまだ崩れていない氷が続いているものの、間にはマシン一台では絶対に越えられそうにないほどの黒い隙間が開いていた。
普通なら止まるしかない。
ところが、ピンクお姉ちゃんは止まらなかった。
むしろ速度を上げる。
「まさか……」
桃色のマシンの後部から強い光が噴き出した。
鬼殺しだ。
崩れかけた氷の一部が斜めに持ち上がり、小さな坂のようになっている。ピンクお姉ちゃんはそこへ一直線に向かい、亀裂の直前でさらに加速した。
「飛ぶ気!?」
桃色のマシンが氷の斜面を駆け上がった。
次の瞬間、四つのタイヤが地面から離れる。
巨大な亀裂の上へ飛び出した。
その下には黒い水が広がっている。
桃色の車体が一瞬だけ宙へ浮かび、そのまま向こう側の氷へ落ちていく。
ドンッ!!
着地の衝撃で大きく跳ねたものの、ピンクお姉ちゃんはハンドルを取られなかった。
車体を立て直し、そのまま走り続ける。
「そんなのあり!?」
『フール、前!』
メリーの声で我に返った。
私たちの前方にも、同じ亀裂が迫っている。
後ろでは氷が次々と崩れ、さっきまで走ってきた道はもう残っていない。左右を見ても迂回できる場所はなく、向こう側へ続く氷との間には黒い水が広がっていた。
私は正面を見る。
巨大な亀裂。
その向こうに残った氷。
そして、ピンクお姉ちゃんが飛ぶために使った、崩れかけて僅かに持ち上がった氷の斜面。
心臓が激しく鳴った。
右足まで震えている。
怖い。
今までの難所とは違う。
砂漠なら速度を落とせた。
罠なら見つけて避けられた。
毒沼なら別の道を探せた。
でも、今は止まることも、避けることもできない。
飛ぶしかない。
私は鬼殺しレバーを強く握った。
『フール』
隣からメリーが私を見ている。
怖がっているようには見えなかった。
ただ、私が決めるのを待っている。
「……行くよ」
『うん』
背後で巨大な音が響いた。
氷がまた崩れた。
バックミラーの中で、逃げ道が黒い水へ沈んでいく。
もう戻れない。
私は正面へ向き直った。
氷の斜面までの距離。
現在の速度。
亀裂の幅。
そして残っている鬼殺し。
《スピード 鬼殺し98》
足りるかどうかなんて分からない。
でも、ピンクお姉ちゃんは飛んだ。
同じ場所からなら、私たちにも可能性はある。
「メリー、しっかり掴まって!」
『うん!』
私はアクセルを踏み込んだ。
雪と氷を巻き上げながらマシンが加速し、崩れかけた斜面が一気に近づいてくる。
まだ。
もう少し。
斜面へ真っ直ぐ入れる位置まで車体を合わせる。
右足へ力を込める。
そして――。
「今!」
鬼殺しレバーを一気に倒した。
マシンの後部から、これまでで一番大きな轟音が弾けた。




