第44話 三日月の夜
キャメル村へ戻ったころには、太陽が西へ傾き始めていた。
洞窟へ入る前と変わらない穏やかな村の景色を見た瞬間、身体から力が抜けた。何度も分岐を進み、地下川を渡り、ようやく《水に選ばれる光石》を手に入れたせいか、帰り道は行きより短かったはずなのに足は重い。
赤も「もう歩けないでぷ」と言っていたけれど、広場の食堂から焼き魚の匂いが漂ってきた途端に顔を上げた。
「魚でぷ!」
「やっぱり元気じゃん」
「足は疲れてるでぷ。でもお腹は元気でぷ」
「それ元気って言うんじゃない?」
赤はもう食堂しか見ていなかった。
その横で黄色は残った道具や食料を確認し、緑は洞窟で書いた本を開いている。最後のページには、《水に選ばれる光石》の周囲に刻まれていた十二の月が並び、その中の一つだけに青い印が付けられていた。
私は鞄の上から、布に包んだ《水に選ばれる光石》へ触れた。
石は手に入った。それだけでも大きな前進だけれど、洞窟ではもう一つ重要な手掛かりを見つけている。
「次はこれだね」
私が指差すと、緑も頷いた。
洞窟の分かれ道で私たちを奥へ導いていたものと、まったく同じ形の月だった。
ミラ婆さんから聞いた言い伝えには、《水の石を携え、欠けた月を待て》とあった。ただ、その《欠けた月》がどの形を指すのかは、長い年月の間に分からなくなっていたらしい。
けれど、洞窟には答えが残されていた。
十二の月が順番に並ぶ中で、《水に選ばれる光石》と青い光で結ばれていたのは一つだけ。その形は、洞窟の奥へ続く道標として何度も刻まれていた月と同じだった。
「昔の人は、言葉だけじゃなく形でも残してたんだね」
「これなら呼び方が変わっても分かるでぷ」
緑が言う。
オラクルも本を覗き込んだ。
「問題は、今じゃこの形を何て呼ぶかだな」
「ミラ婆さんのところへ戻る?」
私が聞くと、オラクルは即座に首を横へ振った。
「やめろ。月の名前一個聞くだけで昔話を五つ追加されるぞ」
「そこまでじゃないと思うけど……」
「言い切れるか?」
言い切れなかった。
◇
結局、月の名前は思っていたより簡単に分かった。
広場の食堂で赤が焼き魚を注文している間に、緑が店主へ本を見せた。
「この月、何ていうでぷ?」
店主は青い印の付いた月を見ると、ほとんど迷わなかった。
「三日月だろ」
「三日月?」
「そう見えるけどな。俺は学者じゃないぞ」
あまりにもあっさり答えが出たので、念のため近くにいた村人にも尋ねてみたけれど、返ってきた答えは同じだった。
緑は本に残していた《欠けた月》の横へ、《三日月》と書き加えた。
昔話の中で曖昧になっていた《欠けた月》が、洞窟に残されていた形のおかげで、ようやく一つの名前を持った。
これで今まで集めてきた手掛かりが一本につながる。
キャメル村の洞窟にあった《水に選ばれる光石》。
その石を手にした者が向かう《ビーン湖》。
そして、洞窟の道標と魔法陣が示していた《三日月》。
「石を持って、三日月の夜にビーン湖へ行く」
私が言うと、赤が焼き魚を食べながら頷いた。
「次にやること決まったでぷ」
「問題は、その三日月がいつかだな」
オラクルの言葉で、全員が止まった。
誰も知らなかった。
「……オラクル知らないの?」
「俺が毎晩、月の形を記録してるように見えるか?」
「煙草の残りなら毎日見てそうでぷ」
緑に言われ、オラクルが「うるせえ」と返す。
結局、月の名前が分かった次は、いつその月が現れるのかを調べることになった。
◇
答えは広場の端にある農具店で見つかった。
店先には農作業に使う暦が貼られていて、日付と一緒に月の形まで記されている。店主によれば、夜の明るさや農作業の目安にするため、村では昔からこうした暦を使っているらしい。
緑が洞窟で写した形と暦を見比べ、やがて一か所を指差した。
「次は明日でぷ」
「明日!?」
思っていたよりずっと早かった。
ビーン湖までの距離を尋ねると、徒歩なら半日ほどらしい。朝にキャメル村を出れば、三日月が空へ現れるよりずっと前に到着できるという。
