第四話 音の無い黒衣
《聖なるマップ》に《アデュー》という名前が現れてから二日目の朝、私たちは森を貫く街道を歩いていた。
昨日まで残っていた潮の匂いはすっかり消え、道の両側には何人かで手を繋いでも囲みきれそうにない大木が並んでいる。幾重にも重なった枝葉の隙間から朝日が細く差し込み、土の街道には風が吹くたび形を変える光の模様が広がっていた。
昨日は、この世界へ来て初めてQUESTを受けた。
何度も雑草を薬草と間違え、三匹に笑われながら十本を集め、最後には自分で見分けられるようになった。初めて受け取った赤Bは、なくさないよう鞄の内側へ大切にしまってある。
たった一日しか経っていないのに、最初に砂浜へ降り立ったときより、この世界がずっと身近に感じられていた。
「今日も途中でQUESTを見つけたらやってみたいな。昨日よりちょっと難しい仕事でも、みんなと一緒ならできるかもしれないし」
「いっぱい稼ぐでぷ!」
黄色が嬉しそうに腰の金貨袋を鳴らすと、赤も負けじと骨付き肉を掲げた。
「いっぱい稼いで、お肉をいっぱい買うでぷ!」
「なんで私が働くのに赤のお肉が増えるの?」
「仲間だからでぷ!」
「そういうときだけ仲間って言葉を便利に使わないでよ」
緑まで笑い出し、私もつられて笑った。
昨日は何もかもが初めてだった。三匹の仲間ができ、QUESTを覚え、お金の使い方を知り、《聖なるマップ》には薬草や三匹の姿まで記録された。
もっといろいろな場所へ行ってみたい。
もっと知らないものを見たい。
お父さんとお母さんを探す旅は、思っていたより楽しいものになるのかもしれない。
そんなことを考えていた。
だから前方から複数の馬の蹄が聞こえてきたときも、私は特に警戒しなかった。
やがて木々の向こうから現れたのは、十人を超える一団だった。
先頭には馬に乗った三人の兵士がおり、その後ろにも同じ紋章の防具を身につけた兵士たちが続いている。ただ、そのさらに後方を歩いている者たちは明らかに雰囲気が違った。
背丈ほどもある大剣を背負った男。
長弓を携えた女性。
顔の下半分を布で隠し、腰へ何本もの短剣を下げた人物。
武器も服装もばらばらなのに、歩き方には隙がない。兵士たち以上に森の左右へ視線を送り、誰一人として雑談をしていなかった。
私は自然と声を潜めた。
「……あの人たちって、昨日聞いた賞金稼ぎ?」
黄色も金貨袋を鳴らすのをやめた。
「そうでぷ。兵士と一緒にあれだけいるなら、誰かを追ってるでぷね」
一団が私たちの横を通り過ぎようとしたところで、先頭の兵士が手綱を引いた。
「君たち、この先へ行くのか?」
「はい。旅の途中です」
そう答えると、兵士は眉間へ皺を寄せた。
近くで見るとかなり疲れている。目の下には薄い隈があり、昨夜からほとんど休んでいないようだった。それでも警戒を解かず、私と話している間にも何度か森の奥へ視線を向けている。
「なら、今日は街道から外れないほうがいい」
「何かあったんですか?」
兵士は少し迷ってから、声を落とした。
「昨夜、この周辺で黒い服を着た不審な人物を見たという情報が入った。同じような証言が複数ある。まだ確認は取れていないが、《TIME》の構成員である可能性がある」
昨日、QUESTの掲示板で見た何枚もの手配書が頭に浮かんだ。
その名前を聞いただけで、三匹の表情から笑みが消えた。
「本当にTIMEなんでぷ?」
緑が尋ねると、兵士は首を横へ振った。
「断定はしていない。黒い服だけなら見間違いはいくらでもある。ただ、放っておくわけにもいかない」
後方から、大剣を背負った賞金稼ぎの男が鼻を鳴らした。
「今度こそ本物ならいいんだがな。TIMEを見たって噂を追って何日も歩いて、黒い外套を着た行商人でした、じゃ商売にならねえ」
「相手が本物なら、金の心配をしている余裕などなくなる」
兵士が低い声で返すと、男は肩を竦めた。
兵士と賞金稼ぎは仲間ではないらしい。
同じTIMEを追うために、一時的に行動を共にしているだけなのだろう。
