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フールの大冒険 ~聖なるマップを手に、異世界でまだ見ぬ両親を探します~  作者: ☆☆アダム☆☆


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第52話 精霊の解放

森を抜けて街道へ戻ったころには、空の半分以上が夕暮れの色に染まっていた。


TIME No.7ナナと七家の一つであるイブ家の戦闘を避けて大きく迂回したせいで、予定よりかなり時間がかかっている。それでも見覚えのある道へ戻れたことで少しだけ安心し、《聖なるマップ》で方向を確かめながら進んでいくと、以前通った景色が少しずつ増えてきた。


私は歩きながら、何度も鞄へ手を当てていた。中には、ビーン湖の底から持ち帰った《人魚の旋律》が入っている。


森を歩いていたとき、その中から精霊たちのものかもしれない声が聞こえた。それ以来、もう一度聞こえないか何度か耳へ近づけてみたけれど、今は遠くで波が寄せては返すような音しか聞こえない。


「やっぱり聞こえない……」


「さっきのは何だったんでぷ?」


隣を歩いていた緑に聞かれ、私は鞄へ手を置いたまま首を傾げた。


「分からない。でも、聞き間違いじゃないと思う」


弱く、途切れ途切れだった。それでも、あの声には覚えがある。《精霊の叫び》の中から助けを求めていた声だ。


オラクルが前を歩きながら振り返った。


「答え合わせは倉庫へ着いてからにしろ。歩きながらそればっか気にして転ぶなよ」


「転ばないよ」


そう言い返した直後、道から少し飛び出していた石につま先を引っ掛けた。身体が前へ傾き、慌てて緑が腕を支えてくれる。


「フールちゃん、大丈夫でぷ?」


「う、うん。今のは転んでないから」


オラクルは何も言わず、ただこちらを見ていた。


「……何?」


「別に」


絶対に何か言いたそうだった。


赤たちが笑い始め、ビーン湖から続いていた緊張がほんの少しだけ和らいだ。


◇


完全に日が沈む前に、私たちはガレオさんの倉庫へ辿り着いた。


見慣れた建物が見えた瞬間、思わず走り出しそうになったものの、背中の火傷が引きつったので途中で速度を落とす。赤たちにもまだ擦り傷が残り、オラクルの手にも傷がある。全員がビーン湖へ向かう前と同じ状態ではなかった。


倉庫の前まで来ると、オラクルが扉を叩いた。


少しして中から足音が聞こえ、扉が開く。顔を出したガレオさんは、私たちを見るなり目を大きくした。


「お前ら……何だ、その格好」


「色々あって……」


「色々で済む格好じゃねえだろ」


「でも、見つけたよ」


私は鞄へ手を入れ、布に包んでいた《人魚の旋律》を取り出した。夕暮れの残光を受け、水色の表面に刻まれた細かな波模様が淡く輝く。


「これが《人魚の旋律》」


ガレオさんは眉を寄せた。


「それを探しに行って、そんな格好になったのか?」


「これだけじゃないけど……だいたいそんな感じ」


私はビーン湖で起きたことを簡単に説明した。


三日月の夜、《水に選ばれる光石》を湖へ投げることで《沈んだ道》が現れたこと。その道が閉じるまでの限られた時間の中で湖底を進み、炎と毒を吐く二つ首の魔物に襲われたこと。そして、魔物を倒すのではなく突破し、その奥から《人魚の旋律》を持ち帰ったこと。


さらに、ミラ婆さんから聞いた人魚の伝承についても話した。


「人魚の歌には、精霊にも届く力があったらしいの。だから、これを《精霊の叫び》の前で試したい」


ガレオさんの表情が変わった。


「……本当に助ける方法を探してきたのか」


「約束したから」


絵の中から聞こえた声を、忘れたことはない。


助けて。


あの言葉を聞いたとき、何ができるのかは分からなかった。それでも、できることを探すと決めた。


ガレオさんはしばらく私を見つめたあと、何も言わずに扉を大きく開いた。


「入れ」


◇


倉庫の奥は、私たちが出発したときとほとんど変わっていなかった。


積み上げられた木箱や古い家具の間を進んでいくと、奥の壁際に大きな布を掛けられた物がある。ガレオさんはその前で立ち止まり、「預かったままだ。誰にも触らせてねえ」と言って布を外した。