「ちょうどいいじゃねえか」
オラクルが暦を確認した。
「明日の朝に出て、明るいうちに湖の周りを調べる。あとは夜まで待てばいい」
「三日月が出るまでに着けば大丈夫だね」
私が言うと、店主の老人は不思議そうな顔をした。
「夜釣りか?」
「えっと……そんな感じです」
全部説明すると長くなりそうだったので、そういうことにしておいた。
ところが横にいた赤が勢いよく顔を上げる。
「夜釣りするでぷ!?」
「しないよ!」
「湖でぷよ?」
「湖だけど目的違うから!」
「魚いるでぷよ?」
「いるだろうけど!」
話がどんどん魚へ持っていかれる。
オラクルが赤の頭を軽く押さえた。
「お前は魚から離れろ」
「嫌でぷ」
「即答すんな」
店主の老人が楽しそうに笑っていた。
◇
宿へ戻る途中、私は緑の本をもう一度見せてもらった。
アデューを出たころには、南の海沿いに古い水の伝承が残っているという曖昧な情報しか持っていなかった。それがキャメル村へ来て《水に選ばれる石》の話につながり、洞窟では本物の《水に選ばれる光石》を手に入れたうえ、壁の道標と最深部の魔法陣が同じ《三日月》を示していることまで分かった。
次にやるべきことは明確だった。
《水に選ばれる光石》を持って、明日の三日月が昇るころにビーン湖へ行く。
ただ、一つだけ分からないことが残っている。
「ねえ。この石、湖へ着いたらどうすればいいんだろう」
私が足を止めると、緑も本へ視線を落とした。
ミラ婆さんから聞いたのは、《水の石を携え、欠けた月を待て。月が笑えば水は退き、沈んだ道が姿を見せる》というところまでだった。石を持っているだけでいいのか、水辺のどこかへ置くのか、それとも別の使い方があるのかまでは伝わっていない。
「今ここで考えても答えは出ねえな。洞窟じゃ石が月の印に反応したんだ。ビーン湖まで持っていけば、また何か起こるかもしれねえ」
オラクルの言葉に、緑も頷いた。
「湖の近くで、もっと詳しい伝承を知ってる人が見つかるかもしれないでぷ。まず行って確かめるでぷ」
それなら今できるのは、明日に備えることだけだった。
すると、それまで黙っていた黄色が何気なく言った。
「湖に投げるんじゃないでぷ?」
全員が黄色を見る。
「なんで?」
「石だからでぷ」
「理由になってないよ」
「水辺に石があったら投げるでぷ」
あまりにも適当な理由だったので、誰もまともには取り合わなかった。
それでも黄色は納得していないらしく、「フールちゃんだって綺麗な湖にちょうどいい石があったら投げるでぷ」と食い下がってくる。
「普通の石なら投げるかもしれないけど、これは伝説の石だからね!」
「案外、黄色が正しかったりしてな」
オラクルが笑う。
「そんな適当な仕掛けある?」
私も笑い返したけれど、なぜか黄色の一言だけは頭の隅に残った。
◇
宿へ戻ると、私たちは翌日の出発に備えて準備を始めた。
ビーン湖までは徒歩で半日ほど掛かる。朝早くキャメル村を出れば昼過ぎには到着できるので、明るいうちに湖の周囲を調べ、日が沈んでから三日月を待つことにした。
ただし、水が退いたあとに現れるという《沈んだ道》がどこまで続いているのかは分からない。湖までの日帰りだけを想定するのは危険だとオラクルに言われ、食料や水は二日分を用意することになった。
「食料増えたでぷ……」
黄色が財布を見ながら悲しそうに呟く。
「必要経費だよ」
「その言葉、嫌いになってきたでぷ」
文句を言いながらも、必要な物を削ろうとはしなかった。
一方の赤は、必要な食料とは別に魚を五匹持っていこうとして黄色と揉め始めた。
「湖に行くのに魚持っていく意味ないでぷ」
「途中でお腹空くでぷ!」
「パン食べるでぷ」
「魚がいいでぷ!」
しばらく交渉した結果、一匹だけ持っていくことで決着したはずなのに、黄色が目を離した隙に赤が二匹目を荷物へ忍ばせようとして見つかり、最終的には黄色が食料袋そのものを管理することになった。
