第76話 また会いに来るから
《未確認》
光が消えたあと、白紙のページにはその文字だけが残っていた。
百万コインと引き換えに手に入れた☆5《幻獣種召喚の本》は、確かに何かを描こうとしていた。淡い光が何本もの線を作り、あと少しで形が分かりそうになったところで消えてしまい、代わりに現れたのが《未確認》という一言だった。
「未確認ってことは……まだ、この本が何かを確認できてないってことなのかな?」
もう一度同じ場所へ触れてみたけれど、さっき感じた温かさも光も戻ってこない。緑も隣からページを覗き込み、《未確認》の文字をしばらく眺めてから首を傾げた。
「何か条件がありそうでぷ。でも、それが何なのかは分からないでぷね」
「幻獣種を見つければいいのかな?」
「そこから先は想像で決めねえほうがいい」
オラクルは車椅子から本を見つめながら、今分かっていることだけを確かめるように続けた。
「確かなのは、この本が完全な白紙じゃねえってことだ。さっき実際に反応して、《未確認》って文字まで出た。☆5なんて代物なんだから、使い方も分からねえうちに適当に弄くり回すより、次に反応する条件を探したほうがいい」
「……うん」
私はページに残った文字を見つめた。
これまでの旅で、幻獣種について何も知らないわけではない。ミラ婆さんから話を聞いたこともあるし、雷をまとって空を飛ぶ巨大な鳥を実際に目にしたこともある。それでも、あの鳥が何者なのか、この本とどう関係するのかはまだ分からなかった。
考えてみれば、《聖なるマップ》だって最初から全部を教えてくれたわけではない。
知らない場所へ行き、誰かと出会い、そこで起きたことを乗り越えるたびに、新しい道や記録が増えてきた。
この本も同じなのかもしれない。
今ここで答えを出すための物ではなく、これから先の旅で何かに出会ったとき、初めて続きを見せてくれる。
そう考えると、《未確認》という文字が少し違って見えた。
「この本も、一緒に旅しないと分からないのかも」
オラクルが僅かに口元を上げる。
「だったら持ってけ。答えが向こうから出てくるまでな」
「うん」
私は本を閉じ、布で包んで鞄の奥へ大切にしまった。
百万コインを払って手に入れたのに、今すぐ何かを召喚できるわけではない。それでも、がっかりはしていなかった。むしろ白紙の先に何が現れるのか、少し楽しみになっている。
黄色だけは納得しきれないようで、鞄へしまわれた本を名残惜しそうに見ていた。
「百万コインも払ったんだから、いつか百万コイン以上働いてもらわないと困るでぷ」
「黄色の本じゃないでしょ!」
「でも百万でぷよ!?」
「分かってるよ!」
その横では赤がいつの間にか骨付き肉を食べ始めていて、「難しい話を聞いてたらお腹空いたでぷ」と平然としている。
結局、いつも通りだった。
分からないことは、これから見つければいい。
私たちの旅は、ずっとそうやって続いてきたのだから。
◇
景品交換所を出ようとしたところで、私は足を止めた。
鞄の中の《幻獣種召喚の本》については、今すぐ答えを出さなくてもいいと思えた。
でも、一つだけ、このまま先へ進みたくないことがあった。
「……十二番に会っていきたい」
レースが終わってから、ずっと気になっていた。
ゴールしたあと、勝ったことなんてまるで気にせず私のところへ走ってきて、そのまま胸へ飛び込んできた小さなヒヨコ。
試練が始まれば、しばらくここへ戻れないかもしれない。このまま何も言わずに離れるのは嫌だった。
「オラクル。もう一回だけレース場に行ってもいい?」
「ああ。行ってこい」
オラクルは理由を聞かなかった。赤たちも当然のようについてきてくれたので、私たちはもう一度ヒヨコレース場へ向かった。
さっきまで何千匹ものゴブリンで埋め尽くされていた観客席は少し静かになり、係員たちが次のレースへ向けてコースを整備している。待機所では何羽ものヒヨコが餌を食べたり眠ったりしていたけれど、その中で一羽だけ、落ち着きなく柵の近くを行ったり来たりしていた。
「十二番!」
私が呼んだ瞬間、小さな頭が勢いよくこちらを向いた。
「ぴよっ!」
十二番は餌もほかのヒヨコも放り出し、短い脚を必死に動かして柵まで駆けてくる。
「やっぱりフールちゃんを待ってたでぷ!」
黄色が笑い、係員のゴブリンが柵を開けてくれた。
その途端、十二番は迷うことなく私へ向かって走り出した。
