第74話 史上最高配当!
十二番の大番狂わせからしばらく経っても、競技場の興奮はまったく収まらなかった。
巨大な魔法板には《優勝――十二番》の文字が輝いたままで、三百十四倍を超える大穴を買っていた数少ないゴブリンたちは、あちこちで泣いたり抱き合ったりしている。その中心で五千コインを賭けていた私たちは、否応なく周囲の注目を集めていた。
けれど、勝利の立役者である十二番だけは、そんな騒ぎなどどうでもいいらしい。私の腕の中へすっぽり収まり、さっきまで測定魔導具さえ追いつけない速度で走っていたとは思えないほど満足そうに目を細めている。
「十二番、みんなあなたのことで大騒ぎしてるよ?」
「ぴよ」
頭を撫でると、十二番は返事の代わりに頬を押しつけてきた。
その横では黄色が指を何度も動かしながら、さっきから同じ計算を繰り返している。
「五千掛ける三百十四・二……百五十七万一千でぷ。もう一回やっても百五十七万一千でぷ……」
「何回計算しても増えないよ」
「減ってないか確認してるでぷ」
「計算で減らないでしょ!」
オラクルが車椅子から呆れたように笑った。
「計算してる暇があるなら払い戻しに行くぞ。札持ってるのはフールだろ」
「あっ」
私は慌てて服のポケットを確かめ、十二番を受け止めたときに落とさないよう大事にしまっておいた賭け札へ触れた。
それを見た黄色の顔が一瞬で青くなる。
「フールちゃん、それ絶対なくしちゃ駄目でぷ! 今その紙、百五十七万一千コインでぷ!」
「そう言われると急に怖くなってきた!」
「だったら俺が持つでぷ!」
「黄色に渡すほうが怖い!」
「何でぷ!?」
そんなやり取りをしながら払い戻し所へ向かうと、すでに長い列ができていた。
ただ、私たちが受付へ賭け札を差し出した途端、係員の動きが止まった。
「十二番に……五千コインでぷ?」
係員は賭け札と私たちを何度も見比べ、やがて奥へ向かって大声を上げた。
「十二番に五千枚入れた客、本当にいたでぷ! 払い戻し百五十七万一千コインでぷ!」
その数字が聞こえた瞬間、後ろに並んでいたゴブリンたちまで一斉に騒ぎ始めた。
「百五十七万でぷ!?」
「カジノで一生遊べるでぷ!」
「俺なら仕事辞めるでぷ!」
「お前、もともと仕事してないでぷ!」
払い戻し所の奥では何匹もの係員が慌ただしく走り回り、やがて大きな木箱を積んだ台車が一台、二台と運ばれてきた。それでも足りずにさらに台車が追加され、箱の蓋が開くたび、中には金色のカジノコインが隙間なく詰まっていた。
黄色は目の前に積み上がっていく金色の山を見ながら、口を開けたまま動かなくなった。
「……全部、俺たちのでぷ?」
「そうなるな」
オラクルが答えると、黄色は一番近くの箱へ恐る恐る手を伸ばし、山になったコインへ指先で触れた。
「本物でぷ……夢じゃないでぷ……」
「黄色、泣いてる?」
「泣いてないでぷ。コインが眩しいだけでぷ」
絶対に嘘だった。
◇
払い戻しの確認が終わると、台車に積まれた大量のコインを前にして、オラクルは真っ先に百万枚を別へ分けるよう係員へ頼んだ。
「百万枚は先に確保する。そこだけは絶対に使わねえ」
「あの本の分でぷね」
黄色もすぐに意味を理解した。
「ああ。そのためにここまでやったんだからな」
百万コイン分の箱には別の印を付けてもらった。これでどれだけ騒いでも、本を交換するための百万枚だけは残る。
それでも目の前には五十七万一千枚ものコインが余っており、黄色はその量を見ても、まだ現実だと信じ切れていないようだった。
布団もコインの山を眺めながら、珍しく眠気を忘れている。
