第72話 三百倍の十二番
翌朝、ゴブリン王国のカジノは昨日までとはまるで別の場所になっていた。
建物へ近づく前から大歓声が聞こえ、入口へ続く大通りには普段の倍以上のゴブリンが集まっている。肉串やパン、甘い菓子を売る臨時の屋台まで並び、頭にヒヨコの飾りをつけた客や、応援する番号を頬へ大きく描いた客まで歩いていた。
「本当にヒヨコのお祭りみたい……」
私が辺りを見回している横で、メリーはレースより屋台のほうが気になるらしく、焼きたてのパンを目で追っていた。
『パンもいっぱい』
「今日はパンを見に来たんじゃないよ」
『レース見ながら食べる』
「もう買う気なんだ……」
オラクルは今日も車椅子だった。昨日より身体は楽になったようだけれど、治療役からはまだ長時間歩くことを禁止されている。その少し後ろには布団もいるが、今日は珍しく布団も枕も持っていなかった。
「布団、今日は寝ないの?」
「ヒヨコレースの日に寝るほど俺も馬鹿じゃないでぷ。特に最終レースは王国中から客が来るでぷ」
昨日までなら、その話を聞いた黄色が真っ先に賭け場へ向かっていただろう。でも今日は「先に十二番を見るでぷ」と自分から言い出した。
私が驚いていると、黄色は少し得意そうに胸を張る。
「三百倍ってことは、それだけ勝たないと思われてるってことだって昨日教わったでぷ。倍率だけで賭けたら駄目でぷ」
「やっと分かってきたな」
オラクルが僅かに笑う。
「俺も成長するでぷ」
「昨日まで全部賭けようとしてたけどね」
「昔の話でぷ」
「昨日だよ!」
◇
カジノの奥に造られた競技場へ入った瞬間、私はその大きさに圧倒された。
中央には土と短い芝を組み合わせた長いコースがあり、直線だけではなく、緩やかな坂や大きなカーブ、小さな水場まで設けられている。その周囲を何段もの観客席が取り囲み、朝だというのにかなりの席が埋まっていた。
頭上には巨大な魔法板が浮かび、最終レースに出走する十二羽の番号と現在の倍率が表示されている。一番人気は二倍台で、そこから三倍、五倍、八倍と続き、下へ行くほど数字が大きくなっていた。
そして一番下には、《十二番――三〇七・四倍》。
「昨日より上がってるでぷ」
黄色が呟いたけれど、オラクルは喜ぶどころか表情を険しくした。
「それだけ誰も賭けてねえってことだ。三百倍だけ見て喜ぶなよ」
「分かってるでぷ」
今度の黄色は、本当に分かっているようだった。
私たちは賭け場を通り過ぎ、まず競技場の下にある待機所へ向かった。
◇
待機所には、最終レースへ出る十二羽のヒヨコがいた。
黄色い羽毛の子だけではなく、少し白っぽい子、頭の毛だけ逆立っている子、他より一回り身体が大きな子までいて、それぞれ番号のついた小さな布を身につけている。
一番人気のヒヨコは、小さな身体なのに妙に堂々としていた。脚もしっかりしていて、係員が近づいても落ち着いたまま胸を張っている。
「一番は前のレースでも勝ってるでぷ」
布団が説明した。
「だから二倍しかつかないの?」
「そうでぷ。速いし、途中で変なこともしないでぷ」
その意味は奥へ進むにつれて分かってきた。八番は自分の尻尾を追いかけて同じ場所をぐるぐる回り、九番は朝から餌を食べ続け、十番は隣のヒヨコの背中へ乗ろうとして係員に止められている。
「後ろのほう、だんだん個性的になってない?」
「弱いとも言うでぷ」
「言い方!」
そして一番奥まで進んだところで、私たちは十二番を見つけた。
藁の上へ腹をつけ、ぐっすり眠っている。他のヒヨコが鳴いても、係員が目の前を行き来しても目を開けようとしない。
黄色が遠い目をした。
「三百七倍……」
「倍率と見比べるのやめようよ」
係員が十二番の身体を軽く揺らして「そろそろ準備するでぷ」と声を掛けても、片目だけ開けて相手を見ると、そのまま再び目を閉じてしまった。
布団は妙に感心している。
「こいつとは気が合いそうでぷ」
「布団より寝るかもしれないよ」
「強敵でぷ」
何を競っているのだろう。