さっきのレースで見せた測定不能の速さではない。それでも小さな身体を一生懸命動かし、私の足元まで来ると嬉しそうに何度も飛び跳ねている。
私は右足へ負担を掛けないようゆっくりしゃがみ、両腕を広げた。
「会いに来たよ」
「ぴよっ!」
十二番が胸へ飛び込んでくる。
柔らかな羽毛が頬へ触れ、何度も頭を擦りつけてきた。私が撫でると気持ちよさそうに目を細め、やっと見つけたと言わんばかりに胸元へ身体を押しつけてくる。
三百十四倍の大穴だったことも、一着になったことも、私たちが百五十七万一千コインを手に入れたことも、この子にはきっとどうでもいい。
十二番があれほど速く走った理由は、勝ちたかったからじゃない。
私のところへ来たかったからだ。
そう思うと、腕の中の小さな身体が急に離し難くなった。
「フールちゃん、この子も一緒に連れていくのでぷ?」
赤に聞かれ、十二番を撫でていた手が止まった。
「……連れていけるかな」
自分で口にした途端、それまでぼんやり考えていただけのことが急に現実味を帯びた。
十二番は私の腕の中へ収まるほど小さい。ずっと抱いて歩くのが大変なら、みんなで交代しながら面倒を見ることだってできる。何より、測定魔導具さえ追いつけないほど速いのだから、危険が迫っても逃げられるかもしれない。
「この子、すごく速いし……私たちと一緒でも大丈夫かもしれない」
「十二番もフールちゃんについていきたそうでぷ!」
黄色がそう言うと、まるで意味が分かったように十二番が「ぴよっ!」と鳴き、私の胸元へさらに身体を寄せてきた。
その瞬間、本当に連れていきたくなった。
朝起きたら十二番がいて、旅の途中で一緒にご飯を食べる。次の街へ着けば、見たことのない景色を一緒に眺められるし、メリーや三匹ともきっと仲良くなる。
十二番が旅の仲間になった光景は、思っていた以上に自然に想像できた。
「じゃあ、一緒に――」
そう言いかけて立ち上がろうとした瞬間、右足の奥に鈍い痛みが走った。
私は動きを止めた。
ほんの少し急いだだけでも痛む、まだ治り切っていない傷。
その痛みと一緒に蘇ったのは、グラティスでTIME No.10に襲われたときの光景だった。
雪の上でまともに動けなくなった私たち。
重傷を負ったオラクル。
逃げることさえ簡単ではなく、誰かを守る余裕なんてほとんどなかった。
もし、あの場所に十二番までいたら。
私は腕の中の小さな身体を見る。
この子を守れただろうか。
十二番がどれだけ速くても、突然の攻撃まで避けられるとは限らない。むしろ、私を探してレース中に立ち止まり、見つけた途端にすべてを忘れて走ってきた十二番なら、危険なときでさえ逃げるどころか、私のところへ戻ってこようとするかもしれない。
私が「逃げて」と叫んでも、こちらへ走ってくる十二番の姿が頭に浮かんだ。
さっきまで温かかった胸の奥が、一気に冷たくなる。
連れていきたい。
でも、連れていった先でこの子を失うのは、もっと嫌だった。
私は十二番を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「……ごめんね。やっぱり、一緒には行けないよ」
「ぴよ……?」
十二番が不思議そうに顔を上げる。
「私たち、これからも旅を続けるの。雪山みたいな危ないところへ行くかもしれないし、怖い魔物に襲われたり、TIMEと戦うことだってある。十二番はすごく速いけど、私を見つけたら危なくても走ってきちゃいそうだから……それが怖いの」
十二番は鳴かず、私の顔をじっと見つめていた。
言葉が分かっているのかは分からない。
それでも、ちゃんと話しておきたかった。
「ここならご飯もあるし、仲間もいる。係員さんたちも十二番のことを知ってるし、レースが終わればちゃんと帰ってこられる場所もある。私が一緒にいたいってだけで、それを全部捨てさせちゃ駄目だよね」
口にしてしまうと、胸が痛かった。
本当は連れていきたい。
今だって、「やっぱり一緒に行こう」と言えば、十二番は喜んでくれるような気がする。
でも、それは私が寂しくならないための選択だった。
十二番のための選択じゃない。
私は小さな頭をゆっくり撫でた。
「だから、これはお別れじゃないよ。また会いに来るから」
「ぴよ……?」
「私、お父さんとお母さんを探すために旅を続けなきゃいけない。でも、またゴブリン王国に来る。そのときは絶対、十二番にも会いに来るから」