「すごいでぷ。五千枚貰ったときでも人生変わったと思ったのに、桁が違いすぎるでぷ」
「お前が情報集めてこなかったら、十二番には辿り着かなかったけどな」
オラクルが何気なく言うと、布団は目を瞬かせた。
「俺でぷ?」
「他に誰がいるんだよ」
オラクルは余剰分の箱から大量のコインを取り、小さな箱へどさどさと移して布団の前へ差し出した。
「ちょ、ちょっと待つでぷ! 多すぎるでぷ!」
「五千枚でカジノ中走り回ったんだ。お前が持ってきた情報で百五十七万になったなら、これくらい貰っとけ」
「でも、最初の五千枚はもう貰ったでぷ!」
「そいつは情報料。これはお前の取り分だ」
布団は黙った。
いつもなら金額を聞いた瞬間に飛びつきそうなのに、今度だけはすぐに手を出さず、箱の中とオラクルを何度も見比べている。
「……本当にいいでぷ?」
「いらねえなら戻すぞ」
「いるでぷ!」
そこだけは速かった。
布団は箱を抱き締めると、中のコインをしばらく見つめたあと、昨日までとは少し違う顔でオラクルを見た。
「オラクル……兄貴って呼んでもいいでぷ?」
オラクルの顔が固まった。
「何でそうなる」
「格好いいからでぷ」
「理由が雑だな」
「駄目でぷ?」
布団は珍しく真剣だった。
オラクルは頭を掻き、最後には諦めたように息を吐いた。
「好きにしろ」
布団の顔が一気に明るくなる。
「兄貴!」
「急に馴れ馴れしいな!」
私は吹き出した。
けれど、そのやり取りを聞いていたのは私たちだけではなかった。周囲には十二番の大穴を外して呆然としていたゴブリンや、百五十七万枚の山を羨ましそうに眺めていたゴブリンが大勢いる。
その中の一匹が突然、オラクルの前へ飛び出してきた。
「俺も舎弟にしてほしいでぷ!」
「は?」
オラクルが固まった途端、別のゴブリンまで手を上げた。
「俺も舎弟になるでぷ!」
「俺も兄貴についていくでぷ!」
「百五十七万当てる男についていけば人生変わるでぷ!」
「最後の奴、理由が最悪だろ!」
それをきっかけに一匹、二匹、五匹、十匹とゴブリンたちが集まり始め、気づけばオラクルの車椅子の周囲を見知らぬ顔が取り囲んでいた。
「兄貴でぷ!」
「俺たちも連れていってほしいでぷ!」
「兄貴についていくでぷ!」
「勝手に増えるな!」
黄色が目を丸くする。
「舎弟が増殖してるでぷ……」
「ゴブリンってこんな簡単に舎弟になるの!?」
「ノリで生きてる奴、多いでぷ」
布団がなぜか得意そうだった。
オラクルはしばらく頭を抱えていたけれど、やがて余剰コインが詰まった箱と、集まったゴブリンたちを交互に見た。
嫌な予感がした。
「オラクル?」
オラクルは答える代わりに箱へ両手を突っ込み、大量のコインを掴んだ。
「欲しい奴、持ってけ!」
次の瞬間、何百枚ものコインが空高く舞い上がった。
「ええええええっ!?」
魔法灯を反射した金色のコインが雨のように降り注ぎ、床へ落ちるより先に周囲のゴブリンたちが一斉に飛びついた。
「コインでぷーッ!」
「兄貴最高でぷーッ!」
「こっちにも投げてほしいでぷ!」
「俺まだ一枚も取ってないでぷ!」
競技場の一角は、たった一瞬で大混乱になった。
「オラクル、何してるの!?」
「余った分だ!」
「余ってても普通ばら撒かないよ!」
「景気いいほうが面白えだろ!」
オラクルは笑いながら二掴み、三掴みと次々に投げ、集まったゴブリンたちは床を転がり、飛び跳ね、互いの頭の上を越えて金色の雨へ飛び込んでいく。
赤まで目を輝かせた。
「俺も拾うでぷ!」
「赤は王子でしょ!」