「信用なくしたでぷ」
「一匹増やそうとしただけでぷ……」
「それを信用なくすって言うんだよ」
赤がしょんぼりしている間に、緑は《水に選ばれる光石》を新しい布で何重にも包み、小さな革袋へ収めた。
私はそれを受け取り、鞄の中でも一番衝撃を受けにくい場所へしまう。
「落とさないでぷよ」
黄色が念を押した。
「分かってる」
「なくしたら、また洞窟の一番奥まで行くことになるでぷ」
その言葉には全員が黙った。
地下川で転んだ赤が一番強く首を横へ振る。
「絶対なくしたら駄目でぷ」
「そこは全員一致だね」
準備が終わるころには外も暗くなっていた。明日の朝にはキャメル村を出て、夜までにビーン湖で三日月を待つ。
ここまで来れば、あとは自分たちの目で伝承の続きを確かめるしかなかった。
◇
夕食を終えたあと、私は一人で宿の外へ出た。
キャメル村の夜は静かで、アデューのような明るい街灯もなく、家々の窓から漏れる灯りが細い道を淡く照らしている。畑の向こうから虫の声が聞こえ、村を流れる水路には星の光が小さく揺れていた。
私は夜空を眺めながら、洞窟で見た十二の印を思い返した。
昔の人が《欠けた月》を何と呼んでいたのかは、もう分からない。それでも形は残り、洞窟の分かれ道にも、最深部の魔法陣にも、同じ細い月が刻まれていた。そして今、その形が《三日月》と呼ばれていることも分かった。
長い時間の中で言葉が曖昧になっても、伝承そのものは途切れていなかったのだ。
明日、同じ形の月が空へ現れる。
そのとき《水に選ばれる光石》をビーン湖へ持っていけば、昔話に残された《沈んだ道》が本当に姿を見せるかもしれない。
「何してんだ?」
後ろから声がして振り返ると、オラクルが宿から出てきた。
「明日のこと考えてた」
「考えても湖がどうなるかは分からねえぞ」
「分かってる。でも、ちょっと楽しみ」
「怖くねえのか?」
「少しは怖いよ。でも、ここまで来たら見たい」
オラクルは小さく笑い、私の隣で空を見上げた。
しばらく二人で黙っているうちに、私は別のことを考えていた。
「ねえ、オラクル。こうやっていろんな場所へ行ってたら、お父さんとお母さんのことも見つかるかな」
オラクルはすぐには答えず、煙を一度吐いてから肩をすくめた。
「さあな。ただ、お前が最初に会ったころより知ってることが増えてんのは確かだろ。何も知らねえなら、止まってるより歩いたほうがマシだ」
「うん」
それで十分だった。
両親については、まだほとんど何も分かっていない。でも《精霊の叫び》だって、最初はガレオさんの倉庫で聞こえた「助けて」という声だけだった。
そこから一つずつ手掛かりを拾い、ここまで来た。両親のことだって、同じように探していけばいい。
そう思ってもう一度空を見上げたところで、宿の二階の窓が勢いよく開いた。
「フールちゃーん!」
赤だった。
「どうしたの?」
「黄色が明日の食料減らそうとしてるでぷ!」
すぐ奥から黄色の声が飛んでくる。
「違うでぷ! 赤が魚五匹に戻そうとしてるでぷ!」
「一匹で決まったでしょ!」
「やっぱり五匹欲しいでぷ!」
「増やさないで!」
静かな夜は一瞬で終わった。
オラクルが隣で吹き出したので、私は「笑ってないで手伝ってよ!」と言いながら宿へ戻った。
明日は朝からビーン湖へ向かう。鞄には《水に選ばれる光石》があり、夜になれば洞窟が示していた三日月が空へ現れる。
長い間、昔話としてしか残っていなかった条件が、ようやく一つの場所に揃おうとしていた。
◇
そのころ、キャメル村から半日ほど離れたビーン湖には、誰の姿もなかった。
風のない夜で、湖面は鏡のように静まり返り、夜空の星々を映している。岸辺には数艘の小舟が繋がれ、周囲の森からは虫の声が絶え間なく聞こえていた。
昼間なら漁師たちが舟を出し、村人が魚を取りに来ることもある、ごく普通の湖だった。
けれど、その夜はいつもと違っていた。