《精霊の叫び》が現れた。


暗い森の中に、いくつもの小さな光が閉じ込められている不思議な絵。私はしばらく、その前から動けなかった。


「戻ってきたよ」


私は絵へ話しかけた。


返事はなかった。


以前なら近づくと微かな声が聞こえたのに、今は倉庫の静けさしか返ってこない。もしかしたら遅かったのではないかという考えが一瞬だけ頭をよぎり、胸の奥が冷たくなった。


赤も絵へ耳を近づけたものの、何も聞こえないらしく、不安そうに私を見た。


「精霊さん、寝てるでぷ?」


「分からない。でも、やってみる」


私はすぐに《人魚の旋律》を取り出し、両手で持って絵へ近づけた。


何も起こらない。


距離を縮めても変化はなく、黄色が心配そうに「使い方が違うでぷ?」と首を傾げた。


「たぶん。でも、ミラ婆さんも使い方までは知らなかったから……」


精霊へ届く力があるという伝承だけを頼りに、ここまで戻ってきた。でも、どうすればその力を引き出せるのかは分からない。


オラクルが壁へ寄りかかりながら尋ねた。


「湖でそれを取ったとき、何か起きなかったか?」


「取ったとき?」


私は目を閉じ、あの瞬間を思い出した。


湖底。閉じていく《沈んだ道》。炎と毒を吐く二つ首の魔物。その向こうにあった台座。そして、《人魚の旋律》へ触れた瞬間に見えた景色。


青い海と白い波。


岩場に座り、遠い海へ向かって歌っていた人魚。


「あ……あの人魚、歌ってた」


緑もミラ婆さんの話を思い出したらしい。


「人魚の歌が精霊に届くって言ってたでぷ」


「でも私、人魚の歌なんて歌えないよ」


「同じ歌をお前が歌う必要があるとは限らねえだろ。名前からして、そいつ自体に歌を残す力があるんじゃねえのか?」


私はオラクルに言われ、《人魚の旋律》へ目を落とした。


表面の波模様を指でなぞっても何も起こらず、軽く振れば微かな波音がするだけだった。赤が「叩いてみるでぷ?」と手を伸ばしたので、私は慌てて胸元へ引き寄せる。


「壊れたらどうするの!」


「優しく叩くでぷ」


「優しくても駄目!」


黄色まで「高そうだから壊したら大変でぷ」と真剣な顔で頷いたので、私は思わず「黄色は値段で心配しないの」と言い返した。


それでも、赤の言葉で一つだけ分かった。


無理やり何かをするものではない気がする。


湖底で触れたとき、私は歌っても、振っても、叩いてもいない。ただ手に取り、そのとき人魚の姿を見た。


私は《人魚の旋律》を両手で包み、静かに目を閉じた。


岩場へ打ち寄せる波と潮風、その向こうで海へ歌い続けていた人魚を思い浮かべながら耳を澄ませる。最初に聞こえたのは倉庫の外を吹く風と、みんなの小さな呼吸だけだった。


やがて、その奥へ別の音が混ざった。


波が寄せ、引いていく。


その繰り返しへ耳を傾けていると、波音の向こうから微かな歌声が聞こえてきた。


「……聞こえる」


誰も返事をしなかった。


歌声は少しずつ近づいてくる。意味の分からない言葉なのに、不思議と懐かしく、遠く離れた誰かへ「ここにいる」と伝えるような歌だった。


《人魚の旋律》が温かくなる。


ゆっくり目を開けると、両手の間から淡い水色の光が漏れていた。


「光ってるでぷ……」


緑の小さな声が聞こえた。


水色の光は表面の波模様に沿って広がり、やがて細い糸のように《精霊の叫び》へ伸びていく。


光が絵へ触れた。


最初は何も起きなかった。


その直後、絵の奥で一つの光が瞬いた。


消えそうなほど弱い光だったけれど、確かにそこにある。続いて二つ目、三つ目と、暗い森の中で眠っていた星が一つずつ目を覚ますように、閉じ込められていた光が戻っていった。