「コインに身分は関係ないでぷ!」
黄色はもっとひどかった。
「待つでぷ! それ俺たちのコインでぷー!」
そう叫びながら、誰より必死に拾っている。
「黄色も拾ってるじゃん!」
「落ちたら誰のものでもないでぷ!」
「今、自分で《俺たちの》って言ったよね!?」
緑は呆れながら兄弟を見ていたけれど、足元へ一枚転がってくると、そっと拾ってポケットへ入れた。
「緑まで!」
「これは拾ったんじゃなくて保護しただけでぷ」
「絶対同じだよ!」
メリーまで金色の雨へ飛んでいく。
『きらきら』
「メリーは食べられないからね!」
大穴を外して落ち込んでいたゴブリンまで、降ってくるコインを一枚掴んでは笑っていた。オラクルの周囲にはいつの間にかさらに多くのゴブリンが集まり、誰が最初からいたのかさえ分からなくなっている。
「兄貴、一生ついていくでぷ!」
「俺もついていくでぷ!」
「俺は今日から布団先輩の下につくでぷ!」
布団が目を丸くした。
「俺、先輩になったでぷ!?」
「そこ喜ぶんだ……」
オラクルは最後にひときわ大きくコインを掴むと、集まったゴブリンたちの頭上へ放り投げた。無数の金色が雨のように降り注ぎ、それを追いかける大歓声が競技場中へ響き渡る。
それでも、別に確保した百万コインには一枚も手をつけていなかった。
◇
ひとしきり騒いだあと、私たちは百万枚のコインを積んだ台車を押し、景品交換所へ向かった。
もちろん私たちだけでは運べないので、さっそく増えた舎弟ゴブリンたちが何台もの台車を押している。
「道を開けてほしいでぷー!」
「兄貴御一行のお通りでぷー!」
「そこまでしなくていい!」
オラクルが止めても誰も聞かず、先頭では布団が妙に偉そうに胸を張っていた。
「お前ら、百万コイン落としたら駄目でぷ!」
「はい、布団先輩でぷ!」
「返事にまで《でぷ》つくんだ……」
私は十二番を抱いたまま、その後ろを歩いた。
十二番はすっかり安心したらしく、腕の中で眠っている。
昨日まで五百コインしか持っていなかった私たちが、今は百万枚を何台もの台車で運んでいる。それだけでも信じられないのに、その行き先にあるものを思い出すと、胸の鼓動が少しずつ速くなっていった。
やがて二階へ上がり、見覚えのある景品交換所へ辿り着く。
四匹の警備ゴブリンと、幾重にも重なった魔法陣。その奥には分厚い透明な防護壁があり、すべてに守られるように一冊の古びた本が置かれていた。
最初に見たときと何も変わっていない。
表紙には題名もなく、豪華な装飾もない。
それなのに、《聖なるマップ》だけがあの本を指していた。
係員は何台も連なった台車を見るなり、目を丸くした。
「本当に百万枚集めたでぷ……?」
「集めたでぷ!」
黄色が誰より誇らしそうに答える。
百万枚の確認にはかなりの時間が掛かった。何匹もの係員が箱を開けて枚数を数え、別の係員が記録し、最後には複数の係員で数字を照合していく。
やがて最後の一枚まで確認が終わると、景品交換所の責任者らしい年老いたゴブリンが前へ出た。
「確かに百万コイン、受け取ったでぷ」
その言葉を合図に、四匹の警備ゴブリンが防護壁の四方へ立った。
一匹目が鍵を回すと最も外側の魔法陣が淡い光を残して消え、二匹目、三匹目と続くたびに、何重にも本を包んでいた光の輪が一層ずつ失われていく。
最後の四匹目が解除を終えた瞬間、分厚い防護壁の内部から低い音が響いた。
透明な壁が、ゆっくり左右へ開いていく。
昨日まで絶対に触れることのできなかった本が、初めて何にも遮られず目の前に現れた。
