第48話 人魚の歌が残したもの
朝のビーン湖を離れてからしばらくの間、私たちの歩みはいつもよりずっと遅かった。
昨日の夜、《沈んだ道》を全力で駆け上がった疲れは、一晩眠った程度では消えてくれない。少し坂を上るだけでも太腿が重くなり、薬を塗った背中の火傷は歩く振動に合わせてひりついた。二つ首の魔物が吐いた毒の霧も僅かに吸い込んでしまったらしく、深く息を吸うと喉にまだ違和感が残っている。
赤と黄色にも擦り傷があり、緑は打った膝を庇いながら歩いていた。オラクルの手のひらにも、崩れた石段へしがみついたときの傷が残っているので、今日は誰も無理に速度を上げようとはしなかった。
「昨日は半日くらいだったのに、今日は遠く感じるね」
「昨日のお前らは元気だったからな。今日は全員ぼろぼろだ」
「ぼろぼろじゃないよ。ちょっと痛いだけ」
「それをぼろぼろって言うんだよ」
オラクルに言い返そうとしたところで、前を歩いていた赤が足を止めた。
「休憩するでぷ?」
「まだそんなに歩いてないよ?」
「フールちゃんが疲れてるでぷ」
「赤が疲れたんでしょ」
「ばれたでぷ」
結局、近くにあった倒木へ腰を下ろして少し休むことになった。
黄色が水と食料の残りを確認し、緑はビーン湖で起きたことを本へ書き足している。私は鞄の奥から、乾いた布で包んだ《人魚の旋律》を取り出した。
朝の光の中で見ると、湖底で見たときとは少し印象が違う。手のひらに収まるほどの大きさで、淡い水色をした貝殻にも見えるけれど、表面には自然にできたとは思えない細かな波の模様が刻まれていた。
耳へ近づけると、微かな音がする。
遠くで波が寄せては返しているような音だった。
「何か聞こえるでぷ?」
緑に聞かれ、私は《人魚の旋律》を渡した。
緑も耳を澄ませ、赤と黄色も順番に試す。三匹とも聞こえたのは同じような波音だったけれど、黄色だけは「お金の音はしないでぷ」と残念そうな顔をした。
「すると思ってたの?」
「ちょっと期待したでぷ」
「なんで人魚の道具からお金の音がするの?」
「高そうだからでぷ」
よく分からない理屈だった。
オラクルにも渡してみると、嫌そうな顔をしながら耳へ当てる。
「どう?」
「……酒場の音がする」
「絶対嘘!」
赤たちが笑い、オラクルも少し笑ってから《人魚の旋律》を返してきた。
「波みてえな音はする。ただ、それだけじゃ使い方は分からねえな」
「うん。でも、誰に聞けばいいんだろう」
そこで緑が、これまでの情報をまとめた本を開いた。
「ミラ婆さんはどうでぷ?」
オラクルが露骨に嫌そうな顔をする。
「また行くのか?」
「今回はちゃんと理由あるでぷ」
緑が本のページを指差した。
私たちがビーン湖まで辿り着けたのは、ミラ婆さんが《水に選ばれる石》《欠けた月》《沈んだ道》の伝承を知っていたからだ。つまり、ミラ婆さんが知っていた昔話は湖への入り方だけで終わっておらず、その先にあった物についても何か知っている可能性がある。
私は手の中の《人魚の旋律》を見た。
「確かに。ビーン湖の底にあった物なら、同じ伝承を知ってたミラ婆さんに聞くのが一番早いかも」
オラクルはしばらく黙ったあと、諦めたように煙を吐いた。
「今度は昔話が二十個に増える前に帰るぞ」
「そこまで増えないよ」
「前も似たようなこと言ってただろ」
今度は言い切れなかった。
◇
昼を少し過ぎたころ、私たちはキャメル村へ戻った。
宿へ荷物を置き、傷の手当てをやり直してからミラ婆さんの家へ向かう。扉を叩くと、しばらくしてミラ婆さんが顔を出した。
「あらまあ。随分ひどい格好で帰ってきたねえ」
「ちょっと色々あって……」
「ちょっとで服は焦げないよ」
背中を見られていた。
家へ通されると、私たちはビーン湖で起きたことを順番に説明した。
三日月の夜に《水に選ばれる光石》を湖へ投げると、水が左右へ分かれて《沈んだ道》が現れたこと。その道を湖底まで進み、奥で巨大な二つ首の魔物と遭遇したこと。そして、魔物の向こうにあった台座から一つの品を持ち帰ったこと。
