第58話 雪谷の吊り橋
雪男を倒した場所から離れるにつれて、道は少しずつ細くなっていった。
さっき《聖なるマップ》の光が伸びたのも、メリーが前回進んだと思い出したのも、この先だ。私は地図を何度も開きたくなるのを我慢し、まずは足元へ意識を向けながら、先頭を歩くオラクルのあとを追った。
山の中腹へ近づくほど斜面は急になり、道の片側には雪を被った岩壁、反対側には白く霞んだ谷が続くようになる。雪男と戦った場所より風も強くなっており、細かな雪が横から吹きつけるたびに視界が狭くなった。
「前の奴との間隔、空けすぎんな。雪が深いところは俺の足跡使え」
オラクルに言われ、私たちは一列になって進んだ。
雪男との戦いで大きな炎を二度使ったメリーは、まだ完全には疲れが抜けていないらしく、私の外套の襟元から顔だけを出している。それでも休憩前とは違い、周囲の景色を何度も確認していた。
前回、七体の仲間と《古の目覚めの笛》を探した道を思い出そうとしているのだろう。
「メリー、無理して思い出さなくていいからね。分かるところがあったら教えて」
『うん』
そう答えてからしばらく進んだところで、メリーが突然私の髪を引いた。
『フール、あれ』
小さな指の先には、雪から突き出した黒い岩があった。
先端が二つに割れ、まるで大きな角のような形をしている。周囲にも岩は点在しているけれど、その形だけは遠くからでも見分けられた。
メリーはその岩をじっと見つめたあと、私の髪を掴む指へ少し力を込めた。
『前も、みんなで通った』
「七体の精霊さんたちと?」
『うん』
オラクルも足を止め、岩と周囲の地形を確認した。
「なら方向は外してねえな。この先は覚えてるか?」
メリーはしばらく前方を眺め、小さな手を下へ向けながら答えた。
『橋あった。大きいところ。下、いっぱい』
「下に何がいっぱいあるの?」
『白くて、尖ってて……きらきら。いっぱい』
それ以上はうまく説明できないらしく、メリーは困った顔をした。
答えは、それから十分ほど進んだところで分かった。
◇
山道が突然途切れ、その先に深い谷が口を開けていた。
切り立った崖の間には一本の吊り橋が架かり、その遥か下には無数の巨大な氷柱が突き出している。普通のつららとは比べものにならないほど太く長い氷が槍のように空へ向かって伸び、雪煙の切れ間から僅かな光を受けるたびに青白く輝いていた。
「これが……『下、いっぱい』?」
『うん。いっぱい』
意味が分かった途端、私は崖際から一歩離れた。
「絶対落ちたくない……」
オラクルは吊り橋の縄と板を確認し、《聖なるマップ》にも目を通した。
「迂回できそうな道はあるが、この天気で知らねえ道を探すほうが危険だ。縄はまだ使える。一人ずつ間隔空けて渡るぞ」
オラクルが先に渡り、赤、緑、黄色が続いた。
全員が無事に反対側へ着き、最後に私だけが残る。
「メリー、先に飛んでいく?」
メリーは橋の向こうを見たあと、私の肩へしがみついた。
『フールと行く』
「じゃあ一緒に行こう」
私は両側の縄を握り、一歩ずつ進んだ。
橋の中央へ近づくほど谷を抜ける風は強くなり、板の隙間から青白い氷柱が何度も見える。それでも半分を越え、もう少しだと思った瞬間、右足を乗せた板が突然大きく傾いた。
片側を固定していた縄が外れ、足場が消える。
身体が谷側へ傾き、私は反射的に両手で縄へしがみついた。左足だけが隣の板へ残り、右足の下には何もない。雪煙が一瞬だけ晴れ、その遥か下で無数の氷柱が鋭い先端をこちらへ向けていた。
「フール!」
メリーが肩から飛び出そうとしたので、私は必死に止めた。
「動かないで! 橋がもっと揺れる!」
反対側からオラクルの声が飛んでくる。
「下見るな! こっち見ろ! 身体を縄へ寄せて、左脚で上がれ!」
