第50話 TIMENo.7
七家の兵たちがほとんど倒れた街道で、ナナと賞金稼ぎが再び向かい合っていた。
ついさっきまで二人の周囲には盾兵や槍兵が何重にも並び、後方からは矢と魔法が絶え間なく飛んでいた。それが今では見る影もなく、砕けた盾や折れた槍が石畳の上へ散乱し、魔法で焼けた地面からは細い煙が立ち上っている。それでも、賞金稼ぎは巨大な武器を杖のように地面へ突き立てながら立ち上がり、額や口元から血を流しながらも、ナナを睨む目から戦意を失っていなかった。
ナナも無傷ではない。黒い服は何か所も裂け、頬と肩には血が滲み、綺麗だった日傘にも傷や焦げ跡が残っている。ただ、賞金稼ぎとは違って呼吸はほとんど乱れておらず、最初に戦場へ立っていたときと同じように背筋を伸ばしていた。
「まだやるの?」
「七百金Bが目の前にいて、帰れるかよ」
「仕事熱心なのね」
「仕事だからな」
賞金稼ぎは巨大な武器を両手で握り直した。その背後では、辛うじて動ける七家の兵たちが指揮官の命令を受け、戦場の奥にある一台の馬車へ集まり始めている。傷ついた者まで仲間の盾や折れた槍を拾い、馬車だけは渡さないという意思を見せていた。
「やっぱり、あの馬車なんだ」
私が小声で言うと、オラクルも頷いた。
「最初からだろうな。七家を倒すだけが目的なら、とっくに好きなだけ暴れてる。戦いながら位置を調整して、ずっとあの馬車から大きく離れてねえ」
言われて思い返すと、その通りだった。ナナは大勢の兵と戦いながら何度も位置を変えていたけれど、戦場そのものから離れようとはしていない。七家との戦闘は目的ではなく、馬車へ辿り着くための障害を排除していただけなのかもしれない。
賞金稼ぎもそれを理解しているようだった。
「ここから先へは行かせねえ」
「そう。なら、あなたを越えればいいだけね」
ナナが閉じた日傘を身体の前へ構えると、賞金稼ぎは大きく息を吐き、腰を落とした。
次の瞬間、男の足元で石畳が砕けた。
◇
賞金稼ぎは巨大な武器を身体の後ろへ隠すように構え、今までで最も速い踏み込みでナナとの距離を潰した。ただし、直前までどの方向から刃を振るのかは見せず、右から横薙ぎに来ると見せかけて途中で刃を止めると、そのまま身体を沈めて柄を下から突き上げた。
ナナの日傘が柄を受けた瞬間、賞金稼ぎは自分から力を抜いた。《返衝》で利用される勢いを消し、身体を回転させながら反対側から拳を伸ばすものの、それもナナが左手を合わせる直前で引き、続けて低い蹴りへつなげていく。
どの攻撃にも同じ力を乗せない。
どれが本命なのかも最後まで見せない。
第49話から何度も《返衝》を受けた男は、戦いながらナナへの攻め方を変え続けていた。
それでもナナは後ろへ下がらなかった。
上体を捻り、足の位置を僅かに変え、必要な攻撃だけを日傘や左手で流している。拳が頬を掠め、武器の柄が肩へ当たっても、その場から退くことなく賞金稼ぎの動きを見続けていた。
「まだあんなに動けるの……?」
「最後だから全部出してんだろ。長くは持たねえから、決めに来てる」
オラクルの言う通り、賞金稼ぎの動きは速いものの、呼吸は明らかに荒くなっていた。腕からも血が流れ、巨大な武器を振るたびに足元が僅かに揺らいでいる。
それでも攻撃は止まらない。
ナナの左手が拳へ触れた瞬間には、自分から流された方向へ回転して蹴りへつなげ、その脚を返されれば地面へ片手をつき、返された勢いそのものを使って身体を浮かせる。そこから巨大な武器を頭上へ振り上げると、今度は囮も途中で止めることもなく、残った力をすべて乗せて叩き下ろした。
「うおおおおっ!」
ナナは避けなかった。
閉じた日傘を両手で構え、巨大な刃を真正面から受ける。
衝突した瞬間、二人の足元を中心に石畳が大きく陥没し、放射状に走った亀裂が倒れていた盾や槍まで跳ね上げた。丘の上にいる私たちのところまで空気の塊が押し寄せ、草と木々が大きく揺れる。
賞金稼ぎは腰を深く落とし、両脚で石畳を踏み締めながら武器を押し込んだ。
「今度は返させねえ!」
