第57話 グラティス入山
翌朝、宿の窓を開けると、昨日と変わらず巨大なグラティスが目の前にそびえていた。
麓の空は晴れているものの、山頂付近には厚い雲がかかり、強い風に巻き上げられた雪が白い煙のように斜面を流れている。宿場町で何度も聞かされた通り、今は穏やかに見えても、この天気が山の上まで続いているとは限らない。
私は窓辺で《聖なるマップ》を開いた。
昨日、グラティスへ到着した直後、この地図は確かに一度だけ光った。しかし今は何の反応もなく、描かれているのはグラティスの地形だけで、《古の目覚めの笛》の場所を示す印も、新しく現れた道も見当たらない。
「昨日のあれ、何だったんだろう……」
地図を傾けてみても、当然ながら何も起こらなかった。
そのとき、背後からオラクルの声が飛んでくる。
「地図睨んでても山は登れねえぞ。出るなら荷物確認しろ」
「分かってるよ」
私は《聖なるマップ》を閉じて鞄へ戻した。
昨日の光が《古の目覚めの笛》に反応したのか、それともグラティスにある別の何かに反応したのかは分からない。気にはなるけれど、今のところ確かめる方法は一つしかなかった。
実際に山へ入り、自分たちで探すことだ。
◇
宿の外へ出ると、冷たい空気が頬へ刺さった。
私たちは入口の前でもう一度荷物を確認する。食料、予備の布、二つに分けた火種、雪を溶かすための容器、防寒具。昨日、冒険者や店の人から聞いた注意を思い出しながら、オラクルは一つずつ確かめ、最後に全員の服装まで確認した。
「山じゃ忘れ物したからって簡単には戻れねえぞ。大丈夫だな?」
「うん」
「大丈夫でぷ!」
赤、緑、黄色も揃って答えた。
私の外套の襟元から、メリーが顔を出す。
『パンある?』
「あるよ。メリーはそれしか確認しないの?」
『大事』
「黄色みたいになってきたね」
「俺はお金でぷ」
黄色にとって、そこだけは絶対に譲れないらしい。
笑いながら顔を上げると、メリーは私たちとは違い、しばらく黙ってグラティスを見つめていた。
一度目にこの山へ来たとき、メリーは七体の仲間と《古の目覚めの笛》を探していた。そして山の途中で時計の印を持つ人物と遭遇し、次に気づいたときには《精霊の叫び》の中へ閉じ込められていた。
「メリー、大丈夫?」
声を掛けると、小さな精霊は山から私へ視線を戻した。
『ちょっと、こわい。でも、行く』
「うん。今度はみんな一緒だからね」
『一緒』
メリーが私の髪を小さな手で掴む。
オラクルはそんな私たちを待ってから先頭へ立った。
「そろそろ行くぞ。最初から飛ばすなよ。雪道じゃ普段より体力食うからな」
私たちは頷き、白く染まった登山道へ足を向けた。
昨日まで遠くから見上げるだけだった雪山へ、今度こそ入っていく。
《古の目覚めの笛》が本当に存在するのか、昨日《聖なるマップ》が何に反応したのか、そしてメリーたちの前に現れた時計の印を持つ人物が何者だったのか。その答えを探すため、私たちはグラティスへの最初の一歩を踏み出した。
◇
登り始めたばかりの道は、昨日遠くから見たほど険しくはなかった。
山へ入る冒険者たちが普段から利用しているらしく、雪の中にも踏み固められた道が残り、ところどころには吹雪のときに使う道標が立っている。ただ、登るほど傾斜は強くなり、雪も少しずつ深くなっていった。
私は足元に気をつけながら歩いていたものの、どうしても昨日の地図の反応が頭から離れなかった。
「やっぱり気になるなあ……」
「何がだ?」
前を歩くオラクルが聞き返した。
「昨日の地図。何に反応したのかなって」
「考えて分かるなら、昨日のうちに答え出てるだろ。今は足元見ながら気にしろ。転ぶぞ」
「分かってるよ」と言い返した直後、右足が雪へ深く沈んだ。
「わっ!」
身体が傾いたところで、オラクルに腕を掴まれる。
「ほらな」
「今のはたまたまだよ!」
「山でその言い訳すんな」
赤たちが笑い、メリーまで襟元から顔を出した。