私は谷底から目を逸らし、反対側にいるみんなだけを見る。縄へ身体を寄せ、左足で板を踏み込みながら両腕へ力を入れた。風に橋を揺らされながらも右脚を引き戻し、どうにか安定した板へ両足を乗せる。
そこからは壊れた板を避け、一歩ずつ進んだ。
反対側へ辿り着いた瞬間、オラクルが私の腕を掴んで橋から離した。
「怪我は?」
「ない……でも、もうあれ渡りたくない」
「そのつもりでいろ。今ので中央が傷んだ」
振り返ると、外れた板が風に煽られ、その周囲の板まで大きく歪んでいた。
オラクルはすぐ《聖なるマップ》を開いた。
「帰りは別の道を探す。見つからなきゃ補修を考えるが、この状態で何も考えず全員戻るのは危険だ」
雪山の奥へ進むということは、目的地へ近づけばいいだけではない。帰るための道まで、自分たちで確保しなければならないのだ。
そのとき、メリーが壊れた橋ではなく、さらに上へ続く山道を見ていた。
『前も、こっち』
「橋を渡ったあと?」
『うん。洞窟あった』
オラクルが空を確認する。
風に混じる雪は、明らかに増えていた。
「その洞窟を探す。見つけたら今日はそこで止まる。天候を見ながら帰り道を探して、そのあと先へ進む方法を決めるぞ」
◇
橋を越えてから、天候は急速に悪くなった。
横殴りの雪が足跡を消し始め、少し離れただけでも互いの姿が霞む。雪男との戦いと吊り橋で体力も削られていたため、私たちは間隔を詰め、《聖なるマップ》とメリーの記憶を確かめながら進んだ。
三十分ほどしたところで、赤が岩壁を指差した。
「洞窟あるでぷ!」
吹きつける雪の向こうに、黒い裂け目のような入口が見えている。
私はメリーを見た。
「ここ?」
メリーはすぐには答えなかった。
洞窟をじっと見つめるうちに、私の髪を掴んでいる小さな手へ少しずつ力が入っていく。
『……ここ』
今度は「たぶん」と言わなかった。
オラクルもそれに気づいた。
「前に入ったのか?」
『みんなで休んだ。それから、上に行った』
「なら今日はここを拠点にする。まず中の安全を確認するぞ」
オラクルと赤が先に入り、魔物や新しい足跡がないことを確かめてから、私たちも洞窟へ入った。
十数歩ほど奥へ進むと空間が広がり、全員が身体を休めるだけの場所があった。外の風が遮られ、横殴りだった雪の音も一気に遠くなる。
ようやく身体の力を抜けると思ったけれど、オラクルは荷物を下ろすとすぐ《聖なるマップ》を広げた。
「ここで天候が戻るのを待つ。その間に帰りに使える別の道を探す。それから、メリーたちが前回ここからどこへ向かったのかも確認するぞ」
「《古の目覚めの笛》につながる道もだね」
「ああ。吊り橋が傷んだ以上、行きだけ考えて進むのはなしだ。戻れる道を確保してから動く」
私は頷いた。
洞窟は単なる休憩場所ではなくなった。壊れかけた吊り橋を使わずに帰る道を探し、同時に八体の精霊が前回どこへ向かったのかを確かめる場所になる。
私たちは濡れた外套を脱ぎ、焚き火の準備を始めた。
オラクルが火種を取り出そうとすると、メリーが私の肩から降りる。
『メリーやる』
「まだ魔法使って大丈夫?」
『小さい火なら』
指先へ灯った小さな炎が枯れ枝へ移り、暖かな光が洞窟を照らし始めた。
緑が反射的に身を乗り出す。
「メリーちゃん、今の火と雪男のときの――」
「今日は駄目」
私が先に止めると、緑が不満そうに口を尖らせた。
「まだ何も聞いてないでぷ」
「絶対いっぱい聞くでしょ」
メリーも私の肩へ戻りながら、小さく頷いた。
『いっぱい聞く』
「メリーちゃんまで……」
いつもなら、そこでみんなが笑って終わる。
でも、その日のメリーは笑わなかった。
私の肩へ戻ってからも、焚き火ではなく洞窟の奥を見続けている。
「メリー?」
返事がない。
