第78話 ゴブリンキングダム・レース
――ゴォォォォンッ!!
巨大な鐘が振り下ろされ、腹の底まで震わせる音がサーキット全体へ響いた瞬間、二十台のマシンが一斉にスタートラインを飛び出した。
「行くよ、メリー!」
『うん!』
私もアクセルを踏み込む。
低く唸っていたマシンが一気に加速し、背中が座席へ押しつけられた。練習で少し動かしたときとはまるで違い、目の前の景色がものすごい勢いで後ろへ流れていく。
けれど、驚いている暇なんてなかった。
左から赤い重量車が迫り、分厚い鉄板に覆われた車体が私たちのすぐ横を轟音とともに駆け抜ける。その反対側では青い六輪車がほとんど進路を変えず、ほかのマシンの隙間を縫うように前へ出ていった。
「どけどけでぷー! 直線は俺の道でぷー!」
赤い重量車のゴブリンが叫ぶ。
「だから、みんなの道だってば!」
言い返した直後、一列前にいた黄色いマシンの後部から凄まじい音が響いた。
運転手がスタート直後から鬼殺しレバーを大きく倒したのだ。
黄色い車体が弾かれたように加速し、前方の集団を次々と追い抜いていく。
「本当に最初から使った!」
『速い』
「でも私たちは真似しないよ!」
前を見れば、桃色のマシンはすでに集団の先へ出ようとしていた。
ピンクお姉ちゃんだ。
追わなきゃ。
そう思った瞬間、右足へ力が入りかける。
けれど、その前にメリーが叫んだ。
『フール、右! B三つ!』
「見えてる!」
第77話の最後に狙うと決めた、最初の補給だった。
私はピンクお姉ちゃんを追う代わりに、右側へ少しずつ進路を寄せる。
いきなり大きくハンドルを切るのは怖かった。後ろにも横にもマシンがいるため、右の隙間を確かめながら車体を動かし、一つ目のBへ重ねる。
金色の光が弾けた。
《スタミナ 96B → 106B》
「入った!」
スタートからここまで走った分だけ、最初の100Bはすでに96Bまで減っていた。
二つ目を取る。
《スタミナ 115B》
三つ目。
《スタミナ 124B》
「よし!」
『三つ取った!』
メリーが嬉しそうに両手を上げた。
ところが正面の順位表示を見て、喜びは一瞬で吹き飛んだ。
《18位》
「十八位!?」
Bを取るために右へ寄っている間、最短距離を走ったマシンたちに次々と先へ行かれていた。
観客席から声が飛んでくる。
「挑戦者、いきなり十八位でぷー!」
「ピンク様はもう先頭でぷー!」
「分かってるよ!」
思わず叫び返しながら前を見る。
本当にピンクお姉ちゃんは先頭だった。
しかも私たちのように目についたBを全部取るのではなく、ほとんど速度を落とさず、走行線の近くにある物だけを拾っている。
このコースを知っているからできる走り方だった。
一方、スタートから鬼殺しを使った黄色いマシンは二位まで上がっている。
速い。
ものすごく速い。
でも、あの車がずっと同じ速度で走れるとは限らない。
「今は追わない」
自分へ言い聞かせるように呟き、アクセルへ掛ける力を少し緩めた。
右足はまだ痛くない。
スタミナも増えた。
焦るのはまだ早い。
第一直線の終わりが近づくと、岩壁に挟まれた大きな左カーブが見えてきた。
そこで補給物も二つに分かれている。
外側の右にはB。
距離の短い内側の左には、鬼殺しのひょうたんが二つ。
『左、鬼殺し! 右、B!』
「スタミナは124あるから……今度は鬼殺し!」
私は左へ進路を変えた。
ところが、同じ鬼殺しを狙っているマシンがいた。
後方から別の黄色い小型車が迫り、私たちとほとんど横並びになる。
「その鬼殺しは俺がもらうでぷ!」
「まだ誰のでもないよ!」
二台の前方にカーブが迫る。
相手は鬼殺しを先に取ろうとしているのか、ほとんど速度を落とさない。
私も踏めば前へ出られるかもしれない。