『フール、ころんだ』
「転んでない! 転びそうになっただけ!」
妙なところだけよく見ている。
私は雪から足を引き抜き、今度こそしっかり前を見て歩き始めた。
一時間ほど登ると周囲の木々が次第に少なくなり、風を遮るものが減ったことで寒さも一段強くなった。
そして、最初の魔物が現れた。
◇
先頭を歩いていたオラクルが突然立ち止まり、片手を上げた。
「止まれ。右だ」
私たちはすぐ足を止めた。
視線を向けても、最初は雪しか見えない。ところが白い地面の一部が僅かに動き、続いて二つ、三つと雪の塊が持ち上がった。
その下から現れたのは、全身を白い毛に覆われた四足歩行の魔物だった。
大きさは普通の犬より一回り大きく、額からは短い角が二本伸びている。毛の色が周囲の雪とほとんど同じなので、動かなければ近くまで来ても気づけなかったかもしれない。
「全然分からなかった……」
「雪に紛れて獲物を待ってたんだろ。来るぞ!」
一体が雪を蹴った。
白い身体が地面を滑るように迫り、先頭にいたオラクルへ飛びかかる。オラクルは半歩横へずれて牙をかわすと、通り過ぎようとした魔物の横腹へ蹴りを叩き込んだ。
雪の上を転がった魔物へ、赤が駆けていく。
「行くでぷ!」
両手には、いつもの骨付き肉が握られていた。
「やっぱりそれで戦うの!?」
「いつもの武器でぷ!」
振り下ろした骨付き肉が魔物の頭へ直撃し、鈍い音とともに白い身体が雪へ沈んだ。
しかし残る二体は、その間に左右へ分かれていた。
「囲もうとしてる!」
「緑、黄色を下げろ!」
オラクルの声を聞き、緑が黄色の腕を引く。
私は右側から迫る一体へ向き直った。
魔物が低く身体を沈め、次の瞬間には雪を蹴って私へ飛びかかってくる。
避けようとした、そのときだった。
私の肩からピンク色の光が飛び出した。
『フール、だめ!』
メリーが私の前へ出る。
小さな両手の間へ赤い光が集まり、一瞬で炎へ変わった。拳ほどだった火は空中で膨らみ、飛びかかってきた魔物の真正面へぶつかる。
炎を浴びた魔物は悲鳴を上げ、雪の上へ転がった。
私は思わずメリーを見る。
「火の魔法も使えるの!?」
『できる!』
メリーは得意そうに胸を張った。
その声に反応したのは、私より緑のほうが早かった。
「今のどうやったでぷ!?」
「緑、まだ戦ってる途中!」
「でも火でぷ!」
「あとにして!」
残る一体は黄色へ向かっていた。
黄色は慌てて後ろへ下がり、緑も前へ出ようとしたけれど、メリーのほうが早い。今度は両手の間へ青白い光を集め、それを魔物の足元へ飛ばした。
雪の表面が薄く凍りつく。
勢いよく駆けていた魔物の前脚が滑り、身体が横へ崩れたところへ赤が戻ってきた。
「今度こそでぷ!」
骨付き肉が振り下ろされ、魔物は雪の中へ叩き込まれた。
最後に起き上がろうとしていた一体もオラクルが仕留め、ようやく周囲へ静けさが戻った。
私は息を整えながらメリーを見る。
「回復だけじゃなかったんだね。火も氷も使えるんだ」
『うん。メリー、魔法できる』
メリーが得意そうに胸を張った瞬間、緑が目の前へ飛び出した。
「メリーちゃん、今の火どうやったでぷ!?」
『火、出した』
「それは見れば分かるでぷ。どうやって火を出したか知りたいでぷ!」
困ったように首を傾げたメリーは、少し考えてから指先を持ち上げた。そこへ小さな赤い光が集まり、次の瞬間には蝋燭ほどの炎が灯る。
『こうやって、ぽん』
「だから、その《ぽん》になるまでを教えてほしいでぷ! どこに力を集めるでぷ? 呪文は必要でぷ? 火を頭の中で思い浮かべるでぷ?」
『火って思って、ぽん』
「また《ぽん》に戻ったでぷ!」
緑が頭を抱えたので、私は笑ってしまった。
「たぶんメリーは感覚で使ってるんだよ。歩き方を説明しろって言われても難しいのと同じじゃない?」
「だったら、その感覚を覚えたいでぷ!」
「それをどうやって教えるの?」
