第46話 二つ首の番人
ゴォォォォ……。
《沈んだ道》の最深部から響いた低い音は、さっきより明らかに近かった。
私たちは湖岸まで下がり、青白い光に照らされた石段の先を見つめていた。あれほど巨大だった湖の生き物はすでに暗い水の向こうへ逃げ去り、戻ってくる気配はない。
最初は、あの巨大な生き物が私たちを襲っているのだと思っていた。
けれど違った。
あれは逃げていたのだ。
石段のさらに奥にいる、何かから。
「……行くでぷ?」
緑が小さな声で聞いた。
怖くないと言えば嘘になる。それでも、ここまで来た目的を思い出せば答えは決まっていた。
ガレオさんの倉庫で見つけた《精霊の叫び》。あの絵の中には、今も精霊たちが閉じ込められている。
助ける方法を探してアデューを出て、キャメル村へ来て、洞窟の奥から《水に選ばれる光石》を持ち帰った。そして三日月の夜、その石によってようやく《沈んだ道》が姿を現した。
この先に何があるのかは分からない。それでも、ここまで来て何も確かめずに引き返したくはなかった。
「行く」
私が答えると、赤が剣を握り直した。
「俺も行くでぷ」
黄色は石段と森を何度か見比べたあと、金袋を服の奥へ押し込んだ。
「絶対戻ってくるでぷよ」
「もちろん。全員でね」
ところがオラクルだけは、すぐに動かなかった。
石段ではなく、その両側にそびえる水の壁を見ている。
「待て。先に道を見ろ」
「道?」
言われて初めて気づいた。
左右へ押し退けられていた水が、僅かに石段側へ戻っている。ほんの少しだけれど、青白い光が照らしている道幅を見れば、確実に狭くなっていた。
緑も目を凝らした。
「さっきより水が近いでぷ」
「三日月が出てる間だけ開くのかな」
「月か《光石》か、どっちの力に限界があるのかは知らねえ。ただ一つ分かるのは、この道はずっと開いてねえってことだ」
オラクルは石段の先へ視線を戻した。
「行くなら時間制限つきだ。何が待ってても、帰り道が消える前に戻る」
黄色の顔が引きつった。
「閉じたらどうなるでぷ?」
「湖の底で水に挟まれる」
「帰るでぷ」
「早いよ!」
「でも行くでぷ! 早く行って早く帰るでぷ!」
どっちなの。
オラクルが私たちを見回した。
「赤が前。フール、緑、黄色は中央。俺が最後尾だ。勝手に離れるな。それと、奥に何がいても戦うこと自体を目的にすんな」
「敵がいたら倒さないでぷ?」
赤が首を傾げる。
「必要なら戦う。ただ、俺たちは魔物退治に来たんじゃねえだろ」
そうだった。
目的は《精霊の叫び》を救う方法を探すこと。敵が立ちはだかったとしても、それを倒すこと自体に意味はない。
「行こう」
私たちは再び、《沈んだ道》へ足を踏み入れた。
◇
階段を下るにつれて、頭上の夜空は見えなくなっていった。
頼れるのは足元に一定間隔で灯る青白い光だけ。左右には巨大な水の壁がそびえ、その向こうをときどき魚の影が横切っていく。
さっきまでいた巨大な生き物の姿はなかった。
それが安心にはならなかった。あれほど大きな生き物が逃げた先へ、私たちは自分から進んでいる。
「まだ下りるでぷ?」
赤が小声で聞く。
「まだ続いてるね」
緑は足元を確認しながら答えた。
「かなり下ってるでぷ。帰りは上りになるから、今より時間掛かると思うでぷよ」
「嫌なこと言わないでよ……」
そのとき、背後から水の音が聞こえた。
振り返ると、入口側の水の壁がさらに石段へ近づいている。
オラクルもそれを確認すると、舌打ちした。
「思ったより早えな。少し速度上げるぞ。ただし走るな。ここで転んだら余計に時間食う」
私たちは足元を確認しながら急いだ。
しばらく下り続けると、前方に青白い灯りとは違う光が見え始めた。
赤い。
ゆらゆらと揺れる赤色が岩壁へ反射し、それまで冷たかった空気に少しずつ熱が混じっていく。同時に、鼻を刺すような嫌な臭いまで漂ってきた。
「何、この匂い……」
緑が口元を押さえた。