私は小指を差し出した。
「約束」
もちろん十二番には小指がない。
どうするのかなと思っていると、十二番は私の指をしばらく見つめ、小さな頭をこつんと当ててきた。
「……それで約束?」
「ぴよっ!」
元気な鳴き声だった。
その声を聞いて、胸の奥に引っ掛かっていたものが少しだけほどけた。
「じゃあ、約束ね」
もう一度だけ十二番をぎゅっと抱き締めてから、ゆっくり地面へ降ろした。
さっきまでは服を嘴でくわえて離そうとしなかった十二番も、今度は引き止めなかった。代わりに私の足元を一周すると、少し離れた場所へ行ってこちらを見上げている。
「元気でね。いっぱい食べるんだよ。それから、知らない人についていっちゃ駄目だからね」
「ぴよ!」
「……本当に分かってる?」
「ぴよ!」
黄色が横から首を傾げた。
「絶対分かってないでぷ」
「分かってるよ!」
「どっちでぷ?」
「分かってるの!」
十二番まで黄色へ向かって「ぴよ!」と鳴いたので、私はすぐに指差した。
「ほら!」
「何が『ほら』なのでぷ!?」
みんなが笑った。
少し前まで泣きそうだったのに、私も一緒に笑っていた。
寂しくないわけじゃない。
でも、もう悲しいだけの別れではなかった。
十二番には帰る場所があって、私は旅を続ける。そして、またここへ戻ってくれば会える。
係員に呼ばれた十二番は待機所へ戻り始めたけれど、途中で何度もこちらを振り返った。そのたびに私が手を振ると、小さな羽をぱたぱたさせて応えてくれる。
最後に柵の向こうまで戻ったところで、十二番はもう一度だけこちらを向いた。
私は大きく手を振った。
「またね、十二番! 絶対また来るから!」
「ぴよーーっ!」
その声が、静かになったレース場へ長く響いた。
私は十二番が仲間たちのところへ戻っていくのを最後まで見届けてから、ようやく背を向けた。
◇
レース場を出たあと、オラクルが車椅子から私を横目で見た。
「本気で連れていこうとしてただろ」
「……うん。途中までは本気だった。一緒にいたかったし、十二番なら速いから大丈夫かもしれないって思った。でもグラティスのことを思い出したら、そうじゃないって分かった」
私は歩きながら、自分の右足へ目を落とした。
「私たちだって、まだこんなに怪我してる。もしまたTIMEに襲われて十二番まで巻き込まれたら、きっと『連れてこなきゃよかった』って思う。そんなの嫌だから」
オラクルはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく頷いた。
「だったら、その判断でいい。連れていくことだけが、大事にするってことでもねえからな」
「うん」
私は頷き、今度は鞄へそっと手を当てた。
中には、さっき手に入れた☆5《幻獣種召喚の本》が入っている。
《未確認》の意味はまだ分からない。
十二番とも、今は一緒に行けない。
でも、どちらもここで終わったわけではなかった。
本はこれからの旅へ持っていくことで、いつか新しい反応を見せるかもしれない。十二番には、旅を続けた先でまたこの国へ戻ってくれば会える。
今すぐ答えが出なくてもいい。
今すぐ全部を連れていけなくてもいい。
大切なのは、ここで止まらず、その先へ進むことだった。
「そういえば、次は試練でぷ!」
赤の声に、私は思わず足を止めた。
「……あっ!」
カジノと十二番のことで頭がいっぱいになっていたけれど、守護者たちの試練はまだ始まってすらいない。
緑が持っていた本を開きながら頷いた。
「最初はピンク姉ちゃんの試練でぷよ」
「ピンクお姉ちゃんかあ……どんな試練なんだろう」
「行けば分かるでぷ。そのほうが面白いでぷ!」
意味ありげに笑う黄色へ「何で教えてくれないの?」と聞いても、三匹は楽しそうに笑うだけだった。
少し嫌な予感を覚えながら、私たちは王宮へ続く道を歩き始めた。
カジノの賑やかな音が少しずつ遠ざかっていく。途中で一度だけ振り返ってみたけれど、もうレース場は建物の陰に隠れ、十二番の姿を見ることはできなかった。
それでも、さっき交わした約束がある。
また会いに来る。
そのためにも、お父さんとお母さんを探す旅を止めるわけにはいかない。
私は前を向き直り、みんなのあとを追った。
そのときだった。
遠くの岩山の向こうから、聞き慣れない轟音が響いてきた。
――ブオオオオオオンッ!