「メリーちゃんの魔法をいっぱい見るでぷ!」
緑はもう完全にやる気だった。
メリーは指先に灯した炎と緑を交互に見て、最後にはもう一度だけ『ぽん』と答えた。
「そこから離れてほしいでぷ……」
オラクルまで吹き出し、雪山にしばらく笑い声が響いた。
◇
そこから先は、麓より明らかに魔物が増えた。
雪の中へ身体を隠して獲物を待つものもいれば、岩場の陰から群れで襲ってくるものもいる。白い翼を持つ鳥型の魔物は頭上から何度も急降下し、鋭い爪で荷物を奪おうとしてきた。
戦うたびに、雪山では普段と同じ動きができないことを思い知らされた。踏み込めば足が沈み、勢いよく避ければ滑る。攻撃をかわした先に雪で隠れた岩があることもあり、魔物だけを見ていればいいわけではない。
その中で、メリーの魔法はかなり役に立った。
小さな炎で魔物を牽制し、足元を凍らせて動きを乱す。私が滑りかければ風のような力で身体を支え、赤が腕を擦りむいたときには淡い桃色の光で傷を癒やしてくれた。
ただし、魔法を使うたびに緑が食いついた。
「今の風どうやったでぷ!?」
『ふわってした』
「その《ふわ》を詳しく教えてほしいでぷ!」
少しして炎を使えば、「さっきより大きかったでぷ! 何変えたでぷ!?」と聞き始める。
『大きくした』
「だから、その方法でぷ!」
とうとうオラクルが止めた。
「緑。メリーが逃げるまで聞くのやめろ」
「まだ聞きたいこといっぱいあるでぷ!」
メリーはすでに私の襟元へ半分隠れていた。
『緑、いっぱい聞く』
「知りたいでぷ!」
「嫌われるぞ」
その一言で、緑はようやく黙った。
数秒だけだった。
「一個だけ――」
「駄目」
「まだ何も聞いてないでぷ!」
◇
さらに高度が上がると、小型の魔物の姿は一度減った。
代わりに風が強まり、細かな雪が横から吹きつけるようになる。空も少しずつ灰色へ変わり、遠くの景色が白く霞み始めた。
「天気、悪くなってきたな」
オラクルが空を確認する。
「吹雪になる?」
「まだ分からねえ。ただ、長居しないほうがいい」
私たちは休憩を短くし、先へ進んだ。
その途中、前方の雪原で何か大きなものが動いた。
最初は岩だと思った。
雪に半分埋もれた白い塊が、ゆっくり持ち上がっていく。
立ち上がった姿を見た瞬間、私は足を止めた。
全身を長い白毛に覆われた巨体は、私の二倍どころか三倍近くある。太い腕は私の胴より大きく、肩幅も赤たち数人分はありそうだった。
緑が息を呑む。
「雪男でぷ……」
雪男は私たちを見つけると低い唸り声を上げ、巨大な腕を持ち上げて地面へ叩きつけた。
雪が爆発したように舞い上がる。
「散れ!」
オラクルの声に全員が左右へ動いた。
大量の雪と氷の塊が飛び散り、さっきまで私たちがいた場所へ巨大な拳がめり込んでいる。
雪男はそのまま腕を横薙ぎに振るった。
オラクルは身体を低くして避け、赤は雪へ転がるように逃れる。巨大な腕が空を切っただけで風圧が雪を巻き上げた。
「これ、さっきの魔物より全然強い!」
「見りゃ分かる!」
私は距離を取ろうとしたけれど、右足が深い雪へ沈んだ。
雪男がこちらを見る。
巨体が雪を蹴ると、見た目からは想像できない速度で距離が縮まった。
「フール!」
オラクルの声が飛ぶ。
逃げようとしても足が抜けず、巨大な右腕が私へ向かって振り上げられる。
その瞬間、肩からピンク色の光が飛び出した。
『フールに、だめ!』
メリーが私と雪男の間へ入り、小さな両手を突き出す。
赤い光が一気に炎へ変わり、メリーの両手の前で渦を巻きながら膨らんでいく。
これまで小型の魔物へ使っていたものとは明らかに違った。メリーの身体より何倍も大きくなった火球は、私へ拳を振り下ろそうとしていた雪男の胸へ真正面から叩き込まれる。
轟音とともに炎が弾けた。
胸を覆っていた長い白毛が一気に燃え上がり、雪男は初めて足を止めた。両腕で炎を払いながら上半身を捻ったことで突進の勢いまで崩れ、その隙にオラクルの声が飛んでくる。