その横から、長弓を背負った女性が私たちへ近づいてきた。
「お嬢ちゃん、この辺りじゃ寄り道しないほうがいいよ。本当にTIMEだったら、あんたたちがどうにかできる相手じゃない」
「そんなに危ない人たちなんですか?」
女性は赤、緑、黄を順番に見てから、私へ視線を戻した。
「そこの三匹は分かってるみたいだけどね。見つけても近づかない。逃げられるなら逃げる。仲間がいるなら、自分だけ格好つけて前に出ない。強い相手から逃げるのは恥じゃないよ」
赤が小さな胸を張った。
「俺たちがフールちゃんを守るでぷ!」
女性は笑わなかった。
「だったら、戦わないで守ることも覚えな」
赤の耳が僅かに下がった。
なぜか、その言葉は私の胸にも残った。
隊長らしい兵士が手綱を握り直す。
「俺たちは目撃地点を確認する。黒い服の人物を見ても決して近づくな。異変を感じたら、すぐに来た道を戻れ」
「分かりました」
一団は再び動き始め、兵士と賞金稼ぎたちは私たちより先へ進んでいった。
蹄の音と足音が森の奥へ消えてから、私はようやく息を吐いた。
「TIMEって、本当にいるんだね」
「手配書になるくらいだから、いるでぷよ。フールちゃん、絶対に探しに行ったりしちゃ駄目でぷ」
「しないよ。私が探してるのは、お父さんとお母さんなんだから」
私は笑って答えた。
このときは、本当にその程度にしか考えていなかった。
◇
それからしばらく進んだところで、私は森の異変に気づいた。
木々は変わらず風に揺れ、枝葉の間から陽射しも差している。それなのに、少し前まで聞こえていた鳥の鳴き声がない。茂みを走る小動物の気配も消え、虫の羽音さえいつの間にか聞こえなくなっていた。
「……静かすぎない?」
三匹も立ち止まった。
風が葉を揺らす音だけは聞こえる。だからこそ、生き物だけがこの辺りから逃げ出したような静けさが際立っていた。
緑は本を胸元へ寄せ、赤も骨付き肉を持っていた手を下ろした。
「フールちゃん、気をつけるでぷ」
それからは誰も余計な話をしなかった。
自分たちが土を踏む音だけを聞きながら進んでいると、先頭を歩いていた赤が突然足を止めた。
「……前を見るでぷ」
私は赤の肩越しに街道を見た。
最初は、大きな荷物でも落ちているのだと思った。
けれど数歩進んだところで、それが人だと分かった。
さらに周囲を見渡し、息を呑む。
「……さっきの人たち」
兵士も、賞金稼ぎも、全員が街道に倒れていた。
見覚えのある鎧のそばには折れた槍が転がり、長弓は中央からへし折れている。大剣を背負っていた男も地面へ伏し、少し離れた場所では馬まで倒れていた。大木の幹には何かが激突した跡があり、街道の土も何か所も深く抉れている。
ここで激しい戦いがあった。
それだけは分かる。
だからこそ、私はもっと恐ろしいことに気づいた。
「私たち……何も聞いてないよね?」
剣がぶつかる音も、魔法が弾ける音も、馬の鳴き声も、誰かの叫び声も聞いていない。
これだけの人数が戦ったはずなのに、何一つ。
緑が低い声で言った。
「戻るでぷ。今すぐ来た道を戻るでぷよ」
私もそうするべきだと思った。
そのとき、倒れている兵士の腕が僅かに動いた。
「待って。生きてる!」
駆け出そうとした私の前へ、赤が飛び出す。
「駄目でぷ! まだ近くにいるかもしれないでぷ!」
「でも、このまま置いていけないよ」
「フールちゃんまで倒れたらどうするでぷ!」
その言葉に足が止まった。
怖い。
それでも、ほんの少し前に私たちを心配してくれた人が、目の前で倒れている。
「生きてるか確認するだけ。それで危なかったら、すぐ逃げる。絶対に一人では動かないから」
赤は迷ったあと、私より一歩前へ出た。
「俺より前に出ちゃ駄目でぷ」
四人で慎重に近づく。
一番手前に倒れていたのは、さっき話した隊長だった。鎧には大きな傷が入り、剣は数歩離れたところまで飛ばされている。
