第45話 ビーン湖
翌朝、まだキャメル村に薄い朝靄が残っているうちに、私たちは宿を出た。
昨日の夜に準備を済ませていたので、あとはビーン湖へ向かうだけだった。水と食料は二日分、洞窟で使った松明や縄の残りも持っている。そして私の鞄の奥には、何重にも布で包んだ《水に選ばれる光石》が入っていた。
「忘れ物ないでぷね?」
黄色が宿の前で荷物を確認し、水、食料、金袋、《水に選ばれる光石》と順番に指を折っていく。なぜかお金を確認するときだけ声が大きくなったので、「石より大事なの?」と聞いてみると、少し迷った末に「今日は石も大事でぷ」と答えた。
赤が気にしているのは、自分の荷物ではなく黄色の持つ食料袋だった。
「魚はちゃんと入ってるでぷ?」
「一匹だけ入れたでぷ。昨日決めた通りでぷ」
「途中で増えてないでぷ?」
「勝手に増える魚なんていないよ」
「いたら嬉しいでぷ」
そんな赤の横では、緑が昨日書いた道順を確認していた。ビーン湖までは南東へ半日ほどで、途中まではキャメル村の人たちも使う道が続いているらしい。
オラクルは煙草へ火をつけると、私たちを見回した。
「日が落ちるまでには余裕で着く。急ぐ必要はねえが、寄り道はすんなよ」
なぜか全員の視線が私へ集まった。
「なんで私見るの?」
「一番止まりそうだからだろ」
「赤だって食べ物があったら止まるよ!」
「止まるでぷ」
赤が即答する。
「黄色だってお金が落ちてたら止まるでしょ」
「拾うでぷ」
「緑だって珍しい本が落ちてたら?」
「拾うでぷ」
全滅だった。
最後にオラクルを見る。
「オラクルも酒場があったら止まるよね?」
オラクルは少し黙ってから煙を吐いた。
「……出発するぞ」
「逃げた!」
朝から騒がしくなったけれど、いつものことだった。
私たちはキャメル村を出て、南東へ続く道を歩き始めた。
◇
村を離れてしばらくは、畑や牧草地の間を通る穏やかな道が続いた。
朝早くから畑仕事をしている人たちとすれ違い、さらに村から離れると人の姿も減って、代わりに草原や背の高い木々が増えていく。
最初のうちは赤も元気で、ビーン湖の大きさや魚の数についてずっと話していた。
「大きい湖なら魚いっぱいでぷ」
「それは知らないよ」
「大きいならいっぱいでぷ」
赤の中では湖の大きさと魚の数は必ず比例するらしい。
「釣りはしないからね」
「三日月が出るまで待つでぷよね?」
「そうだけど……」
言ってから失敗したと思った。
赤の目が輝く。
「待ってる間に釣りできるでぷ!」
「しまった……」
黄色が「釣り道具持ってないでぷ」と指摘したけれど、赤は落ちている枝に糸を結び、餌は虫を捕まえればいいと言い出した。
オラクルまで「何時間も待つなら暇潰しにはなるだろ」と言い始めたので、私は目的を忘れないことだけ約束させた。
すると赤はさっきより速く歩き始めた。
やっぱり目的が少し変わっている気がする。
◇
昼前になると、道は森の中へ入った。
木々が日差しを遮ってくれるので歩きやすかったけれど、足元には太い根が何本も張り出している。洞窟で何度も足元を注意されたばかりなので、今度は私も前をしっかり確認して歩いた。
「今日は転ばねえな」
後ろからオラクルが言う。
「成長したからね」
「昨日の今日だろ」
「一日でも成長は成長だよ」
赤も横から頷いた。
「俺も地下川で転ばなくなったでぷ」
「一回しか転んでないでしょ」
「帰りは転ばなかったでぷ」
確かに間違ってはいない。
森の途中で小さな沢を見つけたので、私たちは少し早めの昼休憩を取ることにした。
木陰へ荷物を置くと、黄色が食料袋を開ける。その瞬間、赤も隣へ座って中を覗き込んだ。
「魚でぷ」
「夜まで取っておくでぷ」
「今食べたいでぷ」
「パン食べるでぷ」
「魚が――」
「パン」
黄色が強かった。
赤は諦めてパンを受け取る。
私は水を飲みながら、鞄の中から《水に選ばれる光石》を取り出した。布を少し開くと、洞窟で見たときと変わらない青白い光が漏れる。