「フール、今のうちに足抜け!」
「うん!」
私は両手まで使って雪を掻き、埋まっていた右足を引き抜いた。そのまま雪男から距離を取る。
メリーの火球は確かに効いていた。
それでも、倒すには足りない。
胸元の毛を黒く焦がされた雪男は低い咆哮を上げると、残った炎を腕で乱暴に払い落とした。焼けた毛の下には皮膚が露出しているものの、巨体そのものにはまだ十分な力が残っている。
「効いてないの!?」
「効いてはいる。ただ、あの程度じゃ止めきれねえ!」
オラクルはそう答えながらも、雪男の胸ではなく足元を見ていた。
炎を消すために上半身を大きく振っている雪男は、右脚へ強く体重を乗せている。
「でかい分、片脚に乗ったときは誤魔化せねえな」
オラクルが雪を蹴った。
正面から巨体へぶつかるのではなく、雪男の左側を回り込み、身体を低くして右脚の膝裏へ一撃を叩き込む。
雪男の巨体が大きく揺れた。
それでも倒れず、怒りに任せてオラクルへ巨大な腕を振り下ろそうとする。
オラクルはすぐに離れながら叫んだ。
「赤! 俺が打った右脚だ! 同じ場所を狙え!」
「分かったでぷ!」
赤が雪を蹴って走り出した。
雪男の正面には入らず、振り下ろされる腕の外側を抜ける。オラクルの一撃で僅かに曲がった右脚まで回り込むと、骨付き肉を両手で握り締め、膝の横へ全力で叩き込んだ。
鈍い音が雪原へ響いた。
二度の攻撃を同じ脚へ受けた雪男の右膝が折れ、巨体が片膝をついた瞬間、積もった雪が大きく沈み込む。
「やったでぷ!」
「まだ近づくな!」
オラクルが叫んだ直後、雪男は片膝をついたまま腕を横薙ぎに振るった。
赤が慌てて後ろへ飛び、骨付き肉の先端すれすれを巨大な拳が通過する。その風圧だけで雪が舞い上がり、赤はさらに数歩後ろへ下がった。
「危なかったでぷ……」
「腕の力はまだ残ってる。立てねえからって油断すんな」
雪男は傷めた右脚へ何度も力を入れていた。しかし、そのたびに膝が雪へ沈み、巨体を持ち上げることができない。
そこでようやく、私にもオラクルの狙いが分かった。
「身体が大きいから、脚一本が使えなくなるだけでも……」
「ああ。自分の重さを支えられなくなる。まともに身体を殴るより、あっちのほうが効く」
雪男は怒り狂ったように咆哮し、両腕で雪を掻きながら無理やり前へ進もうとしていた。胸元では、メリーの最初の火球によって白毛が焼き払われ、黒く焦げた皮膚が露出している。
オラクルも同じ場所へ目を向けた。
「メリー! さっき燃やした胸、もう一回狙えるか!」
『できる!』
メリーが両手を合わせた。
ただ、今度の炎は最初とは違う。
大きく広げるのではなく、指先の間へ生まれた火を中心へ押し込むように小さくまとめていく。拳よりも小さい炎なのに、その中心は白に近いほど強く輝き、周囲の雪が熱を受けて僅かに溶け始めた。
緑が思わず身を乗り出す。
「さっきと違うでぷ……小さいのに――」
「今は見るだけにしろ!」
「分かってるでぷ!」
オラクルに止められ、緑は珍しく素直に黙った。
ところが、雪男もメリーが魔法を準備していることに気づいたらしい。
片腕で焼けた胸を庇い、もう一方の手で雪を掴む。
このままでは狙えない。
メリーがどれだけ強い魔法を作っても、腕へ当たれば最初に傷つけた場所へ重ねられない。
だったら――あの腕をどかせばいい。
私は雪男の正面へ数歩出た。
「こっち!」
「フール、近づきすぎるな!」
オラクルの声が飛んできたけれど、私は雪男から目を逸らさなかった。
「さっき私を狙ってたでしょ! こっちだよ!」
雪男の顔が私へ向く。
低い唸り声が響き、片膝をついた巨体がこちらへ動いた。
私を捕まえようとしたのか、胸を庇っていた腕まで雪へつく。巨大な身体を両腕で引きずったことで、焼けた胸元が完全に露出した。
「メリー、今!」
『うん!』
メリーが両手を突き出す。
