第75話 古びた本の正体
百万コインと引き換えに手に入れた古びた本を両腕で抱えながら、私はしばらく表紙を見つめていた。
これほど厳重に守られていたというのに、近くで見ても特別なところは何もない。少しくすんだ革張りの表紙には題名も星の印もなく、宝石や魔法文字が隠されているようにも見えなかった。
「本当に何も書いてないでぷね」
緑が横から覗き込み、黄色も気になって仕方がない様子で本へ顔を近づけた。
「中はどうなってるのでぷ? 開いてみるでぷ?」
「うん。でも、ちょっと待って」
本を抱え直したとき、鞄の中から小さな振動が伝わってきた。一度だけではなく、二度、三度と続いたその感覚には覚えがあり、私はすぐに《聖なるマップ》を取り出した。
手に触れた途端、閉じていたはずの地図が自分から開くように広がっていく。
「地図が反応してるでぷ!」
赤の声に、オラクルも車椅子から身を乗り出した。
昨日、この景品交換所を調べたときにも《聖なるマップ》は本へ反応していたけれど、今までとは明らかに違っていた。方向を示していた淡い光が地図全体へ広がり、私の腕の中にある古びた本と呼応するように、一定の間隔で強く脈打っている。
やがて一本の光が地図から伸び、本の表紙へ触れた。
「わっ……!」
腕の中で本が震えたので、私は落とさないように抱き締めた。けれど暴れるような動きではなく、長い間眠っていた何かが、ようやく目を覚ましたような小さな震えだった。
次の瞬間、《聖なるマップ》とつながっている《冒険アルバム》がひとりでに開いた。
これまでの旅で出会った物や場所、魔物や出来事が記録されたページが次々とめくられていき、まだ何も記されていない一枚のところでぴたりと止まる。
「新しい記録でぷ!」
緑が目を輝かせる。
白紙だったページの中央へ光の粒が集まり、私が抱えているものと同じ、何の飾りもない古びた本の絵が少しずつ描かれていった。
その下には文字まで浮かび始める。
一文字。
また一文字。
途中まで現れたところで、私はその名前に見覚えがあることに気づいた。
「……まさか」
オラクルも同時に気づいたらしく、車椅子からさらに身を乗り出した。
「おい、これ……」
最後の一文字が浮かび上がる。
《幻獣種召喚の本》
その名前を見た瞬間、私は冒険アルバムと腕の中の古びた本を何度も見比べた。
「これ……だったんだ」
ずっと前、《聖なるマップ》に一度だけ現れ、すぐに消えてしまった名前だった。それから旅を続ける中で、ミラ婆さんから幻獣種にまつわる話を聞き、雷をまとって空を飛ぶ巨大な鳥まで実際に目にしたけれど、あの鳥を含め、幻獣種についてはまだ分からないことのほうがずっと多い。
それでも、《幻獣種召喚の本》という名前だけは忘れていなかった。
黄色も冒険アルバムへ顔を近づける。
「百万コインの本が……ずっと探してた《幻獣種召喚の本》だったでぷ?」
「うん。やっと見つけた……」
緑は古びた本を見つめながら、興奮を抑えきれない様子で呟いた。
「でも、《召喚》って書いてあるでぷ。この本、本当に幻獣種を呼べるのでぷか……?」
その言葉で、私も改めて名前を見る。
これは幻獣種について説明する本ではなく、《幻獣種召喚の本》と記録されている。
「これを使えば……幻獣種を呼べるのかな?」
「名前だけ見りゃ、そういう意味にしか聞こえねえな」
オラクルも本を見つめながら答えた。
黄色はすぐに身を乗り出す。
「じゃあ、どうやって呼ぶのでぷ?」
「それが分かれば苦労しねえよ」
そのとき、冒険アルバムの光が再び強くなった。
「まだ何か出るでぷ!」
赤が指差す。
《幻獣種召喚の本》という名前の上に小さな星が一つ浮かび、続いて二つ目、三つ目、四つ目と増えていく。
私は息を止めて数えた。
最後に五つ目が灯った瞬間、ページ全体が白い光に包まれた。
《☆5 幻獣種召喚の本》
「……☆5でぷ?」
緑の声が小さく漏れた。
百万コインという交換条件に加え、四匹の警備ゴブリンと何重もの魔法陣、さらに分厚い防護壁まで用意されていた理由が、ようやく少し分かった気がした。
それでも、肝心の使い方は何も表示されていない。
黄色はしばらく《☆5》の文字を見つめていたけれど、やがて我慢できなくなったように本を指差した。