ナナの日傘が僅かに傾き、刃から伝わってきた力の向きが変わる。それでも賞金稼ぎは足元へ返された力を地面へ逃がし、砕けていく石畳へ両脚を沈めながら耐えた。
「効かねえぞ!」
ナナは賞金稼ぎの足元を一度見てから、巨大な武器へ視線を移した。
「そうね。だったら、そこへ返さなければいいだけよ」
日傘の角度が変わった。
賞金稼ぎが地面へ逃がそうとしていた力は足元へ戻らず、巨大な武器そのものを斜め上へ押し上げる方向へ流された。刃が跳ね上がり、それを握っていた両腕まで持ち上げられたことで胸元が開く。
ナナは一歩も後ろへ下がることなく、そのまま男の懐へ踏み込んだ。
左手が胸当てへ触れる。
賞金稼ぎの表情が変わった。
直後、巨体が巨大な武器ごと宙へ浮いた。
男自身が叩き込んだ全力の衝撃が、受け止める準備をしていなかった方向から一気に返されたようだった。地面へ激突しても止まらず、二度、三度と石畳を跳ねた末に街道脇の岩壁へ背中から叩きつけられ、亀裂の入った岩が大量に崩れ落ちる。
巨大な武器が手から離れ、石畳へ転がった。
賞金稼ぎは片腕を地面へつき、身体を持ち上げようとした。肘が崩れて一度失敗しても、もう一度立とうとしたけれど、今度は脚に力が入らず、そのまま岩壁へ背中を預ける。
それでもナナを見る目だけは逸らさなかった。
ナナは追撃せず、傷ついた日傘を肩へ乗せた。
「あなた、強かったわ」
「負けた相手に言われても……嬉しくねえよ」
荒い呼吸の中で賞金稼ぎが笑うと、ナナは少し首を傾げた。
「そう? 私は楽しかったけど」
男は何か言い返そうとしたものの、もう身体は動かなかった。
勝負はついた。
◇
「残存兵、馬車を守れ!」
七家の指揮官が叫ぶと、まだ動ける兵たちが馬車の前へ集まった。人数はかなり減っていたけれど、盾兵が前へ並び、その後ろに槍兵、左右には弓兵、さらに後方には魔法使いたちが残っている。
ナナはそちらへ向き直り、走ることなく歩き始めた。
一歩ずつ馬車へ近づくナナに対し、兵たちは武器を構えているにもかかわらず、誰も自分から踏み込もうとはしない。賞金稼ぎと前衛部隊がどうなったのかを目の前で見ていた以上、当然なのかもしれない。
「止まれ!」
指揮官が剣を向けた。
ナナは返事をせず、歩みも止めない。
「それ以上近づけば撃つ!」
それでも距離は縮まっていく。
指揮官は歯を食いしばり、剣を振り下ろした。
「撃て!」
弓兵たちが一斉に矢を放つ。
ナナが日傘を開くと、最初の矢が傘の縁へ触れ、その力が二本目へ流された。二本目は三本目へ衝突し、残った矢も傘の角度を僅かに変えるだけで左右へ逸れていく。
そこへ火球と風の刃が重なった。
ナナは火球を直接受けず、地面へ着弾する直前に身体を横へ外す。火球が炸裂して爆風が生まれた瞬間、日傘をその流れへ差し込むことで衝撃の向きを変え、正面に並ぶ盾兵たちへ押し返した。
盾兵たちは大盾を構え、両脚へ力を込めて耐えようとする。
その踏ん張りまで、ナナには利用できる力だった。
爆風に耐えている盾へ日傘が触れた瞬間、一人目の身体が横へ流されて隣の兵へぶつかり、二人目が踏ん張った力はさらに三人目へつながった。前衛の壁が内側から崩れたところへナナが入り込み、伸びてきた槍を別の槍へ流し、横から斬りかかった剣士の腕を返し、体当たりを仕掛けた盾兵の勢いを仲間のいる方向へ逸らしていく。
ナナ自身は一度も後ろへ下がらない。
兵たちだけが、次々と彼女の進路から弾き出されていった。
「止めろ!」
最後には指揮官自身が剣を抜いて飛び込んだ。
これまでの戦闘を見ていたからか、力を乗せすぎない浅い斬撃を連続させ、一撃目を避けられると二撃目を日傘へ触れる寸前で引き、三撃目だけ角度を変えて脇腹へ走らせる。
ナナは剣そのものを受けなかった。
指揮官が三撃目を引こうとした瞬間、その手首へ日傘の柄を添える。
剣を戻そうとした力が逆方向へ流れ、武器が手から離れて石畳へ転がった。続いてナナの左手が胸当てへ触れると、指揮官の身体は後方へ弾き飛ばされ、何度か地面を転がってようやく止まった。