押し込められていた炎が、細い閃光のように雪原を走った。
狙ったのは新しい場所ではない。
最初の火球で長い白毛を焼き払い、すでに皮膚が傷ついている胸の一点。
二発目の炎が、そこへ正確に重なった。
爆発音が雪山へ響き渡る。
最初の火球のように炎が大きく広がることはなかった。その代わり、圧縮された熱が一点へ集中し、雪男の巨体が激しく仰け反った。
大きな咆哮が途中で途切れる。
傷めた右脚では後ろへ傾いた身体を支えられず、雪男はそのまま背中から雪原へ倒れ込んだ。
大量の雪が舞い上がり、白い壁のように視界を覆った。
「倒した!?」
私は思わず駆け寄ろうとしたけれど、オラクルの腕が目の前へ伸びた。
「まだ行くな。動くか確認する」
私たちはその場で身構えた。
舞い上がった雪が少しずつ落ち着き、倒れた雪男の輪郭が見えてくる。
巨大な腕が一度だけ動いた。
赤が骨付き肉を構え、メリーも再び両手を前へ出そうとしたけれど、それ以上雪男が起き上がることはなかった。
オラクルはしばらく様子を見たあと、ようやく構えを解いた。
「終わりだ」
その言葉を聞いた瞬間、身体に入っていた力が一気に抜けた。
「強かった……」
「まともに正面から殴り合ってたら、もっと面倒だったな」
オラクルは倒れた雪男の右脚を見ながら答えた。
すると赤が得意そうに骨付き肉を掲げる。
「俺が膝やったでぷ!」
「最初にオラクルが同じところ狙ったからでしょ」
「俺もやったでぷ!」
「分かってるよ。赤の一撃で本当に膝が崩れたんだから、すごかったよ」
「もっと言うでぷ!」
「調子乗るな」
オラクルに頭を小突かれ、赤が「褒められてたところでぷ!」と抗議した。
さっきまで雪男と戦っていたとは思えないやり取りに、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
私はメリーへ両手を差し出す。
小さな身体が手のひらへ降りてきたけれど、いつもより呼吸が速い。大きな炎を続けて二度も使ったことで、かなり力を消耗したのだろう。
「メリーもありがとう。最初に止めてくれなかったら、私あのまま殴られてた」
『フール、あぶなかった』
「うん。でも最後の魔法も、メリー一人じゃ当てられなかったでしょ?」
メリーが首を傾げる。
私は倒れている雪男を指差した。
「最初にメリーが胸を焼いて、オラクルが右脚の弱いところを見つけて、赤が同じ場所を攻撃したから雪男は立てなくなった。それから私が胸を隠してた腕をどかして、最後にメリーが同じところへ火を当てたんだよ」
メリーは雪男を見て、それからオラクルと赤、最後に私を順番に見た。
『みんなで倒した?』
「そうだな」
オラクルが答えた。
「誰か一人欠けてりゃ、もっと苦労してた。雪山じゃ足場まで敵になるんだ。強い魔法使えるからって一人で前出るなよ」
メリーは少し考えたあと、嬉しそうに笑った。
『みんなで倒した!』
「うん。だから次も一緒に戦おう」
『うん!』
メリーが元気よく頷き、私の指へ抱きついた。
その姿を見て、私は改めて思った。
メリーが加わったことで、私たちにできることは確実に増えている。回復だけではなく、火や氷、それに風まで扱える小さな精霊は、戦いでも大きな力になってくれる。
でも、それはメリー一人へ頼っていいという意味ではない。
今日の雪男のような相手ほど、それぞれができることをつないで戦う必要がある。
そんなことを考えていると、さっきから妙に静かだった緑が、とうとう我慢できなくなったようにメリーの前へ飛び出してきた。
「メリーちゃん!」
『?』
「最後の火でぷ! 最初より小さかったのに、何であんなに強かったでぷ!? 火を小さくしたんじゃなくて、中へぎゅって集めたでぷ!?」
メリーは少し考えてから頷いた。
『ぎゅってした』
緑の目が一気に輝く。
「やっぱりでぷ! どうやってぎゅってするでぷ!? 出した火を逃げないようにするでぷ? それとも最初から小さい場所に魔力を集めるでぷ?」