係員は白い手袋をつけ、中央に置かれていた本を慎重に持ち上げる。
近くで見ても、やっぱり普通だった。
長い年月を過ごしたことが分かる、少しくすんだ革張りの表紙。題名はなく、星の印もなく、宝石も魔法文字も見当たらない。
黄色が複雑そうな顔をした。
「これが百万コインでぷか……見た目だけなら百コインでも悩むでぷ」
「百万払ったあとに言わないでよ!」
係員も困ったように笑った。
「俺たちも、この本が何なのかは知らないでぷ。昔から《非常に貴重な物》として、ここで保管するよう引き継がれてきただけでぷ」
私は腕の中で眠っていた十二番を赤へ預け、ゆっくり両手を差し出した。
ここへ来た最初の日、あまりにも厳重な警備を見て、どうしてこんな普通の本が守られているのだろうと思った。交換に必要な百万コインという数字も現実味がなく、本当に手に入れられるとは思っていなかった。
それでも《聖なるマップ》は、この本を指していた。
布団が集めてくれた情報を頼りに十二番へ辿り着き、みんなで考えた末に五千コインを賭けた。十二番が走ってくれたからこそ、絶対に届かないと思っていた百万枚を集めることができた。
その全部が、今この一冊へつながっている。
「これで……私たちのものになるんだよね?」
私が確認すると、年老いた係員はゆっくり頷いた。
「もちろんでぷ。百万コインとの交換は正式に成立したでぷ。この本が何なのかまでは俺たちにも分からないでぷが、これほど厳重に守られてきた以上、きっと大切な物だと思うでぷ」
「ありがとう」
係員が古びた本を両手で持ち、私の前まで運んでくる。
赤と緑、黄色も自然と近くへ集まり、メリーは私の肩へ戻ってきた。少し後ろではオラクルが車椅子から見守り、その周囲には布団を先頭に、いつの間にか増えた舎弟ゴブリンたちまで並んでいる。
「フールちゃん、落としちゃ駄目でぷよ」
黄色が妙に真剣な顔で言った。
「分かってるよ」
「百万コインの本でぷからね」
「そう言われると緊張するから!」
「俺が持つでぷ?」
「それはもっと怖い!」
「何でぷ!?」
赤と緑が笑い、後ろにいた舎弟ゴブリンたちからも笑い声が上がった。
さっきまで競技場で大騒ぎしていたのが嘘みたいだった。
私は一度だけ息を整え、両手を前へ出す。
「お願いします」
「確かに渡すでぷ」
係員の手が、ゆっくりと下がってくる。
古びた革張りの本が私の両手へ触れた。
見た目から想像していたより、ずっと重かった。
係員が手を離す。
私は落とさないよう、両腕でしっかりと本を抱えた。
「……手に入れた」
ずっと防護壁の向こう側にあった本が、今は私の腕の中にある。
百万コインを集めなければ、触れることさえできなかった一冊。
それなのに、表紙には相変わらず何も書かれていない。
名前も、星の数も、何のために使う物なのかも分からない。
ただの古びた本にしか見えなかった。
それでも私は、なぜか目を離せなかった。
ずっと探していた何かが、ようやく自分のところまで来たような、不思議な感じがしたからだ。
「フールちゃん?」
緑に呼ばれ、私は顔を上げた。
「ううん。何でもない」
もう一度、腕の中の本を見る。
何も起こらない。
光ることもなければ、勝手に開くこともない。
それでも《聖なるマップ》が、この本を選んだことだけは間違いなかった。
私は古びた表紙をそっと撫でた。
「あなた、一体何の本なんだろう……」
答えは返ってこない。
私はまだ知らなかった。
百万コインと引き換えに手に入れたこの何の変哲もない一冊が、これからの旅を大きく変えることになるなんて。




