第62話 二つ目の願い
白銀の笛を掴んだNo.10の指に、迷いはなかった。
《古の目覚めの笛》を包んでいた最後の光はすでに透明な石へ吸い込まれ、今度は触れたところで崩れることも、光へ戻ることもない。一つ目の願いは完全に成立し、長いあいだ探し続けていた笛は、この世界へ確かな形を持って現れていた。
セレスティアは渡すまいと両手へ力を込めたものの、長い眠りから目覚めたばかりの身体ではNo.10の力に抗いきれない。手首を押さえられたまま笛を胸元へ引き寄せようとすると、No.10は無言のまま反対の手に持つ剣を僅かに持ち上げた。
「やめて! セレスティアさんを傷つけないで!」
私が叫ぶと、No.10の視線だけがこちらへ動いた。返事はなかったものの、剣もそれ以上は動かず、代わりに笛を掴んだ手へ力が込められる。セレスティアも必死に抵抗したけれど、指は少しずつ開かされていった。
私もメリーを抱えたまま駆け出そうとした。しかし切り崩された足元の雪へ靴が沈み、思うように前へ進めない。その横をオラクルが走り抜けた。
「まだ終わってねえぞ!」
No.10の背後から笛を持つ腕へ手を伸ばす。
No.10は振り返らず、雪面に落ちたオラクルの影を一度見ただけで身体を僅かにずらした。伸ばされた手は空を切ったものの、オラクルは狙いを外套へ変えて布を掴む。
「取った!」
初めてNo.10の身体が止まった。
オラクルも、もうこの男を倒そうとはしていない。笛を取り返すことさえ後回しにして、ただその場へ引き留めるために外套を握り締めている。
「フール! 二つ目だ!」
その言葉で、私はセレスティアから与えられたもう一つの願いを思い出した。
願えば笛を取り返せるかもしれない。《古の目覚めの笛》を私の手元へ戻して――そう願えばいい。
その考えが浮かんだ直後、No.10は外套を掴んでいるオラクルの腕へ剣の鍔を下から当て、そのまま身体を回した。肘が伸び切る方向へ力を掛けられたオラクルの指が開き、外套が抜ける。
続けて振り向きざまに、剣の柄が胸へ叩き込まれた。
「ぐっ……!」
オラクルの身体が雪の上を滑り、その先にあった岩へ激突した。鈍い音が響き、今度はすぐに起き上がってこない。
「オラクル!」
赤が腹を押さえながら駆け寄ろうとして転び、緑と黄色も何度も倒された身体で必死に起き上がろうとしている。私の腕の中では、魔法を使い続けたメリーが熱い身体を丸め、苦しそうに呼吸を繰り返していた。
『フール……』
その弱い声を聞いたとき、ようやく私は笛以外のものをちゃんと見た。
赤は腹を押さえ、立っているだけでも辛そうだった。緑と黄色も雪と傷で身体を汚し、メリーはまともに飛ぶ力さえ残っていない。オラクルは岩の前で倒れ、セレスティアも長い眠りから目覚めた直後なのに、私たちのためにNo.10へ抵抗している。
その間にもセレスティアの指は外され、《古の目覚めの笛》が完全にNo.10の手へ渡った。
胸の奥が痛んだ。
ずっと欲しかった。ここまで探してきた。ようやく見つけて、一つ目の願いまで使ってこの世界へ呼び出したものが、ほんの数歩先で奪われている。
それでも私は、倒れているオラクルと、腕の中のメリー、傷ついた赤たちをもう一度見た。笛より先に守らなければならないものが、目の前にいくつもある。
「セレスティアさん! 二つ目の願い!」
その言葉に、No.10が初めて明確な反応を見せた。笛を手に入れたあともほとんど変わらなかった視線が、私とセレスティアの間を鋭く動く。
「願いを言葉にしてください。あなたが望みを告げ、私がそれを受け入れた瞬間に、願いは成立します!」
そこで仕組みが分かった。
私が願いを口にするだけでは足りない。セレスティアがその内容を聞き、受諾することで初めて女神の力が動く。だからNo.10も反応したのだ。成立する前なら、まだ止められる。
No.10は白い剣を持ち上げると、笛を確保したまま雪を蹴った。今度の狙いは私とセレスティアの間で、二つ目の願いが成立する前にどちらかを止めるつもりなのだろう。
私は一瞬だけ、その手にある《古の目覚めの笛》を見た。