緑も隣へ来た。
「何か変わったでぷ?」
「分からない。昨日と同じだと思う」
オラクルも石を確認したものの、湖に近づいたことで反応が強くなっている様子はなかった。
「伝承じゃ三日月を待てって話だった。今何も起きねえなら、夜までは普通の石なんだろ」
「普通ではないと思うけど」
「光る石だな」
「そういう意味じゃないよ」
私は石をもう一度丁寧に包み、鞄へ戻した。
今は焦っても仕方ない。三日月が現れるのは夜なのだから。
◇
午後に入ってしばらくすると、森の木々が少しずつ疎らになり、湿った土や草の匂いに混じって、大きな水辺に近づいたときの冷たい空気が流れてくるようになった。
「もうすぐかな」
緑が道を確認する。
「村で聞いた距離なら、そろそろでぷ」
そのとき、赤が足を止めた。
「どうしたの?」
「鳥いないでぷ」
言われて初めて気づいた。
森へ入ってからずっと聞こえていた鳥の声が、いつの間にか消えている。虫の音まで少なくなり、今は風が葉を揺らす音ばかりが妙にはっきり聞こえていた。
オラクルも周囲を見回す。
「さっきまでは鳴いてたな」
「湖が近いから?」
「普通は水辺のほうが鳥も集まるだろ」
少し嫌な感じがした。
さらに進むと、道の脇に小さな羽根が落ちていた。赤が拾おうとしたけれど、オラクルが止める。
「触るな。何があったか分からねえ」
羽根は一枚だけではなく、少し先にも、そのさらに先にも落ちていた。血や争った跡は見当たらず、鳥たちが一斉に飛び立ったときに抜け落ちたように、湖とは反対の方向へ点々と続いている。
緑が本へ記録しながら呟いた。
「湖から逃げたみたいでぷ」
私は鞄の中の石へ手を当てた。
何も反応しない。
「進むぞ。ただし、ここからは周り見とけ」
オラクルの声から、さっきまでの軽さが消えていた。
私たちは自然と間隔を詰め、湖へ向かった。
◇
森を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
目の前には、今まで見たどの湖よりも大きな水面が広がっていた。向こう岸は遠く、木々が細い線のように見える。深い青色の湖面には午後の日差しが細かく反射し、さっきまで感じていた不安が一瞬だけ消えるほど綺麗だった。
「これがビーン湖……」
赤も目を見開く。
「でっかいでぷ! 魚いっぱいでぷ!」
「まだ見えてないでしょ」
湖岸には小さな桟橋があり、数艘の舟が繋がれていた。その近くには網や籠を置くための小屋もある。
でも、人の姿がなかった。
「漁師さんは?」
「時間によっちゃ帰ってるだけかもしれねえ」
オラクルはそう答えたものの、すぐには煙草を取り出さなかった。
小舟も網もある。
桟橋の端には、水を張った桶まで置かれている。その中には小さな魚が数匹泳いでいたので、少なくとも今日ここに誰かがいたことは間違いない。
なのに、漁具は片づけられていなかった。
「急いで帰ったみたいでぷ」
緑が言う。
私も同じ印象を受けた。
湖面そのものは穏やかで、危険なものは何も見えない。それでも、森から鳥たちが消えていたことと合わせると、ただ漁師が仕事を終えて帰っただけとは思えなかった。
「夜まで時間ある。まず周りを調べるぞ」
オラクルの言葉に全員が頷いた。
◇
湖岸を一通り調べても、《水に選ばれる光石》に変化はなかった。
石を水辺へ近づけても、洞窟と同じ淡い光を放つだけで、東へ歩いても西へ進んでも反応は変わらない。
黄色が何度目かの提案をする。
「やっぱり投げるでぷ」
「まだ投げないよ!」
「紐つけて投げるでぷ?」
「なんでそこまで投げたいの?」
オラクルが笑った。
「伝承が三日月を待てって言ってんだ。今反応しねえなら、夜まで待つしかねえだろ」
もっともだった。
赤は待ち時間を利用して、宣言していた釣りを始めた。落ちていた枝へ糸を結び、森で捕まえた虫を餌にして湖へ垂らしたけれど、しばらく待っても一度も魚は掛からなかった。