洞窟の奥に道はなく、焚き火の光が届かないところには黒い岩壁があるだけだった。それなのにメリーは、そこから目を離そうとしない。
やがて、小さな声で呟いた。
『ここから……』
「何が?」
『ここから先……音、した』
私の背中に、別の種類の寒さが走った。
「前に来たとき?」
メリーはゆっくり頷いた。
『みんなで休んで、それから上に行って……音、聞こえた』
「どんな音?」
メリーが答えようとした瞬間、小さな身体が強張った。
両手で頭を押さえ、私の肩から落ちそうになる。
「メリー!」
私は慌てて両手で受け止めた。
『いたい……頭……』
オラクルもすぐ近くへ来た。
「思い出そうとしたせいか?」
分からない。
ただ、メリーは前回のグラティスで起きたことを思い出そうとした途端、明らかに苦しみ始めた。
「もういい。思い出さなくていいよ」
『でも……みんなで……上に行って……』
メリーの身体が震える。
『白くて……音がして……それから……時計……』
そこで息を詰まらせ、私の指へ強くしがみついた。
誰も言葉を挟まなかった。
メリーたちは《古の目覚めの笛》を探して山へ入り、時計の印を持つ人物と遭遇した。そのあと何をされたのかは覚えておらず、次に気づいたときには《精霊の叫び》へ閉じ込められていた。
今まで私は、メリーが覚えていないのだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
思い出せないのではなく、何かを境に記憶が途切れている。
私は震えているメリーを胸元へ寄せた。
「もう思い出さなくていい。明日、みんなで確かめるから」
『……一緒?』
「一緒」
その言葉を聞いて、メリーはようやく身体の力を少し抜いた。
そのときだった。
鞄の中から淡い光が漏れた。
私はメリーを支えたまま鞄を開く。
《聖なるマップ》が光っていた。
麓で一瞬だけ見た反応とも、雪男を倒したあとに山の上へ伸びた光とも違う。地図全体へ淡い光が広がり、現在地を中心に、まるで脈を打つような明滅を繰り返している。
「またでぷ……」
緑が本を置いて近づいた。
オラクルも地図を覗き込む。
「今までで一番強いな」
光は現在地から、グラティスのさらに上へ伸びていた。
メリーたちが前回進んだ方向と同じだった。
その瞬間、私の腕の中にいるメリーがびくりと震えた。
『……聞こえる』
「何が?」
メリーは答えず、洞窟の奥を見た。
そこには道などない。
黒い岩壁があるだけだ。
私たちも一斉に耳を澄ませたけれど、聞こえるのは洞窟の外で吹き荒れる風と、焚き火が枝を弾く音だけだった。
『また……音』
「風じゃない?」
メリーは首を横へ振った。
『違う。もっと遠い……細い音』
緑が不安そうに尋ねた。
「その音……《古の目覚めの笛》じゃないでぷ?」
私も同じことを考えていた。
でも、そうだと決めるにはまだ早い。
「分からない。でも、何か関係してる可能性はあると思う」
オラクルは光り続ける《聖なるマップ》と、震えているメリーを交互に見た。
「今夜確かめに行くのはなしだ。外はあの天気で、帰りの橋も傷んでる。明日の朝、天候と地図を確認してから動く」
「うん」
「メリーも、音が聞こえても勝手に行くなよ」
いつもなら一瞬くらい考えるメリーが、今度は迷わず頷いた。
『行かない』
私はその答えに少し安心し、メリーを胸元へ戻した。
「明日、一緒に確かめよう」
『……一緒』
「うん。一緒」
◇
夜が深くなるころには、《聖なるマップ》の光も消え、私たちは洞窟の入口へ簡単な風除けを作って休むことになった。
外では吹雪が続いていたけれど、岩壁に守られた洞窟の奥までは雪も入ってこない。赤と黄色は外套へ包まるとすぐに静かになり、緑も今日はメリーの様子が気になるのか、本へ《音》《時計》《記憶の痛み》とだけ書いて閉じた。
