第54話 精霊の女王とお転婆娘
二度目の澄んだ音が消えたあとも、精霊たちの動きは止まらなかった。
森の上や川辺を飛んでいた精霊たちが次々と塔の奥へ向かい、色とりどりの光が巨大な樹木を目指して流れていく。何か危険なことが起きたのかと思ったけれど、私たちを案内してきた八体に怯えた様子はなく、むしろ緑色の精霊はどこか嬉しそうだった。
「さっきの光と音、何だったの?」
私が尋ねると、緑色の精霊は塔の奥を見ながら答えた。
『私たちが帰ってきたって、みんなに知らせる音』
水色の精霊も隣へ飛んできて、『八体みんな、帰ってきたから』と続ける。
ようやく意味が分かった。
あの光と二度の音は警告ではない。《精霊の叫び》へ閉じ込められ、長い間この塔へ帰れなかった八体が戻ったことを知らせる合図だったのだ。
「みんな、八体がいなくなったこと知ってたの?」
『うん。ずっと待ってた』
その言葉を聞くと、塔へ入ったときから集まっていた無数の視線の意味まで変わって感じられた。精霊たちは珍しい人間やゴブリンを見ていたのではなく、長く帰らなかった仲間たちを見ていたのだ。
白色の精霊は少し緊張したように水色の精霊へ寄り添い、紫色の精霊は遠くから近づいてくる仲間たちを見ながら目を細めている。黄色い精霊が大きく手を振ると、向こうからも何体もの精霊が嬉しそうに振り返した。
「帰ってこられて、本当によかったね」
私が言うと、七体が嬉しそうに頷いた。
赤はもう待ちきれないらしく、「行くでぷ!」と精霊たちについていこうとする。今度はオラクルも止めず、「勝手に別方向へ行くなよ。案内についてけ」と注意するだけだった。
私たちは八体に案内され、巨大な樹木へ向かって歩き始めた。
◇
塔の中を進むほど、ここがただの建物ではないことが分かってきた。
透明な川には小さな光る魚のような生き物が泳ぎ、岸辺には見たことのない花が咲いている。頭上では浮島同士を細い光の橋が結び、その上を精霊たちが行き来していた。
大きな木の根元にはいくつもの店まで並んでいる。果物や木の実を山積みにした店、色とりどりの小瓶を並べた店、透き通った石や羽のようなものを扱う店もあり、精霊たちは品物を手に取りながら楽しそうに話していた。
「精霊さんもお店やるでぷ?」
赤が目を丸くすると、緑色の精霊は当然のように『やるよ』と答えた。
黄色はすぐに「ここのお金、何でぷ?」と聞き始め、緑は見るものすべてを本へ残そうとしていたけれど、とうとう書く速度が追いつかなくなったらしい。
「空も川も浮島も店もあるでぷ……何から書けばいいか分からないでぷ」
「今は見るの優先したら? あとで覚えてることを書けばいいよ」
「忘れたら困るでぷ」
「じゃあ半分見て半分書こうよ」
そんな話をしながら歩いていた、そのときだった。
さっきまで肩にあった小さな重みが消えている。
私は数歩進んでから違和感に気づき、肩へ手をやった。
「……あれ? ピンクちゃん?」
返事がない。
振り返っても、手のひらサイズのピンク色の精霊はどこにも見当たらなかった。
「ピンクちゃんがいない!」
赤たちも慌てて周囲を見回したけれど、私たちを案内してきた七体はまったく驚いていなかった。それどころか黄色い精霊は、何がおかしいのか楽しそうに笑っている。
「何で笑ってるの?」
『いつものこと』
「いつものこと?」
緑色の精霊まで頷いた。
『すぐいなくなる』
「それ先に教えてよ!」
絵の中へ閉じ込められる前から、どうやらこういう子だったらしい。
塔の中には数え切れないほどの精霊が飛び交っている。この中から、ほかの精霊よりさらに小さいピンク色の一体を探すのは大変だと思ったけれど、オラクルは周囲の店を見ながら冷静だった。
「闇雲に探すな。あいつが興味持ちそうなもんから当たるぞ」
「興味持ちそうなもの……」
考える必要はほとんどなかった。
少し先から、聞き慣れた声が響いた。
『パン!』
全員で同じ方向を向いた。
大きな木の根元に作られた小さな店。その店先には、焼きたてらしいパンが何種類も並んでいる。
そして真正面には、目を輝かせたピンク色の精霊が浮かんでいた。
「ピンクちゃん!」
私が駆け寄ると、精霊は嬉しそうに振り返った。