最後に私は《人魚の旋律》を取り出した。
「湖の底に、これがあったの」
それまで笑っていたミラ婆さんの表情が変わった。
「……どこで、それを?」
「沈んだ道の一番奥。魔物の向こうにあった台座から取った」
ミラ婆さんはすぐには触らず、《人魚の旋律》をじっと見つめた。
「名前は分かるのかい?」
「《人魚の旋律》」
ミラ婆さんが小さく息を吐いた。
「まだ残っていたんだねえ……」
私たちは顔を見合わせた。
「知ってるの?」
「実物を見るのは初めてさ。ただ、昔話なら聞いたことがある」
横でオラクルが小さく呟く。
「始まった」
「静かにして」
私はミラ婆さんへ向き直った。
「どんな話?」
「人魚の歌の話さ。ずっと昔、人魚たちの歌には人間の耳に聞こえる音だけじゃなく、魔物や精霊にも届く力があったと言われていた。傷ついたものを落ち着かせたり、遠く離れた仲間へ思いを届けたりね。もちろん、どこまで本当かは分からないよ」
精霊。
その言葉が強く耳に残った。
でも、まだ答えを決めつけるのは早い。私は《人魚の旋律》を握ったまま、続きを待った。
「人魚の中でも、特別な力を持っていた者の話がある。《シャイニー》という名さ」
「シャイニー?」
「普通の人魚とは違う。《幻獣種》だったと言われている」
緑はすぐに本へ名前を書き留めた。
私は気になって尋ねる。
「幻獣種って、魔物なの?」
「大きく分ければ、そう扱う人もいる。ただ、そこらの森や洞窟にいる魔物と同じだと思わないほうがいいね」
ミラ婆さんは窓の外へ目を向けた。
「この世界には数え切れないほどの魔物がいる。旅人でも追い払えるような弱いものもいれば、群れで村を襲うものもいるし、何十年も生きて力を蓄えたものや、特別な土地にしか棲まない珍しい魔物だっている」
「すごく強い魔物もいるでぷ?」
赤が身を乗り出す。
「もちろん。でも、幻獣種は単に《ものすごく強い魔物》ってだけじゃないんだよ」
「何が違うの?」
「それを綺麗に説明できる人間が、今の世界にどれだけいるかねえ」
ミラ婆さんは笑った。
「とにかく数が少ない。普通の魔物みたいに同じ種類がそこら中にいるわけでもなく、一生探しても一度も見ない人間のほうが多いくらいさ。土地によっては神様や守り神として祀られているものもいれば、災害みたいに恐れられているものもいる」
黄色がすぐに聞いた。
「捕まえたら高く売れるでぷ?」
オラクルが呆れた顔をする。
「お前、話聞いてたか?」
「珍しいなら高いでぷ」
「値段つける前に食われるぞ」
黄色は少し考え、黙った。
ミラ婆さんが楽しそうに笑う。
「それに、人間より賢いと伝えられる幻獣種だっている。人間の都合で捕まえられるようなものばかりじゃないさ」
私は以前聞いた噂を思い出した。
「じゃあ、雷を落とす鳥も幻獣種?」
「さあねえ。空を飛んで雷を使う魔物の話なんて一つじゃない。珍しいからって、何でも幻獣種にするんじゃないよ」
まだ何なのかは分からない。
今はそれでいい。
ミラ婆さんは話を戻した。
「でも、《シャイニー》は昔から幻獣種として語られてきた。海と歌に愛された人魚で、その声は人間だけじゃなく、魔物や精霊、海のずっと深いところにいるものにまで届いたという」
私は《人魚の旋律》を見つめた。
触れた瞬間に見えた人魚。岩場に座り、潮風に長い髪をなびかせながら海へ向かって歌っていた。
「あの人魚……」
ミラ婆さんが私を見る。
「何か見たのかい?」
私は《人魚の旋律》へ触れた瞬間に見えた光景を話した。青い海と白い波、その岩場で歌っていた一人の人魚。ただし、人魚から何かを言われたわけではない。
ミラ婆さんは少し考えたものの、すぐに首を横へ振った。
「それだけじゃ、その人魚がシャイニーだったとは言えないね。《人魚の旋律》に昔の人魚の姿か、記憶みたいなものが残っている可能性はあるかもしれない。でも、今分かるのはそこまでさ」
「シャイニーだったら面白いのに」
「面白いからって事実にはならないよ」
「はーい」
オラクルが少し意外そうな顔をした。