でも、この速度のまま曲がれるのか分からなかった。
私はブレーキへ左足を移し、ほんの少しだけ踏み込んだ。
身体が前へ引かれる。
黄色い小型車が半台分だけ先へ出た。
「もらったでぷー!」
次の瞬間、その車体がカーブへ入る。
タイヤが甲高い音を立てた。
「えっ?」
速すぎたんだ。
黄色いマシンは内側へ曲がり切れず、そのまま外へ大きく膨らんでいく。
「あああああでぷーーー!?」
「今!」
私はブレーキから足を離し、ハンドルを左へ切った。
空いた内側へ入る。
一つ目の鬼殺しが車体へ吸い込まれた。
《スピード 鬼殺し100 → 110》
その先の二つ目も回収する。
《スピード 鬼殺し120》
カーブを抜ける。
正面の順位表示が変わった。
《17位》
「抜いた!」
『一個上がった!』
たった一台。
まだ十七位。
それなのに胸の奥が一気に熱くなった。
力いっぱいアクセルを踏んだから抜けたわけじゃない。
相手より速いマシンだったわけでもない。
相手が曲がり切れない速度で入ったから、私は先に減速した。
「速いだけじゃ駄目なんだ……」
少しだけ、このレースの戦い方が分かった気がした。
そのとき、右側から青い影が滑るように前へ出た。
スタート前からコースを観察していた六輪車だ。
運転手はほとんどブレーキを使わず、六つの細いタイヤで綺麗にカーブを抜けていく。
「あの車、速い!」
しかも無理に鬼殺しを使っている様子がない。
直線では赤い重量車。
カーブでは青い六輪車。
相手によって得意な場所が違う。
だったら、全部の場所で勝とうとしなくていい。
私たちにも、勝負できる場所を探せばいいんだ。
「メリー、次も補給見てて!」
『任せて!』
カーブを抜けた先でコースが一気に広がった。
前方には十六台のマシン。
さらにその向こうを、桃色と黄色の二台が先頭争いをしながら走っている。
黄色いマシンはまだ鬼殺しを使っていた。
桃色のマシンへ並ぼうとして、さらに速度を上げる。
「ピンク様を抜くでぷー!」
一瞬だけ、本当に黄色いマシンが先頭へ出た。
観客席から大歓声が上がる。
「抜いたでぷー!」
「ピンク様が二位でぷ!」
私も思わず前のめりになった。
「すごい!」
けれど、ピンクお姉ちゃんは焦っていなかった。
鬼殺しを大量に使って追い返そうともせず、一定の速度を保ったまま黄色いマシンの後ろを走っている。
「……何で追わないの?」
オラクルの言葉が頭をよぎった。
最初から全部使うな。
私は黄色いマシンのことが急に気になり、前方の魔法板へ表示された各車の簡易情報を見る。
黄色いマシンの鬼殺し残量だけが、目に見えて減っていた。
《鬼殺し 43》
「もう半分以下!?」
まだ最初の区間なのに。
それでも黄色いゴブリンは先頭になったことが嬉しいらしく、鬼殺しレバーを戻さない。
「このまま逃げ切るでぷー!」
「絶対無理だよ!」
思わず叫んだ直後だった。
前を走っていた何台ものマシンが左右へ分かれ始めた。
何かを避けているのかと思った。
違った。
その隙間から、巨大な青い壁が見えた。
「……何あれ?」
コースの端から端までを塞ぐほど巨大な水の壁が、岩山の間に立ちはだかっている。
その前に橋はない。
迂回路も見えない。
なのに前のマシンは速度を落とすどころか、そのまま次々と青い壁へ飛び込んで消えていった。
「えっ!?」
『水』
「見れば分かるよ! 何でみんな突っ込んでるの!?」
答えてくれる人はいない。
背後から赤い重量車の轟音が迫ってきた。
「止まったら抜くでぷー!」
「止まれないじゃん!」
行くしかない。
私はハンドルを握り直した。
「メリー、しっかり掴まって!」
『うん!』
アクセルを踏み込む。
マシンが巨大な水の壁へ飛び込んだ。
――バシャアアアアンッ!!
