第73話 ヒヨコレースの結果!
鐘が鳴り、最後の魔法灯が消えた瞬間、十二羽のヒヨコが一斉に地面を蹴った。
一番人気は最初の数歩だけで先頭へ飛び出し、そのすぐ後ろへ二番と五番が続く。三番、七番もほとんど間を空けず第一の直線へ入り、何千匹ものゴブリンが立ち上がったことで、競技場は地面まで揺れているような大歓声に包まれた。
「始まったでぷ!」
黄色も立ち上がった。
私は両手で賭け札を握り締め、十二番の姿を探した。見失うほど混戦になっているのかと思ったけれど、十二番だけはすぐに見つかった。
ほとんど進んでいなかったからだ。
「……え?」
他の十一羽が第一の直線を駆けているのに、十二番はスタート地点から数歩進んだ場所で立ち止まっていた。しかも前方のヒヨコたちを追う様子すらなく、顔を上げて観客席を見回している。
「十二番!?」
黄色の声が裏返ると、周囲から一斉に笑い声が上がった。
「やっぱり止まったでぷ!」
「だから三百倍なんでぷ!」
「五千賭けた奴、終わったでぷ!」
黄色の顔からみるみる血の気が引いていった。それでも受付へ戻ろうとしたり、誰かに文句を言ったりはせず、拳を強く握って十二番を見つめている。
「まだ始まったばっかりでぷ……まだでぷ……」
自分へ言い聞かせているようだった。
けれど先頭の一番はすでに第一のカーブへ差しかかり、十二番との差は広がる一方だった。
「オラクル……」
思わず振り返ると、オラクルは先頭争いではなく、車椅子から十二番だけを見ていた。
「変だな。走る気がねえんじゃない。あいつ、さっきからずっと何か探してる」
言われて改めて見ると、確かに十二番は眠そうにしているわけでも、餌や周囲の物に気を取られているわけでもなかった。観客席へ顔を向け、右から左へ、また左から右へと何度も視線を動かしている。
その姿を見た瞬間、昨日調べた記録が頭をよぎった。
《観客席を見たまま停止》
《他個体を追跡しコース逸脱》
そして、たった一度だけ残されていた異常な記録。
《急加速直前、観客側へ反応あり。対象不明》
胸の奥で、何かがつながりかけた。
待機所では、私が近づいた途端に十二番が目を覚ました。私が右へ動けば右へ、左へ動けば左へついてきた。
だったら今、探しているものは――。
私は立ち上がり、観客席から大きく身を乗り出した。
「十二番! ここだよ!」
思い切り叫んだけれど、何千匹もの歓声に私の声は簡単に飲み込まれた。先頭の一番はすでに第一カーブを抜けて坂へ向かっているのに、十二番はまだほとんど進んでいない。
それでも私は諦めず、両腕を大きく振った。
「十二番! 私ここにいるよ!」
赤と緑が驚いたように私を見る。
そのとき、十二番の頭が動いた。
ほんの僅かな変化だったけれど、私は見逃さなかった。
「……こっち見た」
さらに大きく手を振る。
「十二番!」
何千匹もの観客を探していた十二番の視線が、ぴたりと止まった。
本当に私を見つけたのかは分からない。
ただ、その瞬間、十二番が小さな羽を広げた。
待機所で私を見つけたときと同じ仕草だった。
オラクルが息を呑む。
「フール、そのままそこにいろ。たぶん――見つけた」
十二番が地面を蹴った。
次の瞬間、その姿がぶれた。
「えっ……?」
さっきまでスタート地点の近くにいたはずなのに、気づいたときには何歩も先へ進んでいる。さらに一歩、二歩と小さな脚が地面を蹴るたびに速度は上がり、頭上の巨大な魔法板へ表示された数字が一気に跳ね上がった。
一番人気の速度を超えても、まだ上がる。
「十二番の速度がおかしいでぷ! 測定確認するでぷ!」
「故障じゃないでぷ! 位置情報も合ってるでぷ!」