「婆さん、そういうところは慎重なんだな」
「どういう意味だい?」
「何でもねえ」
ミラ婆さんはオラクルを睨んでから話を続けた。
「それと、シャイニーの古い伝承には、もう一つ妙な名前が出てくる。《アクアリヴァイアス》」
「アクアリ……」
「アクアリヴァイアスさ」
私は緑を見る。
もう本へ書いていた。
「それも魔物?」
「それすら分からない」
予想外の答えだった。
ある伝承では、海の底に棲む途方もなく巨大な魔物。別の伝承では、人魚たちが守っていた海の主。さらに古い話では生き物ですらなく、海の深い場所そのものを示す言葉として登場するらしい。
「全然違うじゃん」
「だから昔話なんだよ。長い時間が経てば、話なんて変わっていく」
ミラ婆さんは《人魚の旋律》へ目を落とした。
「ただ、《シャイニー》《人魚の歌》《アクアリヴァイアス》。この三つが同じ古い海の伝承に何度も現れるのは確かさ。その《人魚の旋律》にも、何か関係があるのかもしれないね」
また分からないものが増えた。
でも、それが少し楽しくもあった。
◇
私はもう一つ、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ミラ婆さん。湖の底にいた魔物は知らない?」
「どんな魔物だい?」
私は二つ首の姿を説明した。
黒い鱗に覆われた巨大な身体から二本の首が伸び、赤黒い首は炎を吐き、深緑の首は石を変色させるほど強い毒を吐く。しかも二つの首は別々に動き、火の首が獲物を追い立て、毒の首が逃げ道を塞ぐように戦っていた。
話を聞き終えたミラ婆さんは、しばらく黙っていた。
私はてっきり、また何か昔話が始まると思った。けれど返ってきたのは、予想外の答えだった。
「……知らないね。少なくとも、あたしはそんな魔物を聞いたことがない」
「ミラ婆さんでも?」
「何でも知ってると思ってたのかい?」
「ちょっとだけ」
「随分買いかぶられたもんだねえ」
ミラ婆さんは苦笑してから、少し真面目な表情になった。
「この世界に魔物が何種類いると思ってるんだい。名前すら付いていないものもいれば、人がほとんど足を踏み入れない場所だけで生きているものだっている。まして、あんたたちが見たのは普段なら湖の底に沈んでいる場所なんだろう?」
「うん。《沈んだ道》の一番奥にいた」
「だったら地上で知られていなくても不思議じゃないさ」
緑が本へ特徴を書きながら聞いた。
「幻獣種の可能性はあるでぷ?」
「分からないものを、すぐ幻獣種にするんじゃないよ。違うとも言えないけど、今の話だけじゃ判断できない」
確かに、強いから幻獣種、珍しいから幻獣種という単純なものではないらしい。
「じゃあ、あれが何だったのかは分からないんだ」
「ああ。ただ、《人魚の旋律》が置かれていた場所にそんな魔物がいたってことは覚えておいたほうがいいだろうね」
「守ってたってこと?」
「それも分からない。昔からそこにいたのか、《人魚の旋律》を守っていたのか、後から棲みついただけなのか。見ただけじゃ判断できないだろ?」
私は頷いた。
勝手に《番人》だと思っていたけれど、確かに私たちはあの魔物のことを何も知らない。
緑の本には、二つ首の簡単な絵と特徴の横に《名称不明》と書き加えられた。
今はそれでいい。
◇
「そういえば……」
私は《聖なるマップ》と連動している冒険アルバムを開いた。
旅を始めてから、このアルバムには私たちが実際に関わった人物や魔物、アイテム、場所、出来事がいつの間にか記録されている。《薬草》を手に入れたときもそうだったし、赤たち三匹と出会ったあとには《弱い三匹のゴブリン》という、本人たちにはあまり見せたくない名前で登録されていた。
ただし、冒険アルバムは何でも教えてくれる図鑑ではない。
今回、それがよく分かった。
新しく増えたページには《キャメル村》《水に選ばれる光石》《ビーン湖》《沈んだ道》が順番に記録され、その次には、黒い巨体から二本の首を伸ばした魔物が描かれていた。