全部で八つ。


私は無意識に数えていた。


一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ。そして、暗い森のさらに奥に小さな八つ目の光がある。


「……よかった」


声が震えた。


まだいる。


八体とも、まだここにいる。


間に合った。


私は《人魚の旋律》を握ったまま、絵へ一歩近づいた。


「聞こえる?」


最初は返事がなかった。


それでも八つの光は少しずつ強くなり、やがて絵の奥から、あまりにも小さな声が届いた。


『……フール……』


聞き間違えるはずがなかった。


「聞こえた!」


思わず絵へ駆け寄る。


『戻って……きた……』


「うん。戻ってきたよ。遅くなってごめんね。でも、見つけたよ」


私は《人魚の旋律》を絵へ見せた。


「これ。《人魚の旋律》」


八つの光が一斉に揺れた。


『歌……』


精霊たちは知っている。


「これで助けられる?」


返事の代わりに、《人魚の旋律》から聞こえていた歌が少しずつ大きくなった。八つの光もそれに合わせるように明滅し、人魚の歌と精霊たちの光が重なった瞬間、絵の表面に小さな波紋が広がった。


ガレオさんが息を呑む。


絵なのに、水面のように揺れている。


波紋の向こうから、小さな手が現れた。


私は考えるより先に、自分の手を伸ばした。


「大丈夫。ここにいるよ」


指先と、小さな手。絵一枚を挟んで届きそうで届かない距離から、『出たい……外へ……』という声が聞こえた。


「うん。みんなで出よう」


私は《人魚の旋律》を握る手に力を込めた。


その瞬間、人魚の歌が倉庫いっぱいに広がった。強い音ではないのに胸の奥へ直接響き、絵の中からも精霊たちの声が重なる。今まで助けを求めていた声とは違い、八体の精霊たち自身が人魚の歌へ応えるように歌い始めていた。


閉じているはずの窓も扉も動いていないのに倉庫の中へ柔らかな風が生まれ、私の髪や積み上げられた布を揺らす。その風は絵の中へも吹き込み、暗い森の木々を揺らしながら八つの光を包んでいった。


《精霊の叫び》だったはずの絵から、初めて苦しそうではない声が聞こえる。


「届けて。この歌を、みんなに届けて」


水色の光が一気に広がった。


絵の表面を覆っていた波紋が中心へ集まり、そこから光の亀裂が走る。ガラスが砕けたのではなく、暗い森を閉じ込めていた何かがほどけるように、亀裂は枝分かれしながら絵全体へ広がっていった。


その隙間から柔らかな光が漏れ、暗かった森を少しずつ照らしていく。


そして、一つ目の光が絵の外へ飛び出した。


◇


最初に解放されたのは、淡い緑色の精霊だった。外へ出られたことを確かめるように倉庫の中を飛び、天井近くまで上がったあと、開いた扉から入り込む夕方の風へ顔を向ける。頬を撫でた本物の風に驚いて一瞬だけ羽を止めたものの、すぐに嬉しそうに目を細めた。


続いて現れた青色の精霊は、その場からほとんど動かなかった。自分の両手をじっと見つめたあと、恐る恐る近くの木箱へ指先を伸ばし、木の表面へ触れた瞬間に顔をくしゃりと歪める。


『触れる……本当に、触れる……』


その目から小さな光の涙が零れた。赤も何かを感じたらしく、いつものように騒ぐことなく自分の指をそっと差し出して「これも触れるでぷ」と声を掛けると、青い精霊は少し迷ってから両手で赤の指先へ触れた。


『あったかい……』


「俺も嬉しいでぷ」


赤が静かに笑った。


三体目に飛び出した黄色い精霊は、閉じ込められていた時間を取り戻すように倉庫中を飛び回った。木箱の上へ降りたかと思えば緑の頭へ移り、そこから黄色の肩へ飛び移るなど、目に入るものすべてが珍しいらしい。


最後にはオラクルの煙草へ興味を示したものの、漂ってきた煙を吸い込んだ途端に大きく後ろへ飛び、両手で鼻を押さえた。


『くさい! すごく、くさい!』


「二回言うな」


オラクルが顔をしかめると、赤たちが笑い、さっきまで涙を流していた青い精霊までつられるように笑った。オラクルは不満そうにしながらも煙草を口から外して火を消し、「これならいいだろ」と尋ねたけれど、黄色い精霊は少し離れた場所から鼻を押さえたまま『まだ、ちょっと』と答えた。


「正直だな、お前」


そのやり取りで、精霊たちを包んでいた緊張が少しだけ和らいだ。


四体目に解放された橙色の精霊は、外へ出てもすぐには飛び回らず、自分が抜け出してきた《精霊の叫び》を振り返った。それから倉庫の中をゆっくり見回し、ガレオさんを見つけると正面まで飛んでいって小さく頭を下げる。