メリーは困ったように自分の両手を見た。
『ぎゅって』
「そこを詳しく教えてほしいでぷ!」
「緑、メリー疲れてるよ」
私が肩を掴んで止めると、緑は一度だけ手のひらに座っているメリーを見た。
さすがに呼吸がまだ完全には戻っていないことに気づいたらしい。
「……じゃあ、休んでから教えてほしいでぷ」
『うん』
「絶対でぷ?」
『うん』
「約束でぷ?」
「しつこい!」
赤に突っ込まれた。
緑は「大事なことでぷ!」と反論したけれど、黄色まで「今のはしつこかったでぷ」と赤に味方したので、少しショックを受けた顔で本を取り出した。
「忘れないように書いておくでぷ……」
覗いてみると、
《メリーの強い火――小さくして、ぎゅっとする》
と書いてある。
「それで後から分かるの?」
「分かるまで聞くでぷ」
「やっぱりメリー逃げたほうがいいかも」
『逃げる』
「待ってほしいでぷ!」
メリーが私の肩へ飛び移り、緑が追いかけようとする。
私は二人の間へ手を入れた。
「はい、今日はここまで。メリーは休む。緑も休む」
「俺は元気でぷ」
「そういう問題じゃないの」
オラクルが倒れた雪男の向こうへ視線を向けた。
白い山道は、さらに上へ続いている。
「俺たちも休むぞ。思ったより時間食ったし、体力も使った。この先で足滑らせたら洒落にならねえ」
誰も反対しなかった。
私たちは風を避けられる岩陰へ移動し、短い休憩を取ることにした。
メリーへパンを渡すと、いつものように嬉しそうに両手で抱えたものの、今日はすぐには食べ始めなかった。私の肩へ身体を預けたまま、一度だけ倒れた雪男を見る。
『フール』
「なに?」
『みんなで倒した』
「うん」
メリーはその言葉を確かめるように、もう一度小さく頷いた。
『みんなで』
今度は嬉しそうにパンを齧った。
私はそんなメリーの頭を指先で撫でながら、雪男の向こうへ続く白い道を見上げた。
まだグラティスへ入ったばかりだというのに、小型の魔物だけでなく、あれほど巨大な雪男まで現れた。
宿場町で聞いた通り、この山は簡単には先へ進ませてくれない。
それでも、《古の目覚めの笛》はこの先にあるかもしれない。
昨日、《聖なるマップ》が一度だけ見せた光も、それきり何の反応も示していない。
あの光が本当に笛へつながっているのなら、山を登ることで何かが変わる可能性もある。
私は鞄の中にある《聖なるマップ》へ触れた。
そのとき、肩にいたメリーが山の上を見た。
さっきまでパンを食べていた動きが止まっている。
「メリー?」
『……こっち』
「え?」
メリーは雪男の向こうへ続く山道を見つめていた。
『前も、こっち行った』
私はすぐに身体を起こした。
「《古の目覚めの笛》を探してたとき?」
メリーは少し考えてから、小さく頷いた。
『うん。たぶん』
完全な記憶ではない。
それでも、これまで「グラティスへ来た」ということしか分からなかったメリーが、初めて前回進んだ方向を思い出した。
オラクルも立ち上がり、その先の斜面を見る。
「なら、休んだらそっちへ進む。ただしメリーの記憶だけで道を外れるのはなしだ。雪で地形が変わって見えてる可能性もあるから、《聖なるマップ》と実際の道を確認しながら進むぞ」
「うん」
私は鞄から《聖なるマップ》を取り出し、メリーが見ている方向と地図を見比べた。
今いる場所から先にも登山道は続いている。途中で斜面を回り込むように曲がり、その先はさらに標高の高い場所へ伸びていた。
「メリー、前もこの道を通った?」
『たぶん』
メリーは地図よりも実際の山を見ながら答えた。
『雪、違う。でも……こっち』
完全に思い出したわけではないのだろう。それでも、さっきまでとは違っていた。グラティスへ入って実際の景色を見たことで、絵へ閉じ込められる前の記憶が少しずつ戻ってきているのかもしれない。
「時計の印を持った人に会った場所も、この先かな?」