片方の口元には炎、もう片方には紫色の毒まで残されている。けれど、名前の欄に書かれていたのは《名称不明の二つ首の魔物》だった。
「やっぱり名前は分からないんだ」
「そりゃそうだろうね。出会っただけで何でも正体が分かるなら、学者も冒険者も苦労しないよ」
ミラ婆さんの言う通りだった。
冒険アルバムが残してくれるのは、私たちが旅の中で実際に見たり、触れたり、関わったものの記録らしい。知らないものの正体まで勝手に調べて、答えを教えてくれるわけではない。
それなら、ミラ婆さんでも知らなかった二つ首の魔物が《名称不明》のままなのも納得できる。
次のページには《人魚の旋律》があった。
こちらは手にした瞬間に名前が分かったからなのか、水色の貝殻のような姿と一緒に《人魚の旋律》と記録されている。表面に刻まれた細かな波模様まで再現されていて、私は思わず実物と見比べた。
「ちゃんと入ってるね」
「昨日あれだけ苦労して取ったでぷ。入ってなかったら悲しいでぷ」
緑の言葉に頷きながら、さらにページをめくる。
そこで私は手を止めた。
「……え?」
描かれていた人物に見覚えがあった。
少しだらしなく立ち、片手をポケットへ入れ、口には煙草を咥えている男。
どう見てもオラクルだった。
「オラクルいる」
「は?」
本人が嫌そうな顔で近づいてくる。
私は笑いそうになるのを堪えながら、記録されている名前を読んだ。
「《タバコを咥えた泥棒猫》」
部屋が一瞬だけ静まり、真っ先に赤が吹き出した。
「泥棒猫でぷ!」
緑まで口元を押さえ、黄色は冒険アルバムと本人を真剣な顔で見比べている。
「似てるでぷ」
「どこがだよ!」
オラクルが冒険アルバムを奪おうとしてきたので、私は慌てて胸元へ抱え込んだ。
「待って! 私が名前つけたんじゃないから!」
「誰が泥棒猫だ! 書き直せ!」
「できないよ!」
「タバコを咥えた怖い泥棒猫でぷ!」
「赤、お前あとで覚えとけよ」
「やっぱり怖い泥棒猫でぷ!」
ミラ婆さんまで声を上げて笑い始めた。
オラクルとはアルセウスからずっと一緒にいるので、今になって初めて登録されたわけではないのだろう。冒険アルバムには旅を始めてからかなりの記録が増えているし、全部を毎回確認してきたわけでもない。
おそらく以前から存在していたページを、私が今まで見落としていただけだった。
「じゃあ、オラクルずっと泥棒猫だったんだ」
「その言い方やめろ」
オラクルが本気で嫌そうな顔をする。
私は笑いながら冒険アルバムを閉じた。
昨日の夜には湖の底から帰れないかもしれないと思っていたのに、今日はこんなことでみんなと笑っている。
それだけで、全員で戻ってこられて本当によかったと思えた。
◇
笑いが落ち着いたところで、私は冒険アルバムを鞄へ戻し、テーブルの上に置いていた《人魚の旋律》をもう一度手に取った。
オラクルの《タバコを咥えた泥棒猫》で話が逸れてしまったけれど、私たちがミラ婆さんを訪ねた本当の目的はこちらだった。
「ミラ婆さん。さっき、人魚の歌は精霊にも届くって言ったよね?」
「ああ。そういう伝承は残っているよ。ただし、あくまで古い話だからね」
「うん。それでも試してみたいことがあるの」
頭に浮かんだのは、ガレオさんの倉庫へ預けてある《精霊の叫び》だった。
絵の中から聞こえた精霊たちの声と、《人魚の旋律》へ触れたときに聞いた人魚の歌はまったく違う。それでも、人魚の歌そのものに精霊へ届く力があるという伝承が本当なら、この品を絵の前へ持っていく意味はある。
「これで精霊たちを助けられるって分かったわけじゃない。でも、《精霊の叫び》の前で試してみたい」
オラクルも今度は反対しなかった。
「湖へ行く前と違って、試す理由はできたな。それで何も起きなきゃ、また別の手掛かりを探せばいい」
「うん」
緑も本を閉じながら頷いた。
「何もしないまま考えてても分からないでぷ」
「俺も行くでぷ!」
赤が元気よく手を挙げると、黄色も少し遅れて頷いた。
「ここまでお金使ったから、最後まで見るでぷ」