『パン!』
「パンじゃなくて! 勝手にいなくなっちゃ駄目でしょ!」
『パン』
「見れば分かるよ!」
私は小さな身体を両手ですくい上げた。
「心配したんだからね」
怒っているつもりなのに、本人は悪びれる様子もなく私の指へ頬を擦りつけてくる。
『パン』
「……一個だけだからね」
赤が横から笑った。
「フールちゃん、甘いでぷ」
「だって、こんな顔してるし……」
「さっき朝ご飯で食べたでぷ」
「一個だけ!」
結局、負けた。
小さなパンを一つ渡すと、ピンクの精霊は両手で抱え、幸せそうに食べ始めた。
そのとき、店の奥にいた一体の精霊がこちらを見たまま動きを止めた。
最初は私たちを見ているのだと思ったけれど、その視線は私の手の上へ向いている。
『……メリー?』
「え?」
私は手のひらを見る。
ピンクの精霊はパンを食べている。
すると別の精霊まで振り返った。
『メリー様……? 本当に?』
周囲の空気が変わった。
店にいた精霊だけではなく、近くを飛んでいた精霊たちまで次々と立ち止まり、私の手の上にいる小さな精霊へ視線を集め始める。
「メリー?」
私は手のひらへ顔を近づけた。
「あなた、メリーっていうの?」
ピンクの精霊はパンを一口食べてから、何でもないことのように答えた。
『メリー』
「普通に喋れるんじゃん!」
赤たちが笑い出した。
「じゃあ、今までずっと『パン』しか言わなかったのは何だったの?」
メリーは少し考えた。
『パン』
「戻った……」
けれど、周囲の精霊たちは笑っていなかった。
むしろ騒ぎはどんどん大きくなり、『メリー様が帰ってきた!』『女王様に知らせて!』という声があちこちから上がり始める。
「……様?」
私は改めてメリーを見た。
手のひらサイズで、パンを両手に抱え、ついさっきまで勝手にいなくなっていた。
どう見ても「様」を付けて呼ばれるようには見えない。
「メリーって、そんなに偉いの?」
緑色の精霊が答えようとした、そのときだった。
塔の奥から、大きな光が近づいてきた。
周囲の精霊たちが一斉に左右へ分かれ、一本の道を作る。
その向こうから現れたのは、これまで見てきた精霊たちとは明らかに違う一体だった。
私たちが助けた七体よりも大きな身体を持ち、淡い光をまとった長い髪が風もないのに揺れている。背中から伸びる羽も大きく、その周囲には細かな光が絶えず漂い、近づいてくるだけで周りの空気まで澄んでいくように感じられた。
七体の精霊が一斉に頭を下げた。
周囲にいた精霊たちも、それに続く。
「誰でぷ……?」
緑が小声で尋ねた。
答えは、私の手の上から聞こえた。
『ママ』
「……ママ?」
私はメリーを見る。
次に、こちらへ近づいてくる精霊を見る。
もう一度メリーを見る。
「えっ?」
その精霊は私たちの前まで来ると、真っ先にメリーを見た。
それまで威厳を感じさせていた表情が、一瞬で崩れた。
「メリー……!」
メリーはパンを持ったまま私の手から飛び立ち、相手の胸へ飛び込んだ。
大きな精霊は小さな身体を両腕で包み、二度と離さないように強く抱き締める。その姿を見た周囲の精霊たちから歓声が上がり、帰還した七体も嬉しそうに二体を見つめていた。
私はまだ状況についていけていなかった。
緑色の精霊が私の近くへ飛んでくる。
『精霊の女王』
「じゃあ……」
私は女王を見る。
その胸に抱かれている、手のひらサイズのピンク色の精霊を見る。
緑色の精霊が、最後の答えを教えてくれた。
『メリー様は、女王様の娘』
「ええっ!?」
私だけでなく、赤たちまで同時に声を上げた。
黄色は信じられないようにメリーを見つめ、「すごく偉い精霊だったでぷ……?」と呟き、赤も「ずっとパンって言ってたでぷ」と目を丸くしている。
「パンが好きなのと、女王様の娘なのは関係ないでしょ」
そう答えた私自身も、まだ信じられなかった。
精霊の女王の娘。
それが、パンにつられて勝手にいなくなり、出会ったばかりの私の肩から離れようとしなかった、手のひらサイズのピンク色の精霊だった。
そして、母親の腕の中にいるメリーを見ながら、私はまだ知らなかった。
このお転婆な精霊が――このまま私たちの旅についてくることになるなんて。