空気だけではなく、足元の地面まで僅かに震えた。
「……今の何?」
私は思わず立ち止まった。
魔物の咆哮とは違う。雷とも違うし、何かが爆発した音にも聞こえない。低い唸りが一気に近づいたかと思えば、岩山の向こうへ遠ざかっていくような、不思議な音だった。
ところが赤、緑、黄色は驚くどころか、顔を見合わせて笑っている。
「何でみんな笑ってるの?」
「もうすぐ分かるでぷ」
「だから何なの?」
「言ったら面白くないでぷ!」
黄色は最後まで教えるつもりがないらしい。
「ヒントくらいちょうだいよ」
「速いでぷ」
赤が答えた。
「それだけ!?」
「すごく速いでぷ」
「ほとんど増えてないよ!」
緑まで笑い始めたところで、岩山の向こうから二度目の轟音が響いた。
――ブオオオオオオオオンッ!
今度はさっきより近い。
岩山の上にいた鳥の群れが一斉に飛び立ち、その直後、遠くから大勢のゴブリンたちの歓声まで聞こえてきた。
「歓声……?」
私は目を細めて岩山の向こうを見る。
あそこに何かある。
しかも、かなり大きな何かだ。
「もしかして、あれがピンクお姉ちゃんの試練?」
三匹は答えなかった。
ただ、揃ってにやにやしている。
「その顔、絶対そうでしょ!」
「行けば分かるでぷ!」
「もう!」
追及しても教えてくれそうにない。
私は諦めて歩き出したけれど、さっきまで感じていた寂しさはいつの間にか少し薄れていた。
鞄の中には、まだ使い方さえ分からない☆5《幻獣種召喚の本》がある。
後ろには、また会うと約束した十二番がいる。
そして前には、正体の分からない第一の試練が待っている。
分からないことばかりだ。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
旅に出たばかりのころなら、何が待っているのか分からないことが怖かったかもしれない。でも今は、その先に何があるのか自分の目で確かめたいと思える。
私は鞄を背負い直し、みんなの隣へ並んだ。
「よし。行こう!」
「試練へ出発でぷ!」
赤が骨付き肉を掲げ、緑と黄色も元気よく手を上げる。
オラクルだけが車椅子から呆れた顔をしていた。
「お前ら、これから試練受けるって分かってんのか?」
「分かってるよ」
「遠足みてえな顔してるぞ」
「だって、ちょっと楽しみになってきたんだもん」
「さっきまで十二番と離れたくないって顔してたくせに、切り替え早えな」
「寂しいのは寂しいよ。でも、また会えるから」
私はそれだけ答えて、もう振り返らなかった。
別れたから終わりじゃない。
分からないから進めないわけでもない。
《未確認》のまま鞄へしまった本も、レース場に残してきた十二番も、この先の旅とどこかでまたつながるかもしれない。
そのときまで、私は私のやるべきことを続ければいい。
岩山の向こうから、三度目の轟音が響いた。
今度は歓声もはっきり聞こえた。
何百、何千というゴブリンたちが、一斉に何かへ熱狂している。
私は思わず足を速めかけ、右足に負担を掛けないよう途中で歩幅を戻した。
「……危ない。無茶しないって言ったばっかりだった」
「もう忘れかけてんじゃねえか」
オラクルに突っ込まれ、私は苦笑いする。
それでも視線だけは、轟音の聞こえてくる岩山の向こうから離せなかった。
ピンクお姉ちゃんが待つ第一の試練。
剣を使うのか、魔法を使うのか、それともまったく別の何かなのか。
まだ私には分からない。
ただ一つだけ確かなのは、あの岩山の向こうで、次の冒険がもう動き始めているということだった。