「そこなの?」
「大事でぷ」
ミラ婆さんはそんな私たちを見て笑った。
「結果が分かったら、いつかあたしにも教えておくれ。《人魚の旋律》の伝承に続きが一つ増えるかもしれないからね」
「うん!」
これで次に確かめることが決まった。
答えを見つけたわけではない。それでも、《人魚の旋律》を持って《精霊の叫び》のところへ戻る理由はできた。
◇
傷を休めるため、その日はキャメル村でもう一泊することにした。
翌朝になると、背中の火傷はまだ少しひりついたものの、普通に歩くぶんには問題ない程度まで落ち着いていた。緑の膝や赤たちの擦り傷も同じで、オラクルの手の傷も塞がり始めている。
宿を出る前、私は鞄の奥に《人魚の旋律》が入っていることを確認した。
黄色も横から覗き込む。
「お金もあるでぷ」
「聞いてないよ」
「確認大事でぷ」
「黄色はそればっかりだね」
「フールちゃんは落とし物しそうでぷ」
「しないよ!」
オラクルが横で煙草を咥えた。
「行くぞ。泥棒猫って呼んだ奴は置いてくからな」
赤がぴたりと口を閉じたものの、数秒もすると我慢できなくなったらしい。
「タバコを――」
「置いてくぞ」
「まだ最後まで言ってないでぷ!」
朝からいつも通りだった。
私たちはキャメル村を離れ、《精霊の叫び》を預けているガレオさんのところへ向かった。
◇
最初の数時間は穏やかだった。
街道には旅人や荷馬車が行き交い、道端では商人たちが休憩している。昨日まで湖の底で火と毒から逃げ回っていたことが嘘のようで、私も少しずついつもの調子を取り戻していた。
異変が現れたのは、昼を過ぎて街道が低い丘の間へ入ってからだった。
それまで何度もすれ違っていた旅人の姿が急に減り、やがて道端に一台の荷車が見えてきた。片方の車輪が外れ、積んでいた木箱が周囲へ散らばっている。
「事故かな?」
近づこうとした私を、オラクルが腕で止めた。
「待て。荷車じゃなくて地面見ろ」
言われて視線を落とすと、街道を横切るように大きな亀裂が走っていた。荷車が転んだ程度でできる傷ではない。
さらに先へ進むと、街道脇の木々が何本も同じ方向へ薙ぎ倒され、岩壁の一部まで何かに抉られたように砕けていた。
緑が周囲を見回す。
「大きい魔物が通ったでぷ?」
「それなら足跡くらい残るだろ」
オラクルはしゃがみ込み、地面を調べた。
残っているのは人間の靴跡と馬の蹄跡ばかりで、巨大な魔物が通ったような跡は見当たらない。その少し先には折れた槍が落ち、さらに向こうでは盾が中央から砕けていた。
「じゃあ、人がやったの?」
「その可能性が高そうだな」
そこから先へ進むほど、戦闘の痕跡は濃くなった。
岩へ深く突き刺さった矢、焼け焦げた草、刃物で切断された太い枝。街道から数歩離れた場所には地面が円形に陥没した跡まであり、その中心から放射状に亀裂が伸びている。
一か所だけではない。
似たような破壊跡が、街道に沿って点々と続いていた。
「戦いながら移動したのかな」
私が言うと、オラクルが頷いた。
「たぶんな。一発や二発ぶつかっただけじゃねえ。何度も場所を変えながらやり合ってる」
その言葉を聞いて、急に周囲が静かに感じられた。道を通る人がいなくなった理由も分かる。
この先で何かが起きている。
さらに進んだところで、オラクルが道端に落ちていた布切れを拾った。上質な生地で、泥を払うと端に家紋らしき刺繍が現れる。
それを見たオラクルの表情が変わった。
「知ってるの?」
「ああ。リベル王国の七家だ」
以前、聞いた名前だった。
リベル王国には王家を中心として七つの大きな家があり、それぞれが大きな力を持っている。その七家の家紋が、遠く離れた街道の戦闘跡から出てきた。
「七家って、こんなところまで来るの?」
「用がありゃ来る。ただ、家の紋入りの装備を持った連中が、これだけ派手に戦ってる時点で普通じゃねえ」
その直後、遠くから金属同士が激しくぶつかる音が聞こえた。
一度ではなかった。何度も続き、その最後に地面まで揺らすような重い衝撃が響く。
ドンッ――!