一瞬で視界が青く染まった。
思わず息を止めたけれど、水は車内へ入ってこない。
マシン全体を透明な膜のようなものが包み、その外側を無数の泡が流れている。
「……息、できる」
『きれい』
メリーの声に前を見る。
そこに広がっていたのは、さっきまでの岩山とはまるで違う世界だった。
色鮮やかなサンゴ礁の間を魚の群れが泳ぎ、頭上を巨大なウミガメがゆっくり横切っていく。海底に敷かれたコースの両側では青白い植物が揺れ、さらに遠くには人魚らしき姿まで見えた。
「すごい……」
レース中だということを忘れそうになる。
その瞬間、メリーが叫んだ。
『フール、前!』
「えっ――」
巨大な岩が目の前まで迫っていた。
「わああっ!」
私は慌ててハンドルを切った。
車体が大きく傾き、岩のすぐ横を通り抜ける。
「危なかった……!」
『見とれてた』
「メリーも見てたでしょ!」
『見てた』
「じゃあ一緒だよ!」
こんなところでぶつかっている場合じゃない。
私は改めて前を見る。
海の中へ入ってから、マシンの動きが明らかに重くなっていた。水の抵抗を受けているのか、同じだけアクセルを踏んでも地上ほど速度が出ない。
メーターを見る。
第一直線とカーブを走り、海へ入るまでにスタミナは《116B》まで減っていた。
そこから水中を少し走っただけで――
《スタミナ 109B》
さらに数秒後。
《スタミナ 103B》
「減るの速い……!」
地上より明らかに消費が大きい。
ここで無理に順位を上げようとアクセルを踏み続ければ、Bを大量に使うことになる。
そのとき、メリーが右前方を指差した。
『B! いっぱい!』
サンゴ礁の間を縫うように、金色のBがいくつも連なっている。
ただし、最短のコースからはかなり外れる。
真っ直ぐ行けば順位を守れる。
右へ行けば何台かに抜かれるかもしれない。
私は一瞬だけ迷い、すぐにハンドルを右へ切った。
「取る!」
『取る!』
今は順位よりスタミナだ。
一つ目。
《103B → 113B》
二つ目、三つ目と連続して回収する。
金色の光が車体へ吸い込まれるたび、減っていたメーターが戻っていく。
最後の一つを取り終えたころには――
《スタミナ 142B》
「よし。これならまだ走れる!」
その代わり、順位は落ちていた。
《19位》
「十九!?」
ほとんど最後尾。
観客席の声は水中まで魔法で届いているらしく、「挑戦者また下がったでぷー!」という叫びが聞こえてくる。
悔しくないわけじゃない。
でも、さっきまでとは違った。
私は自分で順位を捨てて、Bを取りに来た。
だったら今はこれでいい。
「最後まで走れなきゃ、何位でも同じだもん」
『最後まで走る』
「うん。そのあと抜こう!」
メリーと顔を見合わせた、そのときだった。
背後から低い駆動音が迫ってきた。
バックミラーを見る。
黒いマシン。
私たちと同じようにBを取りに来たらしい。
けれど、運転しているゴブリンは補給物ではなく、こちらを見ながら笑っていた。
「人間のガキが試練なんて百年早いでぷ!」
「ガキって言わないで!」
「ここで終わりでぷ!」
黒いマシンの横から、小さな棘付きの球が放たれた。
「えっ!?」
一つではない。
二つ、三つ。
水の中を真っ直ぐこちらへ向かってくる。
右側はサンゴ礁。
左には黒いマシン。
このままでは避けられない。
「メリー!」
呼ぶより早く、助手席から赤い魔力が広がった。
『任せて!』
メリーが両手を前へ突き出す。
炎色の障壁がマシンを包み込んだ直後、最初の棘付きの球が激突した。
ドゴォォンッ!!
水中に赤い光が弾ける。
続けて二発目、三発目。
衝撃で車体が大きく揺れた。
私は必死にハンドルを押さえる。
「メリー、大丈夫!?」
『大丈夫! 前!』
「うん!」
障壁は壊れていない。
マシンにも傷はなかった。
黒いマシンのゴブリンが目を丸くする。
「全部防いだでぷ!?」
驚いているのは向こうだけだった。
前方では、海底コースが大きく左へ曲がっている。
黒いマシンは私たちより速度を出したまま、外側から前へ出ようとしていた。
私は第一カーブで抜いた黄色い小型車を思い出す。
速いまま曲がろうとすれば、外へ膨らむ。
「メリー、鬼殺し残ってる?」
『いっぱい』
正面を見る。
《スピード 鬼殺し116》
さっき二つ拾ってから、まだほとんど使っていない。
私は右手をレバーへ伸ばした。
全部は使わない。
カーブへ入る前だけ。
鬼殺しレバーを少し倒す。
次の瞬間、マシンの後ろから低い爆音が響き、身体が座席へ押しつけられた。
「うわっ……速い!」
黒いマシンへ一気に追いつく。
けれど、そのままカーブへ突っ込まず、入口へ差しかかったところで鬼殺しレバーを戻した。
加速が止まる。
同時にアクセルも緩め、左足でブレーキを軽く踏んだ。