最初は赤が釣りに慣れていないだけだと思っていた。
でも、時間が経つにつれて別のことが気になってきた。
湖面で魚が跳ねない。
水鳥も戻ってこない。
昼間、桟橋の桶には魚が残されていたのに、目の前の大きな湖からは生き物の気配がほとんど感じられなかった。
「おかしいでぷ……」
赤も釣り竿を上げ、湖を覗き込む。
オラクルは煙草を消すと、黒くなり始めた水面へ目を向けた。
「釣れねえだけならどうでもいい。だが、ここまで生き物がいねえのは妙だな」
「昨日まではいたってことだよね?」
私は桟橋の桶を見る。
「魚が残ってるなら、少なくとも漁師が来なくなったのはずっと前じゃねえ。何かあったとしても最近だ」
緑が湖を見渡した。
「鳥も漁師さんも、同じものから逃げたでぷ?」
「そこまでは分からねえ。決めつけるな」
オラクルはそう言ったものの、私たちを湖岸から少し離れさせた。
「夜になったら勝手に動くな。何が起きても、まず全員で固まれ」
さっきまで魚が釣れないことを残念がっていた赤も、今度は素直に頷いた。
日が傾くにつれて、湖はさらに静かになった。風が吹けば水面は揺れ、木々も動く。それなのに生き物の声だけがなく、夕焼けに染まる巨大な湖は綺麗なはずなのに、何かが息を潜めて待っているように思えた。
私たちは桟橋から少し離れた場所に焚き火を作り、暗くなる前に食事を済ませた。
◇
日が完全に沈むと、ビーン湖は黒い水の塊へ変わった。
向こう岸の森も闇へ溶け込み、私たちは焚き火のそばで空と湖を交互に確認しながら待った。
やがて緑が立ち上がる。
「フールちゃん」
指差した東の空には、細い月が昇っていた。
私は緑の本を開いてもらうまでもなく分かった。
洞窟の分岐で私たちを導き、最深部では《水に選ばれる光石》と青い線で結ばれていたものと同じ形。
三日月だった。
その瞬間、鞄の中から青白い光が漏れた。
慌てて《水に選ばれる光石》を取り出すと、昼間まで静かだった石が脈打つように明滅している。一度光るたび、石の内部に細い三日月の形が浮かび上がった。
「これ……洞窟で見たのと同じだ」
あの魔法陣は、単に《三日月の日に来い》と教えていたわけではなかった。
この石そのものが、三日月を起動条件としている。
「だから昼間は何も起きなかったでぷね」
緑も気づいた。
オラクルは石から湖へ視線を移した。
「月が石を起こして、その石で湖の仕掛けを動かす……そういう順番か」
まるでその答えを肯定するように、《水に選ばれる光石》から一筋の光が伸びた。
光は湖面を滑り、岸から少し離れた一点へ届く。そこを中心に青白い円が浮かび、波があるにもかかわらず、その円だけは形を崩さなかった。
私が岸へ近づくほど石の明滅は速くなり、離れると弱まる。
使う場所まで示している。
黄色が湖面と石を見比べた。
「やっぱり投げるでぷ」
今度は誰も笑わなかった。
オラクルも青白い円を見つめたまま言う。
「そこまで石が教えてんなら、やってみる価値はある」
私は少し迷ってから、《水に選ばれる光石》を握り直した。
もし間違っていれば、洞窟の最深部まで探しに行った石を失う。
それでも、ここまで来て何もしなければ先へは進めない。
「……投げるよ」
青白い円の中心へ向けて腕を振った。
《水に選ばれる光石》が三日月の下を飛び、水面へ落ちる。
小さな水音とともに石が沈み、波紋だけが広がった。
数秒待っても何も起こらない。
黄色の顔が曇り始めた、その直後だった。
湖底から青白い光が噴き上がった。
光は水中を無秩序に広がるのではなく、《光石》が沈んだ地点から何本もの線となって走り出した。その形は、洞窟の最深部で見た魔法陣とよく似ていた。
三日月によって目覚めた《水に選ばれる光石》が、今度は湖底に眠っていた仕掛けへ力を流し込んでいる。
青白い線は湖の中央へ向かって次々と灯り、途中で枝分かれしながらさらに深い場所へ伸びていった。一本が光るたびに湖の底から低い振動が伝わり、やがて足元の地面まで震え始める。
