第80話 青い扉の向こう
私は正面のコースから離れ、石柱の陰で青く明滅している光へ向かってハンドルを切った。
すぐに順位表示が《11位》から《12位》へ落ち、さらに正規ルートを進んだ一台に抜かれて《13位》へ変わる。ようやく十九位からここまで戻してきただけに、数字が下がるたび胸の奥がざわついたけれど、それでも進路は戻さなかった。
毒沼へ入ったときから、あの場所だけは明らかにおかしかった。正規のコースには紫色の誘導灯が一定の間隔で並び、残っているレーサーたちはそれを目印に毒霧の薄い場所を探している。ところが石柱の奥に見えた光だけは青く、それも一つではなく、近づくにつれて三つ並んでいるのが分かった。
さらに目を凝らすと、紫色の毒液が広がる床の中で、青い光へ続く細い一帯だけ液体がほとんど溜まっていない。そこには二本の薄い筋まで残り、何かが何度も通った跡のように見えた。
「メリー、やっぱりあそこ、ただの壁じゃないよ」
『道?』
「たぶん。青い灯りもあるし、あそこだけ毒が少ない。それに……タイヤの跡みたいなのもある」
順位を捨ててまで向かう価値があるかは分からない。でも、何の手掛かりもなく賭けているわけではなかった。
それに正規ルートの先では紫色の霧がさらに濃くなり、前を走るマシンの何台かはすでに速度を落としている。正面へ戻ったところで安全とは限らないのなら、自分で見つけた違和感を確かめたかった。
「行こう。何もなかったら、そのとき戻る!」
『うん!』
私は青い光を見失わないよう、石柱の間へマシンを進めた。
正規ルートから離れるにつれて紫色の霧は濃くなり、フロントガラスの向こうが急速に霞んでいく。床に溜まった毒液へタイヤが触れるたびにジュッという嫌な音が響き、ピラミッドの罠区間を抜けた時点で《87B》残っていたスタミナも少しずつ減っていった。
《スタミナ 87B → 85B → 83B》
正面にはスタミナとは別の表示まで現れている。
《マシン性能 97%》
毒沼へ長くいるほど、マシンそのものまで弱っていくらしい。
『急ぐ?』
「急ぎたいけど、鬼殺しはまだ使わない。もし行き止まりだったら、戻るときに必要になるかもしれないから」
私は鬼殺しレバーへ伸ばしかけた右手を戻し、アクセルだけを少し強めた。その間にも正規ルートのマシンは先へ進み、順位は《14位》まで落ちてしまう。
ここまで来て何もなかったら、大きな失敗になる。それでも、青い光はもう目の前だった。
近づいてみると、予想は当たっていた。
巨大な石壁の一部に、一台のマシンが通れるほどの長方形の継ぎ目がある。青い三つの魔法灯はその両脇と中央に埋め込まれ、毒液のない床へ残っていた二本の跡も、そこで途切れていた。
「やっぱり扉だ!」
『開ける?』
「でも、どうやって……?」
取っ手もレバーも見当たらない。
メリーが石壁をじっと見たあと、真顔で答えた。
『車で押す』
「駄目だよ! 壊したら失格になるかもしれないでしょ!」
そのとき、中央の青い魔法灯が強く光り、石壁へ文字が浮かび上がった。
《通行条件――スタミナ80B以上》
「……80B?」
私は反射的にメーターを見る。
青い扉へ向かい始めた時点では《87B》。毒沼を抜けてここまで来る間に7Bを使い、現在の数字は――。
《スタミナ 80B》
ぴったりだった。
あと少し迷っていたら、この扉へ辿り着いても条件を満たせなかったかもしれない。そして80Bという数字を見た瞬間、ここまでの走りが頭の中でつながった。
海で順位を落としてまでBを拾い、砂漠では前のマシンを無理に追わずアクセルを抑えた。三つの分岐でも補給物につられず、砂の浅い岩盤側を選んだ。あのとき一つでも順位だけを優先していたら、今ここに80Bは残っていなかった。
「これ……速かった人が通れる道じゃないんだ」
『残した人?』
「うん。ちゃんと最後のことまで考えて、スタミナを残してきた人の道なんだ」
言葉にした直後、石壁の奥から重い音が響いた。
ゴゴゴゴゴゴ……。
巨大な扉が左右へ開き、その向こうに暗い一本道が現れる。
私はもう迷わなかった。
「行こう、メリー!」
『うん!』
アクセルを踏み、扉の向こうへ入る。
背後で石壁が閉じると、車体を包んでいた紫色の霧が途切れ、正面の表示も切り替わった。
《毒沼区間 離脱》
《スタミナ 80B》
《マシン性能 93%》
毒で低下した性能はすぐには戻らない。それでもスタミナは条件ぎりぎりの80Bを残したまま、毒沼から抜けることができた。
◇
青い扉の先には、左右を高い石壁に挟まれた細い一本道が続いていた。
Bも鬼殺しも浮かんでおらず、ほかのマシンの姿もない。その代わり、道は遥か先まで緩やかな下り坂になっている。
そして壁には、大きな文字が刻まれていた。
《温存者の道》
「やっぱり……」
『フールの道』
「私専用じゃないよ。でも、ちょっと嬉しいかも」