森から鳥の群れが一斉に飛び立った。
私たちは足を止めた。
さっきまで見ていたのは、終わった戦いの跡ではない。
戦闘はまだ続いている。
「戻るでぷ?」
黄色が不安そうに尋ねる。
オラクルは街道の先と周囲の地形を見比べ、少し考えてから左手にある丘を指した。
「この道を完全に避けるなら、かなり遠回りになる。だからって正面から戦場へ突っ込むのはもっと馬鹿だ。丘へ上がるぞ。遠くから道の状態だけ確認して、通れそうになけりゃ迂回する」
私たちは街道を外れ、木々の間へ入った。
斜面を上るほど、戦闘の音がはっきり聞こえるようになる。剣や槍がぶつかる金属音、人の怒鳴り声、何か重いものが地面へ叩きつけられる音。そのたびに足元の土まで僅かに震え、途中には戦場から逃げてきたらしい馬の蹄跡まで残っていた。
丘の頂上近くまで来たところで、オラクルが手を上げる。
「ここまでだ。絶対立つなよ。草の陰から見るだけだ」
私たちは腹ばいになり、ゆっくり丘の向こうを覗いた。
眼下の街道は、想像していたより酷い状態だった。
中央には大きな亀裂が走り、何台もの馬車が道端へ避難している。その周囲では統一された装備の兵たちが陣形を組み、後方には負傷者を運ぶ者たちまでいた。
掲げられた旗には、さっきオラクルが拾った布と同じ家紋がある。
「あれが七家?」
「そうだ」
七家の兵たちは、決して弱そうには見えなかった。
盾を持つ者たちが前列を固め、その隙間から長槍が突き出されている。後方には弓兵が並び、負傷者が出れば別の兵が即座に穴を埋める。大勢が好き勝手に戦っているのではなく、一つの大きな生き物のように統率されていた。
それでも――彼らが囲んでいる相手は、一人だった。
崩れた街道の中央に、その人物は立っている。
黒を基調とした服には銀色の装飾が入り、その一部には時計を思わせる意匠が刻まれていた。
私はその模様を見た瞬間、妙な引っ掛かりを覚えた。
「……時計?」
赤たちも同じ場所を見ていた。
「フールちゃん、あれ……」
「うん」
私たちは以前にも、あの人たちの仲間らしき人物と一度遭遇している。
けれど、あのときは突然の出来事に対応するだけで精一杯だった。相手が何者なのかも分からず、服にどんな模様が刻まれているかまで確かめる余裕なんてなかった。
今回は違う。
私たちは戦場から離れた丘の上に隠れ、相手の姿を遠くから見ている。だから初めて、その服に刻まれた特徴をはっきり確認できた。
時計を思わせる意匠。
そして、それを見たことで別の話まで頭の中でつながった。
「精霊たちが言ってた……」
オラクルがこちらを見る。
「何を?」
「グラティスの山の途中で、時計みたいな服を着た人に絵へ閉じ込められたって」
あのとき遭遇した人物。
精霊たちを《精霊の叫び》へ閉じ込めたという人物。
そして今、目の前にいる時計の意匠を身につけた人物。
同じ人なのかは分からない。そもそも時計の意匠が何を意味しているのかさえ、私たちは知らない。
「赤たちも前に会った人の服、覚えてる?」
三匹は少し考えたものの、緑が首を横へ振った。
「そこまで見てなかったでぷ。あのときは服より相手を見るので精一杯だったでぷ」
「俺もでぷ」
赤も頷き、黄色も同意する。
私も同じだった。
覚えているのは、その場で起きたことや相手の恐ろしさばかりで、服の細かな意匠なんて記憶には残っていない。
だからこそ、今になって初めて気づいた。
もしかすると私たちは、思っていたより前から、この時計の印を持つ者たちと関わっていたのかもしれない。
「声落とせ」
オラクルが低く言った。
「今は正体を考えるより、見つからねえことを優先しろ」
「うん」
私はもう一度、草の隙間から街道を覗いた。
時計の人物は大勢の七家の兵に囲まれているにもかかわらず、少しも慌てた様子を見せていなかった。
そのとき、七家の陣形が左右へ開いた。
奥から一人の男が歩み出る。
七家の兵とは明らかに違っていた。
家紋の入った鎧を身につけておらず、背負っている巨大な武器も兵士たちの規格品ではない。男がそれを片手で肩から下ろした瞬間、味方であるはずの七家の兵たちが僅かに距離を取った。
「あの人、七家の人じゃない?」
「違うな」
オラクルが即答した。
七家側の指揮官らしい人物が声を張り上げる。
「契約通りだ! 奴をここで止めろ!」
男は巨大な武器を肩へ担ぎ直し、面倒そうに首を鳴らした。
「分かってる。金を貰った以上、仕事はする」
「誰?」
私が小声で尋ねると、オラクルは男の立ち方を見たまま答えた。
「賞金稼ぎだ。それも、そこらの連中とは違う」
賞金稼ぎは周囲に誰も置かず、一人で時計の人物の正面へ出た。
七家の兵たちはその間にも陣形を変え、弓兵が一斉に矢をつがえる。
指揮官の腕が振り下ろされた。
何十本もの矢が空へ放たれ、時計の人物へ降り注ぐ。
ところが、その人物は逃げなかった。
片手を僅かに動かす。
その瞬間、飛んでいた矢の一部が不自然に軌道を変えた。
弾かれたわけではない。
風が吹いたようにも見えない。
まるで、そこに見えない何かが存在しているかのように、矢だけが別の方向へ逸れていった。
「何……今の?」
私には分からなかった。
赤たちも同じだった。
けれど、賞金稼ぎだけは迷わなかった。
男は矢の軌道が変わった瞬間にはすでに地面を蹴り、巨大な武器を引きずるようにして一気に距離を詰めていた。
時計の人物も初めて大きく動く。
二人の影が交差した。
次の瞬間――。
ドンッ!