それでも指揮官はすぐに上体を起こし、落とした剣へ手を伸ばした。
ナナは追わなかった。
馬車までは、もう数歩しかない。
「まだだ! 馬車を――」
指揮官の声に反応して残った兵たちが前へ出ようとしたものの、その足は途中で止まった。賞金稼ぎは岩壁の下で立てず、仲間の大半も戦闘不能になっている。それに対して、ナナは傷を負いながらもまだ自分の足で立ち、日傘を手放してすらいない。
ナナが一歩進むと、兵たちは無意識に一歩下がった。
さらに一歩進めば、また距離が開く。
そこでナナは初めて、彼らが掲げていた旗をゆっくり見た。
続いて倒れた兵たち、岩壁の下にいる賞金稼ぎ、最後まで剣へ手を伸ばしている指揮官を順番に見回す。
「イブ家と賞金稼ぎの連携は良かったわ」
私は思わずオラクルを見る。
「イブ家?」
「ああ。七家の一つだ。あの家紋はイブ家だったか」
ここで初めて、私たちが見ていた部隊の家名が分かった。
ナナは本当に褒めているような口調で続けた。
「私の力を見ながら戦い方を変えたのも悪くなかったし、あの賞金稼ぎがいなければ、ここまで私に傷をつけることもできなかったでしょうね」
イブ家の指揮官は片膝をついたまま、悔しそうにナナを睨んだ。
「……侮辱のつもりか」
「褒めてるのよ。だから、もう終わりにしましょう。これ以上やっても、あなたたちが倒れるだけだもの」
指揮官はすぐには答えなかった。
動けるイブ家の兵たち、倒れている仲間、岩壁の下で立てなくなった賞金稼ぎ、そして馬車の前まで来たナナを順番に見たあと、剣へ伸ばしていた手をゆっくり止めた。
「……撤退する」
近くの兵が振り返った。
「しかし、あれを渡せば――」
「これ以上やれば全滅する。動ける者は負傷者を回収しろ!」
その声をきっかけに、イブ家の残存兵が一斉に動き始めた。倒れている仲間へ肩を貸し、二人一組で運び、賞金稼ぎのところへも数人が向かう。巨大な武器までは持ち出せず、男本人だけを担ぎ上げた。
ナナは追撃しなかった。
イブ家の指揮官は最後まで馬車を見ていたものの、仲間を残して戦い続けることは選ばず、やがて負傷者たちとともに街道の向こうへ撤退していった。
◇
戦場に静けさが戻ると、ナナは一人で馬車の前へ立った。
荷台へ上がって中を調べ、少しして大きな金属箱を抱えて降りてくる。
「やっぱり、あれが目的だったんだ」
「みてえだな」
オラクルが答えた。
緑が小声で尋ねる。
「中に何が入ってるでぷ?」
「ここから分かるわけねえだろ。ただ、イブ家があれだけの兵を使って守って、TIMEが奪いに来た物だ。相当な代物なのは間違いねえ」
私も気になったけれど、確かめに行こうとは思わなかった。
今の戦いを見たあとで、ナナのところへ近づいて箱の中身を確かめようなどとは、とても思えなかった。
ナナは金属箱を地面へ置くと、空いた手を前へ伸ばした。すると足元から淡い光が走り、円を描いた線の内側へ複雑な模様が次々と浮かび上がっていく。
「魔法陣でぷ」
緑が声を潜める。
光は少しずつ強くなり、やがてナナの足元全体を覆った。どうやら目的の品を手に入れた以上、この場所に残る理由はないらしい。
ナナは金属箱を抱え直し、魔法陣の中央へ立った。
「帰るのかな」
私が呟いた、そのときだった。
ナナが顔を上げた。
そして、こちらを見た。
少なくとも――私にはそう見えた。
戦場から丘まではかなり距離があり、私たちは草だけではなく大きな岩の陰にまで身体を隠している。普通なら見つかるはずがない。それなのにナナの視線は周囲を探すこともなく、まっすぐ私たちが伏せている場所へ向けられているように感じられた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
隣を見ると、緑も身体を固くしている。赤と黄色まで黙ったままナナを見ていたので、どうやら私だけがそう感じたわけではないらしい。
ナナは何も言わなかった。
ただ、口元がほんの僅かに上がったように見えた。