私はそばへ膝をついた。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
返事はない。
それでも胸は僅かに上下している。
安堵しかけた瞬間、隊長の瞼が僅かに開いた。
「……にげ……ろ……」
「え?」
聞き取ろうとして顔を近づける。
隊長は私を見ていなかった。
視線は私の背後、その先の街道へ向けられている。
「まだ……いる……」
背筋が冷たくなった。
私は立ち上がりながら振り返った。
誰もいない。
右には森。
左にも森。
正面の街道にも、人影はない。
「どこ……?」
その直後、緑が震える声で私を呼んだ。
「フールちゃん……前……」
もう一度、正面を見る。
そこに、人が立っていた。
ついさっきまで誰もいなかった場所だった。木の陰から出てきた姿も、茂みを抜けた姿も見ていないし、足音も聞こえていない。それなのに数十歩先の街道中央に、一人の人物が立っている。
小柄な身体を黒い衣服で包み、白に近い淡い髪だけが森の薄暗さの中で浮かび上がっている。
そして、その黒い服には異様なほど多くの時計が描かれていた。胸元には大きな時計が一つあり、袖や裾には形も大きさも異なる時計の意匠が散らばっている。
兵士の言葉が頭に蘇った。
黒い服。
TIME。
赤が無言で私の前へ出る。
緑も本を構え、黄色が私の服を掴んだ。
黒衣の人物が僅かに腕を動かした。
左手が見える。
手の甲には、真っ黒な数字が刻まれていた。
《1》。
「……いち?」
その意味は分からなかった。
けれど緑は、顔から血の気を失っていた。
「TIME……」
黒衣の人物がこちらを見た。
怒りも、驚きもない。兵士と賞金稼ぎをまとめて倒した直後とは思えないほど静かな目で、私たちの存在そのものに大した興味がないように見えた。
だからこそ怖かった。
「この人たちを……あなたがやったの?」
「フールちゃん、話しかけちゃ駄目でぷ!」
赤に止められても、聞かずにはいられなかった。
黒衣の人物は答えない。
ただ、唇だけが僅かに動いた。
何かを言った。
そう見えたのに、声が聞こえない。
聞き返そうとした瞬間、世界から音が消えた。
◇
風に揺れていた木々も、背後で苦しそうに息をしている兵士たちも、私の前に立つ赤も、一瞬にして音を失った。驚いて耳を押さえ、声を出してみても、喉が震える感覚があるだけで何も聞こえてこない。
その時点で、私たちと黒衣の人物の位置ははっきりしていた。左右を深い森に挟まれた街道中央に私が立ち、十歩ほど前には赤、左斜め後ろには本を構えた緑、右隣には黄色がいる。倒された兵士と賞金稼ぎは私たちより十数歩後方に散らばり、黒衣の人物だけが、赤からさらに十五歩ほど先に立っていた。
来た道へ戻るなら後ろへ走ればいい。左右の森にも逃げ込めるが、木々と下草が密集しているため、街道ほど速くは進めない。
赤が一度だけ振り返り、口を動かした。
おそらく「逃げるでぷ」と言った。
しかし、その直後だった。
十五歩ほど先にいた黒衣の姿が、視界から消えた。
次に捉えたときには、すでに赤の正面にいる。
赤は腰から剣を抜き、低い位置から斜め上へ斬り上げた。黒衣は上半身を僅かに引いただけで刃をかわし、赤が剣を返すより早く右腕を動かす。
何をされたのか見えなかった。
気づいたときには赤の身体が右側へ吹き飛ばされ、街道の端を二度跳ねたあと、森際の大木へ背中から激突していた。土が舞い、枝から葉が降り注いでいるのに、衝撃音さえ存在しなかった。
私は赤へ駆け寄ろうとしたが、左後方にいた緑が腕を伸ばして止めた。
緑はその場で本を黒衣へ向け、開いたページから白い光を膨らませる。何かを唱えている口の動きだけが見え、やがて光の塊が黒衣へ一直線に放たれた。
命中する寸前、黒衣の姿が再び視界から消えた。
緑の放った光は誰もいなくなった街道を通り過ぎ、その先にある大木へ直撃した。幹の表面が大きく弾け、無数の木片が周囲へ飛び散っている。それほどの破壊が起きているのに爆発音はなく、枝が折れる音も、地面へ木片が落ちる音も聞こえない。目の前で起きている出来事と耳から入ってくる情報が一致しないことが、私の恐怖をさらに大きくした。