湖面近くを泳いでいた魚の群れが、不意に向きを変えた。
一匹ではない。
何十匹もの魚が何かから逃げるように岸辺へ散り、浅瀬にいた小さな生き物まで水草の陰へ潜り込んでいく。
やがて湖の中央に、小さな泡が浮かんだ。
一つ。
少し離れた場所に、もう一つ。
それを合図にしたかのように、暗い水の底から無数の泡が次々と湧き上がり、鏡のようだった湖面へいくつもの波紋が広がっていった。
風は吹いていない。
それなのに、岸辺に繋がれていた小舟がぎしりと揺れた。
縄が軋み、舟底が桟橋へ何度もぶつかる。
近くで眠っていた水鳥たちも異変に気づいたのか、一羽が突然飛び立った。それに続いて何羽もの鳥が湖から離れ、夜の森の向こうへ消えていく。
しばらくすると虫の声まで止んだ。
湖の周囲から、生き物の気配だけが少しずつ遠ざかっていく。
それでも、水面の異変は収まらなかった。
波紋は湖の中央から岸へ向かって何度も広がり、そのたびに水面が僅かに盛り上がる。
まるで湖そのものが、深い眠りの中でゆっくり呼吸を始めたようだった。
そして――誰の目にも届かない湖底。
そこには、昼の光さえ届かない暗闇が広がっていた。
長い年月をかけて積もった泥の上を魚が逃げていき、その後から巻き上がった砂が水中を濁らせる。
その濁りの向こうに、何かがあった。
自然にできた岩ではない。
泥の下から、角の揃った石が僅かに覗いている。
その隣にも、もう一つ。
さらに奥にも。
長い間湖底に沈んでいた石段だった。
ほとんどは泥に埋もれているものの、湖の奥へ向かって下りていくように何段も続いている。
その石段の周囲で、突然、湖底の泥が大きく舞い上がった。
何かが動いた。
巨大な影が濁った水の向こうをゆっくり横切り、逃げ遅れた魚たちが一斉に方向を変える。
影の全体は見えない。
長いものなのか、大きなものなのかさえ暗闇では判別できなかった。
ただ、それが湖底の岩や沈んだ木ではなく、自ら動く何かであることだけは分かった。
影は石段の周囲を一度横切ると、さらに深い場所へ消えていった。
その直後、石段の脇に積もっていた泥が崩れた。
そこから現れたのは、古い石柱だった。
表面には長い年月で削れた模様が残っている。
波。
一つの石。
そして――細く欠けた月。
キャメル村の洞窟に刻まれていたものと、よく似た印だった。
石柱の模様が一瞬だけ、淡い青色に光った。
それに呼応するように、湖のさらに奥でも小さな光が灯る。
一つ。
二つ。
暗闇の中に、青白い光が順番に浮かんでいく。
それらは偶然散らばっているのではなかった。
湖底に沈んだ石段に沿って、もっと深い場所へ続いている。
まるで、長い間忘れられていた道が目を覚まそうとしているようだった。
けれど、光は途中で止まった。
まだ何かが足りない。
湖面の上には、明日の夜に必要となる《三日月》がない。
そして湖の底には、もう一つ欠けているものがあった。
《水に選ばれる光石》。
二つが揃わなければ、沈んだ道は完全には姿を現さない。
青白い光はしばらく暗い湖底を照らしていたが、やがて一つずつ消えていった。
再び暗闇が戻る。
しかし、先ほど消えた巨大な影だけは戻ってこなかった。
石段のさらに先。
光さえ届かない深い場所で、何かがゆっくりと動いている。
ゴォ……。
低い音が水の中を伝わった。
湖底の砂が震え、石段の隙間から小さな泡がいくつも浮かび上がる。
それは湖面まで昇り、静かな夜の中で一つずつ弾けていった。
明日の夜。
三日月が昇り、《水に選ばれる光石》がこの湖へ辿り着けば、長い間沈んでいた道が再び開く。
だが、その道と一緒に目覚めようとしているものが何なのか。
キャメル村で眠るフールたちは、まだ何も知らない。
ビーン湖は再び静けさを取り戻していた。
湖面だけを見れば、先ほどまでの異変など最初からなかったように穏やかだった。
ただ湖の底では、泥の中から現れた《欠けた月》の印だけが、最後にもう一度――淡い青色の光を放った。