「止まれ」
オラクルの声で、全員が足を止めた。
階段の先は、それまでの細い道とは比べものにならないほど広い空間になっていた。
天井は高く、岩壁には崩れかけた古い柱が何本も並んでいる。その中央だけが赤黒い光に照らされ、何か巨大なものが道を塞いでいた。
最初は、崩れ落ちた岩の塊だと思った。
けれど、その岩が呼吸した。
ゴォ……ゴォ……と重い音が広間へ響くたび、黒い鱗に覆われた胴体がゆっくり膨らむ。四本の太い脚は石柱ほどもあり、背中には岩の棘に似た突起が何列も並び、長く太い尾が石床を擦るたびに低い音を立てていた。
そして何より異様だったのは、その肩から伸びているものだった。
首が、二つある。
「……二匹じゃないでぷよね?」
赤が思わず呟いた。
一つの胴体から伸びた二本の首は、まるで別々の魔物を無理やり一つにしたように姿が違っていた。
左側は赤黒い。
首から頭部まで硬そうな鱗に覆われ、鱗の隙間からは炭火のような赤い光が漏れている。息を吐くたび鼻孔から火の粉が散り、牙の奥では炎が生き物のように揺れていた。
もう一方は、濁った深緑。
こちらの首は赤黒い首より細長く、四つの目を細めながら私たちをじっと観察している。半開きになった口から紫色の唾液が垂れ、床へ落ちるたびに石がジュッと音を立てて黒く変色した。
黄色が私の後ろへ隠れる。
「毒でぷ……」
たぶんそうだ。
でも、怖いのは見た目だけじゃなかった。
二つの首は、同じ相手を見ていない。
赤黒い首は私たちを見つけた瞬間から牙を剥き、今にも飛びかかりそうに頭を振っている。
それに対して深緑の首はほとんど動かず、私たちの位置だけでなく、左右の岩壁や背後の階段まで順番に見ていた。
まるで逃げ道を確認しているみたいだった。
「オラクル……あいつ、頭二つとも別々に動いてない?」
「ああ。面倒なタイプだな」
オラクルの声から、いつもの軽さが消えていた。
そのとき赤黒い首が突然前へ出た。
深緑の首が鬱陶しそうに押し返す。
二つの頭が一瞬だけぶつかり、互いに低く唸った。
「……仲悪いでぷ?」
赤が言う。
「だったら助かるんだけどな」
オラクルが答えた直後、赤黒い首が大きく息を吸った。
胸元から喉へ、赤い光が一気に駆け上がる。
「散れ!」
炎が吐き出された。
赤い奔流が広間を横切り、私たちが立っていた石床を一瞬で包み込む。飛び退いた直後、背後で岩が弾ける音が響き、振り返れば濡れていたはずの床から白い蒸気が立ち上っていた。
「熱っ……!」
それだけでは終わらなかった。
炎を避けた私たちが左右へ分かれた瞬間、ずっと動かなかった深緑の首が初めて大きく口を開いた。
狙っていたのは、私たちがいる場所ではない。
逃げた先だった。
紫色の毒が扇状に噴き出し、私たちの前方へ降り注ぐ。石床が次々と黒く焼け、鼻を刺すような臭いが広がった。
「前を塞がれた!」
緑が叫ぶ。
そこでようやく分かった。
火の首が追い立て、毒の首が逃げ道を潰す。
二つの頭は仲が悪そうに見えても、戦うときだけは厄介なほど噛み合っていた。
赤黒い首が怒りに任せて獲物を動かし、深緑の首がその動きを見て次に逃げる場所を狙う。
だから片方だけを見ていたら駄目だった。
「こいつ……ただ二種類吐くだけじゃねえぞ」
オラクルが二つの首を交互に見る。
「火のほうが追い込んで、毒のほうが仕留めるつもりだ」
二つ首の魔物が一歩前へ出た。
ズン、と床が揺れる。
赤黒い首が吠え、それに重なるように深緑の首が低く唸った。まったく違う二つの声が重なり、広間そのものが震えているように聞こえた。
その巨体の向こうには、水色に輝く台座が見えている。
私たちが欲しいものは、あの魔物の先にある。
そして背後では、《沈んだ道》を支えている水の壁が少しずつ近づいている。
オラクルが武器へ手を掛けた。
「覚えとけ。あいつを倒す必要はねえ」
赤も剣を構える。
「じゃあ、どうするでぷ?」