黒衣はどこへ行ったのか。
正面にはいない。
右側には、大木の根元で倒れている赤がいるだけだった。
私は反対側へ視線を動かし、息を呑んだ。
黒衣の人物は、緑の背後に立っていた。
私の左斜め後ろにいた緑、そのさらに後ろへ、いつの間にか回り込んでいる。移動した瞬間を見ていないどころか、緑自身も気づいていない。
私は声が出ないことも忘れて叫び、必死に緑の背後を指差した。
緑は私の顔を見て、次に指先を追った。そこでようやく異変を察し、振り返ろうとする。
間に合わなかった。
黒衣の人物が腕を横へ振る。
それだけだった。
緑の身体が私から見て左前方へ弾き飛ばされ、街道の端を何度も転がっていく。大切に抱えていた本も手から離れ、さらに数歩先まで滑ったところで止まった。
これで、赤は街道右側の大木の根元。
緑は左側の道端。
中央には、私と黄色だけが残された。
黒衣は倒れた緑のそばに立っている。
私は黄色の手を掴んだ。
逃げなければならない。
さっき賞金稼ぎの女性から言われたばかりだった。勝てない相手なら逃げろ。仲間を守りたいなら、自分だけ前へ出るな。
私たちより十数歩後方には、倒れている兵士と賞金稼ぎたちがいる。その間を抜ければ、来た道へ戻れる。
けれど、そこへ走れば赤と緑を置いていくことになる。
黄色も同じことを考えたらしく、私の手を振りほどこうとして右側へ身体を向けた。
赤のところへ行くつもりだ。
私は咄嗟に黄色を両腕で抱き止めた。
黄色が必死に何かを叫んでいる。声は聞こえなくても、「赤を助ける」「離すでぷ」と言っていることくらい分かった。
それでも離せなかった。
赤も緑も一撃だった。
黄色まで飛び込めば、同じことになる。
私は何度も首を横へ振った。
黒衣の人物が、倒れた緑から私たちへ視線を移した。
七、八歩ほどの距離がある。
その間には、もう誰もいない。
私は黄色を自分の背中側へ押しやり、代わりに一歩前へ出た。
戦えるわけではない。
武器も持っていないし、魔法だって使えない。黒衣が赤と緑へ何をしたのかさえ、まともに見ることができなかった。
それでも黄色を前に立たせることだけはできなかった。
黒衣がこちらへ歩き始める。
黒い靴が土を踏み、落ち葉を沈ませているのに、足音は存在しない。一歩、また一歩と近づくたびに距離だけが縮まり、その過程にあるはずの音がすべて抜け落ちている。
五歩ほどまで近づいたところで、右側に倒れていた赤が動いた。
剣を地面へ突き立て、それを杖代わりに身体を起こしている。足元はふらつき、右腕も満足に動いていない。それでも赤は、もう一度私たちと黒衣の間へ戻ろうとしていた。
左側では緑も身体を起こし、地面へ落ちた本へ這うように手を伸ばしている。
二匹とも、まだ戦おうとしている。
私を守るために。
胸の奥が締めつけられた。
もうやめて。
そう伝えたかった。
ここで戦い続けても勝てない。
赤がこちらへ踏み出したので、私は力いっぱい首を横へ振った。何度も、何度も繰り返すと、赤はようやく足を止めた。
緑も傷ついた本を抱えながら私を見ている。
私は黄色の手を握り、後方の街道を指差した。
四人で逃げる。
今度こそ、そうしようとした。
けれど、決断が遅すぎた。
黒衣の姿が三度、私の視界から消えた。
反射的に黄色を抱きしめ、目を閉じる。
衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開いた私は、息を呑んだ。
黒衣はもう、目の前にいた。
腕を伸ばせば触れられるほど近い。
遠くからでは分からなかった白に近い髪の一本一本も、感情のほとんど見えない瞳も、黒い衣服へ散らばった大小さまざまな時計も、今は嫌になるほどはっきり見えた。
そして左手の甲には、真っ黒な《1》が刻まれている。
