第47話 沈む道からの脱出
「走れ!」
オラクルの声を合図に、私たちは一斉に石段を駆け上がった。
来るときには足元を確かめながら慎重に下った《沈んだ道》を、今は振り返る余裕もなく駆け戻っている。最深部から青白い灯りが一つずつ消え、それに合わせるように左右の水壁が内側へ迫り、通り過ぎたばかりの石段を下から次々と湖へ沈めていた。
私は《人魚の旋律》を胸元へ押さえ、濡れた階段から足を滑らせないことだけに集中した。二つ首の魔物との戦いで体力を使い、炎が掠めた背中は走るたびにひりつくうえ、毒の霧を僅かに吸い込んだせいか呼吸をするたび喉まで痛む。
それでも止まることはできない。
「フールちゃん、右でぷ!」
緑の声に反応して身体を寄せた直後、左側の水壁から大量の水が溢れた。水は階段を斜めに横切り、ほんの少し前まで私がいた場所を一気に呑み込んでいく。
「ありがとう!」
「今度は前見るでぷ!」
「見てるよ!」
こんな状況なのに言い返してしまったけれど、緑の注意は正しかった。
水が戻り始めたことで石段は行きより遥かに滑りやすくなり、しかも帰りは長い上り坂になっている。前を走る黄色も何度か足を取られ、そのたびに緑が支えていた。
後ろには赤、そのさらに後ろにはオラクルがいる。
全員いる。
それだけを何度も確認しながら走った。
◇
ゴゴゴゴゴ……。
湖全体を震わせるような音が響いた。
次の瞬間、青白い灯りが五つほどまとめて消える。
それまで一段ずつ追ってきていた水が、今度は数段まとめて階段を呑み込んだ。
「閉じるの速くなったでぷ!」
「台座の仕掛けが完全に切れ始めてる! 速度上げろ!」
オラクルの声に押され、私たちはさらに足を速めた。
しかし、ただ速く走ればいいわけではなかった。
前方の右側で水壁が大きく膨らみ、大量の水が階段へ流れ込んでくる。
「止まれ!」
急停止した私たちの目の前を、激しい流れが横切った。
あと数歩先へ進んでいたら、そのまま階段から押し流されていたかもしれない。
問題は、待っている間にも後ろから水が迫っていることだった。
前へ行けば流される。
止まれば沈む。
オラクルは横切る水だけを見つめ、僅かに流れが弱くなった瞬間に叫んだ。
「今だ! 一人ずつ行け!」
黄色が最初に渡り、緑、赤と続く。
私も流れへ踏み込んだ。
足首へぶつかった水は想像以上に強く、一歩目で身体が横へ持っていかれた。
「わっ!」
赤が腕を掴んでくれる。
私も反対側の石へ足を踏ん張り、どうにか転倒を免れた。
「ありがとう!」
「早く渡るでぷ!」
二人で流れを抜ける。
最後にオラクルも渡り切った直後、さっきまで私たちがいた数段が完全に水へ沈んだ。
もう戻れない。
前へ進むしかなかった。
◇
出口の夜空が少しずつ大きくなっていく。
三日月まで見えるようになり、あと少しだと思ったところで、背後から二つの声が重なった咆哮が響いた。
グオオオオオオオッ――!
二つ首の魔物だった。
「まだ来るの!?」
姿は見えない。
けれど暗い階段の下で、赤い光が急速に膨らんでいく。
「伏せろ!」
オラクルの声と同時に、炎が石段を駆け上がった。
私たちは一斉に身体を伏せる。
赤い奔流は頭上を通過すると左右の水壁へ激突し、大量の水を一瞬で蒸気へ変えた。
白い霧が階段を覆い、出口も足元も見えなくなる。
「動くな!」
オラクルの声だけが聞こえた。
走れば階段を踏み外す。
でも、立ち止まっている間にも足元へ水が流れ込み、最初は靴だけだった冷たさがすぐ足首まで上がってくる。
黄色の声が震えた。
「水来てるでぷ……!」
「まだだ!」
オラクルは待った。
一秒、二秒と過ぎるたびに水位が上がり、焦りだけが大きくなる。
やがて蒸気の向こうに、青白い灯りがぼんやり浮かんだ。
「今だ! 走れ!」
私たちは立ち上がり、白い霧を突っ切った。
出口まではもう遠くない。
けれど、ここから先で古い石段そのものが限界を迎えた。
最初に聞こえたのは、足元からの小さな亀裂音だった。
ゴキッ。
一段が割れ、その破片が水へ落ちる。
続いて二段目。
さらに三段目。
戻る水の圧力に耐えきれなくなった石段が、私たちを追うように下から崩れ始めた。
「階段までなくなるでぷ!」
黄色が叫ぶ。
「前だけ見ろ!」
出口まであと数十段。
私たちは残った力を振り絞って駆け上がった。
黄色が最初に岸へ飛び出し、緑が続く。赤もあと数段のところまで来ている。
私も最後の階段へ足を掛けた。
その瞬間、濡れた石が割れた。
「えっ――」
右足が沈む。
身体が後ろへ傾き、胸元から《人魚の旋律》を包んだ布が滑りかけた。
私は反射的にそれを抱え込んだ。
そのせいで、手をつくのが遅れた。
「フール!」
後ろからオラクルの腕が伸び、私の服を掴んだ。
強く引かれ、私は一段上へ投げ出される。
「走れ!」
「オラクルは!?」
「後ろにいるから助けられんだろ! 行け!」
赤が上から私の腕を掴んだ。
私は赤に引き上げられ、そのまま岸へ転がり込む。
すぐに振り返った。
オラクルはまだ階段にいる。