「二つ頭があるなら――二つとも騙す」
赤黒い首の口に、再び炎が灯った。
その横で深緑の首は、もう私たちが次に逃げる場所を探していた。
◇
二度目の炎が来る。
今度は正面ではなく、赤黒い首が大きく振られ、炎が横薙ぎに広間を走った。
「伏せろ!」
全員が床へ身体を落とす。
熱風が頭上を通り抜け、髪が焼けるような熱を感じた。
立ち上がるより早く、深緑の首が動く。
「右行くな!」
オラクルが叫ぶ。
直後、右側の床へ毒が降り注いだ。
私が逃げようとした場所だった。
「読まれてる……」
「だからバラバラに動くな!」
赤が剣を握った。
「俺が斬るでぷ!」
飛び出そうとした赤の服を、オラクルが掴んだ。
「倒そうとすんな!」
「でもこいつ倒さないと進めないでぷ!」
「本当にそうか?」
オラクルが魔物の向こうを指した。
そこで初めて、私は気づいた。
広間の一番奥に、石造りの台座がある。
その上に何かが置かれていた。
淡い水色の光をまとった、小さな貝殻のようなもの。表面には波を思わせる細かな模様が刻まれ、その周囲を水滴のような光が漂っている。
「あれ……」
理由なんて分からない。
でも、見た瞬間に思った。
あれを取りに来た。
緑も気づいた。
「フールちゃん、奥に何かあるでぷ!」
オラクルは魔物ではなく、台座までの距離を測るように目を動かした。
「目的はあいつじゃねえ。奥の物だ」
「取って逃げるでぷ?」
赤が聞く。
「ああ。それが一番早い」
その直後、背後から大量の水音が響いた。
振り返る。
階段の両側にあった水の壁が、さっきより明らかに近づいている。
入口へ続く道がさらに狭くなっていた。
「まずいでぷ!」
緑が叫ぶ。
時間がない。
この魔物を倒すまで戦っていたら、帰り道が水に呑まれる。
オラクルが即座に指示を出した。
「戦い方変えるぞ。勝つ必要はねえ。奥の物を取って全員で帰る。それだけ考えろ」
全員が頷いた。
「赤、火の首を引きつけろ。ただし近づきすぎんな。俺が毒の首を見る。緑と黄色は左右へ散って注意を逸らせ」
「私は?」
オラクルが私を見る。
「お前が奥まで走れ」
魔物の向こう。
台座まで二十歩ほど。
「一回で抜けろ。二回目やってる時間はねえ」
私は息を整えた。
「分かった」
赤が剣を構える。
「行くでぷ!」
◇
最初に飛び出したのは赤だった。
「こっちでぷ!」
赤黒い首が反応し、大きく開いた口の奥が赤く染まる。
「赤、止まるな!」
炎が吐き出された。
赤は魔物へ近づかず、大きく左へ走る。炎がその動きを追い、石床を横薙ぎに焼いていった。
同時にオラクルが右へ飛び出した。
「こっちも見ろ!」
深緑の首がオラクルへ向く。
二つの首が左右へ分かれた。
「今だ!」
私は中央を走った。
魔物の真正面へ。
心臓が痛いほど鳴っている。
巨大な胴体との距離を詰めたところで、深緑の首がオラクルからこちらへ向きを変えた。
「フールちゃん!」
緑の声が聞こえる。
紫色の液体が飛んできた。
私は右へ身体を投げ、床を転がった。
毒がすぐ横へ落ち、石床から白い煙が噴き上がる。手をついて立ち上がると、台座までは残り十歩ほどだった。
まだ行ける。
ところが赤黒い首まで私へ向いた。
二つとも気づいた。
「おい! こっちだ!」
オラクルが足元の石を拾い、深緑の首の顔へ投げつけた。
石が目の近くへ当たり、魔物が怒りに任せて首を振る。
「走れ!」
私は再び床を蹴った。
台座まで八歩、六歩、四歩。
水色に光るものが、はっきり見える。
その瞬間、巨大な尾が動いた。
「伏せろ!」
オラクルの声に反応して、私は考えるより先に地面へ身体を投げ出した。直後、頭上を太い尾が唸りを上げて通過し、そのまま横にあった石柱へ激突する。
石柱が途中から砕け、大きな破片が広間へ降り注いだ。
両腕で頭を庇い、破片が落ちる音の中で起き上がろうとしたとき、今度は魔物の右前脚が目の前へ振り下ろされた。
ズンッ!