私は動けなくなった。
後ろへ走ればいい。
分かっているのに、足が言うことを聞かない。身体の奥から冷えていくような感覚が広がり、呼吸まで浅くなっていく。
黒衣が右腕を持ち上げた。
動きそのものは、むしろゆっくりしていた。
だからこそ、その意味が分かってしまった。
次は私だ。
赤と緑を一瞬で吹き飛ばした腕が、今度は私へ向けられている。
背後では黄色が私の服へしがみついていた。
私は黄色を少しでも隠すように身体をずらした。
怖かった。
本の世界へ飛び込んだときにも怖さはあった。でも、その先にはお父さんとお母さんへ会えるかもしれないという期待があった。
今は違う。
目の前にあるのは、私が何をしても届かない圧倒的な力だった。
兵士も賞金稼ぎも倒された。
赤も緑も敵わなかった。
私は武器すら持っていない。
逃げようと決めることさえ遅かった。
黒衣の手がさらに上がった瞬間、私は初めて、自分がここで死ぬのだと思った。
お父さんの顔を知らない。
お母さんの顔も知らない。
アデューという場所にすら着いていない。
昨日ようやく初めてQUESTを達成し、自分で赤Bを稼いだばかりだった。おばあちゃんには、生きて帰ると約束した。
なのに、もう終わる。
そう思った瞬間、今まで必死に堪えていた恐怖が胸の奥から一気に込み上げた。
それでも黄色だけは守りたかった。
私は黄色を抱く腕へ力を込め、少しでも身体を覆うように前へ出た。
右側では赤が、もう一度こちらへ走ろうとしている。
左側では緑が本を開こうとしている。
間に合わない。
黒衣の腕が動いた。
その瞬間だった。
――キィィィィィン……。
甲高い音が、無音の世界を突き破った。
「……?」
私は思わず顔を上げた。
聞こえる。
風も、葉の擦れる音も、赤たちの声も、自分の呼吸音さえ聞こえないのに、その音だけは耳の奥へ細い針を差し込まれたようにはっきり響いている。
森からではない。
空からでもない。
もっと近い。
音は、目の前にいる黒衣の人物から聞こえていた。
そして、私へ向けられていた右腕が止まっている。
兵士や賞金稼ぎを倒し、赤と緑を一撃で退けてもほとんど表情を変えなかった黒衣が、初めて僅かに顔を上げた。
何かを聞いている。
そんなふうに見えた。
――キィン。
二度目の音は短かった。
黒衣は数秒間動かなかった。
やがて、私へ向けていた右腕を静かに下ろした。
視線も私から外れる。
何が起きたのかは分からない。
ただ、攻撃が止まった。
その直後、失われていた音が一気に世界へ戻ってきた。
「フールちゃん!」
赤の叫び声、緑の声、黄色の荒い呼吸、風に揺れる葉、倒れている兵士たちの呻き声が同時に耳へ押し寄せた。
突然戻ってきた音の多さに頭が混乱する。
それでも私は黒衣から目を離さなかった。
「音が……戻った……」
黒衣はもう私たちを見ていなかった。
足元へ淡い光が灯る。
一本の光の線が地面を走り、黒衣を中心に円を描いた。その内側へ見たことのない文字と複雑な模様が次々に刻まれ、一つの魔法陣が完成していく。
「魔法陣でぷ……」
緑の掠れた声が聞こえた。
右側にいた赤が剣を握り直そうとする。
私はすぐに止めた。
「赤、駄目。もういいよ」
「でも、あいつ……!」
「追いかけちゃ駄目」
赤の目を見る。
「私たちじゃ勝てない。あの音が鳴らなかったら、今ごろどうなってたか分からないよ」
口にしたくなかった。
それでも、認めなければならなかった。
私たちは何もできなかった。
攻撃を一度も当てていない。
逃げることすらできなかった。
勝ったわけではない。
相手が何か別の理由で戦いをやめただけだ。
「行かせよう。追ったら、今度こそみんな死んじゃう」
赤の剣を握る手から力が抜けた。
魔法陣から光が立ち上がり、黒衣の身体を足元から包み込んでいく。
完全に消える直前、その人物が一度だけこちらを向いた。
目が合った。
けれど、最後まで何を考えているのか分からなかった。