取り返してほしい。この人を遠くへ飛ばしてほしい。私たちに、この人へ勝てる力が欲しい――いくつもの願いが頭をよぎったけれど、どれも選ばなかった。
メリーを胸へ抱き寄せ、セレスティアをまっすぐ見る。
「私たちを……みんなを、安全な場所に逃がして!」
セレスティアは迷わなかった。
「――あなたと、あなたの仲間たちを安全な場所へ。その願い、確かに承りました」
その言葉が終わった瞬間、二つ目の願いが成立した。
八つの円が一斉に輝き、地面から柔らかな光が立ち上がる。ほとんど同時にNo.10の剣も振り抜かれ、白い斬撃が私とセレスティアの間へ迫ったけれど、私の身体はすでに光へ包まれ、輪郭が透け始めていた。
斬撃は消えかけた身体をすり抜け、背後の雪へ深い亀裂を刻んだ。
振り返ると、赤、緑、黄色だけではなく、岩の近くで倒れているオラクルにも光が届いている。腕の中のメリーも柔らかな輝きに包まれ、全員の身体から細い光が伸びて八つの円へつながっていた。
「これ……みんなを見てるの?」
「はい。あなたの願いは、ただ遠くへ移動することではありません。《あなたと仲間たちが安全であること》を望んだものです。ですから私の力が、皆様の状態と周囲の危険を確かめています」
光はオラクルの胸元、赤の腹、疲れ切ったメリーの身体を順番に包んでいく。
「今の皆様に必要なのは、敵から離れることだけではありません。厳しい寒さを避け、身体を休めることができ、水を得られ、必要であれば助けを求められる場所――その条件を満たす場所へお送りします」
だから行き先を言わなくてもよかったのだ。私が願った《安全》の意味を、セレスティアの力が今のみんなの状態から選んでいる。
「じゃあ、みんな一緒に行けるんだね?」
「はい。あなたが仲間だと願った者は、すでに私の力が捉えています」
その言葉を聞いて、胸の奥にあった不安が少し消えた。誰も置いていかれない。
ただ、一人だけ光に包まれていなかった。
「セレスティアさんは?」
「私は願いの対象ではありません」
「だったら一緒に来て!」
「心配はいりません。もう私は氷に閉じ込められてはいませんから」
そう答えると、セレスティアは私へ近づいた。
「フール。手を」
私はメリーを片腕で抱き直し、言われるまま反対の手を差し出した。
セレスティアは自分の髪から、小さな髪飾りを外した。雪の結晶にも咲きかけの花にも見える透き通った飾りで、中心には淡い光が宿っている。見る角度によって白から薄い青へ色を変える、とても綺麗なものだった。
「これを、あなたに」
手のひらへ置かれた髪飾りは、見た目に反して優しく温かかった。
「これ……何?」
「持っていてください。いつか、あなたの助けになります」
もっと聞きたかったけれど、転移の光はすでに強くなり、私の指先まで透け始めている。
「分かった。大事にする」
私は髪飾りを落とさないよう握り締めた。
その瞬間、No.10の視線が一度だけ私の手元へ向いたように見えたものの、追ってはこなかった。《古の目覚めの笛》はすでにNo.10の手の中にあり、目的は達成しているうえ、二つ目の願いもセレスティアが受諾した時点ですでに成立している。
今から無理に術式へ干渉すれば、願いを発動しているセレスティアや、回収したばかりの笛まで女神の力へ巻き込まれる可能性がある。何より、No.10には私たちを追う理由がなかった。
笛を回収したら戻る。
最初から、それだけが目的だったのだ。
No.10は剣を下ろし、奪った《古の目覚めの笛》を一度だけ確認した。その判断に迷いはなく、こちらへ追撃する様子も見せない。
私は白銀の笛を見つめた。
ずっと探して、ようやく見つけ、一つ目の願いまで使ったものを奪われた悔しさは消えない。それでも腕の中にはメリーがいて、振り返れば赤たちもいる。倒れているオラクルまで、ちゃんと転移の光に包まれていた。
私は笛へ伸ばしかけた手を止め、代わりにセレスティアから渡された髪飾りを強く握った。
「セレスティアさん、ありがとう!」
セレスティアが微笑んだ。
その表情を最後まで見る前に、視界が真っ白に染まった。