床が揺れ、亀裂が走る。
台座はすぐ向こうなのに、巨大な脚が完全に道を塞いでいた。
私は左へ回ろうとした。
それを待っていたように、深緑の首がこちらを見る。
まずい。
毒の首は私が逃げる方向を読んでいる。
なら――逆。
私は左へ踏み出すふりをして、すぐ右へ身体を切り返した。
紫色の毒が左側へ降り注ぎ、石床から白い煙が噴き上がる。
「抜けた!」
けれど、赤黒い首が待っていた。
口の奥が赤く染まり、炎が膨れ上がる。
今度こそ逃げ場がない。
「フールちゃん!」
赤が魔物の前脚へ剣を叩きつけた。
ガキンッ!
硬い鱗に弾かれ、刃はほとんど通っていない。それでも赤黒い首の注意が一瞬だけ赤へ逸れた。
その一瞬で十分だった。
私は巨大な脚の下へ滑り込んだ。
「うわっ!」
背中のすぐ上を炎が通過する。
焼けるような熱が襲い、服の端から焦げた臭いがした。
それでも止まらない。
床へ手をつき、脚の反対側へ抜ける。
目の前に台座があった。
私は最後の数歩を駆け抜け、水色に光るものへ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間――広間の景色が消えた。
◇
目の前に広がっていたのは、青い海だった。
どこまでも続く水平線。
白い波が岩場へ打ち寄せ、細かな水しぶきが陽の光を受けて輝いている。
その岩場の一番高い場所に、一人の人魚が座っていた。
長い髪を潮風になびかせ、人魚は遠い水平線を見つめながら歌っている。
透き通った歌声だった。
静かなのに波音へ消されることなく、海そのものへ溶け込みながら遠くまで広がっていく。
言葉の意味は分からない。
それでも、私はその場から動けなかった。
岩場へ大きな波が打ち寄せる。
白い水しぶきが視界いっぱいに広がった瞬間、海も人魚も消えた。
「……今の、人魚?」
気づけば私は再び広間に立っていた。
時間はほとんど経っていないようだった。
手の中には、水色に輝く小さなものがある。
そして、名前だけが自然と頭の中へ浮かんできた。
《人魚の旋律》。
「人魚の……旋律」
何のために作られたものなのか、何に使うのかは分からない。ただ、さっき見た人魚の歌と、この不思議な品がつながっていることだけは感じられた。
「フール! 取ったなら戻れ!」
オラクルの声で我に返った。
「取った!」
私は《人魚の旋律》を握りしめて振り返った。
その瞬間だった。
広間全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
《人魚の旋律》が置かれていた台座が、低い音を立てながら床へ沈み始める。同時に、台座から岩壁へ伸びていた青白い線が一本、また一本と消えていった。
背後から、これまでとは比較にならないほど大きな水音が響く。
緑が階段を見る。
「道が!」
それまで少しずつ狭まっていた《沈んだ道》の両側から、水が一気に内側へ迫り始めていた。
台座と、道を維持していた仕掛けがつながっていたらしい。
《人魚の旋律》を外したことで、その仕掛けまで止まり始めたのだ。
「まずい! 全員戻れ!」
オラクルが叫ぶ。
私は《人魚の旋律》を胸元へ抱え、台座から走り出した。
けれど、二つ首の魔物が巨大な身体を横へずらした。
階段への道が完全に塞がれる。
赤黒い首の口には炎が膨れ上がり、深緑の首の牙からは紫色の毒が溢れている。
今度は二つの首が、同時に私を見ていた。
「フール、止まれ!」
炎と毒が同時に放たれた。
私は台座の陰へ飛び込む。
炎が右側を焼き払い、毒が左側へ降り注いだ。熱と刺激臭が一気に広がり、逃げ道が両側から塞がれる。
「これじゃフールちゃん戻れないでぷ!」
赤が叫ぶ。
「分かってる!」
オラクルは魔物の攻撃を避けながら、二つの首と出口を交互に見ていた。
倒すまで戦っている時間はない。
でも、このままでは横を抜けられない。
そのときだった。
赤黒い首が吐いた炎が床を焼き、その直後、深緑の首が放った毒液の一部が同じ場所へ落ちた。
ジュワアアッ――!