私は岩壁へ背中を預け、外套の内側にいるメリーへ手を添えた。
この山へ入ってから、メリーの記憶は少しずつ戻っている。
角のような黒い岩、谷底に氷柱が並ぶ吊り橋、そして今いる洞窟。どれも七体の仲間と《古の目覚めの笛》を探したときに通った場所だった。
けれど、その先だけは違う。
思い出そうとすると頭に痛みが走り、浮かんでくるのは意味の分からない断片ばかりらしい。吹きつける白い何か、重なり合ういくつもの光、誰かの手、一瞬だけ見えた時計の形。そして、何かが途切れる直前に感じた冷たさ。
どれが先で、どれが後なのかさえ分からない。
メリー自身も、それが本当に自分の記憶なのか確信できていなかった。
ただ、私には一つだけ気になることがあった。
記憶が自然に戻っているというより、この山で前回通った場所へ近づくたび、奥へ沈んでいた何かを無理やり引き出されているように見える。
「まだ頭、痛い?」
『ちょっとだけ』
「今日はもう思い出そうとしなくていいからね。明日、天気が戻ったらみんなで確かめよう」
『みんなで?』
「うん。みんなで」
メリーは少しだけ安心したように身体の力を抜いた。
『フールもいる?』
「もちろんいるよ。オラクルも赤も緑も黄色も一緒」
『じゃあ、寝る』
「おやすみ、メリー」
私は外套を掛け直し、胸元へ潜り込んだメリーの上からそっと手を添えた。
明日はまず、傷んだ吊り橋を使わずに戻れる道を確認する。そのうえで天候に問題がなければ、《聖なるマップ》が示した方向と、メリーたちが前回進んだという山の上を調べる。
《古の目覚めの笛》が本当にその先にあるのかは、まだ分からない。
それでも、この山へ入ってから起きていることが、少しずつ同じ場所へ集まり始めているような気がした。
私は枕元へ《聖なるマップ》を置き、目を閉じた。
◇
夜中に一度だけ目が覚めた。
何か大きな音がしたわけではない。
胸元にいるメリーが、私の服を強く握っていたからだった。
目を開けると、メリーも起きていた。
暗い洞窟の奥を見つめている。
「……メリー?」
小さな身体が僅かに震えた。
『聞こえる』
それだけで、何のことを言っているのか分かった。
私は身体を起こした。
「さっきの音?」
メリーは答えず、私の服を握ったまま耳を澄ませている。
私も同じように集中してみた。
洞窟の外では風が鳴っている。焚き火の薪がときどき小さく弾け、その音が岩壁へ反響していた。
それ以外には何も聞こえない。
「どんな音?」
『分からない』
「前に聞いたのと同じ?」
メリーはすぐには答えず、暗闇を見つめたまま小さな眉を寄せた。
『……たぶん』
その瞬間、枕元へ置いていた《聖なるマップ》の表紙から淡い光が漏れた。
地図は閉じたままだった。
昼間のような強い光ではない。それでも焚き火とは違う淡い輝きが、表紙の隙間からゆっくり漏れ出している。
「オラクル」
声を落として呼ぶと、少し離れた場所からすぐに返事があった。
「起きてる。見えてるぞ」
私が《聖なるマップ》へ手を伸ばそうとしたとき、胸元のメリーが突然身体を強張らせた。
『っ……』
「メリー?」
私はすぐに小さな身体を両手で包んだ。
メリーは目を閉じていた。
何かを思い出そうとしている様子ではない。
むしろ、望んでもいないものが勝手に頭へ入り込んできているようだった。
『白い……』
それきり黙ったかと思うと、少しして別の言葉が漏れた。
『手……光……いっぱい……』
「メリー、もういいよ。無理に見なくていいから」
私はそれ以上尋ねなかった。
順番も意味も分からない言葉を無理につなげれば、かえって間違った答えを作ってしまう気がした。
メリーの指が私の手へしがみつく。
そして最後に、ほとんど寝言のような小さな声が漏れた。
『……十二……?』
私は動きを止めた。
「十二?」
返事はなかった。