私の名前を聞くことも、自分から名乗ることもない。そもそも私が誰なのか知っている様子さえなかった。
やがて光が全身を覆い、黒衣の輪郭が薄れていく。
次の瞬間、そこには誰もいなかった。
魔法陣も徐々に光を失い、数秒後には完全に消えた。
街道に残されたのは、倒れている兵士と賞金稼ぎ、右側で傷ついた赤、左側で本を抱えている緑、私の服へしがみついている黄色、そして身体の震えを止められない私だけだった。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて赤の手から、小さな剣が滑り落ちた。
土の上へ転がった金属音が、無音を経験した直後の耳には異様なほど大きく聞こえた。
赤は剣を拾おうともせず、俯いたまま呟いた。
「……怖かったでぷ」
いつも真っ先に前へ出て、何があっても元気だった赤が、初めてはっきり恐怖を口にした。
緑も傷ついた本を胸へ抱え、その場へ座り込んだ。
「俺たち……何もできなかったでぷ。魔法も当たらなかったでぷ」
その言葉を聞いた瞬間、私の身体からも力が抜けた。
黄色を抱いたまま、その場へ膝をつく。
「私も……怖かった」
今度はちゃんと、自分の声が聞こえた。
それだけで目の奥が熱くなる。
「本当に、死ぬと思った……」
黄色が私へ抱きついた。
私はその背中へ腕を回しながら、赤と緑を見た。
二匹とも傷ついている。
でも生きている。
「私たち……負けたんだね」
誰も否定しなかった。
もし、あの甲高い音が鳴らなかったら。
もし、黒衣の人物が自分から攻撃をやめなかったら。
私たちはここで終わっていた。
「完全に負けた。でも、四人とも生きてる」
私は涙を拭った。
「だったら今は、それでいいよ。生きてれば、まだ旅を続けられるから」
赤が顔を上げる。
緑も私を見る。
「次に、あんな相手に会ったら……」
私は、さっき賞金稼ぎの女性から言われた言葉を思い出した。
戦わないで守ることも覚えな。
今なら、その意味が分かる。
「今度は、もっと早く逃げよう。誰か一人だけ残ったりしないで、四人で逃げる」
赤は悔しそうに唇を噛んだあと、ゆっくり頷いた。
「分かったでぷ」
緑も頷き、黄色は私から離れないまま何度も首を縦に振った。
勝てなかった。
何もできなかった。
それでも、生き残った。
初めて味わった完全な敗北は、強くなることより先に、生きて旅を続けることの大切さを私たちへ教えた。
◇
少し落ち着いてから、私たちは倒れている兵士と賞金稼ぎたちの様子を確認した。
全員が傷を負っているものの、息はある。
最初に声を掛けてくれた隊長も生きていた。
「もう……あの人はいません」
私が声を掛けると、隊長が薄く目を開いた。
「消えた……のか……?」
「はい。途中で変な高い音がして、それを聞いたら攻撃をやめました。足元に魔法陣が出て、そのまま消えて……」
隊長は苦しそうに息を吐いた。
「そうか……」
私は迷ってから、黒衣の左手を思い出した。
「手に《1》ってありました。あれって何なんですか?」
隊長が答えようとしたところで、少し離れた場所から声がした。
「……あたしらにも、全部は分からないよ」
長弓を持っていた女性だった。
弓は中央から折れ、本人も肩を負傷している。それでも意識ははっきりしていた。
「あれがTIMEだってことだけは間違いない。黒い服、時計の模様、左手の番号……手配書で知られてる特徴と同じだ」
「一番って、名前じゃないんですよね?」
「番号さ。詳しいことは、あたしより情報屋に聞いたほうがいい」
女性はそこで痛そうに顔をしかめ、それでも小さく笑った。
「それより、分かっただろ?」
「え?」
「逃げるのは恥じゃないってこと」
私は一瞬黙った。
それから、素直に頷いた。
「……はい。すごくよく分かりました」
「なら、高い授業料だったけど無駄じゃなかったね」
その後、街道を戻ってきた巡回の兵士たちと合流し、倒れていた人たちは順番に手当てを受けることになった。
私たちも無傷ではない。