「フールちゃん……開いてみるでぷ」
「うん」
私も同じ気持ちだった。
《聖なるマップ》を閉じ、オラクルたちにも見えるよう古びた本を両手で持ち直す。表紙はさっきまでと何も変わっていないのに、《☆5 幻獣種召喚の本》だと知ってしまった今では、もうただの古本には見えなかった。
赤、緑、黄色が揃って身を乗り出し、メリーも私の肩から表紙を覗き込む。オラクルは車椅子から静かに見守り、その後ろでは布団や舎弟になったゴブリンたちまで、何が起こるのかと集まっていた。
「開けるよ」
私は表紙へ指を掛け、ゆっくり持ち上げた。
現れたのは、真っ白なページだった。
「……何もない」
一枚めくってみても白紙のままで、次のページにも文字や絵は描かれていなかった。さらに何枚か確認してみたけれど、魔法陣どころか小さな印さえなく、どこまで進んでも同じ白い紙が続いている。
赤が不思議そうに覗き込んだ。
「全部白いでぷ……」
黄色の顔は少しずつ引きつっていった。
「百万コイン払ったでぷよね?」
「払ったよ」
「☆5だったでぷよね?」
「うん」
「それなのに、中身が全部白紙なのでぷ?」
「……今のところは」
黄色は両手で頭を抱えた。
「どうやって使うのでぷー!?」
景品交換所に黄色の叫びが響き、後ろにいた舎弟ゴブリンたちまでざわつき始めた。
私も困っていた。
ようやく《幻獣種召喚の本》を手に入れたのに、肝心の使い方がどこにも書かれていない。百万コインも必要だった☆5の本が、意味もなく白紙だとは考えにくかった。
オラクルも同じことを考えたらしい。
「何か条件があるんじゃねえか?」
「条件?」
「☆5の本が、ただの白紙で終わるとは思えねえ。今は何も出てねえだけかもしれないだろ」
「そうでぷね。何か見落としてるかもしれないでぷ」
緑の言葉に頷き、私はもう一度最初からページを確かめることにした。
今度は急がず、一枚ずつゆっくりめくっていく。
やっぱり白紙だった。
次のページにも何もなく、その次にも文字一つ見つからない。紙の擦れる音だけが小さく続き、最後まで何も見つからないのではないかと思い始めたころ、指先に僅かな違和感があった。
「……あれ?」
手が止まった。
見た目は他と同じ真っ白なページなのに、そこだけ指先へ微かな温かさが伝わってくる。
「どうしたでぷ?」
緑が覗き込んだ。
「このページだけ、ちょっと温かい気がする」
私がもう一度指先で触れると、紙の中央に小さな光が生まれた。
「光ったでぷ!」
赤の声に、全員が一斉に身を乗り出した。
淡い光は少しずつ伸び、白紙の上へ細い線を描き始める。何かの形になろうとしているようだったけれど、まだ輪郭までは分からない。
「何か出てくるのでぷ……?」
黄色まで声を潜めている。
私は息を止め、ページから目を離さなかった。
一本目の線に別の光が重なり、さらにもう一本が伸びる。
あと少しで何か分かりそうだった。
ところが、形が完成する直前――光がふっと消えた。
「……消えたでぷ」
ページは再び真っ白になった。
私はすぐに同じ場所へ触れてみたけれど、今度は何も起こらない。一度指を離してから触れ直しても、光が戻ることはなかった。
「今の、何だったんだろう……」
誰にも答えられなかった。
ただ、完全な白紙だと思っていたこの本が、確かに一度だけ反応した。それだけでも、このページに何かが隠されていることは分かる。
「フール」
オラクルが低い声で私を呼んだ。
「何?」
「そのページ、もう一回よく見ろ」
言われた通り、私は顔を近づけた。
光は消えている。
けれど、さっきまで完全に真っ白だった紙の中央には、何かが描かれかけた場所だけ、ごく薄い跡が残っていた。
さらに、その下にも小さな変化があった。
「……文字?」
目を凝らす。
そこには、さっきまで絶対になかった文字が一つだけ浮かんでいた。
《未確認》
「未確認……?」
私が読み上げると、誰も声を出さなかった。
百万コインを払って手に入れた、☆5《幻獣種召喚の本》。
何も記されていない白紙のページ。
完成する前に消えてしまった正体不明の光。
そして、たった一つだけ残された《未確認》という文字。
私は本を閉じることも忘れ、そのページをじっと見つめていた。