そう尋ねると、メリーはすぐには答えなかった。
私の肩から山の上をじっと見つめ、何かを探るように小さな眉を寄せる。
『もっと上……だったと思う』
「そっか。無理に思い出さなくていいよ」
『でも、笛探してた』
「うん」
『見つける前に、時計の人来た』
その声から、さっきまで雪男を倒して喜んでいた明るさが少しだけ消えた。
私はメリーの頭へ指先を添える。
「今度は急がなくていいから、一緒に少しずつ探そう」
『一緒』
「そう。一緒」
メリーは私の指へ両手で抱きついた。
その横では、赤が雪男との戦いで乱れた荷物を直し、黄色が食料の残りを確認している。緑だけは本を開いたまま、メリーが最後に使った炎について何かを書き続けていた。
「緑、ちゃんと休んでる?」
「手だけ動かしてるでぷ」
「それ休んでるって言わないよ」
「身体は休んでるでぷ」
オラクルが呆れた顔で本を取り上げた。
「返してほしいでぷ!」
「五分休め」
「忘れるでぷ!」
「《ぎゅってする》しか書いてねえじゃねえか」
「そこから分かるようになるでぷ!」
赤が横から本を覗き込み、「俺には分からないでぷ」と首を傾げたので、緑がますます悔しそうな顔をした。
そのやり取りにメリーも小さく笑う。
雪男との戦いで張り詰めていた空気が、ようやくいつものものへ戻ってきた。
◇
しばらく休むと、メリーの呼吸も落ち着き、私たちの身体にも少しずつ力が戻ってきた。
オラクルが立ち上がって雪を払う。
「そろそろ行くぞ。ただし次に休める場所が見つからなきゃ、無理に進まねえ。天気も落ちてきてる」
空を見上げると、確かに入山したときより雲が厚くなっていた。
「分かった」
私も立ち上がり、《聖なるマップ》を畳もうとした。
その瞬間だった。
地図の上を、淡い光が走った。
「……え?」
昨日、グラティスの麓で見たものと同じ光だった。
けれど、今度は一瞬で消えなかった。
細い光は現在地の周辺で僅かに揺れ、そのまま山の上へ伸びるように動いたあと、ゆっくり薄くなっていく。
「オラクル!」
私が呼ぶより早く、緑たちも地図へ集まってきた。
「また光ったでぷ!」
オラクルは地図へ顔を近づけた。
「昨日より長かったな」
「うん。それに……」
私は光が消えていった方向を見る。
メリーが指した方向と、ほとんど同じだった。
偶然なのかもしれない。
《聖なるマップ》が《古の目覚めの笛》へ反応していると決まったわけでもない。
それでも、グラティスへ到着したときに一度だけ現れた光が、山へ入り、メリーが前回進んだ方向を思い出した直後にもう一度現れた。
「近づいてるのかな……」
「何に、とはまだ言えねえけどな」
オラクルはそう言いながらも、光が消えた先を見ていた。
メリーも私の肩から地図を覗き込む。
『笛?』
「分からない。でも、そうだったらいいね」
メリーは少し考えたあと、山の上へ顔を向けた。
『笛、こっち?』
「たぶん、今はそれを確かめに行くしかないよ」
私は《聖なるマップ》を閉じた。
昨日までは、《古の目覚めの笛》が本当にグラティスに存在するのかさえ分からなかった。
今だって、それは変わっていない。
けれど、メリーの記憶と《聖なるマップ》の反応が、初めて同じ方向を示した。
雪男との戦いを終えた私たちの前には、さらに高い場所へ続く白い道が伸びている。
その先で何が待っているのかは分からない。
時計の印を持つ者が残した何かがあるのかもしれないし、精霊たちが前回辿り着けなかった場所へ近づいているだけなのかもしれない。
それでも今度は、闇雲に山を登っているわけではなかった。
「行こう」
私が言うと、メリーが肩の上で頷いた。
『うん。一緒』
私たちは倒れた雪男を背に、再びグラティスの奥へ向かって歩き出した。
そしてそのとき、《聖なるマップ》の奥深くでは――一度消えたはずの淡い光が、誰にも気づかれないほど弱く、もう一度だけ瞬いていた。