黒いマシンが横を抜いていく。
「もらったでぷー!」
ゴブリンが勝ち誇ったのは、ほんの一瞬だった。
速度を残しすぎた黒いマシンは左へ曲がり切れず、外側へ大きく膨らんでいく。私は空いた内側へハンドルを切り、サンゴ礁すれすれの短い走行線へマシンを滑り込ませた。
「ここ!」
ブレーキから足を離し、アクセルを踏む。
カーブを抜けるころには、黒いマシンが後ろへ回っていた。
《18位》
「抜いた!」
『抜いた!』
さっき自分から順位を落としてBを集めたから、まだ十八位。それでも今度は、ただ相手が失敗するのを待ったわけではなかった。
必要なところだけ鬼殺しを使い、曲がる前に速度を落とす。
少しずつだけれど、自分でこのマシンを動かせるようになってきている。
「分かってきたかも……!」
『もっと抜く?』
「もちろん。でも、無茶はしない!」
黒いマシンは後ろから追ってきたものの、今度は棘付きの球を投げてこなかった。カーブのたびに差が少しずつ広がり、やがて別のサンゴ礁に隠れて見えなくなる。
その代わり、前方にはほかのマシンが何台も見えてきた。
海へ入る前にはかなり離されていたはずなのに、水の抵抗に苦戦しているのか、全体の速度が落ちている。
特に大きな車体ほど動きが重かった。
「あっ」
前方の右側で、見覚えのある赤い車体が左右へ揺れている。
スタート直後に私たちを抜いた重量車だった。
「何でこんなに進まないでぷー!?」
大柄なゴブリンがアクセルを踏み込むたび、赤いマシンは大量の泡を噴き出す。それでも分厚い鉄板と大きな車体が水の抵抗をまともに受け、地上で見せた勢いはほとんど残っていなかった。
しかも無理に速度を出そうとしているせいで、スタミナの表示がどんどん減っている。
「直線ではすごく速かったのに……」
同じマシンでも、場所が変われば強さまで変わる。
私はアクセルを一定に保ったまま、赤い重量車の左側へ進路を取った。
相手もこちらに気づく。
「人間! 抜かせないでぷ!」
「海の中でも力勝負する気!?」
赤いマシンが前へ出ようとしたけれど、また大量の泡を噴き出しただけだった。
私は無理に鬼殺しを使わず、その横を少しずつ進む。
車体が並ぶ。
半台分前へ出る。
そして完全に抜いた。
《17位》
「やった!」
『また抜いた』
地上の直線では相手にならなかった車を、海では鬼殺しすら使わずに抜くことができた。
その瞬間、私の中で何かがつながった。
このレースは、二十台の中で一番速いマシンを決めるだけじゃない。
どの場所で誰が速いのか。
どこなら自分たちが有利なのか。
それを見つけながら走るレースなんだ。
私は前方を見た。
少し先には青い六輪車がいる。
海の中でも綺麗な走行線を選び、無駄なくカーブを抜けていた。あの車をここで無理に追えば、Bか鬼殺しを余計に使うことになる。
「青いのは今、追わない」
『追わない?』
「うん。あの車、ここでも上手いもん。もっと私たちが有利なところが来るまで待つ」
『分かった』
メリーはすぐに頷いた。
順位だけを見れば、まだ十七位。
でも、最初の十八位だったときとは気持ちがまるで違っていた。
誰でも見つけたら追いかける必要はない。
抜ける相手を、抜ける場所で抜けばいい。
◇
しばらく進むと、海の色が少しずつ明るくなってきた。
前方に水面のような光が揺れている。
「出口!」
何台かのマシンが次々に青い膜を突き破り、水の外へ飛び出していく。
私もアクセルを踏み、海中最後の直線へ入った。
その途中でメリーが声を上げる。
『左、鬼殺し一つ』
「取れる?」
『取れる』
少しだけ進路を左へ寄せる。
ひょうたんへ車体が触れ、光となって吸い込まれた。
《スピード 鬼殺し119》
海中のカーブで少し使った分も、ほとんど取り戻せた。
スタミナは《126B》。
海へ入った直後より余裕がある。
順位は十七位でも、Bと鬼殺しは残っている。
「よし。このまま――」
バシャアアアアンッ!!
マシンが水の膜を突き破った。
青かった視界が一気に明るくなり、強烈な陽射しがフロントガラスへ降り注ぐ。
「まぶしっ!」
目を細めながら前を見る。
そこで私は言葉を失った。
海の次に待っていたのは、どこまでも続く黄金色の砂だった。
激しい風が砂を巻き上げ、ところどころでは巨大な砂柱まで立ち上がっている。遠くには大きなピラミッドのような建物が霞んで見え、そこまで続くコースの大部分が深い砂に覆われていた。
『砂』
「見れば分かるよ……!」
海から砂漠。
景色が変わりすぎて、同じレース場を走っているとは思えない。
前を走っていたマシンが砂へ入った。
途端に速度が落ちる。
その後ろの車も同じだった。
「もしかして……」
私たちのタイヤも砂へ入った。
ズズッ――!