私は十二番の前へしゃがんだ。昨日、紙に描かれていたときから、なぜか少し気になっていた。
「ねえ、今日走るんだよ?」
反応はない。
黄色が横から困ったように言った。
「フールちゃん、ヒヨコに説明しても分からないでぷ」
「分かってるけど……」
私はもう少しだけ柵へ近づいた。
すると、それまで何をしても眠っていた十二番の目が開いた。
「……え?」
十二番はゆっくり顔を上げ、さっき係員に揺らされたときとはまるで違う様子で真っすぐ私を見つめている。数秒ほど目が合ったあとには藁の上から立ち上がり、小さな脚でこちらへ歩いてきた。
「珍しいでぷ。今日は全然起きなかったでぷ」
係員まで驚いている。
十二番は柵の隙間からくちばしを出し、私が差し出した指へそっと触れた。そのまま自分から頭を寄せてきたので、柔らかな羽毛を指先で撫でる。
「かわいい……」
『かわいい』
メリーまで肩から身を乗り出した。
赤と緑は嬉しそうだったけれど、黄色だけは警戒するように私を見る。
「まずいでぷ」
「何が?」
「フールちゃんが気に入ったでぷ。このままだと《かわいいから五千枚賭ける》って言いそうでぷ」
「言わないよ! ……たぶん」
「《たぶん》になったでぷ!」
オラクルが車椅子からため息を吐いた。
「かわいいかどうかは一回忘れろ。俺たちが知りたいのは、こいつが何で三百倍なのかだ」
◇
係員に詳しく話を聞くと、十二番の問題は単純に足が遅いことではなかった。
「走る速さだけなら、それほど遅くないでぷ。ただ、途中で走らなくなるでぷ」
疲れて止まるわけではないらしい。レースの途中で急に観客席を見始めたり、前を走るヒヨコではなく別の何かについていったりする。以前にはコース脇の係員へ向かって走り、完全に進路を外れたことまであるという。
オラクルは少し考えたあと、昨日布団が集めてきた情報について尋ねた。
「練習で一度だけ、妙に速く走った記録があるって聞いた。残ってるか?」
係員は奥の棚を探し、何冊かの記録帳と古びた測定板を持って戻ってきた。
十二番の記録は、想像以上にひどかった。《途中停止》《測定不能》《他個体を追跡しコース逸脱》《観客席を見たまま停止》といった記録ばかりが並び、三百倍という評価にも納得できてしまう。
「五千枚賭けるの怖くなってきたでぷ」
黄色が珍しく弱気になったところで、記録を一枚ずつ確認していたオラクルの手が止まった。
「待て」
そこにも十二番が練習コースを走ったときの記録が残されていたけれど、一か所だけ数字がおかしい。
係員が記録番号まで確認する。
「十二番で間違いないでぷ」
緑も横から覗き込み、すぐに眉を寄せた。
「速すぎるでぷ」
一番人気のヒヨコの記録と比べると、少し速いなんてものではなかった。一番人気が同じ区間を走るのに必要とする時間より、十二番は遥かに短い時間で通過している。
しかも、記録されているのはコース全体ではなく、途中の一区間だけだった。
係員が当時の記録を確認すると、スタートからしばらくはいつも通りで、一度止まりかけたあとに突然状況が変わったことが分かった。
《第三区間より急加速。測定魔導具、一時追跡不能》
「追跡不能って?」
「測る側が十二番を見失ったってことだろ」
オラクルが答え、係員も頷いた。
コース横の測定魔導具はヒヨコの位置と速度を追い続ける仕組みになっているのに、このときだけは十二番の位置を一瞬見失ったらしい。
さらに記録には、《再捕捉時、先行個体五羽を通過済み》と残されていた。
スタート直後は後方にいた十二番が、測定魔導具から一度消え、再び捕捉されたときには五羽をまとめて抜いていたことになる。
赤の目が輝く。
「それならめちゃくちゃ速いでぷ!」
「だったら三百倍にはならねえ。その後は?」
オラクルに促され、係員が記録を追うと、何とも言えない顔になった。
「最終区間の前で急に減速して、そのままコース脇にいた係員のところへ行ったみたいでぷ」
せっかく異常な速度で五羽を抜いたのに、勝負そのものには勝っていない。しかも、それ以降の練習では同じ速度を一度も再現できていなかった。