赤は右肩から背中にかけて強く痛めており、腕を少し上げるだけでも痛そうに顔を歪めていた。緑も左脇腹を押さえ、いつも大切に抱えている本の表紙には、街道を転がったときについた傷が残っている。黄色と私は直接攻撃を受けなかったものの、二匹をこのまま歩かせていい状態ではないことくらい、治療の知識がない私にも分かった。
増援の兵士の一人が赤と緑の状態を確かめ、険しい表情で首を横へ振った。
「二人とも骨が折れているようには見えないが、ここで判断するのは危険だ。特にそっちの赤い子は背中を強く打っている。今日はもう長い距離を歩かせないほうがいい」
「でも、私たち……この辺のことを何も知らなくて」
「ここから西へ行ったところに小さな村がある。普通に歩けばそう遠くない。俺たちは負傷者を運ばなければならないから同行はできないが、この先の分かれ道に案内板がある」
私はすぐに頭を下げた。
「ありがとうございます。そこへ行きます」
兵士は頷き、それから私たち四人を順番に見た。
「それと、さっきの奴を探そうなんて考えるなよ。何が目的でここにいたのかは分からんが、もう一度遭遇して次も助かる保証はない」
「……はい」
今度は迷わなかった。
少し前までの私なら、知らないものを見れば「何だろう」と近づいていたかもしれない。でも今は、黒衣の人物が腕を上げた瞬間を思い出すだけで身体が強張る。
知りたいことはたくさんある。
TIMEとは何なのか。
左手の《1》には、どんな意味があるのか。
あの甲高い音は、どこから聞こえたのか。
どうして黒衣の人物は、その音を聞いた途端に攻撃をやめたのか。
それでも、答えを知るために命を捨てるつもりはなかった。
「みんな、村へ行こう。今日はもう休もう」
赤は悔しそうに黒衣が消えた場所を見ていたが、やがて剣を鞘へ戻した。
「分かったでぷ」
緑も傷ついた本を拾い、表紙についた土を丁寧に払った。
「俺も今日は休みたいでぷ。脇腹がかなり痛いでぷよ……」
「だったらもっと早く言ってよ!」
「戦ってるときは、それどころじゃなかったでぷ」
それを言われると何も返せなかった。
黄色が緑の本を受け取ろうとする。
「俺が持つでぷ」
「落としちゃ駄目でぷよ」
「お金と同じくらい大事にするでぷ!」
「それなら大丈夫……なのかな?」
こんな状況なのに、ほんの少しだけ笑えた。
三匹の声が聞こえる。
それだけで、さっきまでとは世界が違って感じられた。
◇
出発する前に、私は一度だけ《聖なるマップ》を開いた。
村への道を確認するためだった。
地図には街道から西へ分かれる細い道が新しく見えていたが、その端に、今までなかった小さな記録が増えていることへ気づいた。
黒い人影だった。
白に近い髪と、全身に散らばった大小さまざまな時計。そして左手には、あの黒い《1》まで刻まれている。
「……さっきの人」
赤たちも地図を覗き込んだ。
「TIMEのやつでぷ」
「これも記録されたのでぷね」
私は指先で、その黒い人影へ触れた。
何も起こらなかった。
昨日、《薬草》へ触れたときには淡い光が走った。赤、緑、黄の記録にも同じ反応があった。
でも、黒衣の《1》は違う。
確かに記録されているのに、ただそこに残っているだけだった。
「……光らない」
「何が違うのでぷ?」
黄色に聞かれたけれど、私にも分からなかった。
《聖なるマップ》がどういう仕組みなのか、そもそも私はほとんど知らない。分からないものを今ここで考え続けても、赤や緑の傷が治るわけではない。
「今はいいや。村へ行こう」
私は地図を畳み、鞄へ戻した。
そのとき、森の奥で枝が折れる音がした。
ぱきっ、と小さな音だった。
それだけなのに、身体が勝手に反応した。
私は黄色の腕を掴んで自分の後ろへ引き、赤は痛む右肩を忘れたように剣へ手を伸ばし、緑も本を抱えたまま音のした方向へ身体を向けた。
誰もいない。
風に煽られた枯れ枝が一本、地面へ落ちただけだった。
「…………」