係員たちが慌ただしく確認を始める中、十二番は第一の直線を駆け抜け、最後尾を走っていた十一番との差を一気に詰めた。
「来たでぷ!」
黄色が叫んだ。
十一番の横へ並んだと思った次の瞬間には、もう前へ出ていた。その勢いのまま十番へ追いつき、さらに九番、八番まで抜いていく。
一羽抜くたび、観客席から笑い声が消えていった。
代わりに広がっていくのは、何が起きているのか理解できないようなどよめきだった。
「何でぷ、あれ……」
「十二番って、あんな速かったでぷ?」
「三百倍だぞ!?」
十二番は止まらない。
第一カーブへ入ってもほとんど速度を落とさず、外側から七番へ並ぶと、そのまま前へ出た。六番、五番と次々に抜き去り、小さな身体が蹴り上げた土だけが後ろへ残っていく。
「すごい……!」
私もいつの間にか叫んでいた。
「頑張れ、十二番!」
その声が届いたはずはないのに、十二番の顔が一瞬だけ観客席側へ向いた。直後、それまででも十分異常だった速度が、さらに上がった。
オラクルの目が細くなる。
「やっぱりだ。こいつ、レースしてねえぞ」
「え?」
「前のヒヨコを追ってない。ゴールも見てねえ」
オラクルは十二番の視線を追い、そのまま私を見た。
「ずっとフールを見てる」
私は言葉を失った。
その間にも十二番は三番を抜き、残るのは二番と一番だけになっている。
過去の記録も同じだった。
異常な速度で五羽を抜いたのに、最後にはコース脇にいた係員のところへ向かってしまった。別のレースでは誰かについていき、観客席を見たまま止まったこともある。
十二番は、勝負そのものに興味がないんだ。
「私のところに……来たいの?」
そう呟いた直後、十二番が二番を抜いた。
競技場の空気が完全に変わった。さっきまで十二番を笑っていた客まで総立ちになり、一番人気と十二番だけを追っている。
長い坂を越えれば、残るのは大きなカーブと最終直線だった。
「届くでぷ! 十二番、行くでぷー!」
黄色の叫びに赤と緑まで加わり、布団も椅子から身を乗り出した。
「三百十四倍来るでぷー!」
「布団、そこ!?」
「大事でぷ!」
一番が最後のカーブへ入り、十二番も後を追う。差はまだ十数歩あったけれど、明らかに十二番のほうが速く、先頭の背中は少しずつ近づいていた。
ところが、カーブの途中で十二番の進路が外へ膨らみ始めた。
「十二番!?」
ゴールへ向かう最短の線ではない。
私がいる観客席側へ寄ってきている。
オラクルがすぐに気づいた。
「フール、ゴールの向こう側へ移動できるか! 十二番はお前を追ってる。このままだと、またコースを外れるぞ!」
私は反射的に走り出そうとしたものの、右足へ鋭い痛みが走った。まだ怪我は治りきっておらず、よろめいた身体を緑がすぐに支えてくれる。
「走っちゃ駄目でぷ!」
「走るな、フール! ゆっくりでいいからゴール側へ移動しろ!」
オラクルに言われ、私は頷いた。
観客席の通路を、右足へ負担を掛けないぎりぎりの速さで進む。すると十二番の顔も私の動きに合わせて向きを変え、外へ膨らみかけていた進路が少しずつコースへ戻っていった。
「こっち! 十二番、こっちだよ!」
「戻ったでぷ!」
黄色が叫んだ。
一番が最終直線へ入る。
その後ろから十二番も飛び込んだ。
まだ差はある。
けれど、速度が違った。
頭上の魔法板へ表示された十二番の数字が、過去に一度だけ記録された異常な速度へ近づき、ついにはその記録さえ超えた。
「記録更新でぷ!」
係員の声が競技場へ響いた直後、十二番の速度表示だけが魔法板から消えた。
《測定不能》
競技場中から声が消えた。
過去と同じだった。
測定魔導具が、また十二番を見失った。
ほんの一瞬後に位置情報が戻ったとき、十二番は一番人気のすぐ後ろまで迫っていた。