ここまでずっと、前のマシンを追いたい気持ちを我慢してきた。十九位まで落ちてもBを残し、砂漠では右足まで守りながら走った。その判断が正しかったのか、走っている間は分からなかったけれど、《温存者の道》という名前を見た今なら少しだけ分かる。
この試練は、速く走ることだけを見ているわけではない。
私はアクセルから右足の力を抜いた。
下り坂へ入ったマシンは止まらず、重力に引かれるように少しずつ速度を上げていく。数秒走っても、スタミナの表示は《80B》から動かなかった。
「アクセル踏まなくても進む!」
『足も休める』
「そうだね。今のうちに休ませよう」
右足をペダルから僅かに浮かせ、ハンドル操作だけに集中する。Bを使わず、鬼殺しも使わず、右足まで休ませながら速度だけを上げられる。ここまで守ってきた三つを、そのまま次の勝負へ持っていける道だった。
石壁のところどころに開いた隙間からは、正規ルートの毒沼が見えた。紫色の霧の中を何台ものマシンが苦しそうに進んでいる。
「あっ、青い六輪車!」
さっき私たちを抜き返したマシンもいた。
毒霧の薄い場所を選びながら走っているものの、下り坂に乗ったこちらのほうが明らかに速い。
《13位》
順位が一つ戻る。
さらに毒で速度を落としたマシンを抜いて《12位》、もう一台を抜いて《11位》。寄り道を始める前の順位まで戻ったあとも下り坂は終わらず、正規ルートでさらに一台が毒霧に捕まったところで表示が《10位》へ変わった。
「十位!」
観客席から届く歓声も一段大きくなる。
「挑戦者が《温存者の道》に入ったでぷー!」
「スタミナ八十残してたでぷ!」
「十九位まで落ちたのも作戦だったのでぷ!?」
「そこまでは知らなかったよ!」
思わず叫び返した。
最初からこの道を狙っていたわけではない。海でBを拾ったときも、砂漠で速度を落としたときも、その先に《温存者の道》があるなんて知らなかった。
ただ、その場で使い切らないほうがいいと思った。その積み重ねが、ここで初めて大きな意味を持ったのだ。
「メリー、ピンクお姉ちゃん見える?」
メリーが石壁の隙間から毒沼を覗く。
『見えない』
「やっぱり、まだ遠いか……」
ピンクお姉ちゃんはこの道を使わず、それでも先頭を走っている。このコースを知り尽くし、最短の道を迷わず選び、必要な場所で必要なだけ使っているからだろう。
隠し道を一つ見つけただけでは勝てない。
「だったら、ここで少しでも差を縮める!」
私はアクセルを踏み込まず、ハンドルだけをしっかり握った。
坂はさらに急になり、マシンは何もしなくても速度を上げていく。そのとき、メリーが前を見たまま呟いた。
『速すぎる』
「え?」
下り坂の終わりが見えていた。
その先には正規ルートとの合流地点があり、右側から一台の緑色のマシンが迫ってくる。
「ちょっと待って……これ、止まれる!?」
私は左足でブレーキを踏んだ。
車体が激しく震え、速度は落ち始めたものの、下り坂の勢いが強くて間に合わない。緑色のマシンもこちらに気づいた。
「何か壁から出てきたでぷー!?」
「ごめん! 止まりきれない!」
「謝りながら来ないでぷー!」
このままではぶつかる。
私はブレーキを踏んだままハンドルを切り、出口へ向いていた車体を正規ルートと平行になるよう滑らせた。
ガガガガガッ――!
タイヤが石床を擦り、車体が横向きのまま合流地点へ飛び込む。
「当たる!」
『右!』
メリーの声に合わせて僅かにハンドルを戻すと、緑色のマシンとの間にほんの少しだけ隙間が生まれた。
二台は触れそうな距離のまま直線へ飛び出し、私たちが僅かに前へ出たところでようやく車体が安定した。
《9位》
「九位……!」
十九位から、ついに一桁まで戻ってきた。
メーターは《スタミナ80B》《鬼殺し108》。温存者の道ではどちらも消費せず、右足の痛みも砂漠にいたときより落ち着いている。
ここからなら、まだ勝負できる。
そう思ったとき、フロントガラスへ小さな白い粒が落ちた。
一つ。
二つ。
進むほど数が増え、触れたそばから水滴へ変わっていく。
『寒い』
「……雪?」
紫色の毒沼でまとわりついていた生ぬるい空気はいつの間にか消え、前方から刺すような冷気が流れ込んでいた。左右の石壁にも薄い霜が広がり、路面の端には細い氷まで張り始めている。
通路の先には、真っ白な光。
その向こうがどうなっているのかは見えない。
私はアクセルを緩めた。
直後、少し前を走っていたマシンが白い光へ飛び込む。
キィィィィィッ!!
甲高い音とともに車体が突然横を向き、そのまま一回、二回と回転した。
「滑ってる……!」
私はブレーキへ足を置きながら、白い出口を見つめた。
海でも砂漠でもピラミッドでも毒沼でもなかった、新しい難所が待っている。
冷たい風が吹き込むたび、通路の床へ白い雪が積もっていく。
私はハンドルを握り直した。
第一の試練は、まだ終わらない。