四人とも、すぐには動けなかった。
黒い服はない。
時計の模様もない。
左手に《1》を刻んだ人物もいない。
頭では分かっているのに、心臓だけが速く鳴っている。
私は黄色の腕を強く掴んでいたことに気づき、慌てて力を緩めた。
「ごめん。痛かった?」
「大丈夫でぷ」
黄色はそう答えたけれど、自分も金貨袋を胸へ抱き寄せていた。
赤は剣から手を離したあとも、しばらく森の奥を見ている。緑も本を下ろそうとはしなかった。
私はそこで初めて理解した。
戦いは終わった。
でも、怖さまで一緒に消えたわけではない。
私たちの身体には、まだあの無音の世界が残っている。
「……行こう」
今度は三匹が近くにいることを確かめてから歩き出した。
赤を一人で先頭へ行かせない。
緑も後ろへ離さない。
黄色もすぐ手が届くところにいる。
誰が決めたわけでもないのに、四人の距離はさっきまでよりずっと近くなっていた。
◇
街道から西へ折れる分かれ道まで来たところで、赤の歩みが遅くなった。
「赤、肩貸すよ」
「自分で歩けるでぷ」
「歩けるかどうかじゃなくて、痛いんでしょ?」
赤は答えなかった。
そのまま数歩進んだところで木の根へ足を取られ、身体が傾く。私が慌てて腰を支えると、赤は気まずそうに耳を下げた。
「……ちょっと痛いでぷ」
「ちょっとじゃないよ」
私は赤の右腕を自分の肩へ回した。
反対側では緑も左脇腹を押さえながら歩いている。
「緑も無理しないで。黄色、緑の本をお願い」
「任せるでぷ!」
黄色が本を受け取り、緑も今度は素直に私の左肩へ手を置いた。
両側から二匹の体重が掛かる。
重い。
でも、その重さが少し嬉しかった。
二匹とも生きている。
私の隣を歩いている。
「……絶対、村まで四人で行こうね」
赤が私を見る。
緑も顔を上げた。
黄色は二匹分の荷物を抱えながら、力強く頷いた。
「当たり前でぷ」
私たちはゆっくり歩き始めた。
陽はすでに西へ傾き始め、森の中には長い影が伸びている。いつもなら鳥や虫の声など気にも留めなかったのに、今はそれらが聞こえるたびに少し安心した。
風が葉を揺らす。
赤の足が土を踏む。
緑の呼吸が聞こえる。
黄色の金貨袋が、歩くたびに小さく鳴る。
全部、音がある。
私はその一つひとつを確かめるように聞きながら、村へ続く道を進んだ。
後ろを振り返ることはしなかった。
それでも頭の中には、黒い服と無数の時計、左手の《1》が焼きついている。
そして何より、最後に無音を破って響いた、あの甲高い音。
あれが鳴らなければ、私は今ここを歩いていなかった。
TIMEについて分からないことは、昨日より増えた。
けれど今は、それを追いかけるより先にしなければならないことがある。
赤と緑の傷を治す。
身体を休める。
そして四人そろって、もう一度旅を続ける。
お父さんとお母さんを探す旅は、始まったばかりなのだから。
木々の向こうに小さな煙が見えた。
やがて屋根が一つ、二つと現れ、畑を囲む木柵まで見えてくる。
兵士が教えてくれた村だ。
「見えたよ」
私が言うと、赤がほっとしたように息を吐いた。
「やっと休めるでぷ……」
「今日は絶対に無理しないからね」
「分かってるでぷ」
私は二匹を支える腕へ少し力を込め、村の入口へ向かって歩いた。
昨日までの私は、この世界を知らないことを楽しみ始めていた。
今日、その世界には、知らないまま近づいてはいけないものも存在すると知った。
それでも旅をやめるつもりはない。
ただ、次からは少しだけ慎重に進む。
知らないものへ手を伸ばす前に周囲を見る。
仲間が危険なら立ち止まる。
勝てない相手なら逃げる。
そんな当たり前のことを、私はTIMEとの完全な敗北によって初めて覚えた。
四人で村へ辿り着いたところで、ようやく私は胸の奥に溜めていた息をゆっくり吐き出した。
その夜からしばらくの間、枝が折れる音を聞くたび、私は黒い《1》を思い出すことになる。
それが、私たちと《TIME》との最初の遭遇だった。