「うわっ!」
ハンドルが突然重くなり、車体が右へ引っ張られる。
慌てて両手で押さえ込む。
海の中とは違う。
今度はタイヤそのものが砂へ沈み込み、前へ進もうとする力を奪われていた。
アクセルを少し強く踏む。
マシンは進む。
でも、正面の数字がすぐに変わった。
《スタミナ 126B → 122B》
「えっ?」
まだほとんど進んでいない。
もう一度アクセルへ力を込める。
《スタミナ 117B》
「減るの速っ!」
海より明らかに消費が大きい。
前方ではほかのレーサーたちも同じことに気づいたらしく、あちこちから悲鳴が上がっている。
「進まないでぷー!」
「Bが減りすぎでぷ!」
「鬼殺し使うでぷ!」
一台のマシンが鬼殺しを使った。
砂を大きく巻き上げながら、一気に前へ出る。
それを見た別の車も続いた。
「私たちも使えば――」
鬼殺しレバーへ手を伸ばしかける。
そのとき、前を走る一台のメーターが目に入った。
鬼殺しを使って速度を上げているのに、スタミナまで猛烈な勢いで減っている。
砂に逆らって速く走ろうとするほど、Bも必要になるんだ。
私は鬼殺しレバーから手を離した。
「……待って」
『使わない?』
「まだ使わない」
アクセルも少し緩める。
当然、速度が落ちた。
後ろから来た一台に抜かれる。
《18位》
「フール?」
メリーが私を見る。
悔しい。
すぐ追いかけたくなる。
でも、追いつくためにアクセルを踏み込めば、Bを大量に使う。
鬼殺しまで使えば、二つとも同時に減っていく。
それだけじゃない。
砂へ入ってから、右足にも地上の直線とは違う重さが掛かっていた。
前のマシンを追おうと、試しに少しだけ強く踏み込む。
右足の傷の奥が僅かに疼いた。
「っ……」
私はすぐに力を抜いた。
『痛い?』
「少しだけ。でも、まだ大丈夫」
大丈夫だから踏む。
そう考えかけて、治療室で言われたことを思い出した。
痛みが強くなってからでは遅い。
ここはまだレースの途中。
ピンクお姉ちゃんは遥か先にいる。
「……違う」
『何が?』
私は前方を走るマシンたちを見た。
砂漠へ入っても順位を守ろうとしている車ほど、アクセルを強く踏み、鬼殺しまで使っている。そのぶん速度は出ているけれど、Bと鬼殺しの両方が目に見えて減っていた。
一方、少し速度を落とした車は抜かれているものの、燃料の減り方は小さい。
ここで一台抜くために、どれだけ使うのか。
それを考えなきゃいけない。
「この砂漠……速く走ろうとするほど損するんだ」
メリーが前方を見る。
『損?』
「うん。砂に捕まってるのに無理やり速く進もうとしたら、Bも鬼殺しもいっぱい使う。それに、私の足まで痛くなる」
だったら、ここで前の車を追いかける必要はない。
レースは砂漠で終わるわけじゃない。
私はアクセルを必要最低限まで戻した。
さらに一台が横を抜ける。
《19位》
観客席からどよめきが起こった。
「挑戦者、十九位まで落ちたでぷ!」
「大丈夫なのでぷ!?」
「ピンク様がどんどん離れるでぷ!」
聞こえている。
でも、今は追わない。
私は砂嵐の向こうに霞む巨大なピラミッドを見つめた。
「ここは抜く場所じゃない」
『じゃあ?』
「残す場所」
Bを残す。
鬼殺しを残す。
右足も残す。
そして、もっと勝負できる場所が来たときに使う。
順位は十九位。
先頭のピンクお姉ちゃんは、もうかなり遠い。
それでも不思議と、さっきより焦りは小さくなっていた。
私はハンドルを握り直し、砂に取られない程度の速度を保ちながら前へ進む。
「最後に前にいればいいんだもん」
『最後に勝つ』
「うん」
砂嵐の向こうで、巨大なピラミッドの輪郭が少しずつ濃くなっていく。
そこへ辿り着くまでに、何台のマシンが今の速度を保てるのか。
そして、その先には何が待っているのか。
まだ分からない。
だからこそ私は、今使えるものを全部使ってしまわないよう、アクセルを踏む右足から余計な力を抜いた。
この砂漠では、速さを競わない。
最後まで勝負するために――今は残す。
そう決めた。