『守ってくれた』


「俺が?」


『絵を壊さなかった。捨てなかった』


ガレオさんは《精霊の叫び》を一度見たあと、困ったように頭を掻いた。


「俺は預かってただけだぞ。礼ならこいつらに言え。湖の底まで行ったのも、あの化け物から逃げ回ったのも俺じゃねえ」


それでも橙色の精霊はもう一度ガレオさんへ頭を下げ、それから私たちのところへ飛んできた。オラクル、赤、緑、黄色の顔を順番に見て、最後に私の前で止まる。


『ありがとう』


「うん。助けられてよかった」


たった一言だったけれど、絵の中から何度も助けを求めていた声を知っているだけに、その言葉は胸の奥へ深く残った。


五体目に現れた紫色の精霊は、外へ出るなり倉庫の入口へ向かった。そのまま飛び去ってしまうのかと思ったけれど、扉の手前で静かに止まり、夕暮れの空を見上げる。


赤く染まった雲がゆっくり流れ、遠くを鳥が横切り、風を受けた草が波のように揺れていた。私たちにとっては何度も見てきた景色なのに、紫色の精霊は一つも見逃したくないように長い間そこから動かなかった。


『空って……こんなに広かったんだ』


絵の中にも空はあったのかもしれない。それでも、どれだけ飛んでもその先へ行けない描かれた空と、どこまでも続いている本物の空は違う。紫色の精霊は頬を撫でる風へ羽を広げ、初めて知った世界の広さを確かめるように目を細めていた。


その次に外へ出た水色の精霊は、自分が自由になれたことを喜ぶより先に仲間たちを探した。すでに解放されている緑、青、黄、橙、紫の五体を一体ずつ確認すると、安心する間もなく《精霊の叫び》へ戻り、絵の奥を心配そうに覗き込む。


そこには、まだ二つの光が残っていた。


これまでに外へ出た精霊は六体。絵の中に残っているのは白い光と、それよりずっと小さなピンク色の光だけだった。


水色の精霊は絵の表面へ両手を当て、『大丈夫。みんな外にいるよ』と優しく呼びかける。


白い光は出口の近くまで来ていたものの、一度前へ進んでは止まり、少し近づいてはまた奥へ戻ろうとしていた。私は絵の前へしゃがみ、その様子をしばらく見守ってから声を掛ける。


「怖い?」


返事が来るまで少し時間がかかった。


『……こわい。また、閉じる?』


その言葉だけで胸が締めつけられた。どれくらい長く絵へ閉じ込められていたのかは分からないけれど、何度助けを求めても外へ出られない時間が続いたのなら、突然開いた出口を信じることさえ怖くなってしまうのかもしれない。


私は絵へ手を伸ばした。


「もう閉じないよ。急がなくていいから、ここで待ってる。もし一体で出るのが怖かったら、一緒に出よう」


外へ出た六体も白い精霊を急かそうとはしなかった。青い精霊は『外のもの、本当に触れるよ』と伝え、紫色の精霊も入口から戻ってくると『空もあるよ。すごく広い』と笑う。橙色の精霊は『みんな待ってる』と呼びかけ、水色の精霊は絵へ両手を当てたまま離れなかった。


最後に黄色い精霊が元気よく手を振った。


『変なくさい人もいるけど、大丈夫!』


「俺を励ます材料に使うな」


オラクルが呆れたように言うと、白い光がほんの少し揺れた。笑ったように見えた。


やがて白い精霊は、仲間たちの声に背中を押されるように少しずつこちらへ近づいてきた。途中で何度も立ち止まったけれど、もう奥へは戻らず、最後には小さな手を波打つ絵の表面から外へ伸ばす。


私は人差し指を差し出した。


小さな手が私の指へ触れ、そのまま強く握る。


「おいで。大丈夫だから」


ゆっくり手を引くと、白い光が絵の外へ抜けた。


七体目の精霊だった。


白い精霊は外へ出た瞬間、飛ぶことさえ忘れたように私の手へしがみつき、身体を震わせながら泣き始めた。私は《人魚の旋律》を片手へ持ち替え、もう一方の手で小さな身体を包みながら、「大丈夫。もう出られたよ」と伝えた。