メリー自身も、自分が何を言ったのか分かっていないようだった。
荒くなっていた呼吸を少しずつ整えながら、私の胸へ身体を預けている。
十二。
人なのか。
数なのか。
何かの印なのか。
それとも、記憶とはまったく関係のない言葉なのか。
今は何も分からない。
私は枕元へ視線を戻した。
《聖なるマップ》の光はまだ消えていなかった。
そのときだった。
何かが聞こえた気がした。
本当に音だったのかさえ分からない。
風が岩の隙間を抜けただけかもしれないし、山のどこかで巨大な氷が軋んだだけかもしれない。
細く、長く、どこか澄んでいる。
笛の音に似ている気もした。
でも、そう思った瞬間には、まったく違うものだったようにも感じた。
耳で聞いたというより、胸の奥へ微かな震えだけが届いたような、不思議な感覚だった。
私は暗い洞窟の奥を見た。
そこには昼間に確認した通り、黒い岩壁しかない。
何も動いていない。
「……オラクル」
「何だ?」
「今、何か聞こえた?」
少し間が空いた。
「風しか聞こえねえ」
「そっか……」
なら、私の聞き間違いなのかもしれない。
そう思った直後、《聖なるマップ》の光が消えた。
徐々に弱くなったのではなく、一瞬だった。
誰かが灯りを吹き消したように消え、洞窟には焚き火の明かりだけが残った。
私は地図へ手を伸ばしかけたけれど、やめた。
今開いたところで、何かが分かる気がしなかった。
胸元ではメリーが私の服を握ったまま、暗い岩壁を見ている。
「まだ聞こえる?」
メリーはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ首を横へ振った。
『分からない』
その答えのほうが、なぜか不気味だった。
さっきまでは「聞こえる」と言っていたのに、今は消えたのか、まだどこかで鳴っているのかさえ分からない。
私はメリーを外套の内側へ戻し、その上から小さな身体へ手を添えた。
「もう寝よう。明日、みんなで行けばいい」
『うん……』
「勝手に行っちゃ駄目だからね」
『フールと行く』
「うん。一緒に行こう」
メリーは私へ身体を寄せ、今度こそ目を閉じた。
私はしばらく眠れなかった。
《古の目覚めの笛》。
メリーたちが前回この山で探していたもの。
今夜聞こえたような気がしたものが、その音なのかは分からない。
そもそも、本当に音など鳴っていたのかも分からなかった。
ただ、メリーの口から無意識に漏れた言葉だけが、どうしても頭から離れない。
――十二。
そして、それ以上に気になるのは、メリーの記憶だった。
忘れていたものを思い出しているだけなら、どうして痛みを伴うのだろう。
なぜこの山を登り、前回通った場所へ近づくほど、断片が勝手に浮かび上がってくるのだろう。
もしかするとメリーの中には、まだ思い出していないだけで、あの日の出来事が全部残っているのかもしれない。
《古の目覚めの笛》を探していたことも。
あの音を聞いたことも。
時計の印を持つ者と出会ったことも。
そして――八体が《精霊の叫び》へ閉じ込められるまでに何があったのかも。
私は暗い洞窟の奥を見つめた。
もう音はしない。
《聖なるマップ》も光らない。
だからこそ、何かが終わったようには思えなかった。
むしろ、ほんの一瞬だけこちらを覗いていた何かが、再び姿を隠したような感覚だけが残っていた。
明日、私たちはさらに山の上へ進む。
そこには《古の目覚めの笛》があるのかもしれない。
メリーが失った記憶の続きもあるのかもしれない。
けれど今は、そのどちらよりも――。
この山の奥にいる何かに、私たちの存在を知られてしまったような気がしてならなかった。
胸元では、眠ったはずのメリーが私の服を握っている。
その小さな指だけは、朝まで一度も緩まなかった。