「下がれ!」
オラクルの声に、私たちは一斉に岸から離れた。
ゴォォォォ……。
湖全体が唸っているような音が響き、桟橋に繋がれていた小舟が激しく揺れた。縄が軋み、舟底が何度も木の桟橋へぶつかる。
湖の中央が大きく盛り上がったので、私は巨大な波が来ると思った。
けれど、違った。
「水が……」
湖岸の水が、私たちから離れていく。
最初は波でそう見えているだけかと思ったけれど、水位は目に見えて下がり続けていた。さっきまで水中に沈んでいた岩や泥が次々と露出し、岸辺に繋がれていた小舟は水を失って傾いていく。
「本当に退いてるでぷ……」
緑の声が震えた。
私はミラ婆さんから聞いた言葉を思い出す。
《月が笑えば水は退き、沈んだ道が姿を見せる》。
昔話ではなかった。
三日月が《水に選ばれる光石》を目覚めさせ、その石が湖底の仕掛けを動かした。今、目の前で起きていることは、洞窟から追ってきた手掛かりの続きだった。
けれど、湖全体の水位が下がっているわけではなかった。
《光石》から伸びた青白い線を中心に、水そのものが左右へ押し退けられていく。巨大な水の壁がゆっくり形作られ、その間に湖底が一本の道のように露出していった。
「フールちゃん、あれ!」
緑が指差した先で、黒い泥の中から角の揃った石が現れた。
一段。
その下にも一段。
さらに奥にも続いている。
水が左右へ分かれるほど、その全体が少しずつ姿を現していった。
「階段……」
湖の底に、石段が沈んでいた。
岸から始まった階段は湖の中央へ向かって緩やかに下り、その両側には青白い光が一定の間隔で灯っている。どこまで続いているのかは見えず、途中から夜の闇と湖底の暗さが重なる場所へ消えていた。
「これが《沈んだ道》でぷ……」
緑が呟く。
私は思わず一歩前へ出た。
洞窟に残されていた月も、《水に選ばれる光石》も、全部この道を開くためのものだった。
「やった……!」
ようやく辿り着いた。
この道を進めば、《精霊の叫び》を助ける方法へ近づけるかもしれない。
そう思ったのに、オラクルだけは喜んでいなかった。
「まだ動くな」
低い声だった。
「どうしたの?」
「水見ろ」
オラクルが指しているのは石段ではなく、その右側にそびえる水の壁だった。
青白い光が届く場所では、水の中を漂う泥や水草まで見える。
そのさらに奥。
光の届かない暗い水中で、何かが動いた。
最初は水草かと思った。
けれど、あまりにも大きい。
黒い影が、水の壁の向こうをゆっくり横切っていく。
私は息を止めた。
「何……あれ」
影はすぐ暗闇へ消えた。
赤が腰の剣を抜く。
「何かいるでぷ」
オラクルも水から目を離さない。
「全員、武器出せ。石段にはまだ入るな」
さっきまでお金の入った袋を抱えていた黄色まで、すぐにそれを服の内側へしまった。
「黄色まで真面目……」
「死んだらお金使えないでぷ」
「理由は黄色だった」
でも、その声にいつもの余裕はなかった。
水の壁の向こうは再び静かになった。
何も見えない。
だからこそ、どこにいるのか分からない。
私は森で見つけた羽根を思い出した。
湖から逃げるように消えていた鳥たち。
誰もいない桟橋。
途中まで使われていた漁具。
魚が一匹も掛からなかった湖。
全部が頭の中でつながっていく。
「もしかして……鳥も魚も、あれから逃げたの?」
「可能性はある」
オラクルは短く答えた。
「漁師も?」
「それは分からねえ。襲われた跡は見てねえだろ。何かに気づいて逃げただけかもしれない」
そうだった。
分からないことを勝手に決めつけてはいけない。
ただ、この湖で何かが起きていたのは間違いなかった。
そして三日月と《水に選ばれる光石》によって湖底の道を開いたことで、私たちはその原因らしきもののすぐ近くまで来てしまった。
そのとき、水の奥で青白い光が一瞬遮られた。
「来るぞ」
オラクルが言った直後――。
ドンッ!