街道の中央から凄まじい衝撃が弾けた。
地面が円形に陥没し、七家の前衛まで数歩押し戻される。土と石が高く吹き上がり、その一部は離れた丘の斜面にまで飛んできた。
「伏せろ!」
オラクルの声に、私たちは一斉に頭を下げた。
小石が草の上へ雨のように降り、すぐ近くの木の幹へ一つが突き刺さる。
戦場からはかなり離れている。
それなのに、ここまで届いた。
しばらくして音が弱まり、私は恐る恐る顔を上げた。
土煙の中心に、二つの影が立っている。
時計の意匠を身につけた人物。
そして、七家に雇われた賞金稼ぎ。
どちらも倒れていなかった。
賞金稼ぎの巨大な武器は時計の人物の腕に受け止められているように見えたけれど、よく見ると刃と腕の間には僅かな隙間がある。直接触れていないはずなのに、武器はそこから先へ一寸も進んでいなかった。
「止めてる……?」
私には何をしているのか分からない。
賞金稼ぎは力任せに押し切ろうとはせず、一度大きく後ろへ跳んだ。着地と同時に巨大な武器を地面へ突き立て、その反動で土煙を払い飛ばす。
視界が開いた。
そのとき、隣で黄色が小さく声を漏らした。
「……あれ?」
「どうしたの?」
黄色は時計の人物から目を離さなかった。
「ちょっと待つでぷ。あいつ……どこかで見た気がするでぷ」
「前に会った人?」
「違うでぷ。本人を見たんじゃなくて……何かで見たでぷ」
黄色は眉間にしわを寄せ、必死に記憶を探っている。
その間にも戦場は動いていた。
七家の兵たちは、最初の衝突で崩れた陣形をすでに立て直している。盾兵が左右へ広がり、その後ろでは槍兵が間隔を詰め、さらに後方の弓兵が二射目の準備に入っていた。
大勢で一人を囲んでいるのに、誰一人油断していない。
むしろ、時計の人物が何かをする前に逃げ道を一つずつ潰そうとしているように見えた。
七家の指揮官が腕を上げる。
「第二陣、構え!」
弓兵たちが一斉に弦を引いた。
それと同時に、賞金稼ぎが巨大な武器を肩へ戻す。
「次は合わせろ。俺が入ったら撃つな」
「承知している!」
指揮官の腕が振り下ろされた。
何十本もの矢が放たれる。
今度は一方向からではなかった。左右へ展開していた弓兵が僅かに時間をずらして放ち、時計の人物の前後左右を覆うように矢が降り注ぐ。
さっきみたいに軌道を逸らしても、その先に別の矢が来る。
そう思った瞬間、時計の人物が片足を動かした。
たったそれだけだった。
でも、周囲の空気が変わった気がした。
「何……?」
目には何も見えない。
それなのに、近づいた矢が次々と不自然な方向へ弾かれていく。
右から来た矢は上へ。
正面から来た矢は地面へ。
背後から迫った一本は、まるで見えない壁へぶつかったように真横へ飛んだ。
全部を同じ方向へ弾いているわけじゃない。
攻撃が来るたび、結果だけが変わっている。
「やっぱり何かしてる……」
「能力かもしれねえな」
オラクルが低い声で答えた。
「能力?」
「決めつけんな。だが、ただ武器振り回してるだけの奴じゃねえのは確かだ」
最後の矢が逸れた瞬間、賞金稼ぎが動いた。
矢の雨そのものを隠れ蓑にしていたらしい。
巨大な武器を低く構え、時計の人物の懐へ一気に踏み込む。
速い。
あれだけ大きな武器を持っているのに、私には走り出した瞬間しか見えなかった。
次に姿を捉えたときには、もう目の前まで迫っている。
横薙ぎの一撃。
時計の人物が身体を反らす。
巨大な刃が胸元すれすれを通り過ぎた。
賞金稼ぎは振り抜かない。
途中で無理やり武器の軌道を変え、そのまま下から跳ね上げる。