餌も天気も体調も特別なものではなく、走った相手にも共通点はない。
最後に残っていた当時のメモには、たった一つだけ奇妙な記述があった。
《急加速直前、観客側へ反応あり。対象不明》
私はその一文を見つめた。
観客側へ反応した直後、測定魔導具が追えないほどの速度で走った。そして今、十二番は私が近づいた途端に目を覚ましている。
オラクルも決めつけることはせず、「フール、もう一回離れてみろ」と言った。
私は十二番から手を離し、右へ数歩移動する。十二番も檻の中を私についてきたので、今度は反対へ動いてみると、すぐに向きを変えた。
さらに歩く速度を上げ、二、三歩だけ小走りになった瞬間――十二番の姿が一瞬ぶれた。
「えっ?」
次に見たときには、檻の端まで移動していた。
全力で走ったわけでもなく、距離だって短い。それでも、さっきまで藁の上で眠っていたヒヨコの動きとは明らかに違った。
黄色が目を丸くする。
「今……速かったでぷ」
「普通に走った感じじゃなかったでぷ」
緑も十二番から目を離さない。
オラクルは過去の記録と十二番を交互に見ながら、低い声で呟いた。
「速く走れねえんじゃない。何かがあると、速くなる」
その《何か》が何なのかは、まだ分からない。人なのか、声なのか、何かを追いかけようとする気持ちなのか、それとも私たちがまだ気づいていない別の条件なのか。
ただ、一度だけ測定魔導具が見失うほどの速度を出したことがあり、その直前には観客側の何かへ反応していた。そして今日、私を見た十二番は、それまで眠っていたのが嘘のように動き始めた。
全部が偶然かもしれない。
でも、もし違うなら、三百倍という数字は単に《弱いヒヨコ》につけられた倍率ではないのかもしれない。誰もまだ、この子が本当に速く走る条件を知らないだけなのかもしれなかった。
私は柵の向こうにいる十二番を見る。
十二番も、じっと私を見返していた。
◇
最終レースまで一時間を切ったころ、私たちは観客席へ戻った。
十二番の倍率は《三一二・六倍》まで上がっている。手元に残っている約五千コインを全部賭けて勝てば、払い戻しは百五十万枚を超え、正体不明の本を百万枚で交換しても十分に残る。
けれど、負ければゼロ。
これは百枚を使う勝負でも、情報を買うための出費でもない。オラクルがずっと止めてきた《全額を一度に賭ける》という行為そのものだった。
最初に口を開いたのは黄色だった。
「俺、十二番に賭けたいでぷ」
オラクルは止めず、続きを待った。
「三百倍だからじゃないでぷ。普通の勝負もいっぱい見たし、布団にも五千枚使って情報集めてもらったでぷ。それでも、今の俺たちが百万枚まで届く可能性があるのはこれだけだったでぷ」
黄色は膝の上に置いていたコイン袋へ両手を添えた。
ずしりと重い袋だった。最初にカジノへ来たときなら、黄色は誰にも触らせなかったと思う。
しばらく袋を見つめたあと、黄色は立ち上がり、オラクルの車椅子の前まで歩いていった。
そしてコイン袋を、そのままオラクルの膝へ置いた。
「これ、預けるでぷ」
オラクルが黄色を見る。
「いいのか?」
「俺が持ってたら、最後に怖くなって半分だけにしたくなるかもしれないでぷ。逆に、もっと賭けたくなるかもしれないでぷ」
黄色は一度だけ袋へ目を落とした。名残惜しそうだったけれど、もう手を伸ばし直さなかった。
「みんなで十二番に賭けるって決めるなら、もう俺一匹のお金じゃないでぷ。だからオラクルが持っててほしいでぷ」
黄色がお金を好きなのは知っているし、五千コインがどれほど大きな額なのかも、一番分かっているのは黄色だと思う。だからこそ、自分から手を離したことに意味があった。
オラクルも少し驚いた顔をしていたけれど、やがて袋の口をしっかり閉じた。
「負けても《取り返す》って言わねえか?」
「言わないでぷ。負けたら、この五千枚は負けたお金でぷ。次の勝負で取り返すためのお金じゃないでぷ」