激しい音とともに、白紫色の蒸気が噴き上がった。
二つ首の魔物まで顔を背ける。
オラクルの目が細くなった。
「……そういうことか」
「何か分かったの!?」
「こいつら、自分たちの攻撃まで完全に平気ってわけじゃねえ」
確かに、炎と毒が混ざった場所から上がる蒸気を、二つの首は嫌がっている。
しかも視界まで遮られていた。
「倒す必要はねえ。数秒見えなくすりゃいい」
オラクルが素早く指示を飛ばす。
「赤、火のほうを右へ引っ張れ。俺が毒の首を左へ向かせる。緑と黄色は先に階段へ近づけ。フールは合図まで台座から出るな!」
「分かったでぷ!」
赤が走った。
「こっちでぷ!」
剣で床を叩き、大きな音を立てる。
短気な赤黒い首はすぐ反応した。
赤を追って右へ向き、大きく口を開く。
オラクルは反対側へ走りながら、砕けた石柱の破片を拾った。
「お前はこっちだ!」
破片を深緑の首へ投げる。
一発目は鱗に弾かれた。
二発目が鼻先へ当たる。
深緑の首は赤黒い首ほど簡単には乗ってこない。
オラクルではなく、台座の陰にいる私を見ている。
「やっぱりこっちは頭使うか……」
オラクルがわざと階段側へ走った。
その瞬間、深緑の首の視線が動いた。
逃げ道を塞ぐ性質を逆手に取ったのだ。
深緑の首が大きく口を開く。
狙いはオラクルの先。
階段へ戻る道だった。
「来るぞ!」
赤黒い首も炎を吐くため、大きく息を吸う。
オラクルが叫んだ。
「赤、戻れ!」
二人が同時に左右へ飛んだ。
炎と毒が放たれる。
赤い奔流と紫色の毒液が、魔物の正面で激突した。
ジュワアアアアアッ――!
さっきとは比べものにならない量の白紫色の蒸気が広間へ噴き上がった。
「グオオオオオオッ!」
二つの首が同時に咆哮する。
赤黒い首は目を閉じて暴れ、深緑の首も視界を失って後退した。互いの首がぶつかり、怒った二つの頭が一瞬だけ噛みつき合うように押し合う。
中央が開いた。
「今だ! 走れ!」
緑と黄色が階段へ飛び込む。
赤もすぐ後を追った。
私は《人魚の旋律》を胸へ抱え、台座の陰から飛び出した。
白紫色の蒸気が広がっていて、前がほとんど見えない。鼻と喉が焼けるように痛み、息を止めながら出口の青白い光だけを目印に走る。
あと少し。
そのとき、蒸気の中から巨大な尾が飛び出した。
「フール、止まれ!」
オラクルの声に反応して急停止する。
目の前を尾が通過した。
風圧で身体がよろめく。
あと一歩進んでいたら、まともに受けていた。
「今だ、行け!」
私は再び走った。
階段へ飛び込む。
「フールちゃん!」
緑と黄色が待っていた。
「大丈夫!」
赤もいる。
でも、オラクルがまだ来ていない。
振り返る。
蒸気の向こうからオラクルが走ってくる。
その背後で赤い光が膨らんだ。
視界を奪われた火の首が、オラクルのいる方向へ炎を吐こうとしている。
「オラクル、後ろ!」
私が叫んだ。
赤が反射的に剣を構えた。
一瞬、投げようとする。
でもすぐに足元へ目を向け、砕けた石柱の破片を拾った。
「こっち向くでぷ!」
赤が全力で投げる。
石の塊が赤黒い首の鼻先へぶつかった。
首が僅かに横を向く。
直後、炎が吐き出された。
赤い奔流がオラクルのすぐ横を通過し、岩壁へ激突する。
「今でぷ!」
オラクルが最後の距離を走り、階段へ飛び込んだ。
全員揃った。
「よし、帰るぞ!」
オラクルが叫ぶ。
その背後で、白紫色の蒸気の中から二つ首の咆哮が響いた。
魔物は倒していない。
傷らしい傷さえ、ほとんど与えていない。
でも、それでいい。
私たちが欲しかったのは勝利じゃない。
《人魚の旋律》を手に入れ、全員でここから帰ることだった。
私は胸元の水色の光を確認し、階段の上を見る。
遠くに、三日月の浮かぶ夜空が見えた。
しかし、その間にある《沈んだ道》は、来たときより明らかに狭くなっている。
青白い灯りが最深部から順番に消え、そのたびに左右の水が石段へ流れ込んでいた。
すでに一番下の数段は、水の中へ消えている。
黄色の顔が引きつった。
「これ……間に合うでぷ?」
答えるより先に、私たちが立っていた段まで水が押し寄せた。
オラクルが階段の上を睨む。
「喋ってる時間もねえ。走れ!」
私たちは一斉に石段を駆け上がった。
背後では、二つ首の魔物の咆哮とともに《沈んだ道》が下から次々と湖へ呑み込まれていく。
《人魚の旋律》は手に入れた。
二つ首も突破した。
それでも、まだ終わっていない。
湖の底から生きて帰るまでが――今回の目的だった。