次の瞬間、魔法陣から眩しい光が立ち上がった。
私は反射的に目を閉じる。
光が弱まってから恐る恐る顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。ナナも、イブ家が守っていた金属箱も消え、残されているのは戦闘で大きく抉られた街道や砕けた石畳、折れた武器や盾だけだった。
ついさっきまで、七家の一つであるイブ家の部隊と、あれほど強い賞金稼ぎが戦っていた場所とは思えないほど静かだった。
「……いなくなったでぷ?」
赤がようやく口を開いた。
「ああ。ただ、まだ動くな」
オラクルはナナが消えた場所を見たまま、私たちを制した。
「あの魔法陣がどこへつながってるのかも分からねえし、すぐ戻ってこねえとも限らねえ。少し待つぞ」
私たちは岩陰に伏せたまま、しばらく戦場を見張った。
さっきまで逃げていた鳥の声が森へ戻り、風が木々を揺らす音も聞こえ始める。それでもナナが再び現れる気配はなく、街道には戦いの跡だけが残り続けていた。
そこでようやく、オラクルがゆっくり身体を起こした。
「もういいだろ。ただし、街道の真ん中は通らねえ。今日は森から迂回するぞ」
「遠回りになるんじゃなかった?」
「事情が変わった。こんな戦場のど真ん中を歩いて、戻ってきたイブ家に見つかったら面倒だろ」
それには誰も反対しなかった。
丘を下りる前、黄色がもう一度、ナナが消えた場所を見た。
「七百金B……」
今度は私も意味を覚えている。
「七千万円くらい」
黄色がこちらを見る。
「今度は覚えてたでぷ」
「さすがに忘れないよ」
少しだけ褒められた。
でも、さっきみたいに笑う気にはなれなかった。
最初に七百金Bと聞いたとき、私はただ途方もない大金だと思った。でも、今はその数字がまったく違って感じられる。
イブ家の兵たちは弱くなかった。
ナナの戦い方を見ればすぐに陣形を変え、攻撃する方向や力まで調整し、賞金稼ぎとの連携で実際に何度も攻撃を届かせた。鎖で動きを封じたときには、本当に捕まえたようにさえ見えた。
あの賞金稼ぎも強かった。
何度《返衝》らしき力を受けても、次には違う戦い方を試し、最後までナナ一人を相手に立ち続けた。
だからこそ、その両方を相手に最後まで立っていたナナが恐ろしかった。
「オラクル」
「何だ?」
「ナナって、TIMEの七番なんだよね」
「ああ。手配書が正しけりゃな」
「じゃあ、番号が小さい人はもっと強いの?」
オラクルはすぐには答えなかった。
「分からねえ。数字がそのまま強さを表してるって確認したわけじゃねえし、能力同士の相性だってある。今日分かったのは、TIME No.7のナナがとんでもなく強かった。それだけだ」
「……うん」
分からないものを、分かったつもりにならない。
ビーン湖の二つ首の魔物について、ミラ婆さんにも似たことを言われたばかりだった。
それでも一つだけ、前とは違う。
TIMEはもう、私にとって遠い場所にいる知らない集団ではなかった。
私たちは以前、その一員らしき人物と一度遭遇している。そして精霊たちも、グラティスの山の途中で《時計のような服を着た人物》によって絵へ閉じ込められたと話していた。
今日、ナナの服にも時計の意匠があることを初めてはっきり確認した。
「……精霊を絵に閉じ込めた人も、TIMEなのかな」
私が呟くと、オラクルは煙草を咥えながら首を僅かに傾けた。
「可能性はある。ただ、まだ決めつけんな。同じ印があるってだけで、今日の女がやったとは限らねえ」
「分かってる」
それでも、確かめたいことがまた一つ増えた。
◇
私たちは丘の反対側から斜面を下り、壊れた街道へ直接戻らず、森の中を大きく迂回して進むことにした。
遠回りにはなるけれど、誰も文句は言わなかった。
赤まで珍しく静かだったので、しばらく歩いてから私は隣を見た。
「赤、どうしたの?」
「ナナ、強かったでぷ」
「うん」
「俺、戦わなくて良かったでぷ」
「……戦おうと思ってたの?」
「ちょっとだけでぷ」
思わず足を止めた。