昨日、百万枚という数字を見た直後の黄色なら、きっとこんなことは言えなかった。五百枚を全部賭けて、負けたら残った金で取り返すと本気で考えていたのだから、今こうして自分から五千枚を手放したことは、私には数字以上に大きなことに思えた。
オラクルもしばらく黄色を見つめていたが、やがて膝の上の袋へ片手を置いた。
「分かった。なら俺は反対しねえ。ただし、これは黄色一匹の金じゃない。ここからは全員で決めるぞ」
赤は待機所の方向を見ながら少し考え、「俺は十二番に賭けたいでぷ」と答えた。
「一回だけでも誰より速く走ったことあるでぷ。それなら絶対無理じゃないでぷ」
緑も過去の記録を思い返しているらしく、慎重に頷いた。
「条件が分からないのは怖いでぷ。でも、普通の勝負を続けても百万枚までは遠すぎるでぷ。それに十二番がフールちゃんに反応したのは、みんなで見たでぷ」
メリーには最初から迷いなどないらしい。
『十二番』
「メリーの理由は?」
『かわいい』
「そこは変わらないんだね……」
張り詰めていた空気が少しだけ緩み、最後に全員の視線が私へ集まった。
私はコイン袋ではなく、待機所にいる十二番を思い浮かべた。
私が近づいた途端に目を覚まし、動けば檻の中をついてきたこと。そして過去に一度だけ、観客側の何かへ反応した直後、測定魔導具が追えなくなるほどの速さで五羽を抜いたこと。
それが今日も起こる保証なんてないし、たった一度の記録だけを信じるのは怖い。
それでも、ただ三百倍という数字だけを見て選ぶのとは違う。
「私も十二番がいい」
オラクルはすぐには頷かなかった。
「負ければ五千枚は全部なくなる。あの本も、また遠くなるぞ」
「うん。でも、ここまでみんなで調べたんだもん。それで十二番に何かあると思ったなら、私はやってみたい。負けたら、そのときはまた別の方法をみんなで考える」
しばらく沈黙があった。
やがてオラクルが膝の上のコイン袋を持ち上げる。
「決まりだな」
◇
受付へ向かった私たちは、五千枚の入った袋を台の上へ置いた。
黄色が一歩前へ出る。
「最終レース、十二番に五千コインでぷ」
受付係のゴブリンは袋へ伸ばしかけた手を止め、黄色と大量のコインを交互に見た。
「……五千全部、十二番でぷ?」
「全部でぷ」
その声を聞いた周囲の客まで振り返った。
「十二番に五千!?」
「三百倍の大穴でぷ!」
「正気でぷ!?」
ざわめきが広がるにつれ、黄色の顔が僅かに強張った。
ついさっきまで自分が抱えていた五千枚。それを見知らぬ客たちから「無謀だ」と言われれば、怖くならないはずがない。
それでも黄色は袋へ手を伸ばさなかった。
「十二番で間違いないでぷ」
オラクルがその言葉を聞いてから袋を係員へ渡した。
枚数が確認され、正式な賭け札が発行される。
《最終競技・十二番――五〇〇〇コイン》
私はオラクルからその札を受け取った。
薄い紙一枚なのに、驚くほど重く感じた。
これが外れれば、五千枚はなくなる。
当たれば――百万枚の本へ届く。
◇
観客席へ戻るころには、巨大な競技場がほぼ満員になっていた。
通路まで客で溢れ、あちこちで応援する番号が叫ばれている。一番人気の旗を振る集団もいれば、頭にヒヨコの被り物をしたまま踊っているゴブリンまでいて、最終レースが近づくにつれて熱気はますます高まっていた。
しかも、十二番へ五千枚賭けたという話は、私たちが席へ戻るころにはもう周囲へ広がっていた。
「お前ら、十二番に五千賭けた奴らでぷ?」
知らないゴブリンに聞かれ、黄色が少し警戒しながら頷く。
「そうでぷ」
相手は何とも言えない顔で黄色を見つめ、やがて肩を叩いた。
「……強く生きるでぷ」
「まだ負けてないでぷ!」
別の客まで振り返る。
「十二番、前のレースで途中から観客見て止まってたでぷ」
「今言わなくていいでぷ!」
「その前は係員追いかけてコース外れたでぷ」
「もっと言わなくていいでぷ!」
黄色の顔から少しずつ血の気が引いていく。
オラクルは車椅子から呆れたように言った。
「賭ける前に悪い情報を集めるのは大事だが、賭けたあとに都合の悪い話だけ拾って怖がっても何も変わらねえ。もう腹決めろ」