すぐに六体の仲間が集まり、緑色の精霊が頭を撫で、青い精霊が手を握り、水色の精霊は泣きながら抱きついた。黄色い精霊まで今だけは静かに寄り添い、橙と紫もそばへ並ぶ。


七体が小さな輪になって再会を喜ぶ姿を見て、私もようやく息を吐いた。


でも、《精霊の叫び》にはまだ一つだけ光が残っていた。


ほかの精霊よりずっと小さな、ピンク色の光だった。


「あなたで最後だよ。出てこないの?」


声を掛けた瞬間、ピンクの光は白い精霊とは正反対に、迷うことなく暗い森を一直線に飛んできた。そのまま波打つ絵の表面を抜け、勢いよく私の顔へ向かってきたので、思わず目を閉じる。


ぶつかる感触はなかった。


恐る恐る目を開けると、鼻先のすぐ前に小さな精霊が浮かんでいた。ほかの七体より明らかに小さく、私の手のひらにすっぽり収まりそうな身体は柔らかなピンク色に輝き、透き通った羽まで薄桃色をしている。


「あなたで八体目だね」


ピンクの精霊は返事をせず、私の顔をじっと見つめたあと、周囲をくるりと一周して肩へ降りた。そのまま頬へ小さな身体を擦りつけてくるので、手を差し出すと今度はそこへ飛び移る。


「フールちゃんに懐いてるでぷ!」


赤が嬉しそうに顔を近づけた途端、ピンクの精霊は驚いて私の指の後ろへ隠れた。


「俺、怖くないでぷ!」


「赤が近すぎるんだよ、たぶん」


少し離れさせると、精霊は指の陰から赤を確認し、すぐに私を見上げた。


『パン。パン』


「……え?」


感謝でも名前でもなかった。


ピンクの精霊は両手でお腹を押さえ、悲しそうな顔で私を見ている。お腹が減ったのかと尋ねると、ものすごい勢いで頷いた。


赤はすぐ鞄から大事にしていた骨付き肉を取り出した。


「食べ物ならあるでぷ! これ食べるでぷ!」


ところがピンクの精霊は、骨付き肉と赤を交互に見たあと、小さな顔をぷいっと横へ向けた。


「いらないでぷ!?」


『パン』


「お肉じゃ駄目なの?」


『パン』


「パンが好きなの?」


今度は満面の笑顔で何度も頷いた。


赤が「肉のほうがおいしいでぷ……」と肩を落とす横で、黄色は「パンのほうが安いでぷ」と値段を気にし、緑はいつの間にか本へ《八体目・ピンク色・手のひらサイズ・パンが好き》と書き込んでいた。


私は残っていたパンを少しちぎり、手のひらへ置いた。


『パン!』


ピンクの精霊は目を輝かせ、小さな両手で抱えるようにして夢中で食べ始めた。食べ終えると満足そうにお腹を撫で、再び私の肩へ飛び移って頬へぴたりと身体を寄せる。


「そこ、気に入ったの?」


『パン』


「それ、返事になってないよ」


赤たちが笑い、ほかの精霊たちも楽しそうに羽を震わせた。


私は《精霊の叫び》へ目を向けた。


もう絵の中に光は残っていない。


緑、青、黄、橙、紫、水色、白、そしてピンク。八体すべてが、今は私たちのいる倉庫の中を自由に飛んでいた。


「……みんな出られたんだね」


『うん』


緑色の精霊が嬉しそうに頷いた。


その答えを聞いた瞬間、ずっと胸の奥に張りつめていたものがほどけた。三日月の夜に現れた《沈んだ道》も、閉じていく階段も、炎と毒を吐く二つ首の魔物も、背中を焼いた熱も、全部がこの光景へつながっていたのだと思うと、目の奥が熱くなった。


「フールちゃん、泣いてるでぷ」


「……ちょっとだけ」


否定するのはやめた。


そう言う赤の目も少し潤み、緑はこっそり目元を拭い、黄色は見られないように横を向いている。オラクルは煙草を取り出しかけたものの、黄色い精霊に見つめられると苦笑してポケットへ戻した。


ガレオさんも、光の消えた《精霊の叫び》と、その前を自由に飛び回る精霊たちを見比べていた。


「……本当に助けちまったんだな」


「うん。約束したから」


もう絵の中から「助けて」という声は聞こえない。


その声の主たちは今、風へ触れ、物へ触れ、仲間へ触れながら笑っている。


肩にいるピンクの精霊へ指を近づけると、小さな身体を私の頬へ寄せながら、眠そうな声で呟いた。


『……パン』


「もう食べたでしょ」


思わず笑った。


《人魚の旋律》は、確かに精霊たちへ届いた。


そして《精霊の叫び》に閉じ込められていた八体は、今度こそ一体残らず自由になった。

挿絵(By みてみん)


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