私を助けたことで、他のみんなより数段遅れてしまっていた。
その背後では石段が次々と崩れ、水が迫っている。
「オラクル、早く!」
「分かってる!」
最後の数段を駆け上がる。
あと三段。
そのとき、オラクルが踏んだ石が崩れた。
身体が一気に沈み、下半身が水へ呑まれる。
「オラクル!」
私は岸へ腹ばいになって手を伸ばした。
届かない。
オラクルは崩れ残った石へ片手を掛けているけれど、戻ってくる水が身体を湖側へ引っ張っている。
「近づきすぎんな!」
「いいから手!」
私はさらに身体を乗り出した。
赤がすぐ腰を掴み、緑と黄色がその赤を後ろから支える。
これなら届く。
オラクルも空いている腕を伸ばした。
指先が触れる。
私は手首を掴んだ。
「引くよ!」
四人で一斉に後ろへ力を掛けた。
水の力は重く、オラクルの身体は簡単には上がらない。それでも少しずつ肩が水から出て、胸まで岸へ近づいてくる。
その直後、オラクルが掴んでいた最後の石が砕けた。
身体が再び水へ引かれ、私の腕まで一気に伸ばされる。
「離さない!」
赤が私の腰をさらに強く引いた。
「引くでぷ!」
緑と黄色も続く。
「黄色、もっと!」
「お金より強く引いてるでぷ!」
「なんで今それと比べるの!」
叫んだ拍子に全員の力が揃った。
オラクルの身体が一気に岸へ上がり、私たちはまとめて後ろへ倒れ込んだ。
その直後だった。
轟音とともに左右の水壁が崩れ、《沈んだ道》が完全に湖へ呑み込まれた。
巨大な水柱が夜空へ噴き上がり、押し寄せた波が桟橋まで飲み込んでいく。
「まだ終わってねえ! 離れろ!」
オラクルの声に、私たちは痛む身体を無理やり起こした。
最後の波から逃げるため、森の手前まで走る。
そこでようやく――本当に足が止まった。
◇
もう誰にも走る力は残っていなかった。
私は濡れた地面へ座り込み、まず周囲を見回した。赤は肘と膝に擦り傷を作り、緑は途中で打った片膝を押さえ、黄色も何度か転びかけたせいで腕や脚が泥だらけになっている。オラクルは最後に水へ引き込まれたことで全身びしょ濡れになり、石へしがみついた手のひらから血が滲んでいた。
私自身も、二つ首の炎に掠められた背中が熱を持ち、毒霧を僅かに吸った喉がひりついている。脚は長い階段を全力で駆け上がったせいで震えていた。
それでも、深刻な怪我をしている者はいない。
そして、全員ここにいる。
「……みんな、歩ける?」
「歩けるでぷ」
赤が答え、緑と黄色も頷いた。
オラクルは傷ついた手を軽く振った。
「俺も問題ねえ。それより確認しろ」
「何を?」
「命懸けで持ってきた物だよ」
私は胸元へ手を入れた。
指先に硬い感触が触れる。
取り出すと、《人魚の旋律》は変わらず淡い水色の光を放っていた。
「……あった」
その一言で、ようやく身体から力が抜けた。
二つ首の魔物を倒したわけではない。湖底の謎を全部解いたわけでも、《人魚の旋律》の使い方が分かったわけでもない。
それでも必要だと思ったものを手に入れ、誰一人欠けずに湖の底から帰ってきた。
今は、それで十分だった。
◇
緊張が抜けると、身体の痛みが一気に強くなった。
オラクルに言われて怪我を確認し、残っていた薬で最低限の手当てをする。私の背中には軽い火傷があり、赤と黄色には擦り傷、緑の膝には打撲、オラクルの手のひらには石で裂いた傷があった。幸い、全員自力で歩ける程度だったので、傷を洗って薬を塗り、必要なところだけ布を巻いた。
「今日はもう村まで戻れねえな」
オラクルの判断に、誰も反対しなかった。
キャメル村までは半日掛かる。
この状態で夜道を歩けば、今度こそ余計な怪我をする。
私たちはビーン湖から十分に離れた場所へ移動し、濡れた服を乾かすために火を起こした。
ようやく腰を下ろした赤が、食料袋を覗き込む。
「魚ないでぷ?」
黄色が呆れた顔をした。
「今それ聞くでぷ?」
「いっぱい走ったからお腹空いたでぷ」
「それは私も」
残っていたパンと干し肉を分けることになった。
いつもの会話が戻ってくる。
それだけで、さっきまで湖の底にいたことが少し遠く感じられた。
私は火のそばで《人魚の旋律》を取り出した。
淡い水色の光が、みんなの顔を静かに照らす。
触れた瞬間に見えた、青い海。
白い波が砕ける岩場。
そして、水平線へ向かって歌っていた人魚。
「これに触ったとき、人魚が見えたんだ」
私はみんなに、そこで見たものを話した。
何かを言われたわけではない。
使い方を教えられたわけでもない。
ただ人魚が岩場に座り、海へ向かって歌っていた。
緑が《人魚の旋律》を覗き込む。
「名前が《人魚の旋律》なら、あの歌が何か関係してるでぷね」
「たぶん。でも、それ以上は分からない」
オラクルが焚き火へ枝を放り込んだ。
「なら勝手に答え作んな。明日から調べりゃいい」
「うん」
分からなければ調べる。
それでも分からなければ、知っている人を探す。
ここまでだって、そうやって進んできた。
私は《人魚の旋律》を乾いた布へ包み、鞄の一番奥へしまった。
今夜はもう、それ以上考える必要はなかった。