「分かってるでぷ……でも心臓痛いでぷ」
「怪我のほうじゃないよね?」
「五千コインのほうでぷ」
やっぱり黄色だった。
そのとき、頭上の巨大な魔法板が強く光った。
会場のざわめきが一段大きくなる。
最終倍率が確定したのだ。
一番は二・二倍、二番は三・六倍、三番は五・一倍と、上から順番に数字が固定されていく。そして最後に一番下の表示が点滅し、十二番の倍率が止まった。
《十二番――三一四・二倍》
「最後まで上がったでぷ」
布団が思わず口笛を吹く。
緑が計算しようとしたけれど、オラクルのほうが早かった。
「五千枚なら、百五十七万一千コインだ」
百万枚で本を交換しても、五十七万一千枚残る。
その数字を聞いた黄色が大きく息を呑んだ。
布団も興奮を隠せない。
「十二番に五千枚も入れた奴なんて、たぶん他にいないでぷ。これ当たったら払い戻し所が大騒ぎになるでぷ」
「勝ったらね」
私は自分へ言い聞かせるように答え、賭け札を両手で握った。
その直後、競技場全体へ低く重い鐘の音が響いた。
さっきまで好き勝手に騒いでいた客たちの声が少しずつ小さくなり、巨大な門へ何千もの視線が集まっていく。
最終レースの出走だった。
門が開き、一番人気のヒヨコがコースへ姿を現した瞬間、地面まで震えるような歓声が巻き起こった。堂々とした足取りで進み、観客の声にもまったく動じていない。
二番、三番と続くたび、それぞれを買った客たちが立ち上がり、番号を叫ぶ。
そして最後に、十二番が姿を現した。
歓声に混じって笑い声まで起きる。
「寝るなでぷー!」
「今日はちゃんとゴールするでぷー!」
「係員についていくなでぷー!」
応援なのか悪口なのか分からない。
十二番は係員についてコースへ入ってきたものの、スタート地点へ向かう途中で足を止めた。
黄色の顔が引きつる。
「まだ始まってないでぷよ……?」
でも、十二番は眠っているわけではなかった。
コースを見ていない。
一番人気も、隣を歩く他のヒヨコも見ていない。
ただ観客席へ顔を向け、何かを探すように右から左へゆっくり視線を動かしていた。
私は無意識に身を乗り出した。
「十二番……?」
その顔が止まった。
遠すぎて、本当に私を見つけたのかは分からない。
けれど、十二番の身体がこちらへ向いた。
赤が小さな声で言う。
「フールちゃん見てるでぷ?」
「……分からない」
十二番がこちらへ一歩進もうとしたので、係員が慌てて進路を塞いだ。
「そっちじゃないでぷ! スタートはこっちでぷ!」
抱え上げられ、スタート位置へ戻されても、十二番は首だけをこちらへ向けている。
オラクルの表情が変わった。
「……過去の記録と同じだ」
私は振り返る。
「観客側へ反応してるってやつ?」
「ああ」
胸が大きく鳴った。
偶然かもしれない。
ここから私の姿なんて見えていないかもしれない。
それでも、待機所で私を追いかけた十二番の動きが頭から離れなかった。
やがて十二羽がスタート位置へ並べられる。
一番は真っすぐ前を見て身体を低くし、二番も三番もコースへ意識を向けている。ほかのヒヨコたちも落ち着きなく羽を動かしながら、前方を見始めた。
十二番だけが違った。
身体は係員によって前へ向けられているのに、顔だけは観客席を向いたまま。
私のいる方向へ。
「前見て……」
思わず呟いたけれど、こんな距離では聞こえるはずがない。
スタート地点の上にある一つ目の魔法灯が赤く光り、競技場を満たしていたざわめきが急速に消えていく。
二つ目の灯りが点いた。
十二番はまだこちらを見ている。
三つ目が点灯すると係員たちがコースから離れ、あとは最後の灯りが消えるのを待つだけになった。
その瞬間だった。
十二番が、ほんの僅かに羽を広げた。
私は息を止めた。
待機所で私を見つけたときと、まったく同じ仕草だった。
そして、過去にたった一度だけ残された記録が頭をよぎる。
《急加速直前、観客側へ反応あり。対象不明》
私は賭け札を強く握り締めた。
最後の魔法灯が――消えた。