水の壁が内側から大きく膨らんだ。
衝撃が石段まで伝わり、青白い灯りが一斉に揺らぐ。水しぶきが壁の上から降り注ぎ、私は思わず腕で顔を庇った。
赤が剣を構える。
「ぶつかったでぷ!」
「一回下がれ!」
私たちは石段の入口から距離を取った。
しばらく何も起きない。
水の壁は揺れているものの、崩れる気配はなかった。
「仕掛けが水を押さえてるみたいでぷ」
緑が言う。
確かに、あれだけの衝撃を受けても水は石段へ流れ込んでこない。
湖底に作られた青白い線が、水を左右へ押し留めているらしい。
「だったら中にいる奴もこっちには来られない?」
私が聞く。
オラクルは答えなかった。
水の奥を睨んでいる。
「……そうなら楽なんだけどな」
嫌な言い方だった。
◇
しばらく待っても、影は戻ってこなかった。
青白い光も安定し、水の壁は石段の両側で静かに揺れている。
オラクルは入口まで慎重に近づき、しゃがんで石段を確認した。
「かなり古いな。苔も泥も残ってる。滑る場所ありそうだ」
「行ける?」
「歩くこと自体はできる。ただし、左右の水には絶対近づくな。影がまた来たら、進むより逃げるのを優先しろ」
「うん」
赤たちも頷いた。
私は改めて石段を見る。
長い間、湖の底に沈んでいた道。
この先がどこへ続いているのかは分からない。
でも、《精霊の叫び》から聞こえた「助けて」という声を思い出すと、ここで引き返すという選択肢はなかった。
「行こう」
私は最初の一段へ足を乗せた。
冷たく濡れた石だった。
二段目へ進む。
背後から赤、緑、黄色が続き、最後にオラクルが周囲を警戒しながら入ってくる。
青白い光に照らされた階段を、一歩ずつ下っていった。
左右には巨大な水の壁。
その向こうには、暗い湖が広がっている。
数歩進んだところで、私は右側の水中に目を向けた。
何もいない。
少しだけ安心しかけた。
その瞬間だった。
「止まれ!」
オラクルが叫んだ。
私は反射的に足を止める。
右側の暗闇。
ずっと遠くにあったはずの黒い影が、今度は真っ直ぐこちらへ向かっていた。
速い。
さっきとは比べものにならない。
「戻れ!」
私たちは一斉に岸へ向かって走り出した。
ドンッ――!
巨大な衝撃が水の壁を揺らす。
私は足を滑らせそうになり、赤に腕を掴まれた。
「フールちゃん!」
「大丈夫!」
立て直して走る。
二度目の衝撃。
今度は青白い線の一部が激しく明滅した。
「まずいでぷ!」
緑が叫ぶ。
水の壁に亀裂のような揺らぎが走った。
水そのものに亀裂なんてあるはずがない。それでも、仕掛けによって固定されている境目が一瞬だけ崩れ、石段へ大量の水しぶきが吹き込んだ。
「岸まで走れ!」
あと少し。
私は必死に階段を駆け上がった。
そのとき、三度目の衝撃は来なかった。
代わりに――巨大な影が上へ向かった。
「上?」
水の中を黒い塊が急上昇していく。
オラクルが何かに気づいた。
「全員、石段から離れろ!」
私たちは岸へ飛び出し、そのまま地面へ転がるように逃げた。
直後。
湖面が爆発した。
大量の水が夜空へ噴き上がる。
月明かりと青白い光の中で、巨大な何かが水面を突き破った。
最初に見えたのは、濡れた鱗だった。
続いて、大きく開かれた口。
その中には、人間の腕ほどもありそうな牙が何本も並んでいる。
「で、でかいでぷ……!」
赤の声が震えた。
全身はまだ水の中にある。
それでも頭だけで、私たち五人をまとめて呑み込めそうな大きさだった。
巨大な生き物は空中で身体を捻ると、そのまま激しい水音を立てて湖へ落ちた。
波が岸まで押し寄せる。
私たちはさらに後ろへ下がった。
「何なの、あれ……」
答えられる人はいなかった。