「絶対駄目だからね!」
「もう思ってないでぷ!」
前を歩いていたオラクルまで振り返る。
「今日の見てまだ突っ込むなら、次からお前だけ縄で縛って運ぶぞ」
「嫌でぷ!」
赤が慌てて首を振り、緑と黄色が笑った。
ようやく少しだけ、いつもの空気が戻ってきた。
それでも私は、歩きながら何度か後ろを振り返った。
木々に遮られて、もう戦場は見えない。
なのに、ナナが魔法陣で消える直前に向けた視線だけが、どうしても頭から離れなかった。
「緑」
「何でぷ?」
「最後、ナナこっち見てたと思う?」
緑は歩きながら少し考えたあと、頷いた。
「俺もそう見えたでぷ」
黄色も「こっち向いてたでぷ」と続け、赤まで同意した。
私はオラクルを見る。
「やっぱり気づかれてたのかな」
「分からねえ。距離はあったし、こっちは岩と草に隠れてた。普通なら見つからねえだろうな」
オラクルはそこで一度言葉を切った。
「ただ、普通を基準にしていい連中じゃねえってのは、今日見ただろ」
その言葉に、私は黙った。
もし本当に気づかれていたなら、なぜナナは何もしなかったのだろう。
私たちに興味がなかったのか。
戦う必要がないと思ったのか。
それとも――私たちが誰なのか知っていたのか。
そこまで考えた瞬間、背中が少し冷たくなった。
「フールちゃん?」
緑に呼ばれ、私は首を横へ振った。
「何でもない。行こう」
今考えても答えは出ない。
私たちには先にやることがある。
私は鞄の上から《人魚の旋律》へ触れた。
絵の中にいる精霊たちを助ける。
そのためにビーン湖まで行き、二つ首の魔物から逃げながら、これを持ち帰ったのだ。
TIMEのことが気になっても、今やるべきことまで見失うわけにはいかない。
森の向こうには夕方の光が差し込み、木々の長い影が道へ伸び始めていた。
ビーン湖への寄り道は、これで終わる。
《人魚の旋律》も手に入れた。
次に確かめることも決まっている。
それなのに、旅を始めたころより世界が少しだけ広く、そして危険に感じられた。
幻獣種シャイニー。
正体の分からないアクアリヴァイアス。
湖底にいた、名前すら分からない二つ首の魔物。
そして、TIME。
知らないものが、また増えた。
でも、知らないからこそ確かめに行く。
私はそう思いながら、前を歩くみんなへ追いつこうとした。
そのときだった。
鞄の中で、何かが微かに震えた。
「……ん?」
私は足を止めた。
「どうした?」
オラクルが振り返る。
「今、何か動いた気がして……」
鞄を開けると、《聖なるマップ》と一緒に入れていた《人魚の旋律》が、淡い水色の光を帯びていた。
「光ってるでぷ」
緑たちも集まってくる。
私は《人魚の旋律》を取り出した。
ビーン湖から持ち帰る途中にも何度か耳へ近づけたけれど、そのときに聞こえたのは遠くで波が寄せては返すような音だけだった。
今は違う。
耳へ近づけた瞬間、波音の向こうに別の音が混じっていることに気づいた。
私は息を止めて耳を澄ませた。
小さい。
あまりにも遠く、途切れ途切れで、気を抜けば波音に紛れて消えてしまいそうだった。
でも、確かに聞こえる。
誰かの声だった。
歌っているようにも聞こえる。
「……この声」
胸の奥がざわついた。
ビーン湖で《人魚の旋律》へ触れたときに見た、岩場で歌う人魚とは違う。
もっと弱くて、苦しそうで、どこか懐かしい。
私はその声を知っている。
「フールちゃん?」
緑が心配そうに私を見る。
私は《人魚の旋律》を耳へ押し当てたまま、みんなの顔を見た。
「これ……精霊たちの声かもしれない」
全員の表情が変わった。
ガレオさんの倉庫へ預けてある《精霊の叫び》は、まだずっと先にある。
それなのに、《人魚の旋律》は淡い光を放ちながら、絵の中にいるはずの精霊たちの声を私のところまで運んできていた。
そして次の瞬間――。
遠くで聞こえていた声が、ほんの一瞬だけはっきりした。
私は思わず《人魚の旋律》を握り締める。
精霊たちは、まだ絵の中にいる。
でも――もう、届かない場所にはいなかった。