時計の人物も初めて大きく後退した。
「押してる……?」
赤が呟いた。
でも、オラクルは答えなかった。
賞金稼ぎがさらに踏み込む。
一撃、二撃と巨大な武器が振るわれ、そのたびに地面が抉られ、岩が砕ける。時計の人物はまともに受けず、紙一重でかわしながら少しずつ位置を変えていた。
そこへ七家の兵が動く。
「前衛、詰めろ!」
盾兵が一斉に前進し、時計の人物の退路を塞ぐ。
その隙間から槍が突き出された。
前には賞金稼ぎ。
左右には盾と槍。
後ろには弓兵。
今度こそ逃げる場所がない。
それでも時計の人物は慌てなかった。
ゆっくり片腕を上げる。
その動きを見た瞬間、賞金稼ぎが叫んだ。
「全員、止まれ!」
七家の兵たちの動きが止まった。
直後――時計の人物のすぐ前にあった石が弾け飛んだ。
何も触れていない。
攻撃もしていない。
それなのに拳ほどの石が凄まじい速度で飛び、少し離れた岩壁へめり込んだ。
七家の兵たちが息を呑む。
賞金稼ぎだけは、時計の人物から目を逸らしていなかった。
「……なるほどな」
男は巨大な武器を握り直す。
「面倒な能力だ」
時計の人物は何も答えない。
二人の間に緊張が走る。
丘の上にいる私まで、息をするのを忘れそうになった。
そのとき黄色が、突然私の腕を掴んだ。
「思い出したでぷ!」
「え?」
声が大きくなりそうになった私の口を、オラクルがすぐ塞いだ。
「静かにしろ」
「ご、ごめん……」
黄色は時計の人物を指差しかけ、慌てて手を引っ込めた。
「紙で見たでぷ。前に街で貼ってあった手配書でぷ」
「手配書?」
「そうでぷ! あいつ、賞金首でぷ!」
私はもう一度、眼下の人物を見る。
大勢の七家の兵に囲まれ、それでも一人で立っている時計の人物。
その人が、手配書に載っていた。
黄色は何かを言いかけたけれど、眼下で賞金稼ぎが再び構えたため、言葉を止めた。
七家の指揮官も片腕を上げる。
弓兵が矢をつがえ、槍兵が姿勢を低くする。
今度はさっきまでとは空気が違った。
試すような攻撃じゃない。
七家も、賞金稼ぎも、本気であの人物を止めようとしている。
対する時計の人物も、初めて両腕を下ろし、僅かに姿勢を変えた。
その足元で小石が一つ転がる。
次の瞬間、転がっていたはずの石が弾丸のように飛び、賞金稼ぎの頬を掠めた。
男の頬に細い傷が走る。
血が一筋流れた。
賞金稼ぎはそれを親指で拭うと、笑った。
「七百の首だけはある」
黄色の身体がぴくりと動いた。
私はその言葉の意味が分からず、隣を見る。
「七百って何?」
黄色は私を見た。
そして、信じられないものを見るような顔をした。
「フールちゃん……まさか忘れたでぷ?」
「何を?」
黄色の顔が見る見る険しくなる。
けれど、答えを聞く前に戦場から轟音が響いた。
七家の兵たちが一斉に動き、賞金稼ぎが地面を蹴る。
時計の人物の周囲でも、目には見えない何かが動いた。
三つの力が正面からぶつかろうとしている。
「伏せろ!」
オラクルに頭を押さえられた直後、丘全体が揺れた。
さっきまでとは比べものにならない衝撃だった。
草が大きく倒れ、土と小石が頭上を飛んでいく。
私は腕で顔を庇いながら、どうにか丘の下を見た。
土煙の中で、賞金稼ぎの巨大な武器と時計の人物の影が再びぶつかる。
七家の兵たちも退いていない。
戦いは、ここからさらに激しくなる。
そして私はまだ知らなかった。
黄色が怒った理由も。
賞金稼ぎが口にした《七百》という数字が何を意味するのかも。
その人物に――どれほど途方もない懸賞金が掛けられているのかも。