オラクルですら、煙草を取り出そうとしない。
湖面へ戻った巨大な影が、今度は私たちの前をゆっくり横切った。
逃げていない。
こちらを見ている。
いや――待っている。
石段へ入れば、また襲ってくるつもりなのかもしれない。
赤が剣を握り直した。
「倒すでぷ?」
オラクルはすぐには答えなかった。
「相手の大きさも能力も分からねえ。水の中にいる奴と正面からやり合うのは最悪だ」
「じゃあどうするの?」
「考える」
湖底へ続く道は開いている。
でも、その道を守るように巨大な生き物が泳いでいる。
偶然そこに棲んでいただけなのか。
三日月と《光石》で目覚めたのか。
それとも、最初から《沈んだ道》へ近づく者を阻む存在なのか。
まだ何も分からない。
ただ一つ確かなのは、道が開いただけでは先へ進めないということだった。
私は湖底へ続く石段と、その向こうを泳ぐ巨大な影を交互に見る。
ここまで来た。
《精霊の叫び》を助ける方法へ続くかもしれない道が、目の前にある。
それなのに、あと少しが届かない。
「絶対、行くから」
思わず口から出た。
オラクルがこちらを見る。
「何か方法を考える。あれを倒さなくてもいいなら、避けて通る方法でもいい。でも、ここで帰るのは嫌」
赤が私の横へ来た。
「俺も行くでぷ」
緑も本を抱えながら頷く。
「ここまで調べたでぷ」
黄色は少しだけ迷った。
「危ないでぷ……」
「うん」
「お金もいっぱい使ったでぷ」
「そっち?」
「だから行くでぷ」
やっぱり黄色だった。
オラクルは四人を順番に見ると、深く息を吐いた。
「分かった。だったらまず、あいつの動きを見るぞ。何も考えず突っ込むのは禁止だ」
私たちは湖から十分に距離を取り、巨大な影を観察することにした。
そのときだった。
湖の中央で、何かが青く光った。
《水に選ばれる光石》が沈んだ場所だ。
光が一度だけ強く瞬く。
それに反応するように、巨大な影の動きが止まった。
「……え?」
影が、ゆっくり向きを変える。
私たちではない。
湖の中央。
《光石》のある方向を見ている。
次の瞬間、巨大な生き物はものすごい速度で湖の中央へ泳ぎ始めた。
「何で?」
私たちはその動きを目で追った。
青白い光がもう一度瞬く。
すると今度は、湖底へ続く石段のさらに奥からも、別の光が返ってきた。
一つではない。
二つ。
三つ。
暗闇の奥へ向かって、青い光が順番に灯っていく。
そのたびに、巨大な生き物の動きが明らかに変わっていた。
暴れているんじゃない。
何かに反応している。
オラクルが目を細めた。
「待て……あいつ、俺たちを狙ってたんじゃねえかもしれねえ」
「じゃあ、何を?」
答えが返ってくる前に、湖底から低い音が響いた。
ゴォォォォ……。
さっき湖の仕掛けが動いたときとは違う。
もっと深い場所。
石段の先。
私たちからは見えない場所で、何かが動き始めている。
巨大な生き物が突然、水面から離れた。
逃げるように。
森で見た鳥たちと同じ方向へ。
私は背筋が冷たくなった。
あれほど大きな生き物が、何かから逃げている。
その直後、湖底へ続く青白い光が一斉に消えた。
石段の奥だけを残して。
暗闇の中。
一番深い場所で、一つの光が灯った。
まるで――こちらを見返す目のように。
オラクルが低い声で言った。
「全員、下がれ」
今度は誰も理由を聞かなかった。
巨大な生き物が、私たちを襲っていたのではないとしたら。
湖の魚も、鳥も、漁師たちも。
そして、あの巨大な生き物さえも逃げようとしているのだとしたら。
ビーン湖で本当に恐れるべきものは――まだ一度も、私たちの前に姿を現していない。
三日月の下。
開かれた《沈んだ道》の最深部から、二度目の低い音が響いた。