「追いついたでぷーッ!」
黄色の絶叫をきっかけに、競技場が再び爆発したような歓声に包まれる。
一番と十二番が並んだ。
残りは僅か。
一番も必死に脚を動かしているのに、十二番は隣の相手を一度も見ていない。
見ているのは、私だけだった。
私はゴールの向こう側まで移動し、両腕を大きく広げた。
「十二番! おいで!」
十二番の目が大きく開き、小さな羽が広がった。
最後の数歩で、さらに身体が前へ出る。
二羽がほとんど同時にゴール線へ飛び込んだ。
あまりにも僅かな差で、私にはどちらが先だったのか分からなかった。黄色も赤も緑も声を失い、競技場にいる何千匹ものゴブリンが巨大な魔法板を見上げている。
審判役のゴブリンたちは測定魔導具の記録を何度も確認していた。
数秒しか経っていないはずなのに、ものすごく長く感じる。
やがて魔法板が真っ白に光った。
その中央へ、一つの番号が浮かび上がる。
《優勝――十二番》
一瞬の静寂のあと、黄色の絶叫が響いた。
「勝ったでぷーーーーッ!!」
赤と緑が抱き合い、布団は椅子の上で何度も飛び跳ねる。周囲では十二番を買っていなかったゴブリンたちまで頭を抱えながら叫び、三百十四倍の大穴が一番人気を破った衝撃で、競技場全体が何を言っているのか分からないほどの騒ぎになった。
「やった……!」
私もようやく声が出た。
「十二番、やったよ!」
けれど、当の十二番は勝利にまったく興味を示していなかった。
ゴールしたのに速度を落とさず、そのまま私のいる方向へ走り続けている。
「十二番、止まるでぷ!」
係員たちが慌てて追いかけるものの、捕まえられない。十二番はゴール脇の柵へ向かい、私へ続く通路が開いた瞬間、その小さな身体で一直線に駆けてきた。
「フール!」
オラクルの声を聞き、私は反射的に両腕を広げた。
十二番が最後に地面を蹴る。
「わっ!」
胸へ飛び込んできた身体をどうにか受け止めると、柔らかな羽毛が頬へ触れた。十二番は嬉しそうに「ぴよっ!」と鳴きながら、私の胸元へ何度も頭を擦りつけてくる。
「……私のところに来たかったの?」
「ぴよ!」
言葉が分かるわけではない。
それでも、もう答えは分かる気がした。
追いついてきたオラクルも、私の腕の中で満足そうにしている十二番を見つめていた。
黄色が十二番と私を交互に見比べる。
「……もしかして、フールちゃんがいたから勝ったでぷ?」
「ああ。たぶんな」
オラクルは過去の記録を思い返すように続けた。
「こいつは勝つために速く走るんじゃねえ。気に入った相手のところへ行きたいときだけ、本気で走るんだろ。昔の異常加速も、そのあと係員のところへ行ったのも、今回フールを探して止まってたのも、それなら全部つながる」
速さだけなら、測定魔導具が追いつけないほど。
なのにレースそのものには興味がない。
好きになった相手がゴールの向こうにいなければ、その力をまともに使う理由すらない。
だから、誰も十二番の本当の速さを知らなかったんだ。
黄色は数秒ほど黙っていたけれど、突然私の肩を掴んだ。
「フールちゃん!」
「何!?」
「ありがとうでぷ!」
「近い近い!」
「百五十七万一千コインでぷー!」
「結局そこ!?」
競技場ではまだ、十二番の大番狂わせに歓声が鳴り止んでいなかった。
百万コインへ届いたことはもちろん嬉しい。
でも、それ以上におかしかった。
三百十四倍の大穴として誰からも期待されていなかった十二番は、勝ったことなどまるで気にしていない。私の腕の中へ収まった途端、それまでの異常な速さが嘘だったように身体の力を抜き、満足そうに目を閉じている。
私はその小さな頭を撫でながら、とうとう笑いを堪えられなくなった。




